佛法西還の記録

    玉井日禮

    1997年6月30日発行 税込価格 \5,250
    A5判 並製 130頁 ISBN4-88636-069-6 C0015



     「仏法西還」を口でいうひとはたくさんいます。
     「広宣流布」をいうひともおおぜいいます。
     日蓮門下は、これらのご遺命を合いことばにして曲がりなりにも「南無妙法蓮華経」をひろめてきたことはたしかです。
     しかし、それらは、ただ「南無妙法蓮華経」という「お題目」をひろめただけであり、日蓮遺命の「三大秘法」の流布ではありません。もっとだいじな「本尊」が欠けていたからです。
     それはむりからぬことです。
     なぜならば「本尊」は、時が来なければこの世にあらわれることはないからで、日蓮大聖人の「大本尊」には、そのことがキチンと書かれております。
     そして昭和六十一年(一九八六年)十月十一日、「大本尊」に書かれた予言どおりに、末法元年尽未来際の一切衆生を救い護るといわれる「本門の本尊」が、玉井日禮の手によって出現せしめたてまつられました。
     これによって仏教の全予言はウソではなかったことが証明され、すべての生物が地獄へ落ちる道がいちおうはふさがれたのであります。
     しかし、求道の旅に終点はありません。
     仏教以外のほとんどの予言が、二十世紀末から二十一世紀はじめにかけて、地球存亡の危機を警告しているとき、その危機を回避できる、ほとんど唯一のカギをにぎっているといってもよい日禮が、それを傍観しているわけにはまいりません。
     日蓮如来の御遺命を奉じて、「大本尊」を西へ還す、すなわち中国とインドにお遷したてまつることこそ、緊急かつ優先すべき日禮の修行である、と痛感したのです。
     その痛切なおもいに応えるかのように、一九九五年十月、北京政府筋のご配慮によって、日本仏教のふるさとである中国仏教の総本山ともいうべき天台山国清寺(国清講寺ともいう)を参詣し、時の天台座主可明法師と会見して、「大本尊」を納めることができました。
     これこそ真の広宣流布の始まりであり、事の仏法西還の第一歩ともいうべき大仏事であったことを、後世の仏教徒は評価することでしょう。
     この大事業の報告書であるべきこの本は、もっと早く出されるべきでした。
     ところが「大事には小瑞なし」の方程式どおり、宗門内に巣食っていた野心家たちによる組織撹乱工作がその後明るみに出るなど、宗門始まって以来の不祥事が起こり、その一方では光寺の新築など、さまざまな吉事も重なりこの本は版下のまま凍結せざるをえない状態でした。
     その間結果的には野心家たちにつけこまれて、不祥事にまきこまれるかたちとなった林日圓上人猊下(法華宗第九十六世管長)も深く遺憾の意を表明され、野心家たちも宗門から追放して一件落着、光寺も新築なり、ようやくこの本を出す運びとなったしだいです。
     一九九七年一月三日には千葉県東庄町に、石下日煌総務の提供による研修道場「三学院」もうぶ声をあげ、その近くの無宗派の森戸霊園内に本宗発の墓地(四区画)を有志の寄進によって取得、その他にも本州から共同墓(超宗派)と、大宝塔が建立されることになったことも、すべてはほとけさまの御はからいによるものであり、われわれはこの佛恩に報いるべく、さらなる前進をはからなければなりません。

        

     平成九年五月吉日
    妙法蓮華宗光寺管長 玉井日禮


    目次

    爲仏法西還末法萬年救護始拓大本尊
      國清寺山納趣意疏  玉井日禮 撰
    爲仏法西還末法萬年救護始拓大本尊
      國清寺山納趣意疏(読み下し体)  玉井日橿撰
    天台山国清寺における万年救護始拓大御本尊御山納の
      史上空前の大法要に参列させて頂いて  小牧久時
    奉天台智者大師章
    ご挨拶  林日圓
    ――北京フォーラム基調講演(草案)(1)――
      全世界の完全救済めざす大乗仏教の精髄たる
      「万年救護始拓大本尊」  玉井日禮
    ――北京フォーラム基調講演(草案)(2)――
      仏教予言と現代の世界  玉井日禮
      「仏法西還」行 感想と感謝
       ――「北京週報」の執筆依頼に応えて――  玉井日禮
    ――「北京週報」社への返礼の宴におけるスピーチ――
      「仏法西還」の始まりに際して  玉井日禮
    <中国仏学院(仏教大学)側のフォーラム基調講演原稿>
      源遠ければ流れ流し――玉井日禮先生の宗旨は日本の真の
      仏教化と世界平和・人類幸福に貢献するもの――  傳印
    太陽の仏法、星の国(中国)へ還る  玉井日禮
    仏法ここに西還す
      ――天台山国清寺へ大本尊を初めて奉納――  玉井日禮
    佛教史上未曾有の一大佛事
    「仏法西還」御供養者名簿
    「仏法西還」発誓願文(順不同)
    中国の代表的週刊誌「北京週報」で、
      「仏法西還」が大々的に紹介される!!
    「仏法西還」の旅 ――日中仏教交流北京週報読者訪中団に
      同行して――  王喜金 張桂珍
    
    御聞き書(御記録書)
    


    中国の代表的週刊誌「北京週報」で、

    「仏法西還」が大々的に紹介される!!


     (1)「広宣流布」とは「仏法西還」にほかならない。すなわち、万年救護始拓大本尊を、その母国中国と、父国インドに宣(の)べ弘めることである。
     (2) 題目の流布は序分なり。「本門本尊」流布こそ三世十方諸仏の本願・本懐なり。
     (3) いかに多人数を誇り、莫大な勢力をもってしても「本門本尊」を所持しないやからには「仏法西還」は夢のまた夢、机上の空論にすぎず。
     (4) しかも「仏法西還」には、五五百歳の満期、西暦二〇〇〇年までというタイム・リミットがある。その期限切れ寸前で成就したがゆえに、「一大慶仏事」と称ぶのである。
     (5) インド・中国・日本という仏教有縁の三ヵ国において、中国は文字どおり「中」の国であり、これからもそうであろう。その中国仏教の一大総本山というべき天台山国清寺に、玉井日禮世尊始拓の万年救護大本尊を奉納したという歴史的事実は、理論的にも事実上も二十一世紀の超大国である中華人民共和国を、一瞬にして広宣流布したことにほかならない。
     (6) この一大慶事のいわば「証人」として、万難を排して同行された京都の名宗門法華宗第九十六世林日圓上人猊下も日禮世尊とともに天台座主可明法師に拝眉され、「この慶仏事の重大意義は、後世にならなければ、ほんとうには理解されないでしょう」と申され、国清寺奉納の大本尊に、「玉井日禮上人猊下御奉納の万年救護始拓大本尊こそ、日蓮大聖人出世の本懐であることを証明す」との御染筆(裏書)までたまわった。
     (7) 今回の壮挙における特筆大書すべきは、中華人民共和国政府機関をはじめ、官民あげての誠意あふれる協力があったことであり、裏面の記事を熟読されれば分かることだが、実に綿密に取材し、「仏法西還」の歴史的意義を正確正当に評価されていることは、感動的である。
     (8) 「北京週報」は中国政府が国外むけに発行している一般週刊誌で、数ヵ国語版で印刷され、百ヵ国以上に発送されており、一二〇頁以下の記事は、日本語版に掲載されたものである。
     (9) その「北京週報」がご覧のように、見ひらき二ぺージ大で「仏法西還」を報道したことは、とりもなおさず、中国政府が、この一大慶仏事を公的に認証したことにほかならない。
     (10) この一大慶仏事を激(びょう)たる妙宗が、敢行できたということは、三仏の加護によるものであるが、奉納の日、十月十三日午前、国清寺前庭の中天高く、太陽と月が並座(びょうざ)していたという、数百年に一度という天文学上の一大奇現象を一行が目撃していることは、いったい何を意味するものだろうか。
     (11) また、このことの成就にあたっては、妙法蓮華宗の先達や同志、御信者の身命も財も惜しまぬ精進があったことも、歴史に深く刻んでおかねばならない。
     「そこばくの人の死するに今まで生きてありつるは、このことにあわんがためなり」との御聖訓はまさにこのことのためにある。
     (12) しかし「仏法西還」はこれで終わったわけではない。釈尊の本国インドヘ帰還されるまでは完結しない。この遣された一大慶仏事に、身・口・意の三業で、日蓮如来・日禮世尊とともに参加することこそ今生成仏の秘訣である。



    「仏法西還」の旅
    ――日中仏教交流北京週報読者訪中団に同行して――
    本誌記者 王喜金 張桂珍


     玉井日禮日本妙法蓮華宗管長を団長とする日中仏教交流北京週報読者訪中団一行三十六人は北京週報社の招きて、十月十日から十七日まて上海、寧波、天台山国清寺、北京を訪れ、報恩の「仏法西還」の旅をした.
     一行は十日上海に到着。翌日、上海の玉仏寺、豫園を見学し、夜は上海の伝統的な雑技を楽しんだ。十二日、所江省寧波の天童寺、育王寺をまわって、午後、天台山に向かった。
     天台山の国清寺は、中国仏教天台宗の創始者智(号は智者。)大師が円寂した翌年、つまり隋の開皇十八年(五九八)、弟子たちが智大師の遺志に基づいて建てたものである。天台宗の発祥の地であり、その影響は日本、朝鮮、韓国および東南アジアに及んている。
     日本の伝教(最澄)大師は八〇四年、遣唐使船に乗り、中国に渡り、天台大師(智)の霊跡を訪ね、天台大師の系譜を継ぐ道遼座主や行満座主について天台仏教を学び、翌年(八〇五)、贈られた経書二百余冊を日本へ持ち帰り、比叡山延麿寺を建て、日本天台宗を創始した。
     日本仏教の祖師といわれる法然、道元、親鸞、日蓮など、ほとんどすべての仏教指導者は延暦寺て学んており、中国の天台仏教は日本仏教の母といわれている。
     大乗仏教の予言によると、仏滅後二千年から二千五百年までの五百年間に、日本で成熟した法華経がその伝来の経路を逆にたどって中国からインドに帰還することによって、この地球世界に法華経が広宣流布して、断絶することがない状況になるという。
     ぼう大な法華経を一幅の文字曼陀羅に凝縮することに成功した日蓮は、報恩のために「万年救護大本尊」を中国へ伝え、仏教の発祥地のインドまで伝えることを念願し、二〇〇〇年ごろまてに、この「仏法西還」が実現するだろうと予言した。
     玉井日禮氏は一九八六年、東京のある寺院の石塔に「万年救護大本尊」が彫られてあるのを発見し、その重要意義を直観して、拓本を三体採り、翌八七年七月からこの大本尊の弘宣、布教を始め、そして二〇〇〇年までに、中国、インドのしかるべき寺院へこの大本尊を奉納し、日蓮や釈迦牟尼の予言を実現したいと願い、このたび、大本尊の二番目の拓本「万年救護始拓大本尊」をたずさえ、三十五名の教徒を率いて中国へ来たのである。
     十月十三日未明、玉井管長は天台山の国清寺で、住持(座主)の可明法師と会い、来訪の目的を述べ、この「万年救護始拓大本尊」を国清寺に奉納したいと申し出た。可明法師は心よく受け取り、感謝の意を表した、午前八時、三十五名の妙宗徒も国清寺を訪れ、静慧法師主宰の歓迎会に出席した。席上、団員の一人、米国際地球環境大学名誉総長、法華講総講頭小牧久時博士が大本尊の国清寺奉納の意義を述べ、さらに「全宇宙(全次元・全時空)の究極の原因すなわち『妙法蓮華』を、その中味にまで立ち入って説き明されたのが、言うまでもなく、天台大師の『法華文句』『法華玄義』てある」と述べた。その後、一行は日本伝教大師がかつて天台仏教を学んだ読経堂で、「南無妙法蓮華経」を唱えた。
     一行はまた智大師が祀ってある智者塔院を見学し、午後、寧波に戻り、翌十四日、北京へ向かった。
     北京週報社施威副社長、張亦兵対外事業部部長が北京空港に出迎えた。一行は天安門広場を見学し、夜、京劇を楽しんだ。
     十五日午前、北京市内の中国仏教協会で、中国仏教協会の刀述仁副会長兼秘書長、申在夫同副秘書長と会見した。刀副会長は「仏教は中国では信仰であるだけてなく、伝統文化の重要な構成部分でもある。これから、両国の仏教および仏教関係分野での交流が、盛んになることを希望する」とあいさつした。
     玉井管長は、「日本は文化面で中国から大きな恩恵を受けた。わたしたちは御恩返しのために中国に来たのである。過去日本が中国に対して多大な苦しみを与えたことについていろんな人が謝罪や反省をしているが、私も同様である。ただいつまでも過去にこだわらず、前向きに建設的な交流関係が深まることを望んでいる」と述べ、国清寺への大本尊奉納を報告した。
     この席で、玉井管長は「大本尊」のコピーを中国仏教協会に奉納した。そのあと、一行は北京週報が市内の法源寺で主催した「仏教北京フォーラム」に参加した。フォーラムでは、中国仏学院副院長傳印法師(中国仏教協会常務理事、江西盧山東林寺住持)が中国仏教の歴吏と現状および中国仏教と日本仏教との関係について講演し、玉井管長が「全世界の完全救済めざす大乗仏教」という題目て講演を行った。台湾の台光寺から来た頼日宙氏は台湾の日蓮教を紹介した。玉井管長はまた、中国仏学院に大本尊(コピー)を奉納した。その後、一行は傳印副院長はじめ十名の仏学院の学生と精進料理を食べながら交流した。
     午後は、故宮を見学し、翌日の十六日、明の十三陵、万里の長城を見学した。
     十六日の夕方、北京週報社林良旗社長および一部スタッフとお別れパーティーを開き、玉井管長は、「今回の「仏法西還』の旅を百点満点法で評価総括するならば、百二十点くらいで、予想以上の成果をあげることができ、私のほか三十五名の妙宗徒も歓喜の表情を満面にたたえていた」と述べた。
     十七日午前、一行は北京週報社施威副社長らに見送られて北京を後にした。

    (「北京週報」一九九五年十二月五日号より)