■ 2001年 冬
空が青かった。昨夜のバーボンのおかげで痺れた頭を無理矢理振り起こしながらカーテンを開けた。ぼくの住むこの街で、この季節に(1月の最後の土曜日に)これだけの青い空を見ることはあまりない。ぼくは何をするでもなく外を眺めている。いや、なにもしていないわけではなく、思いだし、考えていた。この頭のしびれを起こしたバーボンの理由を。あの褐色の液体をひたすらに(いささかぼくの限界を超えて)のどの奥に流し込んだ理由を。くわえたタバコに火をつけながら、先ほどまでぼくが寝ていた、今は女が一人で寝ているベッドを振り返った。そして、窓の外をもう一度眺めた。空はただ青かった。
クライアントとの打ち合わせを終え、髪を濡らす程度の雨が降る金曜日の街中をゆっくりと歩きながら、かすかに携帯電話のコール音が耳に届いた。智子からの電話だった。
「これから会える?」
「今から事務所に戻るところなんだ。それほど時間はかからないけど。」
「じゃあ、オペラで8時に。いい?」
「かまわないよ。」
オペラは、ぼくたちが時折使う地下に潜った窓ひとつ無いバーだ。床には砂が敷き詰められ、この時間は人が少なく、静かに話をするにはうってつけの店だ。
午後7時58分、何とか約束の時間前に(ぼくの時計は2分以上ずれてはいない)階段を下りオペラに着いた。智子は一番奥のテーブルに座っていた。彼女は約束した時間の10分前には必ずその場所にいる。
「それで?」
いすに腰をかけながらぼくは不用意に(それが不用意だと気づいたのはこの店を出てからだが)、手のひらで包むように持ったグラスを見つめている彼女に話しかけた。
「それで?それでって?」
グラスの中で氷の音を立てながら、智子はまるで問いつめるかのようにぼくを見つめた。
「あなたにはすべてわかってるのよ。わかっててそんなふうにとぼけて・・・。あなたはいつもそう。」
「落ち着こう。何をそんなに苛立ってるんだ?」
「苛立ってる?そうかもしれない。でも、それはあなたがそうさせてるのよ。わかる?あなたが私を苛立たせてるの。」
「ぼくは、きみを苛立たせようとはしていない。」
「そう。いつもそうね。あなたは私をわかってくれない。わかろうともしてくれない。あなたは、あなたでいることができればそれでいいの。」
「冷静になろう。何を言いたいのか整理して話をしよう」
「そうね。・・・別れましょう。」
誰かのグラスの氷が心地よい音を立てた。
「かまわないよ。」
次の言葉を口にする隙をぼくに与えないまま、彼女は席を立ちそのままとても重そうに見えるドアへとまっすぐに向かう。ほんの少しのためらいも見せることなく。そして、霧のように雨の漂う街の中へと消えて行った。
カウンターの中で、僕らを無理に無視していたように見える(たぶんそうなのだと思うが)バーテンにビールを注文した。何もなかったように置かれたグラスの中に、泡を立てないようビールを注ぐ様子をじれったく見つめ(それはまるで、何も見ていないと証明する儀式のように見えた)、そしてゆっくりとグラスを口に運んだ。
その後、別の店でジャックダニエルをロックで3杯喉に流し込み、
3軒目の店のドアをくぐったのはもう日付の変わった後だった。空っぽの胃の中に濃いアルコールを流し込んだため、ぼくの足下はいささかふらついた。モダンタイムというその店で、ぼくはカウンター席に腰を下ろし、そして正面に女が立った。彼女は、嫌みのない笑顔を自然に浮かべることができて、かなり腕の良いバーテンであり、この店を一人で仕切るオーナーで、名前は優子といい、そして10年ほど前ぼくの恋人だった。
「今度は何があったの?」
「ブラッディ・メアリーをもらえるかな。」
彼女はゆっくりとグラスにスミノフとトマトジュースを注ぎ、レモンを浮かべ、ぼくにたずねることなくブラックペッパーをふり、すっとぼくの前に置いた。
「酔ってる?」
「どうして?酔ってるように見えるかな。」
「表情がいつもよりやさしいから。」
ぼくは、先ほどから変わらず嫌みのない微笑みが浮かんでいる彼女の顔を見上げた。
「元気そうだね。」
「あなたよりはね。ホントに何があったの?」
何があった?智子に会い、別れた。ただそれだけだ。夕食をとらずに飲んだことによる酔いはあるが、それ以外には何もない。
「何もないよ。」
「そう。もう1杯つくる?」
「ジャックダニエルをロックで。」
その後、どれくらい飲んだのだろう。いつの間にかぼくはカウンターに突っ伏して寝てしまった。優子に起こされたときにはもう店に客の姿は無く、明かりもほとんど落とされていた。なかば抱きかかえられるようにして店を出て、優子のカサに入り、かなり強くなった雨の降る街へと歩き出した。
#2に行く
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