Roma

〜都市国家ローマ〜

ウンブリア人のイタリア半島進出(BC16c)

 ギリシア人の南下とほぼ同時期と推定される

ラテン人のイタリア半島中部西側への進出と定住(BC11c末頃)

 最初に定住したラティウム地方よりラテン人と称されたのが、後にローマ支配の拡大によって、 西地中海の民族の総称になる

ラテン人がティベル河畔に都市国家ローマを建国(BC753)

『ローマ神話の発生〜ロムルスとレムスの物語〜』
松田治著
社会思想社刊

 狼に育てられた双生児、Romulus:ロムルスとLemus:レムスが建国したとされてる
 Roma:ローマの名の起源は、このRomulusからきてると言い、 もっともらしい狼と双子の赤ん坊の有名な像(イメージ参照)などもあるが、実は全く根拠のない作り話だったりする
 似たようなエピソードは他の伝承にもありがちで、寄せ集め的でいかにもインチキ臭い
 でもこれが、話としてはなかなかよく出来てて感心するし、イメージの著書は、 それ以上に様々な解釈が盛り込まれてて、本筋を見失うほどにかなりおもしろかったりするので、 RomulusとLemusの建国物語の概要は、 この良書の紹介も兼ねて、ローマ建国伝説〜ロムルスとレムス〜参照

エトルリア人がトスカナ地方に12の都市国家を建国(BC8c〜BC3c)

 エトルリア人は、現イタリアのトスカナを中心に定住してた系統不明の民族
 BC7〜6c頃が最盛で、ラテン人による都市国家ローマもその支配下にあった
 BC5cから衰退して、ローマに完全に征服されたのはBC3c
 交易によって栄えてたエトルリア人は、橋や水道といった建造物や琥珀などの細工物の技術に長けてて、 ローマ人の衣服、官制、生活習慣の細部に至るまで、当時の文化水準からすると群を抜いて発達してた
 このエトルリア人の高度な文化は、そのままローマに引き継がれた
 また、伝承ではBC753年に牝狼に育てられた双生児、RomulusとLemusが建国したとあるけど、  この名前はラテン系ではなくエトルリア系らしい・・・ という辺りの話は、ローマ建国伝説〜ロムルスとレムス〜参照

貴族による共和政創始で王政廃止(BC509)

 respublica:共和政は、senatus:元老院consul:執政官といった要職をpatricii:貴族が独占してたため、 plebs:平民の不満が募り、抗争を招く結果となった
 元老院は立法・諮問機関で300名で構成してて任期は終身、執政官は最高政務官で2名が選出されて任期は1年で無給

平民による平民会創始で共和政崩壊
護民官を設置(BC494頃)、十二表法に参与(BC450頃)

 comitia tributa:平民会は、 平民保護のために平民から2名をtribunus plebis:護民官に選出、 護民官は元老院や執政官の決定事項に対しての拒否権を持った
 また、法知識の貴族独占に対して、平民が抗議した結果、12枚の板に慣習法が記され、 これが公示されたのがduodecim tabularum:十二表法で、内容は私権の保証などの民法が主

ケルト人の北イタリアへの南下と定住(BC400)

 一時は、ケルト人がローマを略奪するに至った(BC390)が、ローマは都市国家建設以来、 王政→貴族政→民主政と支配権が移行してくのに従って、兵力が弱体化の一途を辿った結果、 外敵につけ込まれたと推測できる

マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征(BC334〜BC324)、オリエント統一(BC323)

 詳細は、Alexandros:Alexander the Great:アレクサンドロス大王参照
 Alexandros大王没後、その広大な領土は4国に分裂、この頃にはギリシア勢力はすっかり弱まり、ローマが力をつけてくる

ローマがギリシア植民市を次々と征服、遂にイタリア半島制覇(BC272)

 ローマは戦勝による占領地を中央政府の直轄地のprovincia:属州として、総督を任命して赴任させ、 無権利の属州民から、容赦なく税を搾取
 その際に、中央政府や属州総督と契約して、徴税を請け負ってたpublicani:徴税請負人が、 余剰分で私服を肥やす

フェニキア植民市カルタゴの地中海制覇

 詳細は、Phoenicia:Poeni:Canaan:フェニキア参照

ローマとカルタゴがポエニ戦争(BC264〜BC146)
第1回(BC264〜BC241)、第2回(BC218〜BC201)、第3回(BC149〜BC146)

ポエニ戦争地図

 ローマとフェニキアの植民市であるカルタゴが、 シチリア島の支配権を巡って戦ったPunic Wars:ポエニ戦争は、 苦戦を強いられた末にローマが圧勝
 作戦に長けたカルタゴの名将Hannibal:ハンニバルは、 カルタゴ・ノヴァからアルプス越えをしてのローマ潜入で勝利(BC218)、  続くカンネーの戦いでも包囲網によってローマ軍を撃滅(BC216)したが、 ザマの戦い(BC202)ではローマの将軍Scipio:スキピオに破れる・・・ という、戦局の詳細は、Hannibal:ハンニバル参照
 ちなみに、Poeni:ポエニはローマ人によるフェニキアの呼び名で、 Phoenicia:フェニキアはギリシア人によるカナーンの呼び名・・・要するに、 ポエニ人もフェニキア人もカナーン人も同義で、 この辺りの煩わしい名称の変遷の事情もPhoenicia:Poeni:Canaan:フェニキア参照

ポエニ戦争以降の大農場の繁栄と中小農家の没落に伴う、新しい階級意識による政局改変

 ポエニ戦争での自費出征、耕地の戦場化、属州からの安価な輸入品の流通などで、 中小農民の農家経営が厳しい状況に陥った反面、戦争捕虜による大量の奴隷流入で、 大規模なlatifundium;奴隷制農場経営が発達
 中小農民は没落の一途を辿り、パンとサーカスを求めて、都市に流入して浮浪者となった
 この頃のローマでは、市民権さえあれば、市民に支持されたい支配者からのパンの配給にありつけたんである
 溢れる浮浪者の中でも最下層の貧民はproletarius:無産市民と呼ばれたが、 これはイギリス産業革命におけるproletariat:労働者階級の語源
 方や、元々裕福な貴族と平民はnobiles:閥族:新貴族として支配層になり、 徴税請負人から台頭してきた新興金権者は、 equites:騎士として公共事業の請け負いや軍需品の調達をして、更に私服を肥やした
 ちなみに、騎士の呼称は、高価な馬に乗れるほど裕福だったからであって、 騎士道精神などとは全く無縁である・・・あだ名みたいなものか?!
 こうして政局は、 閥族からなるoptimates:閥族派と騎士からなるpopulares:平民派に2分

ギリシアとマケドニア(BC168)を征服、次いでペルガモン(BC133)を征服

 こうしてローマはかつての強国に勢力を拡大→ギリシア、マケドニア、ペルガモンの位置確認

シリア(BC64)とロードス島(BC43)も征服

 こうしてローマは地中海一帯に勢力を拡大→シリア、ロードス島の位置確認

剣奴スパルタクスによる大奴隷反乱(BC73〜BC71)

 gladiator:剣奴という、捕虜から選抜されて、 剣術専門に養成された奴隷だったSpartacus:スパルタクスが、南イタリアで起こした大奴隷反乱
 Pompeius:ポンペイウスとCrassus:クラッススにより鎮圧される

第1回三頭政治(BC60)
ポンペイウスはヘレニズム地域を、クラッススはエジプトを除くアフリカ北岸を、
そしてカエサル:シーザーは未平定のガリアを担当

 そもそも元老院と対立したPompeiusが、CrassusとCaesarに歩み寄って、実力行使によって政局を乗っ取ったのが発端
 ところがCaesarが台頭してくると、Pompeiusはこれをよく思わず、今度は元老院と結託して三頭政治を解消

カエサル:シーザーによるガリア遠征(BC58〜BC51)

 現在のフランス辺りにあるガリアで、Caesarは対ゲルマン人戦に連勝し、これが地中海を制圧しつつあるローマの、 ヨーロッパ内陸部への進出の端となった
 こうしてCaesarの遠征中、ローマではCaesarの人気が急上昇
 これを危惧したPompeiusは、元々Caesarを良く思ってなかったのに拍車がかかり、今度は元老院とヨリを戻して、 完璧にCaesarと対立
 またCaesarは、この遠征の際に『Commentarii de Bello Gallico:ガリア戦記』を記した

カエサル:シーザーはガリア制定後、ローマに進軍

 Caesarのローマへの凱旋帰国を快く思わないPompeiusは、元老院と結託して帰国を阻止しようとする
 事の真意を知ったCaesarは、帰途のルビコン川を渡る際に、Pompeius打倒を決意表明
 「Alea jacta est.(賽は投げられた)」、これがこの時にCaesarの吐いた有名な台詞
 そして、その言葉に賛同した兵士らと共に、Caesarはローマに攻め入った

ファルサロスの戦い(BC48)でカエサル:シーザーはポンペイウスを打倒

 Pompeiusを打ったCeasarは、プトレマイオス朝エジプトの女王Cleopatra:クレオパトラの元に身を寄せ、 この間にエジプト系太陽暦を制定したりもした

ポントゥス地方の反乱(BC47)

 反乱を鎮圧したCaesarはローマに帰国、元老院よりImperator;英語のemperorの語源の称号が送られ、 dictator:終身独裁官に収まり、精力的に諸改革を実地

ブルータスがカエサル:シーザーを暗殺(BC44)

 Caesarの独裁を懸念して暗殺するが、2年後にBrutus:ブルータス自身も自殺してる

第2回三頭政治(BC43)
アントニウスがヘレニズム地域を、オクタヴィアヌスが西方全域を、レピドゥスがアフリカ北岸を担当

 共和制に対抗して結成されたが、まず武将Lepidus:レピドゥスが失脚(BC36)、 次いで、プトレマイオス朝エジプトの女王Cleopatraに魅了されたAntonius:アントニウスがローマと疎隔、 これによりAntoniusとCaesarの養子Octavianus:オクタヴィアヌスは激しく対立
 ちなみに、Lepidus担当区はアフリカ北岸だったが、エジプトは除外されてる

アクティウムの海戦(BC31)
この戦いに勝利したローマは地中海を完全制覇

 Octavianus率いるローマ軍は、CleopatraとAntoniusのエジプト連合軍を海戦にて打倒して、地中海全域を平定→ アクティウムの位置確認
その後、内乱も平定したOctavianusは、ローマの初代皇帝に就任する

〜ローマ帝国〜

オクタヴィアヌスが帝政開始(BC27〜)
同時にパックス・ロマーナも開花し、以降200年間繁栄を誇る

 Octavianus:オクタヴィアヌスは自らをPrinceps;第一の市民の意、通常は元首と訳す、 その政局をprincipatus;Princepsが司る政治の意、通常は元首政と訳すと称し、 共和政の伝統を重んじた政策を遂行
 事実上の帝政開始で、以降は帝政ローマ、その領土はローマ帝国、 その文化をPax-Romana:ローマの平和と称える
 また、OctavianusはAugustus:尊厳なる者との称号も元老院から贈呈されてる

Vergilius:ヴェルギリウス:ヴァージル『Aineias:アイネイアス:アエネーイス』

 トロイ戦争を描いた大叙事詩であるHomeros:ホメロスの『Ilias:イリアス』の続編的作品で、 トロイ方の英雄の1人であるアイネイアスの帰国中の冒険譚が綴られてるラテン文学
 Vergiliusだけでなく、たくさんの研究家がトロイ戦争物を書いてるけど、 全く新たな続編は凄いし、しかもローマ建国に話を持って来る辺りは策士です(笑)

Ovidius:オヴィディウス『Metamorphoses:転身譜』

 ギリシア神話をラテン文学において集大成した作品で、帝政ローマの時代背景を反映し、 神と英雄に正統性を付与するための系譜より、専ら恋愛を中心とした娯楽的要素が重視されてる →レヴュー

Lucretius:ルクレティウス『De Rerum Natura:物の本質について』

 ギリシアの哲学者Epikuros:エピクロスに発した、 Epicureanism:エピクロス派;快楽主義の影響を受けたLucretiusは、 『物の本質について』を著し、この中で唯物的哲学を提唱した

季節風貿易による交易圏の拡大

 モンスーンを利用して地中海、紅海、ペルシア湾と交易範囲を拡大、Pax-Romanaの経済基盤を支えた

キリスト教迫害

 キリスト教は、現代では全ヨーロッパ人に信奉され、世界3大宗教の1つでもあるが、 当時はユダヤ教を母胎として、イエス・キリストの教えが加わって形成された新興宗教に過ぎなかった
 それがOctavianus:Augustus:Princeps;呼称は異なるけど同一人物に始まった皇帝崇拝の邪魔になり、 300年以上に渡って迫害され続けるに至った
 中でもNero:ネロ帝は、持ち前の暴虐性を発揮して厳しく取り締まり、信者の殺戮には余念がなかった

ポンペイの埋没(79)

 ヴェスヴィウス山の噴火で灰に埋没した都市ポンペイは18cになってから発見されて、 その発掘作業は現在も続行中である

五賢帝によるローマ最盛期(96〜180)

 五賢帝は、古い順にNerva:ネルヴァ、Trajanus:トラヤヌス、Hadrianus:ハドリアヌス、 Antoninus Pius:アントニウス・ピウス、Marcus Aurelius Antoninus:マルクス・アウレリウス・アントニウス

Strabon:ストラボン『Geographia:地理誌』
Plinius:プリニウス『Naturails Historia:博物誌』
Plutarchos:プルタルコス『Vitae Parallerae:英雄伝』
Tacitus:タキトゥス『Annales:年代記』、『Germania:ゲルマニア』
Caesar:カエサル『ガリア戦記』

 『地理誌』は全17巻に古代ローマの伝説から史実までを記載
 『博物誌』は全37巻2万項目に及ぶ理科全書で、自然科学者でもあるPlinius将軍が監修
 『英雄伝』はギリシア・ローマの英雄的人物の伝記で、比較評論の形式をとり、 対比する23組46人と単独の4人の計50人が掲載されてる
 時代を考察して人物の位置づけを明確にしてるので、単なる英雄賛歌に終始してない点で優れてる
 『年代記』はローマ政治史で、著者は共和制に傾倒
 『ゲルマニア』は西ゲルマン見聞録
 『ガリア戦記』はCaesar自らが筆を取ったガリア遠征の記録
 いずれもギリシア・ローマ時代の貴重な資料となった

Seneca:セネカ『De Vita Beata:幸福論』、『Naturales Quaestiones:自然研究』
Epiktetos:エピクテトス『Diatribai:語録』
Marcus Aurelius Antoninus(長いので、以下Aurelius)『Ta eis heauton:自省録』

 ギリシアの哲学者Zenon:ゼノンに発したStoicism:ストア派;禁欲主義を受け継いで、 SenecaやEpiktetosらによって新たに提唱されたStoa哲学は、ギリシア哲学の再生と発展に貢献した
 SenecaがNero帝の家庭教師だったのは誰もが知るところだが、 実体としては17歳で皇帝の地位に就いたNeroの摂政だった
 そのNeroによってSenecaは自殺させられたが、Neroは他にもStoa哲学者を処刑しまくってるばかりか、 実母も后も殺してるので、それ自体は驚くべきことではないが・・・
 Epiktetosはそもそも名前からして獲得された男で、奴隷である彼の身の上を物語ってるが、 奴隷と聞いて想像に難くない日々を送ってただろうEpiktetosが哲学を学び、それを著すことはなかったが、 その語録がまとめられてて、しかもそれを手本にしたのが次に紹介するAurelius帝だった
 五賢帝の最後の一人AureliusがStoa哲学者だったという一般的な見解は些か疑問だが、Stoa哲学を学んでたのは確かで、 Stoa哲学者の如き自分を熱望してたのは、この『自省録』によってわかる
 これは原題の直訳が自分自身のためのものとなるように、誰かに読ませるために執筆したのでなく、 邦題のように自分自身を省みるために書き綴ったもので、Stoa哲学について論じた書ではない

パンテオン、コロッセウム、公共浴場、凱旋門、橋、街道などの土木・石造建築の髄

 各地に残る諸神を祀った神殿であるPantheon:パンテオン、 大円形闘技場のcolosseum:コロッセウム:などは、 古代ギリシアの各ポリスがそうであったように催事に欠かせないものだったに違いない
 公共浴場は、帝政ローマの象徴的な施設で、市民権所有者が安価で入湯できた銭湯で、実質はそれ以上の大娯楽センターで、 Caracalla:カラカラ帝建設のものが有名
 ローマから発するVia Appia:アッピア街道は、幅8m全長540kmの軍用路だったり、 現フランス領のガルドン川にかかる世界遺産であるPont du Gard:ガール橋は、 全長270mで3層構造(上が水道、中・下が人馬道)の橋梁だったり、優れた建造物が目白押し
 凱旋門は、今ではパリにあるナポレオンが古代ローマのそれを模して造らせたものが一般的だが、 ローマ市内に現存する7つの凱旋門の中でも、 Trajanus帝とConstantinus:コンスタンティヌス帝が建立のものは豪壮で名高い

中世まで影響を与え続けた学者の傑出

 Ptlemaios:プトレマイオスは「天動説」を創始、Copernicus:コペルニクス以前の世界観は彼による
 Galenus:ガレノスは人体解剖学を創始、Vesalius:ヴェサリウス以前の人体解剖図は彼による

帝政ローマの内乱期に突入、軍人皇帝が軍隊によって擁立される

 193年より諸皇帝の乱立時代が始まり、特に235年から50年の間には26人が帝位に就いて、 そのほとんどは治世半ばで命を失ったというこの混乱の時代を
 軍人皇帝という言葉から想像がつくように、軍隊が実権を掌握するようになった

奴隷制農場経営から小作人制農業へ

 近隣諸国への遠征を繰り返した帝国発展期は、捕獲奴隷に不自由しなかったので、 奴隷を農業に従事させて大規模な農場を運営するlatifundium;奴隷制農場経営が主流だったが、 帝国が拡大しきって安定期に入ってくると、新規に奴隷を確保するのが困難になり、農奴が不足してくる
 農奴からの成り上がりと元々中小農家だった窮乏する自由農民が、 colonus:小作人となってこの不足を補い、 colonatus:小作人制農業へと移行・・・古代ギリシアでは、あれほど哲学が発達してはいても、 人類平等という観念はなく、奴隷に対してあからさまな差別意識を持ってたのがよくわかる
 もっとも古代〜中世は、戦争というよりは略奪の形で、何の正義もなく相手を征服し、 そうして領土、つまり既に開墾されてる農地と、 元々その領地の住人だが征服後は奴隷となる人民を得ることこそが、 正しい食料の確保の方法だった、そんな時代

キリスト教の台頭と密儀宗教の衰退

 東方起源の古来よりの儀礼を伴うイシス女神崇拝、セラピス崇拝、ミトラ崇拝、キベレ崇拝などの密儀宗教は、 帝政ローマで流行してたが、キリスト教の進出で次第に影を潜める・・・というのは消失してったんでなくて、 表立ってでなく裏で栄えるようになった
 現代ではこれが占星術の形で残ってる

コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313)

 それまで取り締まってたキリスト教をいきなりConstantinusが公認したのは、増大した信徒の支持狙いであって、 Constantinusがキリスト教を容認せざるを得なかった、というのが正しい見解

ゲルマン民族の大移動(375〜)

ライン川とドナウ川地図

 帝政期より傭兵や小作人としてローマに流入してたのが、本格的に進出
 ゲルマン民族はバルト海沿岸の原住民で、これがライン川とドナウ川の北側一帯に拡がった後、 部族ごとに王に率いられて2世紀を費やして徐々に南下してくる
 更に北方のフン族の南下とゲルマンの人口増加で、耕地不足を解消するために、この時代の常識として、 既に開墾されてる豊かな土地を略奪するに至る・・・とは言っても、実際は平和的な移住が主であったらしい

テオドシウス帝のキリスト教信奉令(380)とキリスト教国教化(392)
その死後のローマ帝国の東西分裂(395)

 Theodosius:テオドシウスは、先のConstantinusとは事情が違って、帝政ローマの崩壊とローマ帝国分裂の前夜に、 どうにもならなくなって自らキリスト教にすがってみたものの効果は得られず、 その死をもってしてローマが東西に分裂という憂き目に
 このローマのキリスト教国教化こそが、暗黒の中世を招き、今日のヨーロッパ圏のキリスト信奉の礎になった

Tribonianus:トリボニアヌス『Corpus Iuris Civilis:ローマ法大全』

 ローマ法とは、BC450年頃の都市国家ローマの十二表法;前述参照に始まり、 AD212年のCaracalla制定のjus gentium:万民法までのローマの法の総称
 これらをAD534年に集大成したものが『ローマ法大全』で、東ローマ皇帝Justinianus:ユスティニアヌスの命により、 法学者Tribonianusが完成させた
 ギリシアの哲学と共にローマの法は人類の誇るべき知的文化遺産である

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