#2

「もう起きてたんだ。今何時?」
ぼんやりと空を眺めているぼくの後ろから優子の声がした。
「何時なのかな。ひどく天気がいいよ。」
「めずらしいわね。こんなに晴れるなんて。」
彼女の声を背中に聞きながら、ぼくはキッチンへ行き、トースターにパンをセットして、冷蔵庫からミルクのボトルを出しグラスに注いだ。彼女はシーツを体に巻き付けただけの姿でキッチンのテーブルについた。
「そんな格好で起きてこないでくれないか。」
「何言ってるの、今さら。何度も見てるでしょ、こんな格好。」
「そういう言い方もよしてくれ。好きじゃないんだ。それにもう10年くらい見ていない。」
ぼくは焼き上がったトーストをほおばりながら、まだ少ししびれの残るこめかみを押さえ、彼女のあごのあたりを見ていた。
「コーヒーいれていい?」
「かまわないよ。」
ぼくがそう言い、コーヒー豆の在りかを彼女に告げる前に、彼女はそれを棚から取り出しコーヒーを煎れるためのセットアップを終えていた。その動きは、まるで何がどこにあるのかすべて知っているとぼくに知らしめるためになされているようだった。
「相変わらずオールド・ハワイ・コナね。私は、最後まで好きになれなかったけれど。」
「別にそれだけじゃないんだ。君が手にしたボトルの横のスティール缶にはブルーマウンテンが入っている。」
「そうなの。」
彼女はぼくの言葉に興味を見せることなく、いれたてのコーヒーを不揃いなふたつのカップに注ぎ、そのひとつをぼくの前に置いた。ぼくは、ゆっくりと降りてきて森を包み込んだような沈黙の中でコーヒーを飲み(彼女の煎れたオールド・ハワイ・コナは昔と変わらずいささか濃すぎた)、またぼんやりと外の景色を眺めていた。
「それで、彼女とはどうするの?このまま別れる?」
まだしびれの残るぼくの頭を、そんな彼女の言葉が無遠慮に通り抜けた。
「彼女?よくわからないな。」
「昨日別れたんでしょ、彼女と。」
なぜそのことを知ってるんだ?ぼくは、かろうじてその言葉を飲み込んだ。彼女がそのことを知っている。それはつまり、記憶を無くすほど酔ってしまった昨夜のぼくが彼女に語った以外に可能性はみとめられない。
「別れたんじゃない、ふられたんだ。ぼくはそう言わなかった?」
「言ったわ。本当に相変わらずね、コーヒーもそうだけど。ねえ、あなたはふられたんじゃないの。ふられるように仕組んだの、あなたは意識してないでしょうけど。そう、無意識の中であなたはふられようとしているのよ。」
「無意識の中でふられるように?」
ぼくは彼女の言葉を確認するように(まるでそこにある台本を読むように)、そして自分に問いかけるようにつぶやいた。
「そう、無意識の中でね。私の時もそうだったの、本当よ。」
「よくわからないな。10年前もそして昨日もぼくはそうなることを望んでなんかいない。」
「そう、たぶん望んでなんかいない。ただ、あなたはふられようとしているだけなの。」
(同じことじゃないか。)ぼくは頭の中で反論し、もちろんそれを言葉にすることは無かった。
「気を悪くしないでね。責めている訳じゃないの、わかっているとは思うけど。私だってこんなことを言うためにここにいるわけじゃない。」
(だったら、なぜキミはここにいる?)もちろんその言葉も実際に口にしたわけではない。彼女はただ、アルコールのため次の朝目覚めた後何を話したかも覚えていないことになる昔の男を心配し、送り届け、まるで自分が「チーズフォンデュのチーズになったようなとろける気分」を(この表現は初めての時からたびたび彼女が口にしたものだが)10年ぶりに味わってみようと思っただけだ。たぶん。
「それで、ぼくになにか言うことがあるかな?」
「それは、彼女とのこと?それとも、私とのこと?」
「もちろんぼくにとってのことさ。」
彼女は大きくため息をついた。
「ほんとに相変わらずね。もちろん私のことなんか考えることは無いわ、考えもしないでしょうけど。彼女とのことよ。どうするの?今までと同じように知らん顔しておく?」
「もう一度言っておくけど、ぼくがふったわけじゃない。ぼくはふられたんだ。そんなぼくに選ぶべき方向性は無いんだ。」
「同じことの繰り返しね。いいわ、もともと私には関係のないことだし。」
「そうだね。」
ぼくは自分のコーヒーカップが空になっているのを確認し、もう一度コーヒーを煎れるために腰を上げ、スティール缶のコーヒー豆をコーヒーメーカーにセットして、2杯分のミネラルウォーターを注いだ。
「じゃあ、私たちの話をしましょう。」彼女が再び嫌みのない笑顔を浮かべて言った。「今日は、何か予定があるの?」
「とくにないよ。」
「私これからスプリングコートを買いに行くの。とくに何もなければつきあわない?ランチくらいおごってよ。」
本当にこれといって予定はなかったし(週末に予定がないことはぼくにとってはめずらしいことなのだが)、久しぶりに外で食事するのも悪くはない。ぼくは彼女の微笑みを見習って、笑顔で言った。
「かまわないよ。」
遅めのランチにイタリアンレストランを選び、ベーコンと唐辛子と大蒜とオリーブオイルだけのシンプルなパスタを、つまりペペロンチーノを口にするまでに、8つのブティックと3つの専門店を回らなければならなかった。その間ぼくは14本のタバコと1缶のペプシコーラを口にし、2本の電話を受け、1件のメールに返事を書き(クライアントからのプライベートな内容だった)、そして15秒ほどひとりの女に目を奪われた。彼女は、優子が5軒目のブティックでベージュのスプリングコートを試着しながら店員と丈の長さや色の明るさなどについて様々な角度から(ぼくにしてみればどうでもよいことのように思えたが)意見を交わしている間、ぼくが7本目のタバコを吸おうと表に出たときに銀色の自転車に乗ってぼくの前を通り過ぎていった。彼女はぼくに気づくことなく、ぼくの知るころよりも倍以上はあると思われる長い髪を風になびかせながら、街角を曲がっていった。山崎美玲、それが彼女の名前で、産婦人科の待合室で彼女と最後に言葉を交わしてからすでに2回のオリンピックと7回の日本シリーズが行われた。
2皿のパスタをたいらげハーフの赤ワインを空にした後、私鉄の駅でぼくは優子と別れた。別れるまでも別れてからも、ぼくはずっと山崎美玲のことを考えていた。彼女が今この街で暮らしている、そのことが少なからずぼくの落ち着きを奪っていった。バスに乗りマンションに着くまで、いやビールを飲みシャワーを浴びて眠りにつくその時まで、ぼくのあたまのなかでは自転車に乗った山崎美玲が何度も通りすぎていった。


#3に行く
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