幕府山捕虜の殺害数は何人か


          2003.7.31 とほほ板投稿
         2003.9.15 最新改訂 


  幕府山の捕虜数に引き続き、殺害総数の検証に移る。この『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の殺害数の記載もまた、まちまちである。しかし、勘違いしてもらうといけないが、殺害数が捕虜総数と一致しないからといって、前述の捕虜総数がただちに否定されるという筋合いのものではない。収容所内での死亡、連行途中の殺害や少数の逃亡などはあるが、基本的には殺害総数は捕虜総数に等しい。もともと、捕虜の連行や殺害において、改めて人数を数え直したという様子は伺えない。捕虜を縛ったり、連行したり、殺害したり、死体の処理に忙しく、数え直す暇などないし、そもそも数える必要さえなかった。したがって、殺害総数は、十六日までに得られた捕虜総数の認識以上には出ない。殺害総数がより錯綜している印象を与えるのは、ただ殺害した日付と場所が複数であるためである。したがって、個々の大量殺害事件における殺害総数が捕虜総数に概略等しくなるように推論する筋道を立てればよいのである。

A. 魚雷営での殺害は二日連続か


魚雷営で行われた殺害数については以下の記録、証言がある。 

              表1.魚雷営での殺害数

 

 

魚雷営における殺害数

証言者の参加場所

 

 

 

十六日

十七日

十六日

十七日

 

 ◎

I氏

五−六百

記載なし

 魚

 魚

 

 

荒海清衛

二千五百

 

 魚 

 魚 

 

 

宮本省吾

 三千 

 

 魚 

 大 

 

 

本間正勝

 三千 

 

  ?

 ? 

伝聞を記す

 △

G氏

 三千 

 七千 

  ?

 ?

両日魚雷営連行目撃

 ◎

H氏

 五千 

 五千 

 魚 

 魚 

 

 ◎

黒須忠信

 五千 

 

 魚 

 ? 

 

 

遠藤高明

総数の1/3 

 

手配のみ 

手配のみ 

 

 

目黒福治

 七千 

 

 魚  

 大 

 

 

近藤栄四郎

 七千 

 

 魚 

 ?  

 

 ※ ◎は両日参加者、△は両日目撃者

  十六日、十七日の殺害数をともに記している記録は少なく、ともに参加しているのはH氏、I氏のみである。G氏は連行の目撃だけである。また、魚雷営一日目の参加者の中には二日目は大湾子に参加したものがいる。したがって、魚雷営二日目の連行とされたのは大湾子への連行であった可能性を否定しておかなくてはならない。魚雷営二日目殺戮の詳細な記録・証言もないので、魚雷営の二日目の殺戮があったかどうかは証言・記録を突き合わせて検証しなくてはならない。

  本間正勝のように十二月十六日の午前中に「残兵死体整理」に出動したと記するものもあるので、少数の殺戮が十五日に既に開始された可能性も否定は出来ない。しかし、少なくとも捕虜の大量殺害が始まったのは十二月十六日からとみるのが至当であろう。

★H氏(西白河郡) 証言 第2機関銃中隊所属・下士官  
 揚子江岸に海軍兵学校みたいな建物があり、<略> 第三機関銃隊は全部参加し、他の中隊の軽機関銃隊も加わった。一回の連行が五〇〇〇人位  で、三日間続いた。ピーッと鳴ったら撃てと命令が出ていた。三日間とも日が落ちるか落ちないかの時刻で、連行されてきた捕虜はあきらめがいいのか、虐殺現場での騒ぎはなかった。集団での逃亡もなかった。しかし、虐殺時に少数の逃亡者はみた。二日目からは軍服を濡らして持って行き、冷却しながら撃った。揚子江岸に船などなかった。死体はその日のうちに揚子江に流し、一日目は流れたが、二日目、三日目は死体がたまって流れなくなった。(以上のことをのちにH氏は二日間の出来事と訂正)        『南京大虐殺の研究』P138−139

 「揚子江岸に海軍兵学校みたいな建物」とは魚雷営のことであろう。三日連続を二日連続と訂正されているが、「二日目からは軍服を濡らして持って行き、冷却しながら撃った。」という証言があるので、少なくとも二日連続して殺戮が行われたのは間違いがない。「日が落ちるか落ちないかの時刻」に行った、「揚子江岸に船などなかった」というのも、大湾子における殺戮への参加と混同しているのではないことは明らかである。

  ただし、三日連続を二日連続と訂正をしていることは、記憶に対する信頼性に疑問符をつけている。三日連続して行ったと誤記憶した原因について考察する。
  第一には必ずしも誤記憶ではなく少数の殺戮(後述する「I氏の五百」程度?)が試験的に十五日に行われた可能性である。これについては判断の材料に乏しく、可能性の指摘のみである。
第二には「一日目は流れたが、二日目、三日目は死体がたまって流れなくなった。」という記述からすると、一日目には簡単に死体を江に棄てられたが、二日目には死体が滞って流れなくなるので、死体処理は翌日に持ち越されたと考えられる。よって魚雷営出動自体は三日連続なのではないか。死体処理も含め出動回数が三日であったのも三日連続の殺戮と勘違いした原因であろう。

★I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長
南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年輩の捕虜もおり、十四−十五歳の若者もいた。敗残兵は少なかったのではないのか。捕虜収容所は幕府山の南側にあり、そこから見た幕府山はなだらかにみえた。山の下に”もろ”があり、捕虜はそこに全部収容した。何日か収容した後、捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方、五人ずつジュズつなぎにして、二日間にわたって同じ場所に連行した。捕虜収容所から虐殺現場までは二−三キロメートルで、一日目の捕虜連行数は四〇〇−五〇〇人だった。虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位  の桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。笛の合図一つで銃撃を開始し、一〇分間位  続いた。銃撃は一回だけだった。重機関銃は三−四丁あり、軽機関銃、小銃も加わった。この時、我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。死体処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、二日目は次の日に片付けた。                 『南京大虐殺の証明』P139

  捕虜収容所が「幕府山の南側」、「幕府山がなだらかに見える」というのは収容所AとBに共通する。しかし、「収容所から虐殺現場まで二−三キロメートル」は収容所Aにしては近すぎる。I氏が語る収容所はBであろう。捕虜は「南京附近」で捕まえられたというのも収容所Bに合致する。収容所A幕府山の攻防戦で捕らえられた捕虜、収容所Bは南京城に向かう途中で捕獲した捕虜という区別があるからである。「二階建ての中国海軍兵舎」であり、「両日とも桟橋に船はなかった」というのもH氏証言と一致する。

  もうひとつ、補強する記録がある。

★大寺隆 歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
一二月十八日 <略>オレは指揮班のため行かず、昨夜までに殺した捕虜は約二万、揚子江岸二か所に山のように重なっているそうだ。

  魚雷営一日目の死体はその日のうちに片づけた、ということになっているから、十八日時点で死体が山のようになっているとすれば、十七日の殺戮によるものでしかない。以上、H氏、I氏の証言と大寺隆の日記により二日連続して魚雷営における殺戮があったことは間違いないであろう。

B.魚雷営における殺害数は何人か?



  十六日の殺害数を検討しよう。荒海、宮本、本間の二千五百−三千、H氏、黒須忠信、J氏の五千人、遠藤、目黒、近藤の七千人の三つのグループに別れる。まず少ない方から見ていく。

1.荒海、宮本、本間の二千五百−三千説

★荒海清衛 日記 歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵  
十二月十四日 朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位。
十二月十五日 今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。
十二月十六日 今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
十二月十七日 今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。  H

  十四日に捕虜数「計一万五千名」を挙げ、その後の更新を記していないが、荒海の認識では二千五百名+一万五千名、すなわち一万七千五百が捕虜総数ということになる。ということは荒海が知るのは収容所Aのみであることを示す。収容所Aから連行して行っても収容所Bの存在をそもそも知らず、収容所Bからの連行を意識しなければ魚雷営で思ったよりたくさんの捕虜をみたとしても、捕虜数の修正はしにくいと思われる。

★宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊・少尉
十二月十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ  光景である。  

十二月十七日
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。

  宮本は収容所A、Bの存在を知っていたが、引率した捕虜は火災を起こした収容所Aであり、収容所Aからの連行数を記したと思われる。

★本間正勝 歩兵第65連隊第9中隊・二等兵
十二月十六日  
 午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。

  この認識は帰ってきた分隊員からの伝聞である。分隊員も自分たちが連行した数しかわからないであろう。どちらの収容所から連行したのかも不明である。

  荒海、宮本の二千五百−三千の数には収容所Aからの連行数のみを記した可能性がある。本間もA、Bいずれかの収容所のみからの連行数を記録した可能性がある。兵士は捕虜を縛るのに忙しく、また日暮れまでに出発しなければならない。いったん護送が始まってしまえば、長く伸びた列の人数の目視確認などは出来ないであろう。

2.H氏、黒須忠信の五千人説

★黒須忠信  山砲兵第19連隊第V大隊段列・上等兵
拾二月拾六日 晴  
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ  、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。  
 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、××少尉殿並に××××氏、×××××氏等に面  会する事が出来た、皆無事元気であった、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

  黒須の「五千名」を収容所Aからの連行数とすれば、荒海の二千五百の二倍にもなり、いささか多すぎる。収容所Bからの連行数としても、併せると七千五百となり多いのではないか。この場合は何らかの情報源によって連行数ではなく、殺害総数を記したと考えられる。

★黒須忠信の証言より
十六日の午後になって、宿舎にいる者は全部外に整列、何事かと思って外に整列したのでございますが、前列はこれから南京城見物、後列はこれから残敵掃蕩という命令が出たのでございます。<略>そして上官の指揮する方向に行ってみると、果たせるかな幕府山砲台の下にある兵舎に向かって行ったのでございますが、<略>縛って二人つないで座らせたのでございますが、五千人といえば、まさに大した数です。                     『南京大虐殺 日本人への告発』p35−39

  この証言は戦後になってされたものである。二日連続、五千人を殺害したという趣旨である。ただし、本当に縛ったときに五千人いたのかどうかはわからない。

H氏は機関銃隊として魚雷営で待機していた。五千人という認識は魚雷営における目視による殺害総数である。

3.遠藤、目黒、近藤の七千人説 (ただし、遠藤は捕虜総数一万七千二十五名の1/3である。)

★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊・少尉
十二月十六日 晴
 午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般  情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。

十六日の殺戮の具体的記述はない。ということは自身は参加していないことを示す。殺害数を目視して得た情報ではなく、三分の一を射殺せよという軍命令を聞いただけである。

★近藤栄四郎 山砲兵第19連隊第8中隊・伍長
十二月十六日
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、

収容所Aの捕虜総数が二万というのを聞き、その三分の一という認識である。
 

★目黒福治 山砲兵第19連隊第V大隊段列・伍長
十二月十六日 晴天 南京城外
 休養、市内に徴発に行く、到(至)る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。  
十二月十七日 晴天 南京城外  
 午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入場式、歴史的盛儀に参列す、午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。

  目黒は三分の一という表現は使っていないが、十六日の七千、十七日の約一万三千、二日間の二万人近くは他の二人の三分の一説に一致する。

  遠藤と近藤、目黒は基本的に同じ系列の認識である。しかし、連行する兵を見て三分の一という認識が出来るわけではないので、単に三分の一という命令を聞いてそう思っただけである。支隊中枢としては十六日に三分の一、翌日に三分の二という予定があったのではないか。十六日は午後からで、十七日は全日使えるからである。しかし、連行準備、すなわち、捕虜兵を縛るのに予想以上に手間取った可能性がある。とすれば、実際には捕虜総数の三分の一には及ばなかった、というのが私の考えである。

  七千人=三分の一説は捕虜総数の認識の制約を受けていると考えられ、連行・銃殺時の目視による数の把握による認識ではなかったと考える。とすれば、残るのは二千五百−三千人説と五千人説である。収容所A、Bからそれぞれ二千五百から三千人が連行されたとすれば、H氏、黒須、J氏の五千人と一致する。H氏は機関銃隊に属し、魚雷営で待ち伏せており、射殺前に冷静に人数を目視したであろう。

荒海、宮本、本間の二千五百−三千説は収容所A(B)のみからの連行数のみを記載した可能性があるが、G氏が証言するように収容所Bから三千人の連行があったとすれば、H氏、黒須忠信、J氏の五千人説とほぼ一致する。

  十七日の殺害数についてはG氏の七千、H氏、J氏の五千があり、いずれも後年の証言である。これを裏付ける他の資料もないかわりに、これを直接否定する記録もない。H氏、J氏は両日で八千から一万、G氏の場合も十六日三千と合わせて合計は一万となる。十六日、十七日それぞれの殺害数の確定は困難であるが、両日で合わせて八千から一万人殺害されたとしてよいのではなかろうか。

C.大湾子における殺害数は何人か?


日記などの記録によれば次の数字がある。

        表2.大湾子における殺害数
               
殺害数認識      捕虜総数認識
1. 二万五千説
    
 高橋光夫     二万五千近く   二万五千近く
     F氏         二万五千近く   二万五千近く
  ----------------------------------------------
2.二万説
     大寺隆       二万       約二万
     宮本省吾     二万       二万三千以上
     伊藤喜八     二万         ?
  ----------------------------------------------
3.一万七千人−一万三千人説
    中野政夫     一万七千     なし
    本間正勝     一万五千     二万人余
    荒海清衛     一万五千     一万七千五百以上、直接記載なし
    菅野嘉雄     一万数千     二万人
    栗原利一     一万三千五百   一万三千五百以上、直接記載なし
    目黒福治     一万三千     二万人
    遠藤高明     一万余      一万七千
  ----------------------------------------------
4.七千説
    柳沼和也     七千余      一万七、八千 

1.高橋光夫、F氏の二万五千説

★高橋光夫 歩兵第65連隊第11中隊・上等兵
〔十二月〕十八日 雪 寒し
 午前八時半制(整)列にて各中隊に分類され十二時に中隊第十一中隊に入る、第四次二十二名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
 午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。


★F氏 日記 歩兵第65連隊 第3大隊
(一七日)午後にわ聯隊の捕りょ二万五千近くの殺したものをかたつける
(一九日)午後わ死体をかたつけるために前日の地に行く
                          『南京事件の証明』P145


  高橋光夫、F氏の二万五千は(片づけにかかる)死体総数について言ったもので、直接十七日の大湾子の数字について語ったものではない。また、実際には魚雷営一日目の死体はすでに処理済みであった。ところで両氏は所属が第三大隊で日記の記載が酷似するが同一人物なのか?

2.大寺、宮本、伊藤の二万説

★大寺隆 歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
十二月十八日
<略>午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各分隊に別れる、午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へって来ない。

約二万は「昨夜までに殺した捕リョ」であり、大湾子における殺害だけの数字はない。

★宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊・少尉
〔十二月〕十七日
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。

  夕方から捕虜の処分に参加しており、宿舎に帰ったはずであり、この夜遅くに日誌を書く余裕はない。「二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった」。この文章の概括的、俯瞰的な調子は中隊長の訓示を反映したものであろう。すなわち、二万は中隊長からもたらされた情報である。

★伊藤喜八 歩兵第65連隊第1中隊・上等兵
拾二月拾七日
 午前八時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通  過、我部隊に復帰出来るだろふ、午前十時到着。
 門内、励志社、陸軍々学校、警衛司令部などがあった。
 午后一時から南京入場式。
 夕方は大隊と一所(緒)の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。
拾二月拾八日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場でした。
 我軍に戦死十名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立(烏龍)山砲台警備の処に復帰致して安心した。

 「その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した」は当日中の記載ではありえず、十八日(以降)に書かれたものである。伊藤は捕虜総数を記しておらず、当日は不参加である。したがってこれは翌日の大隊本部の訓示によると思われる。

  これら三人の二万人説は中隊長または大隊長などの訓示において得たものである。二万人という数字が示された理由としては中隊長、大隊長といえども、十七日の魚雷営の殺害を知らなかったという可能性も否定できない。しかし、さらに大きな可能性としては、訓示の意図が不注意によって我が方に十人の死傷が出たことを戒めるためであったと考えられる。とすれば、捕虜総数を言うのではなく、日本軍に被害が出た殺害場所における捕虜の総数を語ったとも考えられる。すなわち、十六日に魚雷営で五千名、十七日に大湾子で一万五千人を殺害した際に、日本軍側にそれぞれ二名、八名の死傷者を出したことに対する注意をしたということである。

二万人説は実は大湾子の殺害数単独のものではなく、十六日の魚雷営での殺害数が含まれた数字である。

 

3.一万七千人−一万三千人説(本間、荒海、菅野、栗原、目黒、遠藤)

★中野政夫 歩兵第65連隊第1中隊 上等兵
十二月十八日  
 警備。(大隊に於いては一万七千の捕虜を所(処)分す)
 変わりたることもなし。

  この一万七千は収容所Aの全数(=捕虜総数)という意味か、十七日の大湾子で一万七千の意味か、測りかねる。後者の意味でいうものは他にない。おそらく前者であろう。当人は捕虜の処分に関わっておらず、捕虜の処分を十八日付けで記しているのが珍しい。本人が関わっていないとしても「変わりたることもなし」という無関心さに驚かれる。

★本間正勝 歩兵第65連隊第9中隊・二等兵
十二月十七日  
 午前九時当聯隊の南京入城、軍の入場式あり、中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す、煙草二ヶ渡、夜は小雪あり。

  本間の一万五千は十七日、大湾子のものを確実に示しており、死体の総数について言っているのではない。また、十八日も宿舎内にとどまり、中隊長の訓示などによって死体数の修正情報を受けていない。

★荒海清衛 歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵
十二月十七日
 今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。  

  十六日の二千五百が収容所Aであろうとは前述した。一万五千を足すと収容所Aの最終捕虜収容者数一万七千二十五にほぼ等しい。十六日に収容所Bから二千五百から三千が連行され、十七日に五千が連行されたとすれば、捕虜総数約二万五千となる。

★菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
〔十二、〕十七
 未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。
 朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

  日記の前後からは察するに管野自身は不参加組である。捕虜総数は約二万との認識を元々持っていた。十六日に捕虜の一部、十七日に残部の一万数千という認識である。訓示は聞いておらず、独自の認識である。

  栗原利一氏は十七日の殺害数一万三千五百という認識である。「第一大隊百三十五名で一万三千余捕虜を降し、敵を武装解除」。栗原氏の口述の中には捕虜総数の一四日以後の増加および魚雷営における殺害への言及がまったくない。これは当時から知らなかったのであろう。この数字は総数二万余としたときの2/3に相当する。この数字自体はそういう計算のもとに与えられたものを記憶したのであろう。事件当時の記憶はしっかり記録されたが、殺害数そのものの信憑性には捕虜総数の認識に基づく限界がある。

   目黒福治は総計二万で十六日七千、十七日一万三千という認識である。前述の通り、訓示によってもたらされた二万人説を後でなぞったものであろう。謎を呼ぶのが十八日の記事である。

★目黒福治  山砲兵第19連隊第V大隊段列・伍長
十二月十八日 晴天 南京城外  
 午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は白く雪を頂初雪となる、南京城内外に集結せる部隊数約十ヶ師団との事なり、休養、午後五時残敵一万三千程銃殺す。  

  他に十八日に殺害したとの記載はなく、「午後五時残敵一万三千程銃殺す。」は十二月十七日の記載「午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く」とほぼ同文である。十七日の殺戮を重複して記載したと考えるのが順当であろう。彼は十三日の記載でも他の日誌が記していない、捕虜の大量獲得を記載していた。『難訓大虐殺を記録した兵士たち』の編著者である小野賢治氏の見解によれば、この日に他師団で一万三千人が殺害された可能性があるとするが、自分の支隊の殺害すらも把握しかねるのに、他師団の殺害を記すいわれもないように思う。

★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊・少尉
十二月十七日 晴
<略>帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。

  総数一万七千二十五名の三分の一を一六日に処理し、一七日にその残余、つまり一万千四百程度を殺害した勘定になるが、いずれにしろ、収容所Aの一万七千二十五名を総数としての認識である。

4.柳沼の七千人説

  柳沼和也の「一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た」は一万七千人の聞き違いか、でなければ十七日の魚雷営での殺害数七千人を聞いたかもしれない。いずれにせよ、大湾子での七千人説はないものと考える。

 

D.総括

  高橋氏、F氏の二万五千は死体総数である。大寺、宮本、伊藤の二万は大隊長訓示を聴いた結果、十六日の魚雷営のものが加算されている。したがって、魚雷営の殺害数を差し引けば大湾子はほぼ大一万五千となる。 
   本間と荒海の一万五千は連行数ないし殺害数そのものを伝聞あるいは目視で捕らえた可能性が高い。他の証言・記録は収容所Bの存在を知らず、捕虜総数を知らないための制約を受けている。
 
  すでに、捕虜総数は二万二千から、二万七千の間と結論した。これから魚雷営での殺害数八千から一万を差し引けば、最小一万二千から最大一万九千に及ぶが、これでは幅がありすぎる。捕虜総数の代表値二万五千をとった場合、魚雷営二日間で一万として大湾子一万五千人を代表値としていいのではないか。

 

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