3.軍命令に反する捕虜開放について
        
   とほほ板投稿  2003/09/06
            
改訂、初回上網  2003/10/21

捕虜解放の企図は支隊中枢、「師団」、「軍」の意志に関わることであり、他の事件と異なり『兵士たちの日記』などからは読みとれる性質のものではない。そこで資料となるのは山田、両角の日記、両角ノート、軍司令部の参謀らの日記だけである。ただし、両角ノートが虚偽の記載に満ちているのは、先に明らかにした。それだけでなく、両角の日誌なるものも、戦後になってまとめられたと言う。すなわち、戦後になって日記がまとめられ、それを元にさらに回想ノートが書かれたという不思議な経緯がある。したがって、両角日記もまた、濃厚に両角の意図を忍ばせたものと言えるだろう。また、山田日記は紹介者の阿部輝郎、鈴木明の二人ともが、改竄を加えて著作に載せているという経緯がある。幕府山事件の研究はこうした資料改竄者たちとの戦いでもある。

A.山田支隊の意志は何であったのか
ウソの証言であっても、そこには自ずから真実の一端が現れている。まず、「正史」の骨子となっている両角ノートを提示する。

    ★両角ノートより
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果 を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」−田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

すでに多くの論者から、不審な点に満ちていることを指摘されているのであるが、ここではそれはさておき、両角ノートから支隊と「軍」の意志を抽出すると
  
「軍」の方針は       【   処置   命令  】   
                       
 山田支隊の意志は   【 「軍」に収容 】 → 【 捕虜開放 】
   
さて、ここからが本番である。山田日記を読み解きながら、両角ノート、日記との相違を明らかにしていこう。

★山田日記 『南京戦史資料集2』による
◇十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

素直に読めば「皆殺せとのことなり」であるから、「各隊食糧なく困却せり」などと食糧の心配をする必要はない。書いてはいけない文章を省略して書いたのでこのような謎めいたつながりになるのである。さて、この日南京に本間少尉を送った経緯についてはeichelberger_1999さんの解釈に従うべきである。

山田日記の解釈 捕虜殺害の命令経路についての考察
飯沼日記から、12月15〜16日の時点では上海派遣軍司令部は南京城内に位置せず、その郊外の湯水鎮にいたことがわかります(※1)。15日の時点で南京城内にいたのは第16師団です(※2)
 そうすると山田旅団長が本間騎兵少尉を南京に派遣したのは、飯沼少将の日記にある「依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム」(※3)という上海派遣軍の指示を実行に移すべく、第16師団司令部との連絡をとるためであったと考えられます。

 それにたいして第16師団司令部は捕虜の接収を拒否し、捕虜の「始末」(「皆殺せ」)を命じたのだと思われます(※4)。この対応は中島師団長ならば十分考えられることです。本間少尉はその顛末を山田旅団長に復命し、山田少将は「皆殺せとのことなり」と日記に記したのですが、渡辺さんも仰るように、この師団は第16師団のことをさしていると解すべきです。

 対応に困った山田少将は翌16日、さらに相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣し、指示をあおぎます(※5)。派遣軍は山田支隊を長江北岸の第13師団本隊に合流させるために(※6)、大量の捕虜を第16師団に収容させるという方針をとったにもかかわらず、第16師団がその命令に従わないことが判明したわけです。

第十六師団中島師団長が捕虜の引き取りを断って、殺してしまえばいいんだ、と取り合わなかった。そこで、捕虜の給養をさらに続けなくてはならなくなり、食糧の問題が重くのしかかってきた、ということになる。そこで、十五日の山田日記は下線のようにでも言葉を補えば繋がりはよくなる。


捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
中島師団長いわく「みな殺せ」とのことなり。
さらに給養を続けざるを得ざるも、各隊食糧なく困却す

一方、後年の山田証言では

    ★鈴木明の『南京大虐殺のまぼろし
この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません」と帰っていった。(pp194)

という。これは鈴木明の山田に対する聞き取りの中で唯一、引用文がきちんと連続している部分である。(平林証言の鈴木明聞き取り版参照のこと)山田も憲兵将校もたまたまキリスト教徒だったらしい。内容も真実性が感じられる。ただし、最後の「命令はお伝えできません」は不審に思う。なぜかというと、「捕虜がどうなっているか?」と聞きに来たものが、最後の段階になって「命令はお伝えできません」などと言うはずはない。命令の伝達なら最初にしているはずだ。「命令はお伝えできません」の言葉はウソである。
それはそうとしても、支隊の意思が当初は「多すぎて殺せない、だから、殺さない」であったことは確かである。

    ★山田日記 『南京戦史資料集2』による
◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

上海派遣軍司令部に派遣したが、打ち合わせの結果を書いていない。ここにも書いてはいけない文章が隠されているのである。それが何かは追って明らかにしよう。
ここでは、「捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、」という一文に注目したい。実に微妙な表現で、一読して裏に何かあるのに気づかれる。捕虜の監視といった、戦闘ではない任務を大役などと持ち上げるわけはない。実際、収容所Aの捕虜監視は十七日まで第V大隊の役割であった。これは、田山大隊長を捕虜殺害実行の総指揮者に任じたということを山田本人だけがわかるように記載したのである。

捕虜の始末其の他を打ち合わせた結果、なぜ、どのようにして、捕虜殺害の実行を命じるに至ったのか。

B.虐殺命令を出したのは誰か

私がeichelberger_1999さんの所論を読んだのは私がネット上における南京大虐殺の議論に興味を持ち始めて間もない2002年10月頃のことであった。その当時私はネット上で交わされる幕府山事件の議論を読んでも、何がどう論じられているかよくわからなかった。そんな私でもeichelberger_1999さんの所論が研究者も見落としていた事実の発見であることだけはわかり、驚倒したものであった。しかし、今となってはeichelberger_1999さんの所論の最後の部分は私にとって納得できないものとなっている。

               ★eichelberger_1999さん
−つまり、派遣軍司令部の方針は、16師団に接収→捕虜の殺害→上海へ後送と三転したのだ考えれば、うまく説明できるのではないでしょうか−

派遣軍司令部の方針転換は飯沼守日記などの資料からは読みとれない。16師団の方針の変化の資料もない。事実としては山田支隊の方針転換だけが「捕虜の始末其の他の打ち合わせ」の後唐突に出現したという形なのである。

派遣軍司令部の方針は   【 16師団に接収後、上海へ後送  】   
                    
 16師団の意向は                 【 接収拒否 】         
                                ↓              
山田支隊の方針は     【 16師団に接収  →  捕虜の殺害 】

とすれば、これらの事実から歴史を構築するのが筋である。

結論を最初に提示しておこう。捕虜殺害は両角連隊長の発案であり、両角が山田の背中を押してさせたものであった。


C.打ち合わせの内容はなんだったのか

十六日に軍司令部に「捕虜の始末其の他について打ち合わせ」をしたとき、支隊側はどういう申し立てをしたであろうか。それまでの支隊の方針は捕虜は「生かすも殺すも大変なり」であるから、引き取ってもらうのは歓迎であった。軍司令部は十六師団への預かり、後送が方針であって、両者の間に対立はなかった。したがって、支隊側の申し立ては次のようなものであったはずである。

−十六師団に引き取ってもらえということだったが、十六師団は捕虜の引き取りを拒否した。引き取り先をはっきりさせてほしい−

これは内容的には「十六師団に引き取りをきつく言ってほしい」ということをも含む要請であった。

しかし、十六師団師団長、中島今朝吾の言いようを相田中佐から聞くにおよび、軍司令部はただちに窮した。本来であれば麾下の師団が命令に服しなければ、これを叱責し督促するのが筋である。ところが、軍司令部には師団長を命令に服させる自信がまったくなかった。

このとき、軍司令部には松井司令官は到着しておらず、配下の参謀たちがしきっていたのだが、松井司令官でさえ、中島師団長を統率できなかった証拠がある。後日の話でなるが、中島今朝吾が占領した宿舎の家具を私物化して日本に送るのを松井が非難した。ところが、そのぐらいのことでぐずぐず言うなと言い返し、松井はそれに対して何も言えなかったという。総司令官である松井石根大将に対してでさえ、こうであったから、飯沼守などの支那派遣軍の幕僚が「捕虜を後送するから、それまで面倒を見よ」というような「ふやけた命令」など歯牙にもかけなかったのは明らかであろう。

軍司令部の参謀たちは再度、中島に命令してそれが通らなかったとすれば司令部としての沽券に関わると考えたに違いない。軍司令部は師団に督促するどころか、逆に山田支隊に対して重ねて「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と突っぱねたと思われる。

困ったのが、山田支隊である。軍司令部からは捕虜の引き渡しを命令されたが、何度行っても中島が引き取るわけはないのはわかっている。また、同時に十九日までに渡河して対岸の本隊である十三師団に合流するよう命令が下っている。このようなときに日本軍ではどのような思考態度、行動パターンをとるであろうか。

D.軍隊の命令の建前と兵士の行動パターン

無理な命令が出た場合でも日本軍の中では必ず、実行しなければならなかった。たとえば敵の陣地を占拠せよと命令された場合、無理とわかっていても突撃しなければならず、死をもって命令を遂行しようとしたことを示さねばならなかった。攻撃命令の場合は実行困難でも対処の仕方ははっきりしていた。

内務班において隊の装備、備品をなくした場合はどう対処したか。装備、備品はこれ、すべて天皇陛下のものであるから絶対になくしてはいけない。このときはしょうがないから他の隊のをとってきて、員数あわせをする。もちろん盗みは軍隊内でも犯罪であり、ばれれば当の本人が処罰を受けるのみならず、その上官の昇進に影響する。しかし、ばれなければよいのだから、この場合の盗みはむしろ内々に奨励されているといっていい。すなわち、装備・備品の充足は戦闘を遂行するための保証であり、軍隊内の秩序は建前であるから、建前は戦闘のために常に犠牲とされていたわけである。

もうひとつ例え話を引こう。
−上海からの追撃戦の中である中隊長が自分の食事があまりに豪華なのに驚いて、当番兵にこれは違法に徴発をしているに違いない、適正にやれと命令した。そこで当番兵は徴発を控えて兵士同様の簡素な食事を出したところ、中隊長は飯がまずいから当番兵はもっと努力するようにと言った。そこで当番兵は元のように徴発を行ったが、食事の質はほどほどのものにしたので何もいわれなかった−
すなわち、建前の命令はきいている振りだけして、それを無視し、実質的な命令である「うまいものを食わせろ」を実行すればよいのである。

E.両角業作大佐の謀議

さて、山田支隊においては捕虜を引き渡す(つまり、殺してはならない)という建前の命令と、作戦に関する実質的な命令である渡河をどう調和させたのか。

渡河に捕虜は連れて行くわけにはいかない。捕虜を勝手に逃がすのは、渡河が遅れることとは較べものにならない重大な軍規違反であるから、逃がすわけにもいかなかった。そこで両角連隊長が発案したのが、捕虜の集団脱走が起こったのでこれを射殺したという筋書きであった。両角大佐が回想ノートにおいても山田支隊長にも無断で実行したと書くのは、この発案が両角のものであったことを示している。

ただし、山田が了解していなかったというのはウソである。殺害には両角連隊長の第六五歩兵連隊だけでなく、山砲兵連隊が関与している以上、山田の指揮によることは明らかである。山田自身「誠に田山大隊長、大役である」などと虐殺の護送責任者をたたえているのである。また、戦後においても「両角連隊長とハラを合わせたうえ、夜間、ひそかに解放することに決断した」(阿部輝郎著「ふくしま『戦争と人間』」)と証言している。しかし、渋る山田を説き伏せ、捕虜虐殺を決意させたのは両角に他ならない。両角が軍隊内の階級とは別に山田より上に立っていたことは『両角証言の検証』の中ですでに述べた。

捕虜の殺害という形でとにかく支隊は捕虜から自由になれる、渡河できるようになる。ただし、捕虜の大多数を殺害したのでは捕虜の殺害を禁止した軍司令部の意向に反することになる。そこで、捕虜の大多数は「申し訳ないことだが」「集団脱走されてしまった」という形を装えばよい。これが両角大佐の腹づもりであった。ただし、大量の死体が残ってしまえば逃げられてしまったというのがウソになってしまう。そこで死体の処理だけは厳重にする必要があった。

これはすべて支隊、師団、軍司令部の思考・行動パターンからの推定にすぎない。実際にそれを示す文献資料というのはない。あるのは、両角回想ノートと言われる明らかな虚偽書証があるだけである。ウソの部分があることはわかるが、真実が何であったかまではわからない。したがって、この推定を支持する別の根拠が必要である。それが、虐殺後の死体処理である。

F.死体を焼き、揚子江に投棄したのはなぜか

殺害当日にはただちに捕虜の山に油をかけて火を放ち、動き出す捕虜を銃剣刺突によって殺した。これはどこの部隊でも行われたやり方であった。また、翌日は捕虜の死体の揚子江への投棄が始まった。揚子江への死体投棄も他の部隊で盛んに行われた死体処理方法であった。

ただし、他の部隊が少数ずつ殺しては投棄していたのに対し、山田支隊が行おうとしたのは一度に一万五千人以上もの大量殺人と死体投棄であった。冬期の揚子江は流れが緩慢であり、すぐに岸辺に沿って大量の死体が堆積し、投棄が困難となった。魚雷営での死体投棄は桟橋の上からの投棄であり、河の深さがより深いところで投棄したので、大湾子より流れやすかったが、それでも二日目には流れなくなった。

いったい日本軍の死体処理はいかなる方針の下に行われたのか。他の部隊では捕虜をクリークや池の近くに追い込んで銃殺したり、壕を掘らせてその近くで殺害することもあった。しかし、道路沿いや城壁の近くでは殺しただけで折り重なった死体は放置された。その場合の最終的な死体処理は中国人に任された。すなわち、死体処理は日本軍の統一した方針ではなく、適当な場所があればしたが、なければ放置していた。

ここで山田支隊は死体の焼却という措置をとった。生き残りを判別するために油をかけて焼くのとは別にさらに焼却することは他の部隊ではおそらく例がない。ずっと後になって、死体の腐敗が進むのを嫌って、焼却する例はあったが、殺害後早々に焼却されるということはなかった。

なぜ、山田支隊だけが虐殺死体を早々に投棄し、焼却したのか。よく考えるとこれは相当に不思議な行動である。この死体処理のために、部隊は十九日の渡河予定をわさわざ二十日に延期せざるをえなかったのである。

    ★山田日記
十二月十八日 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す
十二月十九日 捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ

    ★両角日記
十八日 俘虜脱逸の現場視察、竝に遺体埋葬。
十九日 次期宿営地への出発準備。

ところが、両角は他の資料・証言に一切言及がない、「埋葬」を書いている。また、両角の日記には「準備」という言葉が多い。「南京入場式準備」、「捕虜開放準備」、「出発準備」と三回も出てくる。これは本当に実際に行われていることを伏せたため、書くことがなくなり、それを補うためである。本当の日記なら実際の行動のみを書く。なにがしかの行動を予定するならその準備は当然であり、書くまでもない。歩兵六十五連隊の日常は「十二時に宿営しても午前二時には再び進軍を始める」ようものであり、準備というような悠長な時間について記すことはなかったのである。「総出」でしたはずの死体焼却と投棄を書かなければ十九日について書くことがなくなってしまう。「出発準備」と両角が記すのは何をおいても、この件だけは伏せたかったことを示す。

もし、軍司令部からの殺害命令があったとすれば、たとえ死体処理を始めたとしても、渡河予定に間に合わないとわかった時点でさっさと中止したはずである。ところが、死体をすべて流しきれないとわかると、これを焼却した上で投棄するという方針をとったため十九日の「午前総出にて努力せしむ」という状況になった。

なぜなのか。軍司令部の命令は捕虜の引き渡し、後送であるから、これは殺してはならない、ということを意味する。捕虜が逃亡しようとしてこれを阻止するために発砲したが、多くの捕虜に逃げられたというストーリーを完結させるには、大量の死体が残ってはいけないのである。このため、死体の投棄を始めたが、投棄した死体が河岸を埋めるという事態になった以上、どこの誰が殺されたかわからないようにする必要があったのである。軍服を焼き、顔面を焼いて何ものかを不明にする必要があったのである。

山田らがそこまで死体の焼却にこだわったのは捕虜の後送が軍司令部の一貫した方針であり、捕虜の殺害は命令違反であるから、殺害の露見は絶対避けねばならぬと覚悟していたことを示している。

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