東中野氏のむなしい「証拠写真」検証を
論駁する      
     2006/12/14

南京大虐殺を記録した写真資料は多くない。日中戦争期の江南における、暴行や虐殺の写真ではあっても場所と時期が特定されているものは少ないのである。その中にあって、村瀬守保氏の撮影した写真は
  (1)揚子江岸で撮られた
  (2)時期は12月27日頃
  (3)写真の中に虐殺を示す手がかりがある
  (4)撮影者のキャプションが存在する
ことによって、南京大虐殺の証拠映像として貴重である。
ところが、この確実な写真に対して、なお、証拠にはならないという暴論を書き連ねる否定論者をみかける。そのウソの手口に反駁する。

1.東中野修道著『南京事件 「証拠写真」を検証する』のいいがかり

『新版 私の従軍 中国戦線  村瀬守保写真集<一兵士が移した戦場の記録>』より

ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河原がいっぱいに死体で埋まっているのです。岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着たものはほとんどいなく、大部分が平服の民間人で婦人や子供も交じっているようでした。pp45


『南京事件 「証拠写真」を検証する』東中野修道より

村瀬氏は「揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか」あるいは「大部分が平服の民間人で婦人や子供も交じっているようでした」としてあくまで推量として語っている。pp222

写真138や写真139の死体は、はたして不法な虐殺を示しているのであろうか。はたして下関付近で虐殺があったのであろうか。pp223

            
            写真138

             写真139


揚子江岸で大虐殺が行われたことに対しては多数の証言・資料があり、村瀬氏の言を待つまでもない事実である。村瀬氏の推量は「ここがその大量虐殺の現場だろうか」という自問である。

江岸の死体について「大部分が平服の民間人で婦人や子供も交じっているようでした」と言ったのは、泥をかぶったり、泥に半ば埋もれたり、折り重なったりして、どこまでが一体の死体であるかわからないような状況であるから、「ようでした」と書いたと思われる。

あるいは河岸の焼却死体について書いたものだとすれば、やはり、焼けこげて、折り重なり、どこまでが一体の死体かわからない状況であったから「ようでした」と書かれたと考えられる。

その中で「軍服を着たものはほとんどいなかった」と書いていることは当時見たときの記憶を語っているのである。不法殺害かどうかについて直接語っているわけではない。写真を撮るときにはいろいろなものが見えていても、 撮った写真にはその一部しか写っていないのが普通である。したがって、写真を撮影したものが写真に残された映像を補う、当時の印象を語る証言は重要である。


『南京事件 「証拠写真」を検証する』東中野修道より

城門の陥落したこの日、揚子江岸の下関では、橋本以行氏が「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(「証言による『南京戦史』10」三〇頁)と語っているように、敗走する中国兵は軍服を脱いで対岸に逃亡しようとしていた。pp223

中国兵は軍服を脱いで民服に着替えていたのであろうか。激戦のあと敗走しつつ、民服に着替えることが可能であろうか。「証言による『南京戦史』10」にある、橋本以行氏の証言はこうである。
 

最初出会った小舟の群は、難民のようであったので射ち払わずに進んだが、群の中の近くの一隻から盛んに手を振る者がおる。双眼鏡で見ると、日本陸軍兵のようなカーキ色の服を着て、戦闘帽を被った姿である。

双眼鏡で艦側近くを流れる戸板の上に横たわっている中国兵をみると、顔をシャベルで隠して背後にチェコ機銃を横たえ、死んだようにしている。このように小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。

江上には相変わらず一面に中国兵が乗った浮遊物が流れていたが、弾丸が欠乏して射つことができない。

城壁から江岸にかけて一面に青黄色の軍服の上衣が脱ぎ捨てられててあるのが、秋の木の葉を散り敷いたように夕陽に照らされていた。


揚子江の対岸に逃れるために、中国兵とはわかりにくいよう、軍服の上衣だけを脱ぎ捨ててシャツ姿になったと考えられる。しかし、兵士と見せないためとしても、ズボンを脱いだ下着姿は不格好である。また、筏や舟から脱落したときには泳がなければならないから、上衣を脱いで おく方が泳ぎやすいとはだれもが考えただろう。正規兵と見えなかったとしても、それは民間服に着替えたということではなかった。


このとき下関は、「白旗を掲げたり、両手をあげて降伏の意思を表示する者は皆無でした」というが、このとき下関を攻めていた第十六師団は捕虜を取ることを拒否しており、敗残兵、投降兵をその場で射殺する方針であったのであり、指揮系統も崩壊し、烏合の衆となって江岸に追いつめられて機銃掃射を受ける立場では、銃を取って戦うか江上に逃げるしか選択の道はなかったのである。

さらに、東中野氏は死体は上河鎮の戦闘による戦死体の漂着したものである可能性を指摘する。

写真138を見ていただくとわかるように、ゴミなどが付着しており、上流から流れ着いて死体が、潮の干満によりできた吹きだまりにうち寄せられたように見える。
では上流ではじっさいに戦闘があったのであろうか。十二月十三日、城門陥落の日、中華門(やその北の水西門)から見て西にあたる揚子江岸では、早朝六時過ぎから十時まで激戦となった、兵力約二万の圧倒的な中国兵が揚子江岸に近い上河鎮で、第六師団の歩兵第四十五連隊(鹿児島)第十一中隊(約二百名)を急襲したのである。夜陰に乗じて下関から南下してきたのは、南京を脱出せんと死にもの狂いとなっていた中国軍の大集団であった。
<略、(日本軍が優勢となって)>
そのうち敵兵が裸になって、川に飛び込む姿が、あちこちに見える。と、こんどは材木をイカダに君で、それに乗り込んで逃げ出すものが、ぞくぞくとあらわれた。
<略、(山砲の活躍で)>
イカダは水上に吹き上げられ、敵兵のとび散るのが、手にとるように見える。

「敵の死体は、道路を中心にして二千三百七十七を数え、その他揚子江岸に流失したもの等を想定して約一万であった」(一一八ページ)[赤星昴『江南の春遠く−日華事変戦記・上河鎮の激戦』(昭和43年)]

材木をイカダにして裸になって逃げる中国兵は、砲撃されて揚子江上に吹き飛んで戦死した。そして下流の下関に漂着して、吹きだまりにうち寄せられたのであろう。村瀬氏が撮影したのはその戦死体と考えられるのである。村瀬氏が撮った写真138は、下関の死体か上河鎮からの死体かわからないが、虐殺死体という証拠はどこにもなく、軍服を脱いだ兵士の戦死体という可能性がきわめて濃厚なのである。

まず、簡単な誤りを指摘すれば、ゴミが付着するから上流から流れてきた、という判断は成り立たない。
 


2.下関で捕虜、民間人の大量虐殺が行われた事実を明らかにする

下関では十二月十三日に日本軍は敗走する中国兵に対する最後の掃討を行 った。戦闘で多数の中国兵が殺害されたが、指揮系統も消失し、ほとんど抵抗力を持たない敗残兵に対する無慈悲な掃討であった。
しかも、その日のうちに非戦闘員の殺害すなわち虐殺もすでにはじまっていた。以下の証言は著書名のないものはすべて『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環著 による。
 

1.第十六師団歩兵三十三連隊第一大隊 秋山源治
[下関の追撃(十二月十三日)]降伏したんやろな、向こうは。掃蕩で武装解除されて銃を持ってない中国兵がいた。(非戦闘員、捕虜である)土掘を掘ってたな。つかまえたりせずに、兵隊は全部河のふちに寄せた。数えられんぐらいの人間でな。兵隊の服きてんのもおるし、一般の服を着ているの(この日兵士が民服に着替える余裕はなかった)もおった。こっち側からバーッと押していって河ふちによせてそれから寝て撃ちました。距離は百メートルくらい離れていた。
 軽機もいたが、私らは小銃を使った。他の中隊もいて、野砲班の援護射撃もあった。中国人たちはびっしりという感じで、バタバタ倒れるのが見えた。pp105

揚子江のところにいったら、たくさん逃げ遅れた人がいた。そのときは手をあげていた。びっしりといた。普通の者が多かった。兵隊と民間人がまぜこぜだった。武装解除して、捕虜収容するのに、寄せてどこかへ連れて行くんや。河べりやな。pp106


 

2.第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊 沢田好次
下関の埠頭で大きな倉庫がずうっと並んでいて、そこにいっぱい捕まえた中国人の男をほうりこんでた。どの倉庫にも、中国人が詰め込まれ、人で真っ黒になっていたな。何百人詰め込まれていたか人数もわからんほどや。

倉庫の入り口に九中隊の一個分隊十人ぐらいの兵が、軽機関銃二丁を据え倉庫の中に銃を剥けて、暴動が起こらないように警戒していた。九中隊は見張りの使役をし、さらに二丁の軽機関銃を使って中国人の殺し役をしたんや、倉庫に詰め込んでいた男たちを外に引き出してから、埠頭から桟橋の上を五名ずつくらい走らして、後ろから軽機関銃でバリバリと撃った。また、五人くらいを立たせてから埠頭に向かって走らせる。それを繰り返して全部殺してしまった。男たちは現地の服を着ていたり、仕事の服を着ていた。いいのも悪いのも、みんな埠頭から走らせて後ろから撃ち殺すんやで、わちらは「えらいことするな」と言い合った。<略>南京には三日ばかりいただけだったが(十三日から十五日 をさす)、あの光景はみじめなものやった。pp92


 

3.第十六師団歩兵三十三連隊第一大隊 山岡敏一
十三日陥落の日、紫金山から下りてきて、わしらは中国人を捕まえると、女も男も列車の中、いっぱいになるまで詰め込んだ。( 「城内掃討」で女性も連行された例もあるわけである)貨車はようけあったな。一分隊はこれ、二分隊はこの貨車というように、分隊に貨車が割り当てられるんや。
次の日になって貨車から女も男も子どもも出して、揚子江の側の大きな広場に四列ほど並べました。「殺せ」と小隊長が言ったので、軽機関銃や小銃で並ばせて中国人を撃った。女の人は一つの貨車に十人位いました。( 子どもまで連行されていた。女性の比率も高い)ほかの分隊も並んで撃っている。南京城を出るとすぐ河へで出られる門のところを出てすぐやった。
撃たれてしんだのもいるし、倒れているのもいる。それを兵隊が河に投げ込むんや。自分は手と足を持って生きている人を河へ放り込んだ。また中国人を並ばせて射殺や。どんどんどんどん揚子江へ放り込みましたで。
南京では揚子江の端にずっとおりましたので、死体はようけありました。河べりにごみみたいに折り重なって浮いてたな。わしは気が弱いさかいあまりよう見んかった。pp322


 

4.第十六師団歩兵三十三連隊第一大隊 田中二郎
[田中手帳]手帳に書いていた日記を、昭和十四年負傷入院時に書き写す
[十二月十四日]
滞在とは夢、すぐ出発だ。一小隊が二百名くらいの敗残兵を捕虜にした。彼らは南京陥落を知らず逃げてきたものであろう。之を如何に処置するか大島副官に聞きに行った。「二百あろうと、五百あろうと適当の所へつれて行って殺してしまえ」と言われて駅の空貨車に詰め込んでしまった。小隊は重機と協力して捕虜の処分を揚子江岸でやることになった。ワァーワァーと貨車の中で喚き立てる。貨車からは濛々と蒸しあがる。一人一人引っぱり出す。皆素裸になってフウフウ来るして呼吸する「大人、水、水」と水筒を指差す。「馬鹿者」怒鳴ってやった。凹にたまった泥水をすくって飲んでいる。人間の蒸さったのを初めてみた。四列に並べて 両手を挙げさせ五十人宛江岸に引っぱって行く。足下には手榴弾がごろごろしているんだから危険なこと限りない。小隊だけの兵隊だ。少人数であり下士官は××と二人のみだ。彼らが死に物狂いで暴れ出そうものなら手に負えない。「没法子」の観念であきらめがよいのか「救命、救命」といえばワァーっと歓声あげて拍手する。貨物倉庫から皆引き出してしまった。膝を没する泥土の中に河に向かって座らせた千二百人、命令一下、後の壕に潜んで居た重機で一斉に掃射を浴せた。将棋倒し、血煙肉片、綿片、飛上がる。河に飛込んだ数十名は桟橋に待っていた軽機の側射に依って全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。ああ、なんたる惨憺たる光景ぞ。斯かる光景が人間世界に又と見られるだろうか。動く奴は押収銃で狙撃、揚子江には軍艦が浮び、甲板から水兵がこの光景を眺めていた。pp82


 

5.支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊第二十四駆逐艦隊 三上翔
南京の入場式があるということで、各船からいわゆる陸戦隊を送り出し、私たちは完全武装をして、ランチで中山埠頭から上陸しました。(略)私たちは、そこから<注 、ゆう江門のこと>入って入場式の閲兵がある場所にさらに何百メートルか意って待機しました。そこに行く間、あたり近所の小公園、ちょっとした広場、あるいはテニスコートだったかもしれませんが、そこに必ずといっていいほど、山のように積まれた遺体がありました。その人々は中国兵かあるいは市民かさっぱりわかりませんが、裸で殺されている人、あるいは数珠つなぎの人、縄で数人ずつつなぎ合わせたものを射殺、あるいは銃剣で刺した痕が、物々しく残っておったりしました。また、どうしてなのか不思議に思いますが、積み上げられた死体の中には、真冬なのに裸の死体がたくさんありました。(村瀬写真でも上半身裸や全裸の死体が写っている)
pp86

十七日の入場式が終わって船に戻りました。その翌日あたりから、船で見張りについていると、毎日毎日、朝から晩まで繰り返し繰り返し(十八日から連日ということになる)トラックで捕虜とも中国人とも区別の付かない人々を運んで来ては、中山埠頭から川の中へ追い落とす、それを機関銃でもって射殺するところを目撃しました。数百メートルしか離れていないので肉眼でもよく見えるのですが、私たちは見張り当直についていたので、見張り用の望遠鏡で手にとるように見えました。機関銃を撃ちまくられると川に潜って逃げようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がってくる、またそれを日本兵が撃つという状態が続いて、撃たれた人はその場で沈むか、あるいは川の流れにのって下流に向かって流されていくというような状態が続いていました。彼らは白い服だったり黒っぽい服だったりして、服装でもって前に兵隊だったかどうかなどわからず、二、三十人ずつトラックに積まれて来ていましたが、(軍服ではない)
なぜトラックで運ばれて殺される所まで来たのかということに疑問をもちました。何らかの作業を命じられたか、何らかの使役のため、どこかへ連れて行かれるということになっていたとしか想像できなかったのですが。そうでなければ、途中でトラックから逃げるなり、あるいはそこまで来て殺されなくても、もっと他にも殺される場所があったと思うのですが、何らかのそういった状態でだまされて連れて来られたとしか思えません。
(この連行は佐々木倒一による敗残兵処断目的の市民連行であると思われる)

またそういったことが毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると、何かうごめくような叫ぶような声が向こう岸からわいわいと聞こえてきました。炎が揺れてスーと横に走り、よく見れば人間が焼き殺されているという状態でした。また、翌日、火事場の焼け跡の焼けぼっくりのように、人間らしい形のものが黒こげになって倒れているのが、望遠鏡でもよく見えました。

揚子江は減水期だったので、毎日毎日水が減っていきます。そうすると、前に殺された人間の形が、岸辺に泥をかぶって折り重なって現れてくるというようなことがありました。pp87(村瀬写真が撮られたときの状況を表している)
 


 

6.『戦場心理ノ研究−総論−』早尾乕雄陸軍中尉
余ガ南京へ入ツタノハ陥落後一週間デアツタカラ市街ニハ頻々ト放火ガアリ見ル間市内ノ民家日本兵ニヨリ荒サレテ行ツタ。下関ニハ支那兵屍体ガ累々ト重リ是ヲ焼キ棄テルタメニ集メラレタノデアル。目ヲ揚子江岸二転ズレバ此処二山ナス屍体デアッタ。其ノ中二正規兵ノ捕虜ノ処置ガ始マリ海軍側ハ機関銃ヲ以テ陸軍ハ惨殺、銃殺ヲ行ヒ其ノ屍体ヲ揚子江へ投ジタ。死二切レナイ者ハ下流二泣キ叫ビツ、泳ギユクヲ更二射撃スル。是ヲ見テモ遊戯位ニシカ感ジナイ。中ニハ是非ヤラシテクレト首切リ役ヲ希望スル将兵モアル。
〔中略〕揚子江二沈ンダ正規兵ノ屍体ハ凡二万人位ト言ハレル




記録されたものだけでも、13、14、15日に処刑があった。入城式に向かって処刑は急がれたであろうから、16日も処刑は続いたと思われる。17日の入場式の日はさすがに処刑 も休みか少数だったかも知れない。
そして18日から「連日」、捕虜や民間人の処刑がされている。その他の日付に起きた処刑はもはや、慣れっこになって、特に記憶・記録がされなかった可能性がある。早尾氏が南京に入ったのが12月20日であり、この日も殺戮が行われていた。さらに奥宮正武氏は25日と27日の処刑を目撃している。とすれば、ほとんど二週間ほぼ連日処刑があった と考えられる。

次の資料は城内、安全区の中の死体まで、揚子江に投棄したことが書かれている。

7.第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊 徳田一太郎
金陵女子大の付近に死体がいっぱい転がって自動車が通れないので死体の処理を命じられました。(城内の死体でも揚子江に投棄されたものがある)あちこちに電線にひっかかったり、砲弾に撃たれて死んだ死体がたくさんありました。死体を下関まで持って行くのは大変でしたよ。かなりの距離がありましたからな。重くて人の力では引っ張れないので、五、六隊の死体の足を一度に電線で結び付けて、馬とか、軍用車輌な引っかけて、ずるずる引っ張って下関まで行きましたわ。わしらの中隊全員が処理作業に出ました。下関には死体が山積みでした。死体運搬車とかはあったと思うけれど、各中隊単位で分かれてやったので外の中隊がどうやったか分からないですな。でもわしらの中隊は馬や車で引っ張って下関まで運びましたんや。そこまで言ったら、また外の部隊がいて、どこの部隊かは分からないけれど、二十人ぐらいいて死体を手でもってポンポンと河の中に放り込んでましたな。死体は重かったですな。わしらは引っ張ってきた死体を死体の山に置くだけでな。揚子江を死体がたくさん流れていくのをその場でよく見ました。死体をどんどん放り込んだので死体の濁流でいっぱいでしたよ。(この頃はまだ揚子江の水量が多く流れが速かったことを示している)死体を運ぶ道でも死体がたくさん転がっておって、車が通れないぐらいいっぱいありましたよ。まるで死体の道で、その上を車が通るので道がカタカタになりました。本当に嘘みたいに多かった。女子大の近くから下関まで死体を引っ張るのに一日二回往復してね。交替制でやりましたよ。今日やった部隊は次の日は休んだんです。二回往復留のに朝から晩までかかりました。pp132-133

城内の死体を日本兵が揚子江に投棄したという資料はこれまであまりなかった。その点で注目される。ゆう江門に近い城内の死体を投棄した可能性も考えられる。

8.第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊 朝倉正男
揚子江にはよく行った。死体が浮いとったり、岸に流れ着いてるのをみたなあ。ごみみたいに寄せられていた。死体には慣れっこになっていて驚くどころやなかった、そら最初はやらしいわなあ、と思ったけどなあ。( 日付不詳だが、次第に流れが緩くなったと思われる。)>pp231-232

 

9.第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊 東良平
うちの中隊で警備に出るとき、揚子江の水際で死体をぎょうさん見ました。兵隊やのうて住民みたいでした。河べり一面に死体が寝ころんでるようにぎっしりつまっていました。かわいそうとは思うたが、戦争やからやむを得ないわな。上の人の命令やから・・・
pp233

 

10.第十六師団歩兵三十八連隊第三大隊 大友次郎
城門の付近で支那兵の死体掃除をやりました。死体は揚子江に流すんですわ。支那人のニコを読んでやらした。日に四、五十人は使いましたわ。支那兵だけやなしに普通の服を着た支那人もぎょうさんおったわな。女も子供も・・・・。かたづけるのに一ヶ月くらいかかったわな・・・・。pp246

城門というのはおそらくゆう江門のことであろう。城門近くということで城内の市民の死体も投棄された可能性を示している。

11.第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊 橋本敏正
船が接岸して、下関の桟橋から陸地に上がる時に、死骸を見たっちゅう具合ですな。死体は揚子江の岸にですな、ざーっともう数えられんぐらいありました。敷き詰められとるというわけではないけどな、重なっているとこもあるし。死骸が何ぼぐらいかちょっと判断つかんけれども、そこだけでも五百や千ぐらいはあったと思います。(村瀬氏の「岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした」が想起される)pp260

 

12.第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊 三木本一平
揚子江の港、下関に行った時やったた。港とは名ばかりでな、皮に桟橋がつき出ていた。捕虜を収容している倉庫のような建物から、五十人くらいの捕虜を引っ張りだし、幅があまりない桟橋に並ばせてた。そこを重機関銃でドルルルルーと水平になでていた。やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。河のそば桟橋のあるところにわしは行ってのぞいて見たんや、河底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。(深い河底から積み上がったいるということで非常に大量の死体を示している)始末することないわな。pp288

この二つの証言は死体の量について具体的に語っている。
 

13.第十六師団歩兵三十三連隊第一大隊 沢田小次郎
私らの部隊は捕まえたら連れていっただけでした。揚子江の門からちょっと遠いところで、部落がある所でした。捕虜は何百ぐらいかいたと思います。もう住民か兵隊かわかりません。男ばかりでした。若いとか年寄りとかを問わずに、人間だったら連れてきたわけです。でも女や子どもも掃蕩の被害を受けてました。その場で殺害したりね。とにかく支那の人間だったら敵やという気持ちで、自分もやられるかも知れないと思っていたので、見つけ次第殺しました。pp313


 

 

14.『私が見た南京事件』奥宮正武
[十二月二十五日]
下関にはかなり大規模な停車場と開源[石馬]頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っている撃ちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
 [石馬]頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていた為であろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
 構内の広場に入ってみると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、(村瀬氏の写真には後ろ手に縛られているところがはっきり写っている)江岸の縁にそって数メートル毎に引き出された、軍刀や銃剣で惨殺されたのち。揚子江上に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの早さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていった。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れ着いてので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
pp34-35

十二月二十七日
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行われていた。そこで、ある種の疑問が生じた。
それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼はなんのためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、"腹のすいた者は手を上げよ"と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」
と説明してくれた。
<略>
 このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行われていた。( 二七日といえば村瀬氏が城内に入った頃である)もっとも、二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行われていたかは分からなかったが二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な興奮状態での対敵行動であるとは私に思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
 私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。
 



 

15. 第三師団の一兵士(軍事郵便) 1938年1月

自分等のいるところは此の城外である。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行。家は五階であるが、三階までは焼けている。自分等のいる隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐であって良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやるところである。揚子江を船で来る全全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足で歩哨に立つのでなかなか苦労は多いよ。去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。


 


東中野氏は十二月十三日に掃討された中国兵の死体である、と言いたかったようであるが、

1.下関の江岸で平服の民間人はおろか、婦人や子どもまで殺されていた。
2.掃討戦は十二月十三日の一日だけであったが、十二月十三日を含めて十二月三十一日までほぼ連日、捕虜、民間人の虐殺が行われていた。
3.下関で殺害されたものだけではなく、城内外の兵士・民間人の虐殺死体も揚子江に投棄されていた。
4.十二月十三日当時は揚子江の流れが比較的早く、二週間後には水量が減少し、流れはより緩やかとなっていた。
5.村瀬氏は十二月二十七日頃に撮影をしたと考えられる。この場所において十二月十三日の掃討戦による中国兵の死体 が残っていた可能性は0ではないが、圧倒的多数は掃討戦以後の虐殺死体である。

十二月十三日には水量が多く、当日の死体は三万人あるいは五万人とも言われそれらがひとつの大きな筏のようになって河面を覆いつくしながら流れていく光景が記録している。上河鎮の戦死体も、下関での戦闘の死体 も大多数は流れを下った可能性が高い。
 

16.第六師団輜重第六連隊小隊長 高森守一氏の記録
12月14日 
 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。

 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。

 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体が揺らぎ、 河岸には折り重なった死体が見渡す限り、累積していた。それらのほとんどが南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。
南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって 無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮が繰り広げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後折り重なるようにして倒れている死骸に対して重油を撒き散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかない状態であった。 焼死体の中には、子供に違いないと思われる死体もおびただしくあり、ほとんどが民間人に違いないと思われた。私はこれほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。
(『熊本第六師団大陸出兵の記録』pp95)


 

17.第六師団歩兵第十三連隊 赤星義雄
[十二月十四日]
揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そのに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。

 二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。

 少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。

  このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。
 前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。
 南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。

 私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも・・・」と思い、後でこれが”南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。

(「揚子江が哭いている」pp29-30)


再掲すれば、
11. ざーっともう数えられんぐらいありました。敷き詰められとるというわけではないけどな、重なっているとこもあるし。死骸が何ぼぐらいかちょっと判断つかんけれども、そこだけでも五百や千ぐらいはあったと思います。
(橋本敏正)
12. 「河底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた」(
三木本一平)

のように河底から積み重なるほどの多数の死体が岸にあったのである。写真で見るとそれらの中には泥に深く埋もれたものがある。

14.揚子江は減水期だったので、毎日毎日水が減っていきます。そうすると、前に殺された人間の形が、岸辺に泥をかぶって折り重なって現れてくるというようなことがありました。(奥宮正武)


数キロ上流からの上河鎮から2週間前に戦死したもののの漂着死体で はないか、と東中野氏は疑問視しているようですが、現場ではほぼ連日にわたってその場で折り重な るほどの死体が投棄されていました。これらの死体は漂着死体というより現場で殺害された死体とする方がずっと写真の状況にあっている。

最後に多数の後ろ手に縛られた死体があることはいったん捕虜として拘束され、殺害されたことを示している。後ろ手に縛られて戦闘は出来ない。要するに、写真をよく見れば、このような妄想は出てくることがないのである。 東中野氏は写真の検証などと称しているが、『南京事件 「証拠写真」を検証する』は写真を見ずに書いた本らしい。

インデックスへもどる