■2001年 春
智子と別れた日から(厳密に言うとぼくがふられたのだが)2ヶ月ほどの時が経ち、街には真新しいスーツを着た若者たちが溢れる季節になった。その間、ことあるごとにぼくはあの山崎美玲の姿を思い出していた。これほどまでに彼女がぼくの意識の中を占めてしまうということが少なからずぼくを驚かしたし、そのことがさらにぼくの意識を刺激し続けた。淡々と日々を過ごしながら、街中で銀色の自転車が通りすぎるたび山崎美玲ではないかと目で追ってしまい、そこに別の顔を認めるたびに落胆するということを繰り返した。
そんな4月のある木曜日、いつもより仕事を早く切り上げたぼくは、いつものバー「アビー・ロード」へと足を運んだ。年度末の仕事に追われていたぼくは、なかなか飲みに行く時間を見つけられず、ここのマスターと顔を合わせるのも久しぶりだった。ぼくは、いつものようにハイネケンとフライドポテトを注文し、マスターが「久しぶりですね。」と言いながらハイネケンのボトルを差し出した。そのあと、しばらくの間ぼくは、ビールとこれもいつものようにカリカリに揚げられたフライドポテトを口にし、マスターもひと言も口を開くことはなかった(ぼく以外には客はいなかったのだが)。ぼくが4本目のハイネケンをオーダーした後、2人連れの女性客が現れ、マスターがその2人のオーダーを取り、ジントニックとブラッディメアリーとミックスナッツを彼女らのテーブルへと運び終えてカウンターの中へと戻ってきたとき、おもむろにマスターが口を開いた。
「この間、彼女が来ましたよ。」
「彼女?彼女って誰?」
「ミレイさんでしたよね、昔よく一緒にいらしてた。もう、ショートカットではなかったですけど。」
ぼくは自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じながら、努めて冷静を装って言った。
「この間って、いつのことかな?憶えてる?」
「確かこの間の日曜日でした。翌日が店休日だったので間違いないと思いますよ。おひとりでした。」
「そう。何か言ってたかな。」
「わたしはあまり話をしませんので。久しぶりですねぐらいですかね。あと、今もお見えになるかって訊かれました。」
「ぼくのこと?」
「はい。」
ぼくの心臓はいっこうに落ち着きを取り戻す気配を見せなかった。落ち着いてここでビールを飲んでいる場合では無いように思いながら、かといって何をすれば良いのかも思いつかなかった。4本目のハイネケンを飲み終えたぼくは、結局なにも思いつくことのないままマンションへと戻った。
その週末の土曜日、山崎美玲のことがあたまから消えるはずもなく、何もする気にならないままジャイアンツの試合をテレビで観戦し、連敗を止める上原の完投を見届け、そしていつしかアビー・ロードへと足を運んでいた。「ジャイアンツ勝ちましたね。」とマスターはぼくを迎えてくれ、ぼくがオーダーをする前にハイネケンのボトルを目の前に置いた。おごりだというマスターにぼくは礼を述べ、フライドポテトを注文した。店にはほかに客はなく、店内にはビートルズのペニー・レインが静かに流れているだけだった。ぼくが3本のハイネケンを飲み、ウォッカトニックを注文した直後ひとりの女性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
マスターの言葉に誘われるように、ぼくは入り口の方へ目を向け、そして視線はそこに釘付けにされた。入って北のは山崎美玲だった。
ぼくは呆然と彼女を見つめ、彼女はスプリングコートを脱ぎながらとても自然にぼくのとなりのスツールに腰掛けた。
「久しぶり。」
そう言って、彼女はマスターにハイネケンをオーダーした。
「久しぶりだね。」
それ以外にぼくは言葉にできなかった。グラスに注がれたビールが彼女の目の前に置かれ、彼女はそれをゆっくりと咽へ運んだ。彼女はほとんどノーメイクかと思えるぐらいの薄化粧で、髪は肩よりも長く、白いブラウスに紺のタイトスカートというシンプルな格好で、とても大人に見えた。そんな彼女を眺めているうちにぼくは少し落ち着きを取り戻し、彼女に話しかけた。
「実は、少し前にキミを見かけたんだ。街で自転車に乗っていた。」
「知ってるわ。ブティックの前にいたでしょ、気づいてたの。でも、あまりにも突然で心の準備ができなかったから、そのまま通りすぎちゃった。」
「わからなかったよ、気づいていないと思ってた。」
「それ以来、ううん、それ以前からあなたに会いたいと思ってたの。でもどうすれば会えるのか分からなくて。」
ぼくは再び落ち着きを無くし始めていた。
「この間もここに来たらしいね。」
「うん、日曜日にね。あなたに会えると思って。今日もそう。」
驚いていた。驚きと共に心臓はフル稼働し始め、ぼくの中で何かが動き出そうとしていた。
「でもどうして?」
「だって、巨人が勝ったから。」
その後、ぼくたちはしばらくの間話し続けた。ぼくにはどうしても彼女に訊き、確かめなければならないことがあった。あの日病院を出て、ぼくが彼女を送り届けた後、彼女に起きた何かを。そして、ぼくに何も告げることなく姿を消した理由を。しかし、ぼくはそのことをなかなか切りだすことができず、現在のぼくのことや彼女の近況について話した。彼女は現在、やはりこの街に住み、証券会社に勤めながら、インテリアコーディネートの勉強をしているとのことだった。
「結婚したの?」彼女が訊いた。
「まだだよ。もう35歳になるっていうのにね。」
「わたしもよ。」
ほっとしていた。そしてそんな自分の気持ちに気づきドキドキしていた。
この夜、二人はかなりの量のアルコールを消費し(彼女はぼくの知る頃とは違い、ぼくと同じくらいのアルコールを口にした)、ぼくが支払いを済まして二人で店を出ようとした時には、彼女の足下はかなりふらついて、ぼくの支えがなければ階段を昇るのも難しい状態だった。しかも、店を出ると外は雨で、ぼくはマスターから傘を借り、左手で傘を差し右腕で彼女を支えながらタクシーを拾わなければならなかった。ようやくつかまえたタクシーにまず彼女を潜り込ませ、続いてぼくが滑り込み、そしてぼくは運転手にぼくのマンションの住所を告げた。タクシーの窓ガラスを叩くように降る雨のむこうにひどく淋しげに見えるショーウィンドウを見ながら、そしてぼくの身体の中で暴れ始めようとするアルコールに言い聞かせながら、ぼくは山崎美玲の肩を抱き、髪をなでた。彼女はなぜか穏やかな表情の中で目を瞑り(それはぼくにとって不自然なくらい自然に見えた)、ぼくの肩に頬をのせた姿のまま眠り続けていた。やがてタクシーはぼくの住むマンションの住所へと無駄なく到着し、ぼくは料金を払い、再び左手で傘をさし右腕で彼女を支えながら、どうにか彼女をぼくの部屋まで運んだ。ぼくはドアを開け、リビングルームを真っすぐに通りすぎ、彼女をぼくのベッドへと横たえさせ、彼女のスプリングコートを脱がしてハンガーにかけ、バスルームにタオルを取りに行き、彼女の髪を拭いてコートの雨粒を払った。そしてぼくは熱いシャワーを浴び、冷えた体を温め、身体を拭った後冷蔵庫からハイネケンのボトルを取り出し、その栓を抜きながら彼女の寝るベッドの横にあるソファに腰を下ろした。ぼくはゆっくりとビールを咽に流し込みながら、静かに寝息を立てる山崎美玲の寝顔を眺めていた。1本のタバコを吸い終えた時に、激しい眠気がぼくを襲った。ぼくはハイネケンのボトルを空にした後、ソファにそのまま横になり、まるで底のない沼のような深い眠りへと落ちていった。
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