20万人しかいなかったから30万人殺せない、というのはウソ


2012.03.05 reviced


河村市長・南京大虐殺否定論の根拠のひとつは...


 河村市長が南京事件なかった、とぶちあげてから、大騒 ぎになっています。その根拠のひとつとして「20万人しかいなかったから 30万人殺せない」を挙げました。ただし、河村氏は否定論そのものもよく読んでいないので、「30万人いたから、人 口は減っていない」などの珍説まで披露する始末で南京事件についてはなーんにもわかっていらっしゃらないのですが。

  しかし、「20万人しかいなかったから30万人殺せない」は否定派や、否定派に騙された人たちがあげる否定根拠のうち の最多のものです。何回か書いたことがあるテーマなのですが、簡単だが深いところから書いてみましょう。

”南京市人口”の出典


文献をたどって見ますと、
南京市政府 書簡 11月23日
『調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余 万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である』

出典 中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』  『南京事件』pp220 笠原十九司著 岩波新書

  こ れが、最後の南京脱出がはじまる以前の最後の人口統計です。南京市では毎月人口調査が行なわれていました。この調査は王朝時代の保甲制度にならったもの で、実住 人口 を正確に把握するシステムがあり、非常に正確でした。なぜ、毎月調査していたかというと治安維持のため、反政府分子、特に共産党員が首都に入り込むことを 防止す るためであり、調査にあたっていたのは
警 察でした。1937年の7 月までの統計が残っています。それ以降の統計は戦 争によって消失したのか残っ ていませんが、11月 までは調査が継続されていたものと思われます。

  50余万の余は1-9万までありえますが、言葉のニュアンスから言うと2-4万ではないかと思われます。南京市政府が撤退することが決まったため、南 京市民を戦 火か ら守るため南京在住外国人の間で住民保護のため「安全区」の構想が浮上します。国際安全区の委員長に推されたラーベの日記には何回となく南京の人口の記述 が出てきます。ラーベは市政府・軍関係者、各国大使館員も集うパーティに呼ばれます。その後、

37 年11 月25日
 今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。 ここ らでもういい加減に安全区が作れるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。
『ラーベの日記』

ラーベの日記で「20万人」の初出です。ここでは、「二十万人をこ す」 であり、「・・・と言うけれども」と伝聞にとどまっています。次はアメリカ大使館の電文です。

39D南京 の状況 1937年11月27日

3 市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編pp90

というのがありますが、「30万から40万」という幅を持っていわれているので、調査によった数字ではないことがわかります。

37年11 月28日
警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。「出来るだけ長 く」つまり、ずらかるということだな!
『ラーベの日記』

  ラーベは警察組織が治安維持と住民保護のため安全区に残るものとばかり思っていました。ところが、
警察庁長王 固盤氏が戦禍にさらされる市民を差し置いて、できるだ け早く南京を脱出したいと思っていることがわかり、日記の中で怒りをぶちまけます。 警察庁長は この日早くも20万人との認識を示しますが、市長の1日前の推計を10-20万人も下回ってしまいました。なぜ、下方の見積もりをしたかというと、警察庁長自身が早く南京を脱出したいとあせっているので、市民もどんどん脱出していると いう予測に傾いたのです。

37年12 月6日
し かもこいつは(注 中国軍のある将校)蒋介石委員長側近の高官と来ている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が 犯した過ちを、こういう一 番気の毒な人民の命で償わせようと言うのか!なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか? どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?

37年12月10日
それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。
『ラーベの日記』

  王固盤氏との面会の8日後、ラーベの認識は20万人に変化しました。11月23日の市長の書簡から後、人口調査が行なわれたという資料は一切ありませ ん。で は、なぜラーベ自身の認識となったのでしょうか。ラーベは最終的に預かる市民の数を常に意識していました。
日本軍が刻々と南京市に迫って来る状況の中で市長による予想を口にしているうちに、そろそろ20万人に近づいた、20 万人になったと思い込んだのではないでしょうか。

Q:資料には残っていないが、なんらかの調査が あったのではないで しょうか?

市民のためにどのくらい食料が必要 か、把握する必要がありましたか


  市民の南京脱出が続き、しかも一方では新たな難民が流入して激しく人口が変動する状況でどのようにして人口調査ができるでしょうか。また、人手と時間 をかけて人口調査をする必要があるでしょうか。食料供給のために人口を把握する必要があるといいま すが、例え人口がわかったとしても、一体いつ戦闘が終了し、通常の食糧供給が再開するか予測できないので本当の必要量はわか らな いのです。それに、市民のための食料はすでに20万人予想のもとに11月下旬に国際安全区委員会に引き渡されることが決定しているのです。


  また、国際安全区委員会のメンバーは安全区創設、準 備お よび日本軍と南京市政府、南京防衛軍当局との交渉に追われ、市中を見廻る余裕もありません。当初安全区に入った住民は比較的少なく、城内で安全区外の地域 には多数の市民がそのまま在住していました。その 結果、安全区内の人通りだけを見て20万人という人口認識に疑いを抱かなかったものと思われます。ラーベら安全区委員会が人口予測を疑っていな い以上、人口調査を行なうはずもありません。

「陥落時人口20万人」を示す統計調査はな く、事前の予想にすぎない


Q:では、あな たは30万人が殺されたと主張するのでしょうか?

いいえ。「人口20万人だから」という理由で「30万人 殺せない」とは言えないと指摘しただけです。虐殺人口は他の資料から推計するのが筋です。
   
Q:人口20万人という根拠はない、と言われても釈然としないのですが、 もっと陥落時の人口を詰めることはできないのでしょうか。

その前に二つの問題があります。
1.郷区の人口を抜かしてはいけ ない。
2.南京防衛軍の人口を抜かしてはいけない。


南京市は城区と郷区からなる


 南京事件の地理的範囲は一般的に南 京市とされていますが、南京市は「南京城区」と「南京郷区」からなります。市長の予想は南京城区についてだけの人口予想です。なぜ市長は城区だけの人口予 想をしたのでしょうか。

  南京市の範囲は元々は城 区だ けでしたが、1927年に南京遷都が行なわれ、1935年には農村地域を含む郷区が 広域合併されました。そのた め、南京といっても元々の市街地である、城区を指す慣行があったのだと思われます。例えば東京府 と東京市は1943年に一体化され東京都という行政単位になりましたが、その後しばらくの間は「東京」といっても旧東京市の範囲、すなわち23区を指すこ とが多く、「東京」 の人口といえば区部の人口を意味していました。同様に、 先 にあげた市長の手紙でも「本市(南京城区)の現在の人口は約50余万」と書かれ、郷区の人口は入っていません。これには、人口予測は食料供給の課題と結びついていたので、自家食料を有する農村 地帯である郷区を考慮にいれる必要がなかったという理由 もあるでしょう。

  したがって、南京市の人 口 と言えば、城区の人口に郷区の人口を加えなければなりません。戦争開始前の7月にはおよそ100万人の人口を抱え、約 85万人が城区に住み、15万人が郷区に住んでいました。郷区は小さな市街化地域はありましたが、大半が農業地区であり、農民は そ うそう自分の土地を 離れようとしません。城区の人口は日本軍の南京爆撃を受けて富裕層が去り、11月23日の時点で戦前の約2/3になりましたが、郷区の人口はそれほど減っ てはいなかったと考えられます。

  したがって、11月23日の時点では城区の人口が50余万、郷区の人口は15万以下で10万よりは上。足すと約65万人ということでしょう。

南京防衛軍の人員
  虐殺数30万人は中国側主張であり、30万人の中には市民と兵士が含まれます。したがって、南京に実在していた人口は市民の人口に陥落時の南京防衛軍 の人員を加算しなくてはなりません。南京防衛軍については中国の歴史学者孫宅魏が資料を分析・総合して総数15万人としています。これには雑役をこなす少 年兵、輜重兵、壕を掘る軍夫などが含まれます。最新の研究では武装兵士は11万人という報告もあります。

 したがって南京市民と南京防衛軍をあわせると南京攻略戦前人口80万人ということになるでしょうか。日本軍が南京 に迫ってくるにしたがって、南京市民それに軍の一部も脱出したわけですが、いったい何人が南京市から脱出したか、資料はありません。陥落時の人口は80万 人から41万人(=26万人+15万人)の間にあるということしかわかりません。
  

郷 区人口と南京防衛軍の人員を計算 にいれない、「陥落時人口20万人」説はウソである。


Q:少し 待ってください。それでは陥落時の人口はわかりません。陥落時の人口がわからなければ、30万人殺されたかどうかの判定はできないのではありませ んか。

  考え違いをしていらっしゃるのではないかと思いますが、陥落時の人口で殺害 数を推定することは、はじめからできない相談です。資料がないのですから。そ れか ら、歴史には、なんでも資料が残っているはずとかいう先入観を持っていませんか?過去の事象で資料が残っていないことはいくらでもあります。むしろ切れ切 れ の 断片しか残されていないのが普通です。
  虐殺数は中国の歴史家も日本の歴史家もA(陥落時人 口)−B(虐殺終了時人口)=C(虐殺数)で算定したのではありません。個々の大量虐殺事件の殺害数、死 体の 数、埋葬数などの積み上げで推定しているのです。これらの資料に対する解釈の幅はありますが、資料としては確実に存在するのです。一方、陥落時の人口の資 料は存在しないのです。

虐 殺人口の推計は殺害数、死体数、埋葬数などの積み上げによって行なうべきである。


  なぜ、否定派が20万人しかいないから、30万人殺 せないといい始めたのかと言うと、こうした個々の虐殺資料の否定は困難である。そこで、資料がわずかしかない、陥落時人口などという概念によって一挙に 30万人なかった、と主張した方が有利だと考えたからです。玄関からは入り込 めないので裏口にまわって隙間から侵入しようとしているのです。
  これは先ほどのA−B=Cという一種の検算であって 考え方に間違いはないのですが、問題はB(虐殺終了時の人口)26万人は誤差1万人以下なのに対し、A(陥落時の人口)は80万人から41万人の 間にあるの で誤 差範囲は39万人ということ になり、C(30万人虐殺)があるかないかについての
検算は成立しないのです。否定派はラーベらの認識がそのまま、事実のよう に思って(あるいは見せかけて)検算を強引に進めているのです。

注)虐殺終了時の人口は、12月末の日本軍による安居証の発行数及び安全 区内の状況からラーベらが推測した25万人と、3月末における日本軍特務委員会調査な どによる26万6000人が基準となる。


確実な「陥落人口」の範囲は80 万人から41万人の間にあるとしか言えない。



11月19日に国民党政府は 南京を捨て、重慶に遷都することを決定しまし た。官僚・高級軍人・富裕層などはこのときからすでに脱出を決意し引越しの準備を していました。少しばかり貯えのある市民は脱出を決め家財をまとめて出発に備えていました。しかし残りの貧民層はまず高騰する船賃が払えません。たとえ、 対岸に逃げたとしても着のみ着のままで逃げたのではたちまち食住に困ります。こういうときに人々はどうするでしょうか。

Q:残虐な日本軍が来ると知っていたら、たとえ危険に会うとしても無理を してでも脱出したはずでは?

  中国では軍閥が割拠し長い間内戦が続いていました。軍閥間の戦争でも市民に被害が及ぶことはよくありましたが、少しの間隠れていればだ戦闘はそのうち 終結 しました。戦争の危険はあっても、南京を脱出して身の安全を確保することもまた難しいとすれば、自宅にこもって戦闘が終わるのを待とうと考える市民は多 かったのです。あるいは、脱出を希望していたが、船を待つ間に船舶輸送が停止してしまったという市民も多数いることでしょう。

  2005年ニューオリンズをカトリーナ・ハリケーンが襲ったとき、市街地の大半が水没するから脱出せよと警告があったにもかかわらず、多数の住民が自 宅で 被災しました。このように、危ないと言われても、おそらく大したことにならないだろうとたかをくくる人たちは少なからずいるものなのです。人々が本当 に全員逃げ出すという状況は本当に危険が目の前に見えてからなのです。


Q:揚子江の渡し船の輸 送力からして、1日当たり2.5万人から5万人の脱出が可能であったという説がありますが。

  その輸送力とは700−800人を乗せることができるフェリー2隻と、中小の船舶200-300隻がフルに運送してということでしょうね。こういう場 合、最大 の輸送力の話だけは何の結論もでません。問 題はそれらの船が実際にどれだけの人数を運んだか、その資料があるの か、ということで す。そういう資料はありませんよね。
  おそらく11月20日から数日間は官僚・富裕層を中心として順調に脱出は進んだでしょう。しかし、日本軍が南京に刻々と迫って来ている という情報が流れ、対岸の六合県にも日本軍は包囲網を縮めて来ました。12月7日には対岸の港、浦口が爆撃されました。
こういうとき、船主はどういう行動を取るでしょうか。おそらく自分の家族と乗 客ともども、揚子江を朔行して上流の港まで一気に逃げたことでしょうね。12月13日には軍が残った船舶のすべてを動員して撤退する兵員の輸送をしたけれ ど1日あたり3000人しか輸送で きなかったのはそういうわけです。

Q:陥落 時の人口の資料がないと言われてもどうしても納得が行きません。ある程度街を観察して人口を見積もった人もいるのではないですか。

       南京市の文化機関に勤めていた李克痕は南京を脱出した後、『地獄の南京からの脱出』を発表し、1938年漢口『大広報』に連載されました。李克痕は南京の 中華門外にある雨花台の板橋に住んでいました。

『目撃者の南京事件』滝谷二郎(三交社)pp177
 南京が陥落したとき、城内に四〇万人の人が住んでいました。難民区を設立してから、家賃が高くて住んでいた人は一五万人くらいですが、難民区外に住んで いた住民はほとんど敵に殺されました。

もうひとつ、匿名ではありますが、捕虜が見た日本軍の暴力』にも同様の南京の人口が記述されています。

『目撃 者の南京事件』滝谷二郎(三交社)pp196
統計によると住民は一〇〇万人いますが、戦争が始まってから残った人は四〇万人くらいで、ほかの人はみんなよそへ逃げさりました。難民区が成立してから家 賃が高くて、入れる人が少なかったから、中華門、光華門、通済門に住んでいる庶民はみな日本軍に虐殺されました。

  1938年のことですか ら、 後年の「20万人しかいなかったから30万人は殺せない」などの論争を意識して書いたわけではありません。ラーベらがほぼ安全区内で活動したのに対して、 彼らは城外や安全区以外の城内 も歩き回っています。ラーベらは南京市の住民すべてが安全区に集まったとおもっていましたが、安全区以外の城内と城外にはラーベらが知らないだけで、多数 の市民が住 んでいたのです。

  ところで、この二人の認識も決して人口をひとりひとり数えたものではないので、どの程度正しいかは不明です。しかし、その土地に長く住んでいたり、そ の土地の中をよく回っているものの場 合かなり正確な人口見積もりができるようです。
  その例として、1月になって安全区内の住民が自由に街路を歩き回るようになったとき、ラーベは南京安全区の人口を25万人とほぼ正確に言い当てていま す。また、スマイスは3月に人口調査を行い、統計結果が 22 万人と出たにもかかわらず、その結果を疑い、調査員が回り切れなかったためではないかと考えて27万人とほぼ正しい数字に修正します。1938年8月のこ と、ベイツは街をめぐった際に南京市政府の調査結果は知らない はずなのに、南京の人口は30万人に達したと日記に書いています。
  この二人の南京脱出者の人口認識はラーベらの認識より確度が高いと思います。


Q:なる ほど、南京の陥落時の人口は40万人の方が正確なのですね。では、南京の人口40万人をもとに30万人虐殺も可能だということもある程度いえるのではない ですか。

   そういうことを言おうとしているわけではないのです。今まで、ラー ベらの人口認識は調査された、すなわち数えられた人口ではないので、検算には使えないということを散々言ってきました。この二人の南京の人口の認識は南京 城内と南京城外の市街化地域についての認識と推定され、農村地区の人口は対象となっていないようです。したがって、これを基に検算方式で虐殺人口をあれこれ推計するつもりはありま せん。

インデクスに戻る