日蓮大聖人自伝

    玉井日禮著

    1993年4月28日 税込価格 \5,250
    A5判 並製 520頁 ISBN4-88636-064-5 C0015


    まえがき

     日蓮大聖人の生涯を主題にした評伝・小説のたぐいは多い。日本における諸宗の鼻祖のなかでも、群を抜いている。
     坪内逍遙・森鴎外・幸田露伴・福地桜痴・村上浪六・中里介山・高山樗牛・宮沢賢治・武者小路実篤・大仏次郎などの著名な文学者が、戯曲・小説・評論などに、さまざまな大聖人像を描き出している。
     しかし、筆者の管見かもしれないが、知る限りにおいてこれらの作品はすべて真の日蓮大聖人像を結果的に歪めるものであるといえる。
     伝教大師(最澄)が法相宗の徳一を破折して、「法華経を讃すと難も、還つて法華の心を死す」(大石寺版御書全集。五四七−10)と責めたのも、そういう意味においてであったろう。
     では、なぜ正しい大聖人像を浮かぴあがらせる著作がかつて現われなかったのだろうか?
     その理由は次の点にあると思われる。
     つまり、日蓮大聖人の本地(本来の境地)をどう捉えるかという点において、なべての著者が、致命的な錯誤をおかしているのである。
     錯誤の原因は、一般に仏教というものはインドに出現した釈尊が創始したものだという、抜き難い先入観にある。たしかにインドの釈尊は八万法蔵とよばれるおびただしい経典を説き、正法・像法時代(在世から千年および二千年の期間)の衆生を本果妙≠フ仏法で救済した仏であることにまちがいはない。しかし、その釈尊自身が、法華経寿量品のなかで、「自分は、五百塵点劫という遠い昔から、世世番番(世ごと番ごと)にこの娑婆世界に現われて、種々の法を用いて衆生を救済してきた古仏である」
     という意味のことを述べていることをどう解すればよいのか――。
     またこの五百塵点劫という計測不可能の遠い昔も、「久遠元初」という無始の時間的概念に比較すればなお有限であり、「久遠元初の自受用身」と名づけられる無始無終の本仏に相対すれば、インド釈尊の本地である「久遠実成」の仏といえども、本仏の分身にすぎないのである。
     そして末法時代(インド釈尊滅後二千年以降)に日本に出現された日蓮大聖人こそ、あらゆる角度から視て「久遠元初の自受用身」にほかならず、インド釈尊も五体投地してその前に拝跪しなければならない本因妙≠フ御本仏なのである。
     このことは、自讃や独善でいうのではない。インド釈尊の説いた経文の文底に秘沈されたメッセージであり、またそのおびただしい経典の論理的帰結として当然出現しなければならない本仏であり、日蓮大聖人の生涯を賭して証明された事実なのである。
     日蓮大聖人がその御遺文(御書)のいたるところで用いられている「教主釈尊」という文字は多くの場合インド釈尊のことをさすのではなく、「久遠元初の自受用身」つまり大聖人御自身のことを示す文字なのである。
     インド釈尊と日蓮大聖人の関係を、わかりやすく譬えれば、キリスト教における預言者ヨハネとキリストの関係に似ているといえようか?
     この関係が理解できないうちは、日蓮大聖人の仏法は解らない。
     そこのところが解らないから、日蓮大聖人のことを、腐敗堕落した既成仏教諸宗を攻撃して権力の忌諱に触れ、うち重なる迫害を受けながら、最後まで主張を貫ぬきとおした偉いお坊さん≠ネいしは上行菩薩の再誕≠ニいうていどの認識になってしまうのである。
     日蓮大聖人の遺文を通読したこともない人が、そういう通俗的な「日蓮」観におちいるのは、やむをえないことであるのかもしれない。しかし、一往は「御書」に眼をさらしているはずの人びとが、「日蓮大聖人即御本仏」論を立てず、日蓮大聖人のことを、単に「日蓮上人」とか「日蓮大菩薩」と呼称して、仏法僧の三宝に約すれば「僧宝」の位におとしめていることは残念である。
     いわゆる日蓮宗系のなかにあって、日蓮大聖人を御本仏として鑚仰しているのは、日興上人の流れを汲む日蓮正宗だけであるが、この正系門家においても、史学的な意味でのいわゆる「日蓮大聖人研究」は不充分である。
     宗学面では「寛尊の前に寛尊なく、寛尊の後に寛尊なし」といわれるように、二十六世日寛上人が『六巻抄』などを著わして、その骨組みをほぼ構築しおえたといえようが、こと日蓮大聖人の伝記とか、宗門の歴史といった史学的な分野になると、堀日亨師の『富士日興上人詳伝』等を除いて、ほとんど見るべき文献の見当らないのが現状である。
     近年になって『富士門徒の沿革と教義』という労著をものした故・松本佐一郎氏は、「史学界では日蓮宗関係を扱ふ人は最近相当ふえてゐて、特に立正大学などは良い論文の量産工場といった趣きがあるが、事富士門徒に関してはまことに暁天の星であり、それも創価学会の活動に刺戟されて出した、昔乍らの宗内問答的なものが殆んど全部といって良い」
     と、同書のなかで述べている。
     日蓮大聖人一期の大事である弘安二年十月十二日の大御本尊造立前後の史実に関しても、宗門のなかに三つの説があるというのは困ったことである。
     そのころ起きた熱原法難に時を感じられての大御本尊造立という点では三説とも一致しているのだが、神四郎等三名の斬首の日が、(1) 十月十二日、(2) 十月十五日、(3) 弘安三年四月八日――とそれぞれ違うのである。
     詳しいことは本文に譲るが、こんな状態では、他宗の怨嫉から疑難を投げかけられることの多い大御本尊が、ひいては日蓮正宗の教義そのものが、他宗の批判によく耐えられるものではなく、なにを措いても、こうした史実の解明にとりくむべきである――というのが、この書の執筆の動機の一つであった。


     筆者はさまざまな日蓮大聖人伝に目を通した。しかし、そのいずれにも満足できなかった。満足できなかった理由は、どの大聖人伝も、大聖人を語ろうとしながら、それぞれの著書の、偏よった大聖人観を吐露しているにすぎない点にあった。
     そして筆者が突き当たったのは、中里介山が『大菩薩峠』(他生り巻)で述べている、
     「日蓮を説明するには、やはり日蓮自身をして説明せしむるより善きはなかろうと思います」
     という一節であった。
     『法華経の行者日蓮』の著者姉崎正治(嘲風)も、その著のなかで、
     「本書の材料は、徹頭徹尾、(日蓮)上人の遺文を骨髄とし又血肉とする」
     と述べ、御遺文を豊富に引用し、中里介山の勧める手法を、あるていど採り入れているといえる。
     筆者は、執筆にあたって、この手法をさらに徹底させる必要を感じた。
     なによりまず「御書」を中心に据えねばならないと思った。「御書をして大聖人自身を語らしめよう」と考えた。あえて『日蓮大聖人自傳』と題したゆえんである。
     主要テキストには、堀日亨師編の大石寺版『新編日蓮大聖人御書全集』を用いることとした。
     ついでに付言すれば、この御書も他の御書と同様に完全なものではなく、たとえば『聖人御難事』に、
     「彼のあつわら(熱原)の愚痴の者ども・いゐ(言)はげまして・をどす事なかれ」(一一九〇−18)の末文は、「をどす事」ではなく「をと(落)す事」の誤まりであるし、『減劫御書』に、
     「智者とは世間の法より外に仏法を行ず」(一四六六−14)
     とある末文は、「仏法を行ず」ではなく「仏法を行はず」としなければ、前後の文脈から考えても意味をなさないなど、かなり杜撰な個所が見受けられる。
     またこの御書は句読点が極端に少なくて読みにくく、近年出た『編年体日蓮大聖人御書』にはその点で改良の跡が見られるが、筆者はそういう欠点を能うかぎり補ないながら、大石寺版御書を主要テキストに用いることにした。
     それは、この御書が巷間もっとも多く流布しているからであり、心ならずも「切り文」にならざるをえない引用部分の前後の文章を、この御書が座右に在ることによって容易に参照することができるという読者の利便を考えたからでもある。
     そして、この御書に収録されていない御書については、真偽未詳のものを含めて、立正大学編の『昭和定本日蓮聖人遺文』を使うことにした。(したがって、引用文の末尾のカッコのなかにある漢数字とアラビア数字は、他の御書名のない場合はすべて大石寺版『新編日蓮大聖人御書全集』のべージと行を表わすもので、立正大学編の『昭和定本日蓮聖人遺文』から引用した場合は、「定本遺文」という略語を挿入している)
     また補助的史料としては、堀日亨師編『富士宗学要集』(略語=富要集)や、『日蓮上人伝記集』を用い、後者のなかには、『元祖化導記』『日蓮上人註画讃』『元祖蓮公薩●略伝』『蓮公行状年譜』『本化別頭高祖伝』『本化別頭仏祖統記』『本化高祖年譜』『本化高祖年譜考異』などが収載されており、これらの史料から引用する場合は、おおむね延べ書き体に改めたものを用いた。(●…土偏に垂)
     しかし、これらの補助的史料も、もとをただせば御書から発したもので、御書が第一級の史料であることは、すべての史家のひとしく認めるところである。
     筆者は昭和二十九年に日蓮正宗の仏縁に触れて以来、じつに四半世紀を経たわけだが、正直にいって御書全部をほぼ通読したのは、この書の執筆を思いたってからのことである。
     御書を通読して感じたことは、大聖人の御書が、古文とはいいながら、いかにわかりやすい文章であるかということである。
     こころみに、大聖全同時代か、またはかなり下った時代の文章と比較してみるとよい。大聖人の文体が論理的整合性をいかによくたもちながら、論文などにありがちな硬直さを帯びず、生き生きとしたわかり易い文章であるかということが理解できるはずである。
     前提からいきなり結論にいたり、結論までの過程を大胆に省略した叙述法には、一種のこころよいスピト感があり、そうすることによってかえって読者の自発的な思索をうながす工夫がこらされているようにも思える。
     中里介山は、
     「日蓮の文章には無韻の詩≠ェある」
     と評しているが、大聖人の文体には、たしかに独特のリズム感があり、仏典のように声に出して読んでみると、こころよい語感がある。
     そうしたスピード感なりリズム感が、論理の整合性と同時に、不思議な神韻を生みだし、われわれの直感に訴える要素があることも、大聖人の御書のわかり易さを助けている。
     御書は、仏教用語などの知識さえあれば、現代日本人に完全に理解できるはずであり、ことさら現代日本語に翻訳したり、親切ごかしの補足的注釈をさしはさむことは、不必要であるばかりか、原文のもつ格調をそこなうことにもなりかねない。
     この書では、そうした大聖人の語り口≠ノ直に接して、大聖人のことばを通して大聖人の生涯を知っていただきたいがために、前例のない工夫をこらした。
     その工夫とは、御書からの引用部分は、すべてゴジック体で組むという、思いきった割付けにしたことである。
     この方法で組めば、御書の部分とそれを繋ぐ筆者の地の文章との弁別が容易で、同じ書体で組むよりも、御書の流れを追っていける視覚的効果が大きいと考えたからである。
     また、大石寺版御書では、漢字を仮名に用いた部分に、漢字のルビを付しているが、この書では明朝体の漢字をカッコで括り、対応する仮名文字に接続して挿入することにした。
     句読点はできるだけ多く入れ、読み易さをはかり、わずらわしい脚注を避けて、必要不可欠と思われる注記はあえて文中に施した。


     多くの日蓮大聖人伝が、世間一般の通例に迎合し、大聖人のことを単に「日蓮」と呼び捨てにし、そのことを「まえがき」などで断わっているものを見受けることがあるが、筆者は「日蓮大聖人」または「大聖人」という呼称を、進んで用いた。その理由は本文にもあるように、「大聖人」ということばは単なる尊称でもなければ人称代名詞のようなものでもない。御本仏=日蓮大聖人だけに許された固有名詞のようなものであるからだ。
     聖者・聖人の伝記を書く場合、その事跡に通じるだけでなく、その抱懐する思想や宗教を信解しなければ、真の人間像を書くことはできないといわれるが、筆者は、ありがたいことに大聖人を信仰する者であり、とうてい「日蓮」などと呼び捨てにできるものでなかったことは、この書にとって幸いであった。
     おわりに一言したいのは、この書の執筆のおもな動機である。
     それは、日蓮大聖人の法灯を正しく継承する日蓮正宗のなかで、現在大きな混乱と錯誤が生じており、その喧騒のかなたに宗祖大聖人の存在が押しやられ黙殺されていることに耐えられなかったからである。
     その混乱と錯誤は、日蓮大聖人の御遺命の歪曲・抹殺に起因している。大聖人一期の御遺命とはなにか? いうまでもなく、広宣流布の暁における「本門事の戒壇(国立戒壇)」の建立という一事である。
     この大事が見失なわれようとしているのも、日蓮大聖人の、その一事のために難を忍ばれ慈悲に勝れられた御振舞や一代御化導の全貌が、宗内一同に見失なわれたからではたいか、と考えたからである。
     そうして周囲を見まわすと、なぜか、すぐれた大聖人伝が見あたらないのである。
     もとより単己の信徒にすぎない筆者が、大聖人伝を書くなど不遜に過ぎるかもしれないが、書き手が皆無にひとしい現状では、誰かがやらなければならない。誰もやらなければ自分がやるしかない。
     ――そう感じたとき、無謀にもなんの計画もないままに、筆者のペンはためらいなく独りでにすべり出していた。
     「一期(今生)を過ぐる事、程も無ければ、いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ、恐るる心なかれ」(如説修行抄。五〇四−18)
     この御金言を指針に、御遣命守護=広宣流布のための捨身の言論活動を続ける覚悟である。

     昭和五十五年二月十六日

    安立行


    日蓮大聖人自傳・目次


    まえがき


    第一章 宗旨建立

     第一節 出胎
       ■御父母のこと、および出自 ■出自・出生に関する諸文献 ■「栴陀羅が子なり」 ■貧窮の家に出生の理由 ■「日蓮」の二字の由来 ■「大聖人」の尊称の意義 ■出胎
     第二節 遊学時代
       ■出家 ■立願の動機 ■虚空蔵菩薩に祈る ■国国・寺寺あらあら習い回る ■一切の経論を勘える ■「日蓮一人これを知る」
     第三節 立宗宣言
       ■宗旨建立 ■最初の説法 ■御父母の入信
     第四節 法戦の展開
       ■覇府鎌倉での弘教 ■念仏・禅宗を破折 ■弟子・檀越の入信 ■正嘉の大地震 ■悪口罵詈・刀杖瓦石 ■「日蓮が住処に向い、かしこへよぶ」


    第二章 国家諫暁

     第一節 最初の国家諫暁
       ■岩本実相寺の経蔵に入る ■『立正安国論』の奏進 ■『立正安国論』に両本 ■松葉ケ谷の法難 ■伊豆流罪 ■『教機時国抄』の撰述 ■弘長の赦免
     第二節 法難重畳
       ■文永の大彗星 ■母君の蘇生 ■小松原の剣難 ■旧師との再会 ■僣聖増上慢・良観の出現
     第三節 再度の国家諫暁
       ■蒙古の国書 ■十一通の申状 ■「余命いくばくならず……」 ■真言・叡山の批判 ■祈雨の勝負 ■行敏の訴状 ■大聖人の反論 ■評定所への召喚 ■『一昨日御書』


    第三章 発迹顕本

     第一節 発迹顕本
       ■頸の座へ ■八幡諫暁 ■竜の口の巨難 ■不思議な現象 ■発迹顕本 ■久遠元初の自受用身 ■幕府の処置 ■依智の本間重連邸 ■明星の如くなる大星
     第二節 佐渡流諦
       ■佐渡への道 ■塚原の三昧堂 ■阿仏房の入信 ■自界叛逆難を予言 ■北条時輔の乱 ■最蓮房の帰依
     第三節 重要御書の撰述
       ■『開目抄』 ■一の谷へ移る『観心本尊抄』 ■本尊図顕 ■虚御教書と赦免
     第四節 三たび国家諫暁
       ■「余に三度の高名あり」 ■幕府の懐柔策 ■加賀法印の祈雨


    第四章 身延入山

     第一節 身延入山
       ■「三度諫めて聴かざれば……」 ■身延への道 ■三間四方の庵室 ■山中の生活 ■御供養の品じな
     第二節 蒙古襲来
       ■文永の役 ■「日蓮がひかうればこそ……」 ■万年救護の本尊 ■宗教の五綱 
     第三節 門下の受難
       ■弟子・檀越への激励 ■四条金吾の受難 ■桑ケ谷問答 ■南条時光 ■門下の受難 ■退転する弟子・檀那
     第四節 教義の確立
       ■建治年間の御書 ■強仁房の問難 ■正宗分中の正宗分


    第五章 出世の本懐

     第一節 出世の本懐
       ■日興上人と富士方面の弘教 ■四十九院の法難 ■熱原法難の初期 ■熱原法難の中期 ■本門戒壇の大御本尊造立 ■大御本尊の顔貌 ■熱原法難の後期
     第二節 再び蒙古襲来
       ■『諫暁八幡抄』 ■弘安の役 ■不思議の国・日本 ■日本と蒙古 ■阿仏房と千日尼
     第三節 付嘱と入滅
       ■四大不調 ■望郷 ■大坊の落成 ■『三大秘法抄』 ■入滅 ■武州池上
     第四節 身延離山
       ■守られなかった墓輪番 ■「天台沙門」を名のる五老僧 ■地頭波木井の四箇の謗法 ■大石寺の礎と大聖人の御遺命

    年表


    『日蓮大聖人自伝』再版のあとがき

    玉井日禮

    まえがき

     この本は昭和五十五年(一九八〇年)四月二十八日に、私が安立行というペンネームで出したものである。その奥付にいわく「昭和二十九年に日蓮正宗に入信。現在は日蓮正宗のいかなる講中・組織にも所属せず、御遺命守護、正信覚醒のための独自の言論活動を展開」と書いている。
     この本を出したとき、いち早く反応を示したのは、ほかならぬ日蓮正宗宗門であり、富士学林から電話で「良い本をお出しになりましたね」と讃められたことを憶えている。そして、日蓮正宗の各寺院から大量の注文をいただき、初版はたちまち売切れ、二刷、三刷と増刷をした。ところで、その後間もなくこの本を模倣したとしか思えない作り方をした『日蓮大聖人正伝』という本が大石寺から出された。在家の一居士に本格的な日蓮伝を出されては宗門のコケンにかかわると奮起したのであろうか? それにしては、買う気にもならない程度の「正伝」だったと記憶している。模倣は所詮ホンモノを超えることはできない実例の一つである。
     「南無妙法蓮華経」を始めて公式に唱えられたのは日蓮大聖人であり、その模倣者が宗祖とたることはできないのと同様に、「始める」ということには重大な意義がある。「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の「始」の一字もそうであるし、文永十一年十二月の大本尊(本門本尊)の讃文中の「始弘宣之」の「始」の一字もそうであるが、私はこの本を大聖人の伝記としては「始め」ての本格的な伝記だと自負している。しかしながら、この本のなかで私は重大な誤認をしたことを俄悔せねばならない。すなわち、大石寺や創価学会が、何の証拠もなしに「究極の本尊」と強弁してやまない、弘安二年十月十二日付の板マンダラを、私もまた、若干の疑義と留保を付けながらも「本門の本尊」と誤認したことである。しかしこれも釈尊や蓮尊にも試行錯誤があったように、私の宝処への旅の途上の蜃気楼であったと、お許しを願いたい。
     この本は、爾後も再版の要望が絶えず、私も本尊論の部分を訂正したうえでなら、と考えていたが、何分にも膨大な字数であり、これを訂正して組直す時間と費用を思うと、途方に暮れるのみであった。
     その後、私が辿ったみちは、知る人ぞ知るであるが、詳しくは拙著『創価学会の悲劇』、『創価学会の興亡』、『立正安世論』(既刊三巻、「安世論」はいずれも小牧久時博士との共著)等を参照されるに越したことはない。これを要約すれば、昭和六十一年(一九八六年)、まことに不思議な因縁に依って、日蓮大聖人がその讃文に依って隠し留められ、事実上の五五百歳に出現する上行菩薩に付嘱された正意の本門本尊を、不肖私自らの手によって出現せしめ奉るという大光栄に浴し、仏勅どおりその弘宣を始めたという一事に尽きる。
     したがって、この本を再版するときは、そのことも織りこんで、誤まれる本尊論を訂正したうえでという思いは、いまなお濃厚にあるが、日蓮仏正意の本門本尊(始拓大本尊)を受持し、弘宣しつつある人が日ましに増え、志道向学の声の高まりにおされて、本文は原版のままあえて再版に踏み切ることにした。
     この本の新しい読者は、以上のことをよくよく念頭に置かれて読まれることを切望する。ただ、この本の本尊論における救いは、三四五頁に万年救護大本尊について四頁にわたって論及しており、その十六行七十五文字の御讃文を真読(白文)として掲げていることである。
     いずれは、この大本尊の末法における応現たる「始拓大本尊」を中心とした本尊論を踏まえた、大聖人伝を執筆するつもりだが、とりあえずは、本宗学徒のために、不訂正のまま再版することを諒とされたい。


     さて、その傲慢さにおいて日蓮正宗とは一卵性双生児といってよいほど酷似していた創価学会はどうトチ狂ったか連日の機関紙上で、エロ・グロ新聞と見紛うばかりの低劣な大石寺批判を展開し、もはや元の鞘に収まることは不可能となり、その教学の柱の一つである「血脈論」を自らの手で押し倒したが、まだ、もう一つの主柱である「本尊論」には手をつけていない。しかし、大石寺と訣別した以上、その「本尊論」まで否定するところまで行きつくことは、当然のなりゆきであろう。その大石寺の「本尊論」ないし宗学は、同寺二十六世日寛が大成したものであるが、この日寛教学こそ、石山(大石寺) と創価学会を狂わせた元凶であり、この本の再販においては、この日寛教学の狂学たる最大の点、つまり本尊の相貌への偏見と「第三の法門」に関する、とんでもない誤解と謬見を指摘するにとどめる。


    ●「本門の本尊」に三悪道が存在しない理由

     万年救護大本尊を論難する徒輩の常套論法の一つに、この大本尊には四天王や地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣が無いから、十界互具ではない、というのがある。阿部日顕も小生との法論のなかでその点を衝き、本尊義に無智な創価学会も、その尻ウマに乗っているが、「本門の本尊」に四悪趣が存在してはならない論拠を次に示そう。(なお、四悪趣が顕在なくても大本尊には「因・果・国」の三妙合論に約して、真の十界互具と事の一念三千が完壁に説かれていることについては、拙著『立正安世論』第三巻二九五頁に詳しいのでここでは略す)
     だいたい、阿部にしろ創価の凡智の徒輩にしろ、法華経と御書との関連を知らなさすぎる。他の日蓮門においても五十歩百歩だが、教主釈尊が本門を説くにあたって、三変土田して一仏土となしたことを念頭に置かねばなら,ない。
     すなわち「妙法蓮華経見宝塔品第十一」にいわく、「時に釈迦牟尼仏、所分身の諸仏を容受せんと欲するが故に、八方に各、更に二百万億那由佗の国を変じて、皆清浄ならしめたもう。地獄、餓鬼、畜生、及び阿修羅(傍点は筆者)有ること無し。又諸の天人を移して他土に置く」とある。
     そして地獄の代表たる提婆達多と畜生の代表たる竜女の成仏が示された提婆達多品以下の本門八品においては、成仏せしめられたもの以外の四悪趣は、虚空会の会座には連なっていないのである。
     「観心本尊抄」にいわく、「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付嘱し給わず、何に況や其の已外をや、但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱し給う」と明示されているのであり、この八品を説く虚空会に地獄・餓鬼・畜生等は存在しないことによくよく注意すべきである。
     地獄・餓鬼等を具しているがゆえに「大本尊」より「大マンダラ」がすぐれているというやからは、度しがたい凡暗どもといわなければならないゆえんである。
     では、なぜ大聖人は、「本門本尊」のみを顕わされずに、三悪道や四悪趣のそろった十界マンダラを図顕されたのか? という疑問があってもよい。
     それについては、なぜ釈尊は出世の本懐たる法華経だけを説かないで爾前経を説いたのか? また法華経においてもまず霊鷲山で説き、虚空で説き、再び霊鷲山で説いたのか? また、さらに涅槃経を説かなければならなかったのか? という疑問に対して答えなければならない。そして、その答えは、天台大師智や日蓮大聖人の教学において、キチンと説明されているので、ここで再説はしたい。(●…豈+頁)
     要するに、石山(大石寺)系がいうところの十界具足の板マンダラは、与えて論じても「迹門の本尊」に過ぎないのである。


    ●「日女御前御返事」(本尊相貌抄)は偽書

     阿部日顕という人は、創価学会がいうほどの悪人ではなく、正直というか単細胞というか、小生との法論においてもところどころで本音を洩らしている。すなわち「玉井禮一郎はかなり研究をしたらしく」とか「聞きようによってはなるほどと思う」とか、「玉井禮一郎の主張は実際にはそのとおり」とか、「この玉井という者が非常に狡智、奸智に長けておると感じるのは、特にここのところの解釈であります。この仏滅後二千二百二十余年ということと大乗非仏説の両方を考慮して、大変におもしろい、我田引水の研究をしておるのです」とか、「上行菩薩であるかのようにいっている」とか、小生に対する一種の讃辞ともとれる文言を連ねているのも奇妙である。
     もう一つ、石山教学が本尊の相貌の文証として挙げている『日女御前御返事』(建治三年八月)についてふれておきたい。
     この御書は日蓮宗身延派では偽書(「日蓮宗事典」による)とされており、真筆も存在しない。その中で「第六天の魔王、竜王、阿修羅(中略)、悪逆の達多、愚痴の竜女、鬼子母神、十羅刹女等、総じて(法華経)序品列座の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に往し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる、是を本尊とは申すなり」とあり、この文証を作りどころとして十界の衆生が「オールスターキャスト」でなければ本尊ではないようなことを石山教学では言っているが、それを言うならば、佐渡始顕本尊のほうが大石寺の板マンダラよりはるかに優れているといわなければならない。
     この御書の冒頭部分で「いまだ本門の本尊と申す名だにもなし」と、あたかもこの御書で示された本尊の総名・座配等が、いかにも「本門の本尊」であるかのように述べているようにみえるが、もしこの御書が御真筆だとすると、大聖人は、法華経に照らしても誤りを侵されたというほかはない。
     なぜならば、この御書のなかで「宝塔品に云く、諸の大衆を接して虚空に在り」と明らかに虚空会の説相であることを示されながら、二界八番の雑衆等要するに地獄、餓鬼、畜生等も一人ももれずその会座に連なっているとされているからである。すなわち、虚空会においては、釈尊が三変土田によってこの土を通一仏土として、三悪道等の衆生はその姿を消されている法華経の説相と矛盾するからである。
     文永十一年十二月の大本尊は、これら四悪趣が冥伏されながら、人界以上の六界がすべて南無の冠せられた成仏の境涯を示し、しかも当然ながらその仏界のなかに十界がそなわっているというところに卓越性があるわけで、同御書の後段に、「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり」とあるのは、偽書ながら正鵠を射た文証といわなければならない。
     考えてもみられたい。石山や創価の本尊義が真実なら、いまの大石寺と創価学会の修羅と悪竜との争いにも似た醜悪なる闘争が起るはずもない……。
     その因を考えるなら、「本門の本尊」が出現したにも拘わらず、いまだに十界宛然のマンダラに固執しているからではなかろうか。境智冥合の原理から言っても、より優れた本尊が出現すれば一刻も早くその本尊に帰命することこそ成仏の直道であろう。
     さて、この阿部日顕ひきいるところの石山教学陣は、創価学会も含めて、大聖人の法門である「第三の法門」について、とんでもない誤謬曲解を犯していることを『立正安世論』第一巻一四八頁で指摘しておいた。
     すなわち万年救護大本尊の十六行七十五文字の讃文は、不肖日禮が創始した三転読誦(妙法蓮華宗勤行要典)によってのみ、大聖人が「予が法門は第三の法門なり」とされた説相で、天台大師が説いた三種の教相のうちの第三番目の「師弟の遠近不遠近」の意味もはじめて解けるとして、ある時は日蓮の師であるインドの大覚世尊すなわち釈尊としてこの娑婆世界に出現し、ある時は久遠釈尊の弟子、上行菩薩日蓮として日本国に出現する……これが天台の「第三の教相」であり、日蓮正宗や創価学会が(日寛の)三重秘伝の「第三」すなわち「文底下種」ととらえているのは見当ちがいも甚だしいもので、すみやかに訂正されたい――と書いたことを受けてか、阿部日顕は翌年(一九九三年)の『大日蓮』(五月号)誌上で次のような小生に対する反論ともみられる曲論を展開している。
     《さて、次に、本門下種三宝について、先の涅槃経の文義の上から述べるに当たり、その前に、本日拝読の、いわゆる「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども、第三をば申さず候」と、一、二に対して第三の法門を示される所以を申し述べ、その意義の上から翻って、寿量文底下種の三宝に及びたいと存じます。
     まず、第三の法門に対して、「世間に粗夢の如く一二をば申せども」と仰せの「一」というのは、釈尊がお説きになった法華経の前半、すなわち方便品の諸法実相の説法によって一切衆生に仏の知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめて、仏の悟りのなかへ衆生のあらゆる迷い、すなわち九界の知見が帰入したところを言うのであります。
     すなわち、迹門正宗分全体の化導であり、方便品、譬喩品、信解品、薬草喩品、授記品、化城喩品・五百弟子受記品、授学無学人記品の八品における、法と譬えと因縁の三周の説法よって・四十余年の経々に全く成仏を許されなかった声聞・縁覚の人々が成仏の証明を与えられました。ここに、宇宙の一切の生命をことごとく救いきる仏法の十界互具妙法力の完全性、全体性が説き顕れたのです。
     要するに、「一」とは、このいわゆる迹門正宗八品の意義を束ねて一と言われたのであり、専門的に言えば天台の三種の教相のうち、「根性の融不融の相」「化導の始終不始終の相」がこれに当たるのであります。
     次に、「二」とは釈尊の本門の化導を言われるのであります。迹門によって自己の命のなかに仏の命があることを悟り、十界が互いに具わって根本的に爾前経の迷いより蘇生したのでありますが、だだ一つ欠けているところがあります。それは肝心の仏知見を示す釈尊が三十成道の仏であり、今出来の仏であるから仏界に確固たる永遠の実体がなく、したがって、十界互具の真の実理がないことであります。
     故に大聖人様は、これについて『開目抄』に、
     「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱たり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり」(新定一〜七七五頁)
     と、水に映った月や根無し草を例に挙げて、迹門が元のない悟りであることを御指摘あそばされました。
     そこで、本門において、地涌の菩薩の出現より釈尊の久遠常住の化導が説かれたことで、永遠の大真理としての、仏の実体に即した十界互具一念三千が顕れ、在世のすべての大衆が真の悟りを得て即身成仏したのであります。これを専門的には、点題の三種教相中、法華経の「師弟の遠近不遠近の相」と言い、爾前迹門に説かれていない本門独特の教えの意義として区別されております。これを大聖人様は、「一二をば申せども」の「二」に充てられたのであります。
     しかし、この一と二、すなわち、法華経逝門の二乗作仏と本門の久遠実成は、世問の学者や天台法華宗の学匠達もむろん知っており、それについて種々説いているけれども、その本義については明確にわきまえていないのです。それを、「世間に粗夢の如く一二をば申せども」の、「夢の如く」の語をもって表されたのであります。
     そのわけは、元来、釈尊の説かれた法華経の化導は、釈尊の久遠からの化導の結末であり、熟益・脱益のための本迹二門であります。その脱益、すなわち、在世の大衆の成仏は何によってできたかといえば、その一番元の本門の下種の法に立ち還り、これを覚知して初めて成じたのであります。そこに、単なる文上の本門に対する文底体内の文上の本門、色相荘厳の仏に対する九界の凡夫の姿そのままの、真の即身成仏があります。そうでなければ在世の衆生が成仏できていないことは、経文の説相に明らかです。
     つまり、文上の迹門・本門の脱益の法華経は、その元の久遠の成仏の種によって初めて開かれたのであり、一と二を明確に、その元からの意味を知ることなのであります。
     当時の世間の学者と言われる人々は、法華経迹門・本門の意義を、さも心得たように種々に述べているけれども、結局は表面だけを知ってその根本を忘れている。それを、「夢の如く一二をば申せども」と言われたのであります。
     初めに、「日蓮が法門」という語に含まれる深意があり、それは大聖人様独特の法門であります。すなわち、法華経の行者として三類の強敵を扣発あそばされ、悪口罵詈・刀杖瓦石の難、流罪・死罪、数々見擯出等、法華経の文々句々をことごとく身に当ててお読みあそばされたことにより、まさに大聖人自ら本門の大行者として、結要付嘱によって末法に出現した上行菩薩であり、その弘める法門は、釈尊一代聖教のすべてを要括した、久遠の妙法であることを示されております。
     かくて、大聖人様がその結要付嘱の内容をお説きになるのが「第三の法門」であります。すなわち、一代の御化導において、題目・本尊・戒壇の三大秘法の法門を展開せられ、また、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』『撰時抄』その他、種々の御書を通じ、付嘱の妙法が本門の教えのなかのいかなる位置にあるか、さらに、日興上人への唯授一人の付嘱をあそばすなかに、その法門がいかなる意義を持つかを御指南あそばしておられます。
     それは、釈尊の「脱益」の法華経、天台の「熟益」の法華経に対して「下種」の法華経であること、またそれは、釈尊の説かれた一部八巻の「広」の法華経と、迹門の中心・方便品、本門の中心・寿量品を束ねた「略」の法華経に対し、上行所伝の「要」の法華経たる南無妙法蓮華経であること、さらに、一部八巻の「文」の法華経と、迹門・諸法実相、本門・久遠実成の上からの「義」の法華経に対して、その一切の功徳の根本たる「意」の妙法であることを各御書にお示しであり、それは、『当体義抄』『総勘文抄』等の深意よりすれば、釈尊の本門をさらに一重立ち入った、久遠当初の本因妙の境・智・行・位に存することが明らかに説かれております。
     そのところより振り返って各御書を拝するとき、重要御書のすべてに、本門において二の意があることが拝されます。四百数十篇のあらゆる御書の指摘のすべては、釈尊の在世の法華経、すなわち、脱益本果の本門に対し、末法の日蓮大聖人の弘通の本門が下種本因妙にあることを、枚挙にいとまなく指向されております。
     「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(新定二〜一〇〇六頁)
     あるいは、
     「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(新定三〜二八〇二頁)
     等、その他、久遠の本因妙の教主であることを、あらゆる面からお説きになりました。これがいわゆる第三の法門であり、天台、伝教未弘の大法であります。》

     この日顕の説を要約すれば、大聖人が『稟権出界抄』で示された、第一、第二、第三という三つの法門については、その第一は、天台の「三種の教相」のうちの第一と第二すなわち「根性の融不融」と「化導の始終不始終」であり、第二の法門とは、「三種の教相」の第三法門すなわち「師弟の遠近不遠近」であると断定していることは明瞭である。
     これでは、天台の「三種の教相」と、日寛の「三重秘伝」をバラバラ事件にして、文字どおり木に竹を継ぐようにつなぎ合わせたもので、従来の大石寺教学とも異なり、小生の批判を受けて周章狼狽、急遽その解釈を中途半端に変更したとしか思えないのである。
     すなわち、従来の大石寺教学の「第三の法門」に関する定義にはこうある。
     《種脱相対の法門のこと。法華経如来寿量品第十六の文底に秘沈された南無妙法蓮華経のこと。常忍抄に「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず」とあり、日蓮大聖人所立の第三の法門は既に弘通された第一(権実相対)、第二(本迹相対)法門とは異なり、だれびとも説いたことのない大聖人独自の出世の本懐(究極目的)であるとされている》(日蓮大聖人御書辞典)
     これをみても、明らかに第一と第二の法門に関する定義をコッソリと変更していることは明白である。


     大石寺日顕が、小生の会通した法義を盗んでまでも自らの教学を訂正する素直さは一応認めてもよいが、訂正するならば、このような中途半端な訂正ではなく、全面的に小生の解釈に従われよ、と言いたい。
     だいいち、大聖人が、滅後の人師たる日寛の法門を用いられるはずはたく、天台の「三種の教相」に拠られたことくらい小学生でも分かる簡単なことである。その点では身延派はまちがっていないが、身延派には相伝がないため、「第三の法門」を具体的に説明できないのである。


     さて、大石寺日顕は本宗(妙法蓮華宗)の勤行要典に刺激されてか、十如是の読み方について次のように説法している。
     《それで、「叡山の大師渡唐して此文の点を相伝し給ふ」とは、「一心欲見仏不自惜身命」の文についての「点」を相伝されたということであります。皆さんも文章を書くときに区点や読点を打つでしょうが、中国語においても点を打つということがあるのです。天台大師がそれをはっきりとおっしゃっております。
     その一つの形として、朝タの勤行の時に読む十如是の文があります。これは「如是相。如是性。如是体。如是力……」と読みますが、またさらに、「相如是。性如是。体如是。力如是……」、さらに、「是相如。是性如。是体如。是力如……」と、三種の句点に読み分けることができます。
     これは先程の点という意味からしますと、「如」という所で点を打つ場合は「是相如」となり、「相」「性」「体」などで点を打つ場合は「如是相」というような読み方になるのです。つまり、点を打つ場所によって意味や読み方が異なるわけであります。
     「如是相」と読む場合は「是くの如き相」ということで、事々物々はすべて相が異なっておるという意味になります。人間あり、畜生あり、万物ことごとく違っておるということであります。すなわち、事々物々が因縁によって表されている姿でありますから、仮諦であります。
     ところが、「相如是」は「相、是くの如し」、つまり「相は如と是である」と読んで中道を意味するのです。「如」というのは「空」の意味でありまして、万物ことごとくに差別がないということになります。事々物々に差別はあるけれども、また、一切が平等なのです。この平等という意味は、あらゆる面から論証できます。したがって、因縁による差別の姿と平等の姿、その平等と差別が渾然として一体であるということは、差別即平等、平等即差別ということでありまして、そこには中道という意味があるのです。すなわち「相如是」という読み方には、中諦という真理の意味があるわけです。
     それから、もう一つの「是相如」は「是の相も如なり」と読むのです。「如」で点を打ちますと、平等という面が中心になりますから空諦であります。ですから空・仮・中・三つの諦理が具わって、初めて万物の実相が示され正しい理解ができるのであります。
     さて、話がそれましたけれども、要するに「点」の打ち方によってその文の意味がまたさらに深く、広いものになるわけでありまして、ここでは「一心欲見仏 不自惜身命」という文に、特に「一心欲見仏」の文について、点の打ち方によって三つの拝し方があるということをお示しであります。》

     こんなことは『一念三千理事』(御書四〇八頁)を読めば、とっくの昔に明らかなことで、十如是は空仮中の三諦に読み分けてこそ意味があるのであって、勤行のとき単純に十如是を三回くりかえすのみの大石寺や創価学会は、御書読みの御書知らずというほかはない。
     以上、小生が大石寺法門を通過して、妙法蓮華宗を開いたことによる教学上の前進のしるしの一、二を挙げて、大石寺時代に著したこの本をそのまま出すことの申し訳に代えるが、詳しくはその他の拙著を読まれることを願っている。
     一九九三年三月一日

    日禮こと玉井禮一郎

    ●天皇陛下を軽視する「偽指導者」

     このあとがきを脱稿した直後に、石山の機関誌『大日蓮』(第五六五号平成五年三月)に、看過ごすわけにはいかない次のような記事を発見したので、その真偽と詳細のほどを阿部日顕と池田大作に対して、この紙上で問い糺しておきたい。
     (大聖人様は『四恩抄』に「知恩報恩」というということを御指南あそばされ、その上から、まず第一に「父母の恩」ということを仰せになっております。皆さん方が今日ここに立派に成人されたことを考えるとき、まず第一は父母によるものであります。(中略)
     次の「国主の恩」についてですが、今日の日本の社会情勢の中では色々な考え方があります。
     本来、大聖人様の教えを受けて、真に恩ということを知らなければならないにもかかわらず、今は狂いに狂った偽指導者が「今の天皇陛下は馬鹿ですからね」とはっきり言ったことを、私は耳にしております。こんな馬鹿な、また、自分だけが偉いという自惚れによる慢心きわまる暴言はありません。天皇陛下は、日本国の象徴としておいでになりますが、非常に人格の高いお方であります。また、我々は日本国の因縁という上からそのお方の在り方を尊敬し、そのお方の正法に対するところのお考えをはっきりさせていただくように、これから努めていかなければならないと思うのであります。》

     この中に出てくる「偽指導者」が誰を指すのかは必ずしも明らかではない。しかし、「今は(傍点筆者)狂いに狂った」という文脈から推して、おそらくは池田大作のことと想像される。もしそうだとすれば、池田大作よ! その発言を取り消し、国民とその象徴たる天皇陛下に対して公式に謝罪せよ! 昭和天皇を指すのか今上陛下をさすのかは定かではないが、おそらくは昭和天皇を指すのではないかと思われる。聖断をもってあの戦争を終結せしめ、今日の日本をもたらした大帝ともいうべき昭和天皇を指して、「馬鹿ですからね」とは何ごとぞ! その罪万死に値する不忠の者と言わなければならない。それを耳にしながら、いまごろになって愚痴る阿部日顕も与同罪と言わなければならない。阿部も日本人ならば、今からでも遅くないから、この罵言を吐いた人物の名を天下に公表すべきである。
     創価学会は、天照大神の神札を拝さなかったために戦争中に政府の弾圧を受けたと言っているが、これにも意外な真相があり、いずれおおやけにしたい。(牧口常三郎が戦前に、いわゆる右翼の大立物たちと記念写真に収まっている証拠も現存する。)また、戸田城聖はその発言録の中で己自身を「日本一忠義の者である」(取意)と言っているのを憶えているが、あまり皇室に関する言及がないのはなぜか? しかし、戸田は田中智学の国立戒壇論を受け売りしていたから、「三大秘法抄」のなかの「勅宣」の意義は承知していたと思われる。しかし池田大作に至っては、全く皇室に関するコメントがないのを奇妙に感じていたが、今回の阿部の発言で腑に落ちるものがある。
     したがって、この稿では、まず阿部日顕に対して、誰が「今の天皇陛下は馬鹿ですからね」などという不忠不敬な発言をしたのかということを一宗の責任者として明らかにすることを要求する。そして、その発言者が池田大作ということが明らかとなれば、天下にその罪を糾弾する行動を起すつもりである。(平成五年三月七日記)