幕 府山事件―「軍命令説」の迷妄を排す
               2010.8.17 first upload
                         2014.1.21 reviced


長中佐の違法命令説について


  長勇の捕虜虐殺命令説は否定派からは軍の正式命令ではなく、違法命令だから日本軍に責任はない、という日本軍免罪論として重宝され、肯定派の一部はこ れこそ軍が虐殺を命令を出した証拠であると性急に軍命令説を立証するものとして重視された。しかし、彼が虐殺命令を出したという一次史料は一切ない。長の 虐殺命令なるものの元をたどれば意外なことに長自身が周囲に言いふらしいた、というエピソードに起因するのである。彼の言動が周囲にどのように受け取られ たかを見ることにより、彼の実像が得られる。結論的に言えば、彼は歴史を実際に動かした人物ではなく、ただのトリック・スターである。

徳川義親氏が伝える彼の言動を見てみよう。

日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでい る。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれ こんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田く んにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。
(「最後の殿様」P170〜P173)

  いかにも並はずれた乱暴者のように見える、彼のその言葉を徳川氏は真に受けたようである。この光景は12月13日の江岸での状況を彷彿とさせるが、実 はその日、長中佐は支那派遣軍司令部の一員として湯山にいた。仮に別の日のこととしても味方の兵士を斬り殺 すということはありえ ない。自らの勇猛さを印象づけるホラで人を驚かせて楽しんでいるように見える。彼は馬上で戦国時代の陣羽織を着て行軍して見せたりするという演技性性格の 持ち主であった。このような 人物はむしろ歴史の重大事を動か すというよりは、事件の周辺で目立つようにヒラヒラ踊っている人物である。

角良晴少佐証言

十 二月十八日朝、第 六師団から軍の情報課に電話があった。
「下関に支那人約十二、三万人が居るがどうしますか」
情報課長、長中佐は極めて簡単に「ヤッチマエ」と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く「解放」を命 ぜられたので、長中佐は「解りました」と返事をした。
ところが約一時間くらい経って再び問い合わせがあり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。
『偕行』シリーズ(14)(昭和六十年三月号)
(第六師団からの電話というのは 誤記憶の可能性が高い)

この証言は幕府山の捕虜処刑についてのものではない。長中佐の無軌道な私物命令についての証言の一例である。しかし、この資料の意味す るところは彼がした常軌を逸した命令については師団が不審に思い問い合わせる常識を有し、ま た、同僚が彼を監視していたという事実にある。

南 京攻略のときには自分(注 長勇)は朝香宮の指揮する兵団(注 中支那派遣 軍)の情報主任参謀であった。上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江附近に進出すると・・・・退路を断たれた約三十万の中国兵が 武器を捨てて我軍に投じた・・・・(自分 は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自 分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。
命令の原文はただちに焼 却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかった。(田中隆 吉 『裁かれる歴史<敗戦秘話>』)

  これは陸軍兵務局長を務めたことのある、田中隆吉氏が長勇から聞いた証言の記録である。南京陥落以前のことであるが、この時期に三 十万の中国兵が投降したという事実はない。「 命令の原文はただちに焼却した」というのは長が真実らしく見せるために付け加えた与太話ではないか。長が焼却しても、各部隊には命令書が残されるのであ る。異常な命令が出しても必ず 復命によってその結果が報告され るから、復命のところまで彼が全部握っていなければならない。ばれれば、重大な軍機違反であるから、参謀といえども厳重処分を免れない。松井大将や朝香宮 鳩彦親王の お膝元でかれらの顔に泥を塗ることなどやれるわけはない。

  秦郁彦下克上の風潮があったとして長中佐の違法命令を疑っているようだ。秦は上に引用した二つの文献を秦の著作『南京事件』にも引用して、その可能性 を論じている。しかし、当時の下克上の風 潮の事例を見るとわかるが、必ず上官の目の届かない出先機関あるいは前線で上官の命令を無視して自分が思うような、やりやすいような活動を行う、というの が本質で ある。上官の面前で命令を無視する、拒否すれば抗命に当たる。そのような事例はあまり聞いたことがない。しかも派遣軍司令部と いうところでそんなことがあったとは到底考えられない。

 彼の破天荒な言動を書きとめた手記は多いが、注意して見ると長中佐の「武勇談」らしきものは、彼の行動を観察していたものから伝えられたものはひとつも ない。みんな彼 自身が吹聴したものである。しかも、相手は事件の現場の状況には詳しくないひとである。長中佐は事件においてどういう 役割をなしたか、と言えば、残虐行為、不法な殺戮を称揚、教唆する発言をばらまい ただけである。 彼の発言を愉快に思う軽はずみな連中が彼のマネをして無軌道な行動をやらかすということは一部にはあったかもしれない。しかし、彼自身は歴史の舞台で重要 な役割を演じることがないまま一生を終えた人であった。後年彼は沖縄軍参謀長に任ぜられたが、まだこれから戦闘が長く続くというときに多くの部下を差し置 いてさっさと自決してしまった。彼の部下にとってはまこと に迷惑千万だったろうが、彼は立派な軍人という自らのイメージに満足して死んでいったのだろう。

この意味で長のなした役割は「トリック・スター」と呼ぶのが相応しい。

  トリック・スターというのはドラマで本質的な役割を演じているのではないが、ドラマの本筋に関連した話題を常に口にし、周囲の人間にはあたかもドラマ が彼 を中心に動いているかのように見られる役回りを言う。ドラマの本筋は別の役者によってひそかに進行しており、トリック・スターは本筋の進行には関係なく、 彼らの周りで飛び回っているだけある。しかし、彼 の華麗な、わかりやすい言動があることでドラマは活性化する。例えば寅さんの映画でマドンナと彼女の恋人の恋愛がなんらかの理由で行き詰まっている。寅さ んは彼らの間を行き来して大いに話題を盛り上げるが、実 は彼らの間でひそかに思い過ごしに気が付いてヨリを戻していく、というような展開が例である。

結局、彼は歴史においてなんら、主な役割を果たすことのない人物ではなかったかという思いがする。

  私が幕府山事件の捕虜殺害の事実上の決定者と推理する両角業作は「人格者」、「部下思い」と言われ、戦後においても企業で重役についていたようだ。優 柔不 断な上官である山田少将の背中を押し、支隊の早期渡河を成就させるため、二万五千の捕虜を情け容赦なく殺害することを決した。他の六十五連隊 の生き残りの証言者はいずれも心の動揺を隠せず、あるいは矛盾に満ちた証言をしているのですが、彼の手記にはいささかの心の動揺も見えないばかりか、捕虜 の幸せを願うという見かけさえみせるという戦慄すべき冷静さまで持ち合わせている人物で ある。こういう人物こそが、歴史に残る大虐殺をやり仰せるのである。

鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』より
しかし、話の順序をよくきいてみると「始末せよ」といった当の参謀が、長大佐であったことは間違いない。長 大佐。三月事件の理論的指 導者といわれ、右翼革命成立の暁には、警視総監に擬せられていたという。その押しの強さと狂信的な姿勢とは定評があったが、頭は切れる人物だった。長大佐 のクラス・メートの一人であった日高氏の話によると、かつて満州の炭坑にいて人手が足りないと知ると、自分で奥地に出かけていって、徴発した男の家を自の 前で焼き払ったそうだ。それで里心を失くさせ、働かせようという意図だったのだろう。

彼は山田旅団長に、捕虜を釈放した時の後難について、いろいろ実例を交えて送ってきたそうだ。無論、山田氏は「口が割けて も」という強い態度で、長主任参 謀の名前は口にしなかった。だから、これは、戦史を読んでいての僕の推論である。(P193)

山田氏が長大佐について述べた場面は同書にひとつも出て来ない。「話の順序をよくきいてみ」ても長大佐が始末せよ、などと言ったという 心証が出来るはずもない。「彼(注 長大佐のこと)が実例を送ってきた」とのことであるが、山田氏は長の名前を決して口にしなかったというのに、どうして 「彼」が送ってきたなどと書けるのか。まったくもって矛盾だらけの文章である。虐殺の責任を無理にでも長のせいにしたいがための鈴木の作文に過ぎない。
 

「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」と筆者が水を向けたのに対し、吉原が横を向いて「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に 残っている。
(『日中戦争の諸相』板倉由明著 P193-P194)


板倉もまた、長の違法命令説が心の救いだったらしい。「吉原が横を向いて『長はやりかねぬ男です』と言った暗い顔が」といった筆遣いには彼の著作の他の部 分には見られない思わせぶりが入っている。

  長は否定派にとっては軍(司令部)が、正式に虐殺命令を出したのではない(のではないか)、という言い逃れになっており、史実派の一人である洞氏に とって は軍が命令を出したことには間違いがない(のではないか)という断罪のタネに用いられている。否定派、史実派の双方にとって、希望的観測でjokerと見 られているが、根拠は一切なく、みんな彼の外見に幻惑されているのある。
 


小野賢二氏による軍命令説について
小野氏は自らが集めた兵士の日記資料に「軍命令による殺害」であったという証拠が見いだされるという。

(『南京大虐殺否定論13のウソ』南京事件 調査研究会編、小野賢二)より
この論文の中で、(タラリ注 「南京事件―『虐殺』の責任論」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』)
板 倉氏は「現時点では、軍命令によって計画的・組織的に捕虜を虐殺した、という証明はできない」として、この虐殺が山田支隊の独断か、ある一人の参謀の独断 命令によって行なわれた可能性が大であり、したがって日本側には公的責任はないという公的責任回避論に逃亡することになったのである。
 この視点は上海派遣軍司令官だった皇族の朝香宮鳩彦王中将の責任問題を意識してのものだろうが、参謀一人の独断命令や、山田支隊単独の判断で捕虜約二万 人 の大量虐殺など実行できるわけが なく、軍命令によって計画的・組織的に行なわれたのである。事 実、軍命令であったことは陣中日記にも記述されている。また、当然のことだが、虐殺された人 々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。(P145)


 兵士の日記資料中、命令の出所について書いたと思われるのは次の二つくらいしかない。
 

◆遠藤高明少尉
十二月十六日「一日二号宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し」


遠藤少尉は推測と明示している。
 

◆宮本省吾少尉
「大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」

この条で、 宮本少尉は「大隊」と書いていて、軍とは書いていない。彼が直接知ることができるのは大隊の動向までであり、軍命令を直接に知る立場にはない。日記資料で 軍命令が証明されるというのは間違いである。

板倉に対する反論は、はじめに《捕虜の大量虐殺が軍命令 なしには行えない》という臆断ありき、とでも評するしかない。 大量虐殺が軍命令なしに行えない、というテーゼが真実ならば、小野氏は日記資料の発掘を待たず、証明は既に成っていたということになる。


「軍による処刑命令」説に反論する

もし、山田旅団が軍命令によって処刑を行なったのであれば、軍に対していついつ処刑をしました、という復命を行なうのが通常である。仮に渡河を急いでいた ために直接、連絡が出来なかったとすれば、南京駐在の他の師団に伝言を依頼すればよい。ところが、山田旅団は軍に対していかなる連絡もしていない。したがって、軍による処刑命令説はただちに崩壊する。

上海派遣軍参謀長・飯沼守少将日記
十二月二十一日 大体晴
 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将 校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上 海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

派遣軍は榊原参謀を
捕虜引き取りのための連絡に行かせたことが明記されている。軍の意図は最初の命令通り、捕虜を第十六師団に引き 渡せということであり、その後の変更がなかったことが明らかである。榊原参謀が要領を得なかったとは、捕虜引き取りもして来ること が出来なかったばかりか、それに到った経過の説明も山田旅団から得られなかっということを示す。その 代わり、榊原はN大佐からある情報を聞いた。

上海派遣軍副参謀長・上村利通大佐日記
十二月二十一日 晴
 N大佐より聞くところによれは山 田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散 逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。


捕虜の処刑は深夜に行なわれたので、南京駐在の他の部隊のものも真相は一切知らなかった。N大佐の情報は実は山田旅団がこっそりと漏らしたようにして仕込 んだものだった。捕虜全員の処刑を遂行したのに、あえて捕虜多数に逃げられたという情報を流したのはなぜなのか。軍命令に違反して処刑したことを咎められ るのが怖かったのである。すなわち、軍 が捕虜の処刑を命令した事実はなかったしかし、中島師団長に引き取りを拒否され、第十三師団からは早急に渡河するよう催促されて、山田旅団長は 進退窮まった。そこで知恵者であり、冷血漢でもある両角大佐が「捕虜は殺すが、処刑中にほとんど逃げられたことにしよう」と山田をそそのかした。捕虜に逃 げられたという、本当なら恥ずかしくて隠すのが当たり前、しかも事実ではないことを噂として派遣軍司令部に届くようにしたのである。

すでに私がこのサイトで書いてきたものを読めば、このあたりの事情はよく理解されていると思っていたが、意外にもまだ理解していない方が多いと知って追記 する次第である。

部隊単位の虐殺も当然、日本軍の責任であり、山田支隊の責任と派遣軍司令部の監督責任が問われるのであり、両者とも戦争犯罪の責任は免れられない。小野氏が言うごとく、虐殺さ れたものにとって、命令を出したものが部隊長であろうが、軍司令部であるかはどちらでもいいかも知れないが、歴史探求を心がけるものとしては虐殺の責任が最も大 きいのは誰なのか、どうして虐殺を起こすに至ったかについても正確な事実を知りたいのである。



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