1994年 春

4月のある土曜日の夜、ぼくはぼくの応援するプロ野球チームの開幕2連勝を祝って、行きつけのビールバー『アビー・ロード』のカウンターでカリカリのポテトフライとビールを口に運んでいた。この店のマスターはぼくとさほど年の変わらない(たぶん彼がぼくの1つ年下だったと思う)あまり口数の多くない男だが、なんとなくぼくとは気が合うところがあり、店にはもう2年くらい通っている。学生風の男女の団体客が引き上げ(5人を越えると、カウンターとテーブルをあわせても12〜3名しか入れないこの店にとっては団体客なのだ)、少し落ち着いたところでめずらしく彼の方からぼくに話しかけてきた。
「今日はひとりですか?」
「うん。でもぼくがここに来るときはほとんどひとりだと思うけど。」
「まあそうですけど。でもここ何回かはひとりじゃなかったから。ミレイさんでしたよね、あのショートカットのかわいい娘。」
「ああ。今日も来るかもしれない。ジャイアンツが勝ったからね。」
「やっぱりいた。電話してもいないからここかなと思って。コーちゃん、私もハイネケンちょうだい。」(『コーちゃん』というのがアビー・ロードのマスターの愛称で、彼女はこの店を2度目に訪れたときにすでにこのように呼んでいた)そう言いながらぼくのとなりのスツールに腰かけた。
「どうしてここにいると思った?」
「だって、巨人が勝ったから。」
カウンターのむこうで、コーちゃんと呼ばれた男がハイネケンの栓を抜きながら目許だけで微笑んだ。

ぼくと山崎美玲が出会ったのは、その前年の夏だった。ぼくのクライアントの仕事でちょっとした撮影があり、その時にモデルとして(モデルといっても素人に毛が生えたようなもので、実際彼女はまだ大学3年生だった)派遣されてきたのだ。その時の山崎美玲は白いノースリーブのワンピース姿で、細身でわりと背の高い彼女には(ぼくの身長は180cmあるが、ローヒールの靴を履いた彼女はぼくの目線ぐらいの身長だった)それがよく似合っていた。その日は数日続いた真夏日の中でも特に暑く、終日におよぶ屋外での撮影はひどくハードなものとなり、ようやく撮影が終了したときにはぼくの喉はビールを求めてほとんど錯乱状態に陥っていた。スタッフをホテルのエントランスまで送り(さあビールだ)と振り返ると、そこに彼女がいて黒目がちの涼しい顔でぼくを見上げていた。ぼくはもともと、仕事のスタッフと一緒に飲みに行くのはあまり得意ではなく、まずこちらから誘うことはないし、むこうから誘われてもよほどのことがない限り丁重に断ることにしている。だがこの時は、何となく(ただ、ビールを飲むことしか考えられなかっただけかもしれないが)彼女を誘った。
「暑かったね。今からビールを飲みに行くんだけど、一緒にどうかな?」
「行きます。」
そんなわけでぼくは、仕事でここに来た時に必ず顔を出すバーに彼女とふたりで行くことになった。
バーに着くと、ぼくたちはカウンター席に腰を下ろし、2本のハイネケンとカリカリのフライドポテトを注文し、ぼくは立て続けに3本のボトルを空にした。ぼくは彼女についていくつかの質問をした(彼女はぼくと同じ市内にある大学に通っており、実家は50kmほど離れた街にあり、今は学校の近くにひとり住まいをしている、という事が分かった程度の質問である)。その後もぼくは黙々とグリーンの空瓶を生産し続け、彼女のたあいのない話(ちょっとした恋愛話や、ファッションの話だったと思う)を聞きながら、時々フライドポテトをつまんだ。結局その店で、ぼくたちは10本のハイネケンを(内8本はぼくである)、さらにぼくが3杯のウォッカトニック、彼女は1杯のスプモーニ、そしてフライドポテトとサラダとパスタをそれぞれ1皿ずつ消費した。店を出た後、ぼくは彼女をスタッフと同じホテルまで送り(ぼくだけはいつも別のホテルに泊まることになる)、明日の簡単なスケジュールを確認し、そして「おやすみ」と口にしようとした瞬間、彼女の唇がぼくの口をふさいだ。その柔らかい唇はそっと、そして長い間ぼくの唇に重ねられた。ようやくぼくから離れた彼女は「おやすみなさい。」という言葉を残してホテルの中へと消えていった。
彼女から電話がかかってきたのは、それから2週間ほどたった金曜日だった。ぼくは友人との約束に(ぼくにとって友人と呼べるものは驚くほど少ない)すでに30分ほど遅刻しており、事務所をまさに飛び出そうとしているときだった。飲みに連れて行ってくれと言うのが彼女の電話の中身で、ぼくは友人との約束について説明し、もし時間が空いたら連絡をくれと彼女はポケットベルの番号を告げた。ぼくがかなりの量のアルコールを体内に吸収して自分の部屋に戻ったのは、当然ながら土曜日へと曜日が変わった後だった。着替えようとポケットからタバコを出したときに一枚の紙切れが床に落ちた。彼女のポケットベルの番号が記されたメモだった。ぼくはネクタイをゆるめながら何となくその番号をダイヤルし、案内に従って部屋の電話番号を押した。ぼくが着替え終わった頃電話が無愛想に鳴り響き、受話器からは妙にはしゃいだ山崎美玲の声が聞こえてきた。そこはどこなのかと聞く彼女に「ぼくの部屋だ。」と答え、今から行ってもいいかと言う彼女に「場所も知らないのにどうやってくるんだ?」と問い、マンションの場所ならわかっていると言う彼女の言葉にぼくは無言で驚き、なぜ知っていると聞くぼくに対して「そこに着いてから教えてあげる。」というせりふを残して彼女は電話を切った。玄関のチャイムが鳴ったのはそれから15分ほど経ったあとだった。ぼくがロックをはずしてドアを開けると、彼女はとまどうことなくタタキへと足を運び、まるでなにかを見定めるように辺りを見回した。アルコールのせいにするわけではないけれど、何故かその時ぼくはすんなりと彼女を部屋へあげた。ぼくは彼女に対してソファーに座るように勧め、何か飲むかとたずね、「スプモーニ」と彼女が答え、ぼくはほんの少しだけカンパリを入れたスプモーニをつくり(それはほとんどグレープフルーツジュースといっていい)、彼女に差し出した。この日の彼女は、かなりの量のアルコールを飲んでいるようで、ひどく上機嫌だった。彼女の笑い話がしばらく続き(ぼくは決して笑い話だとは思わないのだが、彼女が大笑いしながら話すのでそれ以外に表現のしようがない)、そしてぼくが尋ねた。
「どうしてここを知ってるんだ?」
「つけたの。」
「いつ?」
「この間、ドームに野球を見に行ったのね、お友達と。その後、帰りのバスを待ってたら降りてきたの。」
「降りてきたって、ぼくが?」
「そう。それで、この辺りに住んでるって前に聞いてたからつけたの。」
「どうして声をかけなかったんだ?」
「だって、女の人が一緒だったから。」
ぼくはキッチンへ行き、冷蔵庫からハイネケンを取り出し、彼女の隣に腰を下ろした。
「あの女の人、彼女なの?」
「彼女なんかじゃないさ。ぼくには彼女はいない。あの人はただ・・・」そう話すぼくの声を山崎美玲が遮った。
「違うんだったらいいの。よかった、彼女じゃなくて。」
ぼくは、言い訳をしようとした自分に驚きを隠せなかった。彼女はスプモーニのおかわりを求め、ぼくはキッチンでグレープフルーツジュースだけを彼女のグラスに注いで渡し、それからぼくはシャワーを浴び、彼女にもシャワーを勧め、そしてその夜山崎美玲と寝た。

『コーちゃん』つまりアビー・ロードのマスターがグラスにゆっくりとハイネケンを注ぐのを見つめながらぼくはタバコをくわえ、山崎美玲が差し出したライターでタバコに火をつけた。
「何考えてたの?」
「うん、明日の先発。昨日が斉藤で今日が桑田だから明日は槙原かな。」
「うそ。何かほかのこと考えてたでしょ。」
「だいたい、ジャイアンツが勝ったらどうしてぼくがここにいるんだ?」
「そうやってすぐ話をそらすんだから。だって巨人が勝ったときは部屋でひとり飲むのはもったいないっていつも言ってるでしょ。」
ぼくは、新しいハイネケンのボトルを注文し、フライドポテトをつまみ、本当に明日の先発ピッチャーについて考えていた。
「話があるの。」それまでの声のトーンに比べ明らかに低くなった声で山崎美玲が言った。「無いの、生理が。」
ぼくは、マスターがぼくらの話を聞いていないのを確認して(聞いていないふりをしてくれていただけかもしれないし、その可能性はかなり高いと思う)、彼女の方へ顔を向けた。
「無いの。わたしって結構きっちり来るほうなんだけど、2週間も遅れてるの。」
「うん。」
初めて彼女がぼくの部屋に泊まって以来、ぼくたちは週に1〜2回デートをし、ベッドを共にした。しかし、その時ぼくは必ずコンドームをつけたし、その使用方法について誤った記憶はなかったけれども、もちろんそんなことを言ってどうにかなるとは思えず、当然口にすることもなかった。
「ねえ、どうしたらいい?」
「うん。2週間ぐらいでは何とも言えないんじゃないかな。もう少し様子を見よう。」
「そうね。」
その日、彼女はうちに泊まることなく帰っていった。
次に彼女と会ったのは1週間後の土曜日の夜だった。その夜、彼女は普段とは全く違う表情でぼくの部屋へ現れ、そしてぼくに告げた。3週間が過ぎてもやはり生理はなく、妊娠判定薬の存在を彼女の友人から聞き、薬局でそれを買い求め判定したところ陽性と出た、それが彼女の話の中身だった。ぼくは口にするべき言葉を探しあぐね、ようやく「そうか。」とひと言だけつぶやいた。
「産むなんて云わないから安心して。責任を取れなんてことも思ってないから。」
「堕ろすのか?」
「そんな言い方・・・でも、それしかないよね。ついてきてくれる?」
「ああ。」
数日後、ぼくは会社を休み、彼女と一緒に産婦人科へ行った。彼女が彼女の友人の知っている病院を紹介してもらったらしい(どういう理由で知っているのかはぼくには聞けなかったのでわからない)。病院へ向かう途中ぼくは、本当に堕ろしていいのかと彼女に尋ね、それ以外に方法があるのかと聞かれ、それきり黙り込んでしまった。病院の待合室には、当然だが数人の妊婦が順番を待っており、男性はぼくひとりだった。ぼくはもう一度彼女に向かって小さな声で問いかけた。
「今日はやめにして、もう一度考えてみないか。」
「大丈夫、もうじっくり考えたんだから。」
まもなく看護婦が彼女の名を呼び、彼女の順番が来たことを告げた。彼女はゆっくりと腰を上げ、一瞬ぼくの方へ顔を向け、微かに笑みを浮かべた後、看護婦に導かれて診察室へ入っていった。ぼくは、もう二度と彼女が帰ってこないような気がしながら彼女を見送った。彼女が施術を受けている間、ぼくは腹のふくらんだ妊婦たちの無遠慮な、そして好奇の目にさらされ続けた。かなりの時間が経ち、手術を終えて看護婦に抱かれるようにして診察室から出てきた彼女は、ひどくやつれたように見えた。ぼくは精算を済ませ、今後の対応を看護婦に聞き、彼女を抱えながら病院を出た。彼女に語りかけるべき言葉を見つけきれないまま、ぼくは彼女をハイラックスサーフの助手席に乗せ、ただ前を向いて車を走らせた。彼女のアパートに着くまで、ぼくも彼女もひと言も言葉を発しなかった。彼女のアパートに着くと、彼女は自分でドアを開け車から降りた。
「電話するよ。」
かろうじて発したぼくの言葉に彼女は無言で頷き、振り返ることなくアパートの中へと消えていった。
それからぼくは、なかなか彼女に連絡を取ることができず(何をどう話していいのかわからなかった)、2週間ほど経った頃ようやく電話を入れたが、「使われておりません」という乾いた女性の声が繰り返されるだけだった。
こうして、彼女は本当にぼくの前から姿を消した。

#4に行く
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