二つの収容所
       2003/09/07 初稿上網
       2003/09/25 改訂

1.収容所A

収容所Aは新聞では東部上元門などと記されることもある。山田日記では上元門外との表現である。幕府山と図の右下に位置する標高81.5mの丘陵である、百菓山の間にある原野にある。幕府山裾野と原野には南北に走行する道と燕子磯に向かう2本の道路が三角形を形作るのわかる。その右下の辺をなす道路近くに収容所Aがある。烏龍山方面(東方)から、幕府山一帯を掃討した日本軍はしばし、道路脇に捕虜をかためて置いたあと、野戦訓練用の兵舎として使われていた廠舎を発見し、捕虜を収容した。周りに遮蔽物はなく道路沿いから発見しやすい場所にあった。

栗原利一伍長 第65連隊田山大隊
「・・・その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だった」

図1.南京の分図セット16枚のうちのひとつ、下関の図、縮尺1万分の1。昭和7年から12年の間に作成
されたらしい。   

アサヒグラフに写真で紹介された、捕虜で満杯の収容所の写真の後方の山並みは角度からして、百菓山だといわれる。百菓山はAの右下にある。

 幕府山陣地は下図では幕府山山頂尾根の広い範囲に陣地マークが示される。その南麓の原野に中国軍の野戦訓練用の兵舎が設けられ、それが収容所Aとして使われた。収容所の位置をしめすのにしばしば「幕府山砲台下にある」という表現が出てくる。ところが、兵士らは「幕府山陣地」または「幕府山要塞」のことを、「幕府山砲台」と呼ぶこともあるので混乱する。

「幕府山陣地下」または「幕府山要塞下」であれば、幕府山南麓または上元門外の収容所Aのことになる。
「幕府山砲台下」と両角連隊長が言っているのは、東部上元門または北部上元門または上元門付近の収容所Bのことを指す。

★山田日記十二月十四日より

明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。<略>捕虜の始末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒家に泊す。

図2. 図1のBを含む拡大図。幕府山西端の平地部分 図3.上元門・幕府山付近図(1937年8月、日本参謀本部製10万分の1「南京図」の一部、山上に陣地マーク

2.収容所B

収容所Bは上元門集落の近くにあった。一万分の一の詳細な地形図で見ると幕府山の西端は山塊に小さな切れ込みが入り、その小さな平地には軍の施設が散在する。平地の北の山の上には確かに幕府山砲台と書かれている。この砲台下にも十数棟からなる、草屋根の兵舎であり、唐広晋によれば草営房と呼ばれた。唐広晋と一緒にいた、脱走した捕虜が絶壁を見たというのはどうもこちらであろう。これが収容所Bであり、近くには地下倉庫があり、食糧が備蓄されていたらしい。しかし、収容所Aの近くに地下倉庫があったことわ思わせる記述はない。

両角日記 十二月十四日

午前一時、第五中隊及び連隊機関銃一小隊幕府山に先遣。本隊は午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊は幕府山占領。本隊は午前十時、上元門付近に集結了る。
午前十一時頃、幕府山上に万歳起こる。山下より本隊之に答へて万歳を送る。

両角の書く「上元門付近」とは小規模の幕府山砲台の下にある、平地を含むと思われる。

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