それから、再びあわただしい日々が続き、あっという間に2週間が過ぎた。そのころになって、ぼくはあのぼくの考えがひどく、そして決定的に間違っていることに気付かないわけにはいかなかった。この2週間、彼女からの連絡はもちろん、アビー・ロードのマスターからもなんら知らせが来なかった。つまり、ぼくが彼女の連絡先を聞き忘れたのではなく、彼女がぼくに教えなかった、たぶんそれが真実なのだろう。日に日にぼくのそんな考えは確信を増していき、それにつれてアビー・ロードへの足は遠のいていった。たまに早く仕事を切り上げた時も、どこにも寄ることなく自分の部屋でテーブルにのった銀のピアスを見つめながらひとりジャックダニエルを飲む日々が続いた。
そうしてさらに2週間ほどが過ぎたゴールデンウィーク真っ只中の金曜日(ぼくはこの日も仕事を終えた後で、もちろんゴールデンウィークなど全く関係はない)、ぼくはいつもの友人からの誘いを受け、仕事を早めに切り上げ街に飲みに出かけた。彼の行きつけの店で、ぼくたちがそれぞれ3本ずつのビールを飲み1皿のグリーンサラダと1枚のピッツァを食べ終えた頃、彼の携帯電話がビートルズのヘルプ!を奏でだした。彼はその電話の相手と(話の感じからそれは彼の彼女のようだった)何度か押し問答のような会話を交わして、電話を切った後「ちょっと厄介なことになっている」と電話の内容を簡単に説明し、途中で帰らなければならなくなったことについてぼくに詫びて、店の勘定を済ませるためカウンターへと足を運んだ。彼はぼくのところへ戻ってきてもう一度詫びを述べ、ぼくは彼に気にすることは無いと言い、そして彼は急ぎ足で店を出ていった。残されたぼくには、当然彼以外との約束があるはずもなく、店を出て少し途方に暮れながら街を歩いた。気がつくとぼくは、優子の店『モダンタイム』の前に来ていた。ぼくは少しためらった後、店のドアをゆっくりと引き、薄暗い店の中へと入った。店にはほかに客の姿はなく、ぼくはカウンターの中から無言で見つめる優子と視線を合わすことなく、カウンターの一番奥の席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。」
「嫌みな言い方だな。」
「どうして?お客様に対する普通の接し方でしょ。」
「嫌みの言い方マニュアル本でも手に入れたのかな。」
「あなたに合わせてるのよ。お気に召さない?」
「嫌みとしては今ひとつだな。ブラッディ・メアリーをいただけますか、オーナー。」
「オーナーって言わないで。」
彼女はいつものように手際よくブラッディ・メアリーを作り、ぼくの目の前に立った。
「で、どうしたの、めずらしいじゃない。こう言えばいいの?」
「その方がいいな。めずらしく、店がゆっくりしてるね。」
「もう嫌みはやめましょう。今度は何があったの?」
「特に何もないよ。何か無ければぼくはここに来てはいけないのかな。」
「もっと普通に話してよ。特に何もないのならそれでいいけど。」
その後、サラリーマン風の二人連れがカウンターの一番入り口側の席に座り、優子は接客のためにぼくの前から離れていった。さらに数組の客が入店し、たちまち店の中はいっぱいになった。優子はそれら客たちのオーダーに追われながら、しかしそれらを素早くこなしていった。ぼくはそんな優子の姿を見ながら2杯目をオーダーしあぐね、空になったグラスを見つめながらこの店に来て3本目のタバコに火をつけた。
「これでいいんでしょ。」
そう言いながら、優子が大きな氷と琥珀色の液体が半分ぐらい入ったロックグラスとジャックダニエルのボトルをぼくの目の前に置き、別の酒を作るためぼくの前から再び離れ、様々な形や色のグラスをカウンターやテーブル席へと運び続けた。ぼくは、そんな優子の動きを目で追いながら、彼女が置いてくれたそのグラスを口に運び、空になるとボトルを開けてグラスへと注いだ。ぼくが何杯目かの(たぶん6杯目だと思う)ジャックダニエルを注ごうとボトルに手を伸ばした時、優子がぼくのグラスを手にし、小さくなった氷をシンクの中へと放ったあと新しい氷を入れ、そこにジャックダニエルを注いでくれた。気がつくと店の客は半分ほどになっており、優子の忙しさも一段落ついたようだった。
「ごめんね、こんなに忙しくなるなんてね。なにか話があったんじゃないの?」
確かにぼくは、山崎美玲のことについて話したかった。しかし、なにをどのように話せばいいのか、そして彼女に何を言ってほしいのか、何より自分がどうしたいのか、何も解らない(解ろうとしていない)この状態ではそれは不可能のように思えた。
「うん、特にないよ。何となくキミに会いたかったんじゃないかな。」
「じゃないかな・・・って。」
テーブル席の4人組が新しくオーダーをし、「ごめんね。」と言う言葉を残して彼女は再度ぼくの前を離れた。新しいオーダーに答える彼女に勘定を払い、「また来るよ。」と言いながらぼくは店の外へと出た。いつの間にか、外は雨になっていたが、傘がなければ歩けないというほどのものではなく、ぼくはそのまま歩いて部屋へと戻った。
翌日ぼくは、クライアントの都合で午後からちょっとした仕事があったため特にそれ以外予定を入れてなく、夕方には部屋に戻っていた。ぼくは夕食に簡単なパスタとサラダを作って、ハイネケンを飲みながらジャイアンツとタイガースのテレビ中継を見ていた。この日のジャイアンツの先発は上原で、彼の調子はことのほか良く、タイガースのスコアボードにゼロを並べ続けた。結局8時半にはゲームは終了し、ジャイアンツが2−0で勝利した。勝利を見届けたぼくは、食器を流しへと運んで洗い、冷蔵庫から新しいハイネケンを出してテーブルの前に座った。ボトルの栓を抜き、勝利監督のインタビューを聞きながら、ぼくの視線はテーブルの上に置かれた銀のピアスに注がれていた。ぼくは開けたばかりのハイネケンを一息に飲み干し、壁にかけてあったデニムのシャツを羽織っただけで外へと飛び出した。ぼくが行き着いたところは『アビー・ロード』だった。
「いらっしゃい。久しぶりですね、1ヶ月ぐらいなりますよね。ハイネケンですか?」
「そんなになるかな。うん、ハイネケンを。」
店にはぼく以外に3組のカップルがいて、マスターはなかなか忙しいようだった。それでもぼくが3本のハイネケンを飲み終える頃にはカップルの内2組は店を後にしており、マスターはグラスを洗ったり、使ったボトルを元の場所へと戻したりとしていた。
「ジャイアンツ勝ちましたね。」
マスターのその言葉に、ぼくは少し動揺しながら彼の次の言葉を待った。しかし彼はそのあと特に何も語らず、相変わらずグラスを洗い、拭き、棚の中へ並べていった。ジャイアンツが勝ったこの日にぼくがここに現れた理由を彼が気付いていないわけはなかった。それでいてそのことに彼がふれないということが、ぼくにとって良い知らせではないことは明らかだった。
「彼女はやはり現れなかったのかな。」
ぼくは、どうするべきかしばらく考えたあげく、「彼女は来ていない。」という答えが返ってくることを承知でそう訊かずにはいられなかった。
「ミレイさんですか?」
そう訊くマスターに
「そう。」
と答えながら、再び彼の答えを待った。「彼女は現れていない。」という彼の答えを。しかしマスターは、その後残りのカップル1組が座るテーブル席の空いたグラスを下げに行き、そのグラスを洗うだけで、ぼくとの会話を続けるつもりはないようだった。ぼくは、ぼくが投げかけた質問のようにぽっかりと浮かんだタバコの煙を見つめながら、彼の言葉を根気強く待った。
「お見えになりましたよ。」
「えっ?」
ぼくがもう一度聞き返そうとするのを遮るように、マスターが言葉を続けた。
「男性とご一緒でした。」
ぼくは、もう一度ぼくたちの会話を最初から反芻し、そして沈黙した。マスターもそれ以上話さなかった。
しばらくして、ようやくぼくは口を開いた。
「それはいつ頃のことかな?」
「あのピアスをお預けしてから1週間も経っていないと思います。」
「そう。」
言葉を失っていた。いや、思考回路そのものが機能していなかった。動揺している自分をマスターに気付かれたくはなかったし、気付かれないように振る舞おうと意識しながら、確実にそれは不可能であり、気がつくとマスターが「少し飲み過ぎじゃありませんか。」と、ぼくを制していた。いつの間にか、ぼくはかなりの量のアルコールを(ジャックダニエルを)、味わうことなく飲み続けていた。
ぼくには、今自分が何か言葉にすれば、人に見せたくない姿を、そして人に聞かれたくない科白を、さらけ出し口にすることは間違いないと確信していた。しかし、ぼくにはそれを口にせずにはいられなかった。
「彼女は、何か僕について言ってなかったかな?」
「とくになにもおっしゃっていませんでしたけど、お連れ様もおられましたし・・・。」
「ピアスのことは・・・。」
「お伝えしています。でも、連絡先まではお聞きできませんでした。」
「そう。」
完全に打ちのめされていた。この店にほかの男と現れれば、そのことがぼくに伝わらないはずがないことは彼女には解っているだろう。いや、ぼくにほかの男の存在を知らしめるためにわざわざこの店に現れたと考える方が自然だ。ぼくは、これ以上さらに無様な姿をさらけ出すことだけは、なんとか押しとどめようと思った(たぶん無意識だが)。
「でも、お二人はかなり早いうちにお帰りになりました。もし次に・・・」
そんなぼくの気持ちをうち崩しそうなマスターの言葉を、ぼくは遮るように言葉を吐き出した。
「もう・・・、いや、いくらになるかな。」
「あ、はい。少しお待ちください。」
ぼくは勘定を済ませ、店を後にした。マスターがぼくを見送ってくれたが、振り返り彼の目を見ることはぼくには出来なかった。

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