北村稔批判−『探求』序論に示された枠組みの問題点

北村稔批判−『探求』序論に示された枠組みの問題点
                  2002/12/02 とほほ板投稿
                 2003/09/19 reviced and upload 
 
  北村の『探求』の序論の3.「『南京事件』研究の新しい展望」はわずか5ページからなる章であるが、ここにおいて北村の議論の枠組みは十全に示されている。逆に言えばその基本的な誤りがすべてが表れていると言っていい。

 過去の侵略への「正確な歴史認識」を求める中国政府の要求は、敷衍していえば、このような侵略を生み出した明治以降の日本の政治体制と社会体制の持っている問題、すなわち日本近現代史の意味を自問せよと日本人にせまっているのである。pp10
  南京事件ないし日中戦争に対して正しい認識を持つことは必要だ。しかし、そこから何を教訓とし、日本人自身が考えることであり、中国に言われる筋合いのものではない。また、中国政府が「明治以降の日本の政治体制と社会体制の持っている問題」を自問せよ、と日本人に迫っているという事実は寡聞にして私は知らない。

 (「虐殺派」は)対外的な「政治姿勢」は反米(反安保)であり、pp11
  「虐殺派」が反米・反安保であるというにいたっては何を根拠に言うのか理解に苦しむ。南京大虐殺の存在を認めるか否かは、反米(反安保)のような政治志向とはリンクしていない。虐殺の事実を肯定する人たちは広く自民党内にまで広がっている。逆に「自由主義史観」を信奉するものの中には、反米を主張するものもいる。非常に不正確な判断であるが、それでも、歴史的事件に対する主張を政治的色分けによって判断しようとすること自体が北村の南京事件に対する政治的立場を示している。
  北村と対比して、私の立場を示しておくとすれば、もし、南京大虐殺の存在の認否に関してリンクする政治的態度を求めるとするならば、日中戦争が侵略戦争であったことを認めるか、否かがもっとも適当であろう。

 筆者は「南京事件」を研究テーマに選ぶさい、「南京事件」研究にまつわる「政治性」から一定の距離を保つことは可能であろうかと考えた。もしも筆者が日本人でなく中国人でもないならば、その研究は「政治性」を帯びない中立的研究と見なされるかもしれない。しかし筆者が、国際社会から南京での「大虐殺」を告発されている日本国民の一員である事実は変更不可能である。また国内において、「南京事件」が日本近現代史の踏み絵として機能する限り、筆者の研究には「政治性」が付与されざるを得ない。pp20
  「南京事件」研究にまつわる「政治性」から一定の距離を保つ、という姿勢が北村の案件のひとつであるという。筆者は「日本人」だから中国側から私の研究の「政治性」を免れないとまで考える。
  「政治性」の発生には二つある。ひとつは個人がその生活史、生活環境において必ずイデオロギー的偏りというものを持ち、どんな個人もそれを免れないということである。もう一つはどんな研究内容もある政治的傾向を持つグループによって政治的な好悪の判断を受けることである。それによって同じ史料の判断をしても少しずつ判断が分かれるし、同じ研究成果も違った判断を受ける。このふたつは二つとも避けがたい。
  北村が「政治性」を免れたいと思うのなら初めから歴史研究をやらなければよい。恣意的な「政治性」を否定したいなら、自分の歴史研究の方法論の正しさをとことん主張するしかない。  
 そしてもし、本人が政治的恣意性を拒否しようと思うならば、自らの政治的立場に反するかのような歴史的事実が出てきたときに、それをあえて否定・無視してそれまでの自分の政治的立場に固執するではなく、その歴史的事実を直視してそれまでの自分の政治的立場にまで考察を深めて科学的真実と自己の思想に対して誠実であろうとするのか、という問題があるのみである。
  しかし、「政治性」に対するこのような高尚な議論とは無関係に、「政治性」に対する幼稚な認識から、北村は歴史を正視する立場を振り捨ててしまう。

 あれこれ考えてたどりついたのは歴史研究の基本に立ち戻るしかないということである。歴史研究の基本に立ち戻る研究とは、「南京での大虐殺」が在ったか無かったかを性急に議論せず、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したかを順序だてて確認することである。pp21
  「南京での大虐殺」が在ったか無かったかを確かめたいのであれば、それにあった「歴史研究の基本とは、1937年から38年にかけて南京で何が起こったか、歴史資料をなるべく集めて、読み解く以外にない。 なぜ「大虐殺の認識」の出現を跡づけるという回りくどい道をとるのか。これは南京大虐殺が誤って成立した歴史像である、ということがわかっている場合にもっとも妥当な手法である。北村はなぜ、「大虐殺はなかった」という認識が出現したかを順序だてて確認しなかったのであろうか。 北村は続ける。

#「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判の判決書であった。pp21
   この断定は誤りである。裁判で確定するのは、被告人の被疑事実である。南京の裁判では第六師団の戦争犯罪事実を認定し、師団長谷寿夫の有罪を確定した。東京の裁判では松井岩根大将の不作為を認定し、松井の有罪を確定した。 裁判には大量の証拠資料・証言が持ち込まれたが、決してそれらから、歴史事実が矛盾なく、筋道だって細部に至るまで再構成されたわけではなく、どちらかというと羅列的に終わっている。なぜかと言えば容疑事実の「背景」にすぎなかったからである。そのため、この概要について弁護団はほとんど争うことなく早々に弁論をうち切っている。裁判官は背景となる歴史的事実について確定をしたわけではないのである。
  北村が”「南京事件」を確定した”と言うのは、それまで個々の資料・証言において、局所的な殺害事案における殺害数がはじめて集積され、二〇万人とか三〇万人という数字に達したことを意味するのであろう、とは推定できる。
  しかし、歴史学における「南京事件の確定」とは単なる数字の積み上げを意味するのではない。まず個々の不法行為(殺戮、強姦、放火、略奪、拉致など)の詳細とそれを引き起こした原因・構造の究明を含むものである。
  南京事件を単なる殺害数の大小に矮小化し、その否定を志すという姿勢はこれまでの否定派の論理の基本を踏襲するものである。 南京と東京の裁判においては外国人滞在者、外国人ジャーナリスト、中国人被害者の証言・記録が証拠として提出された。被害者総数の推定には埋葬資料が有力であったが、日本側の資料は使われていない。日本軍のどの部隊がいつどのように殺害に関与したという詳細についてはわかっていなかった。南京事件の全体像がより明らかになったのはむしろ、その後の研究によって、加害者側である日本軍の資料が大量に使用されるようになってからである。しかし、殺害された数の確定は今なお課題として残されているのである。

したがって、これらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が認識されたのかを跡づけるのである。pp21
  今日、南京事件の全体像は裁判のときより豊富な史料が利用可能となっており、様々な論争があり、事件の細部と有機的なつながりが明らかになっている。裁判時の認識経過を研究する意味はほとんどない。それは単に容疑事実の是非を認定する裁判批判としてのみ有効である。南京事件を否定する側にとっては資料は少なければ少ないほどやりやすい。なぜなら否定しなければならない、史料の数が少なくて済むからである。そして、あえて、裁判をもって南京事件の確定と宣伝し、その後に出てきた論議は不当な裁判によって得られた認識を引きずるものということを言って、否定すればよいのである。


 そのために
#1.証拠資料の出現した背景を確認し、その証拠能力を検討するための知識を得た。
#2.この準備のもとに、証拠資料を「常識」に基づいて検討した。
#3.筆者(北村)のいう「常識」とは、人間が一定条件のもとで引き起こしうる行為の「質」や「規模」を、「実態に近い範囲に」認識できる判断力である。また証拠資料の内容に基づく論理展開の「整合性」を、認識できる判断力である。 −筆者は社会生活を営む大多数の人間にはこの判断力が備わっていると信じる。−日本では停止中であるが、陪審裁判における有罪か無罪かの事実認定は、民間人から抽出された陪審員の判断力に委ねられている。pp22   (#は筆者のマーキング)


  一見もっともらしい条項に見えるが、北村の真意は北村が取った特異な方法論を正当化することにあるのである。

  #1.の「証拠資料が出てきた背景」「証拠能力の検討」とは何なのか、北村はここでは触れていない。結論を先に言うと証拠資料の「背景」なるもので証拠能力のすべてを否定することにある。つまりは資料否定の論理であり、これは第一部でティンパリーの「工作員説」において遺憾なく発揮される。
  北村と対比するために、 私は私が正当と考える手続きをあらかじめ提示しておく。この手続きも歴史資料一般を扱うときと同じ態度が必要とされる。証拠資料に関する個々の資料の吟味と他の資料との比較対照、それからとりあえず得られる歴史像の間を往復しながら「背景」「検討」を行う。それだけである。
  ところで、北村は「背景」「能力」の考察に関して「証拠内容に対立する日本人の反対証言や、新しい提出証拠を援用しない」と宣言した。北村によればこれが中国人に対してこの研究が政治的立場に依らなかったことの証になるというのである。先に見たようにこのような態度を取ることは何ら政治的立場から自由になることはないのであるが、本論を読み進むと、北村はなんのことはない、「証拠内容に対立する日本の反対証言」も使っているのである。 つまりはこの宣言は結果的に「証拠内容を補強する日本人の反対証言や、新しい提出証拠を援用しない」という立場を取ることをカムフラージュしているにすぎないのである。

  #2.出版物によって自説を世に問うということは、すでに一般市民の常識によって南京事件の全体像を判断に委ねることを意味している。では歴史の研究の上で「常識」を持ち出すことの意味は何なのか。

  #3裁判において、陪審員の判断に委ねるためには前段階として検事側、弁護人側が自己に有利な証拠を余すところなく示し、論理を尽くすことが必要である。この場合検事と弁護人に必要とされるのは、常識ではなく、容疑事実を科学的に検証し、それを法的に解釈する専門的な知識と経験が総合されたものである。これらは素人的の常識で間にあうことではない。

  歴史研究における検事、弁護人とは研究者その人である。研究者たるものはその事件に関する史料群を通覧し、そこから得られる事件像に照らしながら、再び資料の重要性、証言能力を問い返しつつ、さらに精選された事件像を再構成する。この過程には素人的な「常識」が入り込む余地はない。なぜなら、「常識」というのは第一に社会人として通常持ち合わせる知識群であり、歴史を判断するにはけっして十分とはいえない。

  第二に、それはしばしば一定の誤解や偏見さえも入り込んでいる。例えば犯罪があればまず外国人を疑うなどの「常識」さえあるのである。研究者にとって必要なのは一般的な「常識」ではなく、それまでに蓄積された知識群と研究の経過で蓄積される専門的知識である。また、訓練された資料の読破能力と論理構成力である。その結果として発表された研究書においてはじめて、いわゆる常識のある社会人に十全の説得力をもって示すことが出来るのである。

   本論で見るように「証拠資料が出てきた背景」を調べるとか「証拠能力の検討」とは歴史資料をきわめて通俗的な「色づけ」によって判断し、あたかも「ねつ造証言・資料」であるかのように印象操作する、その過程を通じて資料の否定を行うというきわめて通俗的な手法であった。つまり、一部の右翼歴史修正主義者にとって「常識的に受け入れられやすい」主張となった。

  つまりは「常識」に訴えるとは、歴史事実の真摯な解明を避けて、低水準の偏見に訴えるということに他ならなかった。したがって、北村は歴史にただの一つの新事実を解明して寄与することも出来なかった。しかし、この戦略は一定の読者層において一定の成果をあげたのもその通俗的な方法によってであった。それゆえ、その偏見に満ちた手法を暴露し、北村の歴史修正主義的な体質を明らかにすることが求められているのである。

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