
02年02月22日〜03月06日(13日間)の日程で、東南アジアは“ベトナムとカンボヂヤの旅”に参加した。
ベトナム・カンボジア旅行の記録
| 今回の旅は、旅行社の企画に北海道内から応募した13名で実施された。 ベトナムに入国して、ホーチミンから北に飛び、世界遺産の「ハロン湾」クルーズを皮切りに、首都「ハノイ」、グエン王朝時代の首都「フエ」、チャンバ王国時代の首都で、ベトナム戦争当時の米軍基地で知られる「ダナン」と北から南にベトナムを縦断してホーチミンに戻り、ここから空路カンボヂアに入国、首都「ブノンペン」からアンコール観光の拠点である「シェムリアップ」に飛んで、「アンコールワット他」の遺跡を訪ね、再び「ブノンペン」「ホーチミン」と戻って日本に帰国するものである。 |
行 程 図
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* ベトナム *
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| ハロン湾の景観 | |
| 海上見渡す限りに連なるのは、奇岩と呼ぶのか小島と捉えるべきなのか、ガイドブックには、大小3000の島と総括りしてあり厳密に区別することは困難なのだと思う。 クルーズ当日は生憎の曇り空だったが、石灰岩が浸食されて造り出された巨大な奇岩の連なる光景の壮観さと、遠くに霞み重なり合う島影は、一幅の水墨画の趣である。 |
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| 母の乳房 | |
| ハロン湾に浮かぶティェンク(THIEN CUNG)島には、「ティェンク」と「ダウゴー」の二つの鍾乳洞があり、僅かにティェンクが規模が大きい。 ティェンクの代表的な石筍の「母の乳房」には、この洞窟で親子三人で暮らすの母親が、神に召されて遠く旅立つ事になり、乳飲み子のために片方の乳房を残していったという伝説が残されていた。 |
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* ホーチミン廟と大学文廟
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| ホーチミン廟 | 大学文廟本殿 |
| 1884年にフランスの植民地となっていたベトナムの、民族解放の道を求めて活動を続け、遂に1976年に国家統一を成し遂げたベトナム独立の父、「ホーチミン(1890〜1969)」を祀る廟で、1969年に彼が没して後に創建された。近くには「ホーチミン博物館」や「住居跡」がある。廟の前面には「バーディン広場」が広がる。 李朝(1010〜1225年)時代に創建されたベトナム最初の大学跡である。ハノイには中国の影響が色濃く残る街だが、この大学文廟も例外ではなく科挙試験などが行われていたことが知られている。 本殿も中国様式を取り入れたもので、中国は曲阜(孔子の故郷)の大成殿によく似た印象である。使われていた屋根瓦が、ベトナム独特の「アンジュレ瓦」という小振りな瓦で建物全体を引き締めてベトナムらしさを出していた。当然のことか本殿に祀られているのは、中国の偉人「孔子」だった。 |
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| ガルダー頭部 | |
| 博物館周辺は1874年にフランスに割譲した土地で、建物は1910年まではフランス領事館であり、フランス総督の公邸としてとして使われていた所で、建物は1932年に7年の歳月をかけて完成した。 先史時代(BC500000〜2000)から、1945年の独立宣言までの文物が展示されている。 ガルーダ頭部もチャンバ王国(石の彫刻の王国)時代11世紀のもので、神話の世界の架空の鳥でヴィシュヌ神の騎乗鳥。ライオンの頭と足、鳥の翼と嘴、人間の腕と体を持つと言う。 |
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| 一 柱 寺 | ロンビェン橋 |
| 一柱寺は李朝の1049年に建てられて、1000年以上の歴史を持つ小乗仏教の寺である。 名の通り一本の柱上に蓮の花を模した仏堂が乗っている。当時の政府の仏教保護政策によって創建されたものである。 紅(ほん)ハノイの代表的な橋の一つがロンビエン橋である。 一見して実に武骨な橋と見て取れるが、鉄道や車、歩行者のための橋、所謂複合橋ある。橋のたもとには市場があり、早朝から活気に溢れている。 |
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| 水上人形劇 | |
| 有名な水上人形劇を観賞した。伝統的音楽と語りによって進行する物語は、言葉はわからなくとも、水上で踊る人形のコミカルな動きに笑いを誘われる。レロエ王の伝説は、湖に住む竜から正義の剣を授かる物語だった。 | |
「ダナン」は国際貿易港と国際空港を持つ、ベトナム中部の経済の中心となる町である。
* チャ ム 博 物 館
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| シバ神と神々 | |
| フランス人研究者によって発掘された古代インド・ヒンドゥー文化の影響を受けた数々のチャム(チャンバ)の彫刻が展示されている。 建物内部には、チャムの彫刻が整然と陳列されている。砂岩などの脆い彫刻もあるのに、吹きさらしでガラス窓もない建物の中に、柵もなく無造作に置かれている彫刻群は、歴史的価値のあるものばかりなのだ。日本では考えられない博物館の運営である。 |
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* 嘗 て の 日 本 人 街
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| 日本(遠来)橋 | メーンストリート |
| ホイアンは日本とゆかりの深い町。17世紀、朱印船貿易時代に港町として栄え、日本人町も形成されていたと言う。最盛期には1000人程の日本人がここで生活していたそうだが、江戸幕府の鎖国政策と共に日本人町は衰退し、当時を忍ぶものは、郊外に残る日本人墓地とチャンフー通りにある橋に付けられた「日本橋」の名前くらいだと言う。 「日本橋」は遠来橋の別名を持っていて、領主が既に去ってしまった日本人の事を思い、この名を付けたと言われている。何らかの形で日本が関わって造られたと言われているが、今となっては定かでないそうだ。橋の保護のためにバイクは通行禁止、自転車も押して渡らなければならない。珍しかったのは橋の中央部、川の上流側にお寺が造られていることである。通行する町民の殆どが立ち寄りお参りをしていた。 今の町並は、日本人が去った後に移り住んだ中国人が造ったものだそうだが、フランスの統治時代に建てられた洋風建築も混じりあい、日本、中国、フランスなど、ベトナムと関わってきた国々の歴史が凝縮されている町である。訪ねた民家の中には、日本の当時の建築様式を家屋内部に残しているところもあった。 |
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* ハイバン峠
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| トーチカ跡 | |
| 「ホイアン」から「フエ」に向かう道中にある。 標高496mのハイバン峠は、気候的にベトナムを北と南に分けていて、峠を境にして北ベトナム、南ベトナムと呼ぶのが通常の様だ。峠周辺には、グエン王朝時代の砦やベトナム戦争中のトーチカなどが残っていた。ベトナムの国道一号線の最大の難所だとかで、立ち往生するトラックを良く見かけるという。休憩所や小さい郵便局もあったが、現在トンネルの工事中でこれらの施設が過去のものとなる日も近い。 |
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| 北の一般住宅 | 南の一般住宅 |
| ハイバン峠を越えて南ベトナムに入ると住宅の様式が変わっているのに気付く。北では間口が狭く奥行きの細長い、ウナギの寝床の様な住宅が軒を連ねていたが、南に入るとテラスのある住宅である。南方特有の暑さと湿度に対応したものと言えるだろう。 | |
* フォン川(香江)クルーズ
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| 船の家族 | |
| 観光の目玉の一つ「ティエンムー寺」のある郊外まで、フォン川のクルーズを楽む 船で出発して直ぐに水上生活者の船溜まり横を通過した。家族が朝食の支度やら仕事の準備に忙しそうにしている。 我々と同じようにティエンムー寺を目指すのか大小の遊覧船が遡上している。船上からは観光予定の世界遺産「グエン王宮跡」も望めた。 |
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| ティエンムー寺正面 | 六角七層の塔 |
| 船はティエンムー寺の目の前に接岸して、クルージングは終わりである。 ティエンムー寺は1601年創建の仏教寺院で、正面から見る外観とは異なり、意外な程広い敷地を持ち当時の権勢が想像できた。 寺の目玉はこの六角七層の塔で、1845年の建立だという。遠くからも見えて寺の威厳を示すシンボリックな存在の塔である。 寺の建立当時は中国の影響下であったのか、正門には「霊姥寺」の漢字扁額が掲げられていた。 |
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| 王宮門 | 大和殿 |
| グエン王朝(1558〜1945年)の王宮は、中国の影響下(華夷思想)にあった時代に造られたもので、この王宮門も北京の「紫禁城」を模して1/5のスケールで造られているという。王宮は520ヘクタールと広大だ。王宮内の遺跡はこの地方特有の暑さと湿気による傷みに加え、火災と1968年の爆撃で破壊されたが、1993年に世界遺産に指定されて歴史的価値も見直され、現在は保存、修復が積極的に進められている。 大和殿はかっての玉座を含めた宮廷内部で、見事なインテリアに目を奪われるが、それにもまして建物の内装が見事なものだった。 |
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| 世祖廟 | |
| 世祖廟は、歴代皇帝妃を祀った廟で、母性を重視したこの国を象徴する建物である。 皇帝住居のあった場所はベトナム戦争下の爆撃で破壊されてしまい、平坦な広場と化していた。 |
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| カイディン帝廟門 | 啓 成 殿 |
| フエには歴代の皇帝廟が幾つか残されていて観光の目玉になっている。 それぞれの帝廟には、その時の皇帝の好みが反映されていて、中国様式、フランス・バロック様式等が取り入れられているが、12代のカイディン皇帝の廟は、フランス・バロック様式や中国清朝・紫禁城の建築様式がミックスされ、他の皇帝廟とは異なった趣になっているという。廟が完成したのは、皇帝の死後6年も経った1931年だそうだ。 帝廟門を潜った一段高所に本殿の啓成殿があり、皇帝カイディンが祀られている。 |
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| 人・動物立像 | カイディン帝像 |
| 帝廟門と啓成殿を繋ぐ階段の広い踊り場には、人と動物の立像が、衛兵が啓成殿を守護するかのよう並んでいる。 啓成殿の内部は、豪華な内装が施されている。皇帝像を中にした両脇の壁面には、中国美術であろう貝螺鈿細工絵が描かれていて素人目にも見事なものだった。 また展示されていた黄金の皇帝の椅子も、黄金特有の輝きを放ち、豪華さは見るものを十分に魅了させる。黄金に輝くカイディン像の後方に墓が設けられていると言う。 |
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| トウドゥック帝廟門 | |
| 中国様式を取り入れたトウドォック帝廟は、皇帝生前の1867年に完成し、四代皇帝として在位中は別荘として使われていたというが、別荘の建物は取り壊されて今はない。カイディン帝廟に比べると、全体的に規模も小さく質素な感じがするのは、年代的な古さと老朽化の進捗にあるのかも知れない。 墓は屋根覆いもない露天墓で、ボックス型の墓が造られていた。傷みも激しく生前は不人気な皇帝だったのだろうかと、疑いたくなるような墓の状態だった。ただルウキエム湖と呼ばれる池は、蓮の花が咲き乱れ皇帝がここで優雅に過ごしたであろう別荘の趣が残されていた。 |
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* バイク天国の市街
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| メインストリート | |
| ベトナムで最も活気のある町と言われているが、観光客向けの見所は以外に少なく、統一会堂(旧大統領官邸)戦争博物館などのベトナム戦争に関するものが主になっている。メインストリートは「ドンコイ通り」と呼ばれ、散策にはうってつけの場所と聞いていたが、ハノイ等と同様、幹線道路から路地までバイク、バイクの流れで、ゆっくり散策を仕様などの考えは夢である。ホンダのマークが付いたバイクが90%以上と見た。次いでヤマハが多く日本製が圧倒的だ。 女学生の自転車使用以外、多くの女性がバイクに乗っているが、その全てと行って良いくらいの女性が、埃防止か日焼け予防かスカーフで覆面をして走っていた。またバイクの相乗りも二人乗りはザラ、多いのでは一家全員か5人の相乗りも目撃した。 |
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| 統一会堂正面 | 謁見室 |
| 1975年のベトナム統一によってこの町は「サイゴン」から「ホーチミン」に改称された。そのサイゴン当時迄の大統領官邸が、現在は統一会堂と名を改めて施設などが保存されている。 大統領執務室等官邸の主要施設や、地下のベトナム戦争当時の作戦本部等の施設、最上階の大統領一家の居住区なども保存されていた。 外国要人などと会う謁見室は、権威の象徴を誇示する室として造られている。背後の螺鈿の壁画は素人目にも見事なものである。大統領執務室は思ったよりも狭く、かつ質素な造りになっていた。 |
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| 市場の活気 | 賑わう街 |
| ドンコイ通りにはレストラン、シルクショップ、アトリエなどお洒落な店が並び、今のベトナムを象徴する通りだそうだが、我々庶民観光者には一寸縁遠い存在で欧米人の姿が多い。 一般向きには、ホーチミンで一番大きいベンタイン市場が人気のスポットになっている。ここに来れば食材、雑貨、衣類まで何でもそろってしまう。観光客でごった返す中で平気で食事をとる店員の姿が、何故か此処の雰囲気にぴったり合っているのが不思議だ。 チャイナタウンは町の西の方にある。チョロン地区のチョロンとは、ベトナム語で大きな市場と言う意味だそうだ。浅草の仲店を思わせる人混みで通りが埋まっていた。この地区からサイゴン川に架橋して対岸と繋ぐ計画が進行中だとか。もし橋が架かれば、遠からずバンコクのような大都会に変わって行くかも知れないという。 |
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| 七層の塔 | 鐘楼 |
| 日本で修行した僧侶が開山をした友好代表のような佛教寺院である。未だ新しい部類の寺院ながら信者は多い様で、豪奢な七層の塔を始め立派な施設を備えている。 本堂に入ると金色でまばゆいばかりの本尊釈迦座像前で、信者家族と思われる人たちと僧侶が読経中で厳粛な雰囲気だった。鐘楼は日本との縁の象徴で、開山時に日本から贈られたものだそうだ。 |
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* カンボジア *
* 街 か ら
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| 独立記念塔 | |
| 東西に延びるシアヌーク通りのロータリーに建つ「独立記念塔」は、第二次大戦後にフランスからの独立を記念して建てられたカンボジアのシンボルである。 | |
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| 即位殿 | 国王の住居 |
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即位殿は王宮の中央にあり、高さ59mの尖塔を持つ黄色い屋根が建物全体に威厳を持たせている。撮影禁止の内部は王座のある中央部分の式場の他、シソワット王やノロドム王像、重臣像が置かれ、全てが金色に統一されて荘厳な雰囲気である。 即位殿に隣接して少し奥まったところに、シアヌーク殿下と妃の居住する建物がある。青い旗が掲げられているのは在宅の印だという。また、カンボジヤのビザに使われている紋章のある建物も印象に残った。 |
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| シルバーパゴタ | 回廊の壁画 |
| 王宮の南隣にあるシルバーパゴタは、ノロドム王が1892年に建立した寺院で、床に銀のタイルが敷き詰められているのが名前の由来だそうだが、銀タイルそのものは見た目は非常に地味である。内部は撮影禁止で入り口でカメラを預ける様になっている。 靴を脱いで一歩入ると、内部は中央部に銀のタイルが張られ(地味で気付かないことも)黄金の仏像が安置されている。冠にはめ込まれた25カラットのダイヤと、表面の200個以上というダイヤは一見の価値ありとのことだったが、少し遠目のこともありそれ程豪華なものには見えなかった。ここに収められて宝物は1650点にも上がると言う 回廊の壁画は、インドの叙事詩「ラーマヤーナ物語」だそうである。叙事詩はよく分からないが、見事な彩色の壁画が描かれている。 |
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| シヴァとウマーの像 | ヴァーリンとスグリーヴァ |
| シヴァとウマーの像は二人を夫婦として表し、両者が身につけているサンポット(腰衣)は、規則正しいプリーツがとってあり、この厳密性はシヴァの髪とティアラ(頭飾)の幾何学模様にも現されていると解説されている。もともとは本物の宝石類で飾られていたものと考えられ、ウマーの頭部は1970年代に博物館から盗まれてしまったそうだ。 「ヴァーリンとスグリーヴァ」の像は、コ・ケー様式(A.D.921〜945年頃)で、921年ジャヤヴァルマン4世がアンコールの北東にある「コ・ケー」に一時都を置いたときのものと言われ、像が大きく解剖学的な正確さよりも威厳と壮麗さを強調しているという。この様式の中には、クメール美術には珍しくダイナミックな力と動きを見せるものがあり、この像は2匹の猿王の戦いであることを、両者の配置によって示していると言う。 |
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| ペン(夫人)の丘 | |
| 旧名「チャドモック」から「プノンペン」となったのは、「フランス・カンボジア保護条約」が締結された1866年。この「カンボジア」と言う名は、1372年に高貴な家柄の「ペン夫人」が町北部にある小高い丘に、「ワット・プノン」を建立したことに由来すると言う。 ワット・プノンに隣接し、巨大なパゴタが立つ「ペン夫人の丘」は、最近石塔が修復され日時計も整備されたとかで、プノンペンの貢献者を記念するに相応しい佇まいだった。 ワット・プノンは市内で最も古い寺院で、長い階段を上がった丘の上に本堂が建っている。 本堂には「涅槃仏」安置され、信心深い住民や観光客で賑わい、捧げられた香華の煙が絶えないと言う。 |
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| 収監棟 | 独 房 |
| 暗く悲惨なカンボジアの一時期を記録する博物館である。 拷問虐殺の生々しい現場と多くの犠牲者の写真、特に多くの無邪気な子供や幼子を抱えた女性の写真には暗澹たるものがあって、カメラを向けることが出来無かった。 このことは、此処、カンボジアのポルポト派だけの行為では無く、昔からあらゆる戦争のもとで敵対国の人間に行われてきた行為で、ベトナム戦争も第一次、第二次大戦も例外は無く、敗戦国の行為のみが取り上げられてきたもので、人間という生き物の本性であり愚かさを証明している博物館である。 入り口を除いて建物開口部を鉄条網で封鎖した棟、手錠足かせを鎖でつなぎ止める設備が拷問で変形してしまっている室、血痕が残り死体の横たわる写真を掲げた部屋、暗くやっと体を横に出来る程度に急造された狭い独房等、何とも言い難いものだった。写真の独房は、明度を修正して見易くしたものである。 |
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東洋のパリ、インドシナのオアシスと称えられるブノンペンの観光を終え、午後5時50分ブノンペン空港を離陸、この旅行の最後で最大の目玉であるアンコール遺跡群のあるシェムリアップに向かう。
◎ アンコール・トム
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| アンコールとは、サンスクリット語のナガラ(城市・国家)から出た言葉で、「都市国家」の意味を持ち、トムはカンボジア語の「大きい」と言う形容詞であり、アンコール・トムの意味は「大都市国家」の事で、12世紀後半から13世紀前半に掛けて栄えた第3次アンコール王都の跡である。 当時10万もの人が暮らしていたという「アンコール・トム」は、一辺3km、高さ8mのラテライト(紅土石)の城壁で囲まれ、9平方キロの面積がある。城壁には、五つの巨大門が設けられている。バイヨン寺院を中心に東西南北に築かれた四つの門と王宮正面に達する「勝利の門」である。(図参照) 建造者は「ジャヤヴァルマン7世」で、歴代王がヒンドー神を崇める中、観世音菩薩に帰依して在位の40年間を仏教寺院の建立に情熱を燃やし、歴代王中最多の寺院を残した王である。今もカンボジアの人々が絶大な尊敬の念を抱き、誇りにしている王だという。 |
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| 南大門 | 欄干の石像群 |
| アンコール・ワットから北に1.7kmで、アンコール・トムの南大門である。門は大型バスが通行出来る程大きい。かって歴代の王や将軍が象に乗って出入りした名残である。 門前の橋には神話「乳海攪拌」の石像群が欄干に施されている。アンコール・ワットの浮き彫りが、此処では立体の石像群で表現されていた。綱引きをする様な格好で大蛇(ナーガ)を抱えている。石像は左右54体ずつある。 |
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| クメールのほほ笑み | |
| バイヨンはアンコール・トムの中心で、東西南北の各大門から1.5kmの位置にある。 岩石を山のように築きあげた壮大な寺院で、林立する塔群は、世界の中心に聳える聖なる山「須弥山(しゅみせん)」を表現し、その特異な建築様式は、世界でも類を見ないと言われている。 建立者ジャヤヴァルマン7世の崇拝した観世音菩薩の高さ2mを越す巨大な像が、林立する塔の四面に刻まれているもので、後世「クメールのほほ笑み」と呼ばれる様になったという。 寺院には東西南北のどこからでも入れるが、東側は正面で崩壊した砂岩がゴロゴロしている中を、ナーガ(大蛇)の手摺りが付けられた長さ70m幅15mのテラスを通り、第一回廊、第二回廊、中心部に高さ約45mに達する中央本殿(塔)がある。 塔の基部はクメール遺跡群に例を見ない円形で、周りには12の小礼拝所が設けられ、それぞれ内部に聖像が安置されている。外部の壁面は余すところ無く女神像、或いは天女アプサラスの優美な舞姿の浮き彫りで飾られている。 |
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| 髪を長く編んだ女神 | 踊り子のレリーフ |
| 中央本殿(塔)を囲んで第二回廊(東西80m南北70m)があり、その外側に第一回廊(東西160m南北140m)が設けられて、その東西南北の各回廊からは第二回廊に通ずる入り口がある。 第一、第二回廊とも、壁一面に詳細な浮き彫り彫刻が施され、柱に刻まれた女神や天女アプサラスの像、王の宴に侍る踊り子像の姿態等は実に妖艶に描かれている。 第一回廊では当時の貴族や民衆の生活、チャンバ(ベトナム)軍を駆逐した戦争物語等々が細部まで念入りに描かれ、当時の生活状態を知る貴重な資料になっているという。第二回廊では、ヒンドゥ神話や伝説等が主体で描かれている。 |
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| パプーオン(隠し子の寺院) | ピミアナカス宮殿 |
| パプーオンはバイヨンの北西約200m、隣接する王宮の南側にある第二次アンコール王都(1060年頃)の中心寺院(ヒンドゥ教)で、200mもの橋架型参道がある。建立者は「ウダヤーディヤヴァルマン2世」である。「隠し子」の由来は、「昔、兄弟だったシャム王とカンボジア王との間で、シャム王の子供をカンボジア王が養育するという約束が出来て、カンボジア王は王子を引き取ったが、廷臣達は王位簒奪を図るシャム王の謀略だと王子を殺させてしまう。激怒したシャム王が大軍を差し向け戦争が始まると、今度はカンボジアの王妃が自分の子供が殺されるのを恐れて、王子をこの寺院に隠した。それでこの寺院を「隠し子=パプーオン」と呼ぶようになったという。 ピミヤナカス宮殿は10世紀末にウダヤーディティヤヴァルマン2世によって建立され、「天上の宮殿」とも呼ばれている。王宮の中心にあり毎夜、王達がここに住む神蛇と過ごし、神の声を聞いたと伝えられている。 ピミアナカス宮殿はラテライト(紅土石)を積み上げ、形は小さいが何代にもわたって念入りに造られたこの聖殿は、既にヤショーヴアルマン1世時代に存在していたこと。宇宙支配神の座すと信じられる須弥山を王の住居の中に持ち込んで、神=王思想を形に表し国家支配に利用したこと。人蛇相交の伝説等々で、非常に重要な意味を持っているという。 |
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| 王宮の塔門 | 象のテラス |
| 城壁内にジャヤヴァルマン7世王は信仰する仏教寺院バイヨンを中心に、「象のテラス」「ライ王のテラス」「プラサート・スゥル・プラット」等を建造、各門へ通じる大路を整備し、新王都アンコール・トムが造営した。 凱旋兵の隊列は勝利の門をくぐり、象のテラス前広場で王の閲兵を受けた。一方、戦死者や負傷兵は死者の門をくぐり、王都の中心であるバイヨン寺院で、林立する塔の四面に刻まれた、後世「クメールのほほ笑み」と呼ばれる高さ2mを超す巨大な観世音菩薩に迎えられた。 象のテラスは、高さ3.5m、長さ350mの長いテラスの壁面に、ほぼ実物大の象の彫刻が施されている。 |
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| 広大な敷地に大規模な建物のこの寺院は、地上からの見学のみでは極めて部分的な紹介になってしまうので、絵葉書で全景を掲載した。 方位に違いはあるが、中心部略図と併せてご覧頂ければ概ねの全体像が把握出来るのではと思う。 |
アンコール・ワット中心部略図
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| アンコール・ワットは、それを囲む堀と参道、三つの回廊に中心部の五基の塔と、それらを結ぶ階段や石門などからなり、その面積は200haである。 参道は、西側から入る表参道と東側から入る裏参道の二つがあり、門は東西南北の四ヵ所に設けられている。 |
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| 12世紀のカンボジアに大輪の花を咲かせた、アンコール王朝の象徴アンコール・ワットのベストビュウスッポトが、この五基の尖塔を浮かび上がらせた景観だという。 700年もの眠りから目覚めた美しくも威容に満ちた景観だ。アンコール・ワット発見のシーンを彷彿させる。 |
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| 西大門 | |
| 大門の中央部には、本殿の五基の塔と同じ形の塔が三基築かれているが、三基とも上部は破損していた。西大門中央の門は王が使用し、中央門の左右に回廊が延びてその先にある門が、象の門と呼ばれて車馬の通行に用いられたものとされている。 象の門の両翼は更に石壁が続き、この寺院を城郭の如く囲んでいる。石壁の長さは南北815m、東西1000mにも及ぶという。 中央の西大門や象の門、回廊の外面・柱などには、あますところ無く天女「アプサラ」や、女神「デヴァター」の象などが刻まれている。 表参道は入り口から西大門までの190mと、西大門から本殿までの第二参道350mがある。 参道はラテライト(紅土岩)を積み上げ砂岩で石畳舗装をした陸橋状で、高さ約1mの欄干は、コブラを様式化した「ナーガ」と呼ばれる大蛇である。ナーガは七つの頭を持つヒンドゥ教の竜神(水の霊)で、頭部を参道の正面に鎌首を擡げ見事な造形美をなしている。 |
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▲ 第一回廊のレリーフ
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| 乳海攪拌のレリーフ | |
| 長い参道の終点は、石段の取り付けられた広いテラスになっていて、西塔門テラスと呼ばれ大蛇ナーガの欄干が設けられている。このテラスから石段で西塔門に上がると、ヒンドゥ教の絵物語と寺院建立者スーリヤヴァルマン二世の歴史を壁面一杯に彫り込んだ第一回廊である。 東面南側にヒンドゥの天地創造神話として名高い「乳海攪拌」の図が、約50mに亘り壁面一杯に描かれている。 物語は、ヒンドゥの神々デーヴァと悪鬼アスラ(阿修羅)たちが、不老不死の甘露アムタリを手に入れようと相談して、この妙薬が大洋をかき混ぜる事によって生ずるとされていた事から、海底に住むヴィシュヌ神の化身、大亀クールマの背中に大マンダラ山をのせ、その中腹に大蛇ヴァースキをからませて、その両端を引き合うことで山を回転させ、大洋をかき混ぜようと考えた。大蛇の中央から頭の方をアラスたちが、尻尾の方には神々が大蛇の胴を抱えて向かい合い、綱引きの要領で交互に大蛇を引くと山が回り、その激しい震動によって、魚や海中に住む怪物などはずたずたに寸断され、大洋は乳白色に濁って素晴らしい創造物が飛び出した。この乳海攪拌の仕事は、神話によると千年以上も続けられたという。 中央の大山上にさされた心棒を抱えて指揮しているのが、ヴィシュヌ神である。 |
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| スーリヤヴァルマン二世 | ヴァルマン二世軍の行進 |
| 南面西側は、この寺院建立者スーリヤヴァルマン二世の功績をたたえる歴史物語の一場面で、スーリヤヴァルマン二世と彼の軍団の、堂々たる行進の図で壁面が埋め尽くされている。 写真は、玉座に座るスーリヤヴァルマン二世が、前方を行進する軍団に対する命令を従者に指示している場面と、盾と矛を持つ兵士が裸足で徒歩行進する図である。 |
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| 壁面のデヴァター | |
| 第二回廊の中央本殿に面した壁面には、無数の女神デヴァターの群像が、姿態も艶めかしい浮き彫りで飾られている。長年見学者の手で触られて黒光りしている像もある。 | |
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| 中央本殿と第三回廊 | |
| 中央本殿は、高くそびえ立つ中央塔を中心に、南東・北東・南西・北西の角に中央塔を囲むように築かれた四基の塔と、それらの塔を結ぶ第三回廊からなっている。 中央塔の広さは石段の突出部を含まずに一辺が65mで、中央塔の高さは塔の基部から42m、道路からの高さが65mと、中央塔だけで奈良の大仏殿に匹敵するという。 第三回廊にも石像や木彫りの仏像、中央塔内部にも金箔の剥げ掛かった仏像や寝仏などが安置されている。 |
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| 森本右近太夫墨書 | 女性の肖像碑 |
| 西塔門と中央塔間、第一回廊と第二回廊を繋いで十字回廊が設けられている。正面中回廊とも呼ばれて、ここには肥州の人「森本右近太夫一房」の墨書が二カ所に記されているが、1970年代後半、クメール・ルージュ(ポルポト政権)の文化破壊政策で墨汁が塗られ判読が出来ない状態になっている。
右近太夫は、父(加藤清正の家臣)の菩提を弔い老母の後生を祈るため、海路はるばる寛永九年(1632年)正月三十日この寺院に到着し、仏像4体を奉納したと言われている。寺院建立から約480年後のことである。 寺院完成後に仏教徒によって持ち込まれた「プリヤ・ポン(千体の仏)」と呼ばれる数え切れない仏像が、ヒンドゥ教徒との相克を秘めて安置されていて、その中で身分卑しからぬ婦人の肖像碑が異質な存在で目を引いた。仏教に帰依した王妃か高位な人の夫人か定かではないが、そんな想像を掻きたてる石碑である。 |
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| アンコールの宝石箱と称えられる「バンティアイ・スレイ」は、”女の砦”という意味(ヴィシュヌ神の妻シュリーの砦の説もある)の寺院で、967年、ラージェンドラヴァルマン2世とジャヤヴァルマン5世によって建立された、驚くほど洗練され優雅さに満ちていると称されている。 周囲400m程の小寺院ながら4つの周壁に囲まれ、3つの境内で構成されている。 |
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| 第二周壁東門と神殿・環壕 | 参道北側祠堂破風浮き彫り |
| 門の正面に立ち見上げるラテライトで作られた門上部の破風には、人、動物、植物が浮き彫りでびっしりと彫り込まれていて圧倒されると同時に、前評判と相俟って、内部の素晴らしさが想像されて期待感が盛り上がる。 東門から第一境内の門まで延びる参道は、赤味の強いラテライトの石畳で、参道両側にはヒンドウー教のシンボルの一つで、男性器を模した「リンガ」を様式化した石柱が並んでいる。 この寺院の美しさは、遺跡の周囲を取り巻くラテライト(紅土岩)の周壁以外の建築が、殆ど貴重なバラ色砂岩で造られていて、光を受けると透き通るように輝くバラ色砂岩の上に、気品と愛らしさをたたえた女神デヴァターの像など数多くの像が、植物模様の中に描かれている浮き彫りが建物全体を埋め尽くしていることである。 殆どがバラ色砂岩で造られている点と、ヒンドゥ神話の場面を描いた豊富な彫刻が、この寺院を、アンコールの全遺跡の中でも、特にユニークな存在にしている。 参道の途中北側にある、祠堂(壊れている)の破風には非常に珍しいといわれている切妻壁の彫刻がある。人とも獣ともつかない恐ろしい形相をした怪物の胸と、男か女か分からない人間の仰向けの胸が上下に接し、怪物の両腕と仰向けにのけぞった人間の両腕が堅く絡み合っている図である。 一説では、太陽が月を隠す蝕(ラーフ)であるといわれ、また、インドラ神の玉座を犯した阿修羅王が、ヴィシュヌ神の化身であるナラシンハという半人半獅子の怪物に組み伏せられている図とも言われているという。 |
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| 第二周壁東門 | |
| 東門と第一・二境内を巡る周壁はラテライト造りで、形態も入り口東門と同じく、十字形で中央入口の左右に小さな入口が設けられている。上部の切り妻壁も優れた彫刻が施されている。 | |
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| 中央神殿入口部 | 神殿入口を守る座像 |
| 門をはじめ三つの神殿は、すべて美しい「ばら色砂岩」で造られている。高さ90cmの砂岩基壇にのった三つの神殿は、中央が9.8m、両脇が8.34mの高さで、各神殿の周囲には中央神殿を縮小した小さな模型神殿が多数配置されている。また各神殿の四周の壁面は、余すところなく神々の像や神話の場面をあらわす繊細精緻な彫刻で埋められている。 各神殿の正面には、神鳥ガルダや、猿や、獅子の頭をもった人間の座像が一対ずつ入り口を守っている。 また北神殿には、世界的に有名な「東洋のモナリザ」こと、女神デヴァターの立像が建物各面の四隅の壁龕に表情を違えて刻まれている。 |
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| シヴァ神と妻パールヴァティ |
第三周壁東門の装飾 |
| 南経蔵にあるラーマーヤナ物語から取材された彫刻で、多頭多手の悪魔ラーヴァナが、神の座すカイラーサ山を下から揺るがす場面である。 カイラーサを象徴した四層のピラミッドの頂に正座するシヴァ神に、妻パールヴァティが恐れてすがりついている図である。 寺院中心部に向かう最後の門だけに、見るからに切妻壁は重厚な装飾が施されている。中央神殿に直接通じる門から想像して、像はインドラ神の立像だと思われる。 |
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| スラスラン(王の沐浴池) | |
| スラスランとは、水浴の池またはプールの意味だという。東西約700m、南北約300mの静かな池で、その昔、王の浴場だったと言われているとか。岸辺のテラスには簡単な建物があったようだが、今はテラスを護る獅子像と大蛇ナーガの伸び上がった首だけが残っている。 この地方にはバライと呼ばれる貯水池や貯水池跡が各所に見られる。貯水池の一角を担った東バライは痕跡を留めるのみだが、西バライやスラ・スラン(王の沐浴場)などは、今も現役で生活用水から灌漑の要に任じている。肥沃でない土地と長い乾期に悩んだアンコール朝に繁栄をもたらした基盤こそがバライだと言う。 |
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* 荒 廃 し た 僧 院
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| 東側塔門(正面) | 荒れ果てた建物 |
| 1186年「ジャヴァルマン7世(アンコール・トム創建者)」が母の霊を祀るために大乗仏教の僧院として建立、後にヒンドゥー教寺院に改修され、ヒンドゥー教と仏教が融合したバイヨン様式の遺跡で、ラテライト(紅土岩)の三重の内壁に囲まれた僧院自体は、一辺わずか24m四方(境内を含めると100m四方)に過ぎないが、敷地は東西1km、南北600mと広大である。 10年くらい前まで人気のない時には、おびただしい数の野猿の群れが密林の梢に群がり鋭い叫び声をあげていたという密林の真っ直中にあり、数多いアンコール遺跡群の中でも、崩壊が最も大規模に進んでいる寺院遺跡で、建物だけでなく、そこに刻み込まれた信仰心までも破壊し尽くそうとするような、自然の猛威には息をのむ思いがする。 |
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| 発見当時から、何度か修復は試みられたが風化による浸食と、榕樹=現地の呼び名:スポアン(ガジマル=banyan tree )の大木の根がもろい砂岩の石組みに食い込み、突き崩す力の方が早いため、現在は手つかずの状態になっているという。 |
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| 建物を締め付ける根 | |
| 原生林などで大石の上で発芽した小木が、生長して根で大石を抱えているのを見ることがあるが、ここで抱えているのは建物や壁などである。
建物屋根で発芽した木の生長した姿だが、何とも言えぬ自然の力である。根によって締め付けられた、建物の悲鳴が聞こえてきそうな気がする。 ガジマルの木々が被さった中の遺跡であるタ・プロムの、熱帯雨林に飲み込まれている様子が非常に印象的である。 |
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| 1191年、チャンバとの戦いの戦勝記念にジャヤヴァルマン7世(アンコール・トム創建者)が建立したもので、チャンバの侵略を撃退出来ずに世を去った父ダラーニンドラヴァルマン2世を祀った聖堂でもあるバイヨン様式の遺跡である。面積5.6ヘクタールの院内は、東西800m、南北700mの外壁に囲まれていて、面積からは頷き難いが、発見された石碑文によると往事この僧院には、97,840人の僧侶、召使い、舞姫、役夫などがおり、舞姫は1,000人を数えたと言う。 仏教徒のジャヤヴァルマン7世は、伝統的なヒンドゥ教の存続も願い、両宗教の融和を図ったと言われるが、その後の宗教闘争でこの僧院の仏教的なものの殆どはヒンドゥ教徒のために削り落とされ、あるいは破壊されたという。 |
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| 西外門 | 東外門のガルダ像 |
| 石柱列の終わった所に15m幅の石畳があり、乳海を攪拌する神々と阿修羅が大蛇ナーガの胴を抱えた形の欄干が50mに亘って作られている。西外門には三つの入り口が設けられているが、中央と右側の切り妻壁は崩壊してしまってよく分からない。 古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ物語」で王子の危機を救う神鳥の像である。西外門のガルダ像は破損して不明瞭だったが、此処のガルダ像は比較的良い状態で残っている |
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| 女 神 立 像 | ストゥーバ(卒塔婆) |
| 門の壁龕には女神デヴァターの立像が彫られている。どの遺跡を見ても、女神や踊り子の彫り物は肉感的な姿態で描かれていて、見応えがある。 十字回廊の真ん中に巨大な卒塔婆(ストゥバー)が設けられている。僧院名の「聖なる剣」に準えたものか、剣の形をしていたようだが、現在は柄の部分のみで刃部は無い。 |
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* 古 代 の 病 院 遺 跡
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| ポアン中央部 | 神馬の像 |
| 12世紀後半にアンコールトムの創建者として知られるジャヤーヴァルマン七世によって創建されたバイヨン様式の仏教遺跡で、70m四方の涸池を囲み、その東西南北には各27m四方に池(現在は水なし)が四つ付属していて、美しくバランスのとれた図形をなしている。 中央の池は、病を癒す不思議な水を湛えるという伝説の湖「アナヴァタープタ」を形どったもので、獣や人の首の像を通って四方の池に流れる水は、ヒマラヤの湖に源を発する四本の河を象徴したものだと言われ、事実、この池に多くの病人が訪れて聖水を使ったと言われている。中央池の中心には、円形七層の基壇の上に観世音菩薩を祀った御堂が建てられている。円形七層の基壇の周囲は、二匹の大蛇(ナーガ)が基壇を取り巻いていて、首を東正面で門柱状にもたげ、尾は西裏側でねじり合わせて立ち、この蛇の格好がこの遺跡の名前の由来だという。 首をもたげた蛇の東側に、善良な商人が菩薩の助けで人食い鬼から逃れたというエピソードをもつ神馬の像がある。像には馬の首や脚に必死にすがりつく人々がリアルに彫刻されている。 |
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| 山上の寺院遺跡 | |
| 山上からは360度に開けた広大な密林と、大人造湖西バライが望め此処に沈む夕日が観光スポットとして、観光向けに「ブノン・バケンの丘」と呼ばれているが、ブノン・クロム、ブノン・ボック、と併せてアンコール三山と呼ばれるれっきとした山で、山頂にある寺院は、900年代にヤショーヴァルマン一世がヤショーダラブラの都の中心として建造した、信仰はヒンドウ教バケン様式のピラミッド型寺院で、須弥山思想を表した神王崇拝の場所だという。 ピラミッドの頂上に五つ、神殿の周りに44基の塔ピラミッドの各層に60の小神殿があったと言うが、その姿を伺えるのは僅かである。 山頂に通ずる小径は、急傾斜で木の根がはびこった登りにくい道と、遠回りだがやや幅広の山道があり、幅広道は象に乗って登ることが出来たので、初体験の象に乗り象の背中から密林の彼方に埋もれて建つのアンコール・ワットの五塔が眺望出来た。 この日は地平線の雲が高く中途半端な位置の夕日しか見られなかったが、山上からの美しい眺望を堪能することが出来た。 |
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| 湖上風景 | 密集する水上住宅 |
| 今から820余年前、隣国チャンバ(ベトナム)に占領されていた王都アショダラプラ(今のアンコール・トム周辺)を、ジャヤヴァルマン七世率いるクメール水軍がトンレサップ湖を主な舞台に壮絶な湖上戦に勝ち、この地を奪還して王位につきアンコール・トムの創建に繋がった古戦場である。 この湖はロシアを除くアジア最大の湖で、大湖、小湖、泥湖の三湖をあわせて大湖と総称され、トンレサップ川を経てメコン川と連なり、増水期にはメコン川の水が逆流して倍近く面積を広げ、減水期にはその水をメコン川に排水して、天然の貯水池の役を果たしているのだという。 湖上には船を住居にした水上生活者の村があり、船には大きな生け簀が取り付けられて魚を飼育しているという。村の周辺には水上の売店、学校、警察等があるほか、観光客向けのレストランや土産店なども散在している。 大湖の十一月から五月の猟期には、付近の住民やベトナム人の漁夫の集団が移動してきて賑わい、魚の水揚げ高も一平方キロ当たり8トンと世界一を誇る淡水魚の宝庫である。 |
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| 天女の舞 | 煌びやかな衣装 |
| カンボジアの伝統舞踏。クメール王朝時代、巫女達がインドの古典叙述詩「ラーマーヤナ物語」等を演じ、神王の恵みに感謝して踊った宮廷舞踏である。ポルポト政権時代に殆どの踊り子が処刑されて一端途絶えたが、遺跡のレリーフなどから踊りの形を探り再現されて、今に蘇った天女の舞である。 手や足の動き一つに意味があって手首、足首のしなやかさが要求されるため、幼い頃から極限まで繰り返し曲げるトレーニングが必要で、十数年前から小4〜高校生までの少女達にボランテアで教えているという。 |
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13日間の東南アジアは“ベトナムとカンボヂヤの旅”を無事に終了することが出来た。
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