上海南駅でなにがあったのか。

『ライフ』の説明

8月28日、16機の日本の爆撃機が帰った後、著名なハースト社カメラマンである、H.S.ウォン(ニュースリール・ウォン)は最初に上海南駅の恐ろしい現場に到着した。 彼はこの「今週の写真」を瓦礫のただ中で撮影した。

東中野はライフの写真説明をまったく無視して、「写真検証」なるものを延々と書き綴ったが、「検証」の証拠は一切示していない。

松尾一郎もまたウォンの行動を単なる想像をで歪めて書いた。また、日本軍の爆撃を激しく歪めて伝える 。当日のウォンの行動と日本軍の爆撃を資料を使って検証してみよう。
 

   この写真を撮影したのは、中国系米国人H・S・ウォンという人物である。
  事の起こりは、日本海軍の九六式陸上攻撃機が、中国の秘密補給基地となっていた上海南駅を、昭和十二年(一九三七)年八月二十八日の午後三時に爆撃を行ったことに始まる。
  それから(筆者注 8月28日の爆撃の日から一日以上も経ったあとであるにもかかわらず、いかにも爆撃があったばかりで被害を受けた格好に扮装させた赤ん坊を、上海南駅ホームへ連れて来た。
(写真11注 東中野本の写真Aのこと)を撮影しようと発煙筒を準備し、撮影時に死角となるように、赤ん坊のすぐわきに置き、その煙が出ている間に撮影したのである。

  ところが、燃焼時間が短かったのか、それとも何らかの原因があったのか、すぐ倒れてしまった。
  その瞬間、赤ん坊は泣き止み、倒れた発煙筒の方を振り返ってしまうのである。
  この一連の流れが、H・S・ウォンが撮影したであろう写真と、記録映画フィルム映像として収められている。現在では『激動・日中戦秘録』(ジャパンホームビデオ株式会社)や『バトル・オブ・チャイナ』(米国陸軍製作、フランク・キャプラ監督一九四四年制作)の中に、これらの映像が収められていて、ビデオ映像として見ることができる。
  なぜ、このような写真とニュース映画が同時に撮影され、存在しているのか、不思議に感じる人が多いのではないか。
  それはこの時代、写真と映画フィルムを同時に撮影することが多かったからなのである。
当時のライカなどのカメラは、映画用の三十五ミリフィルムを短く切った使うため互換性があり、仮にカメラが何らかの原因により壊れて写真の撮影ができなくなっても、映画フィルムを印画紙に焼き付けることによって、写真としもプリントすることが可能であったのである。
 そしてまた、その逆も可能であった。
(松尾一郎、「プロパガンダ戦『南京事件』」2004年1月、pp67)

ウォン個人について述べたウソ・中傷は次の通りである。
 

1.ウォンは翌日に駅に行った、最初に入ったカメラマンというのはウソ
2.ウォンはニュース・フィルム撮影機とカメラの両方で撮影した
3.発煙筒を使った
4.被害を受けたように赤ん坊に扮装させた(すでに反証済み)
5.日本軍の爆撃の理由は
「上海南駅が中国の秘密補給基地となっていた 」ことである。


松尾の、これらの主張にはまったく根拠がない。そのことを、こちらは根拠を示して反論する。その根拠となる資料は次の5点である。

1.ウォンの撮ったフィルム
2.当日中に駅に入ったGeorge C. Bruceの写真
3.
台湾新聞記者協会の王小亭の記事によるウォンの行動
4.
”Great News Photos and stories behind them” によるウォンの行動
5.”North-China Daily News”による南駅爆撃の模様

まず、1.2.を比較して

ウォンは翌日に駅に行った、 最初に入ったカメラマンというのはウソ

に反論する。

1.ウォンの撮ったフィルム

『ニューズ・パレイド・一九三七年版』より(クリックで画像拡大)

注   キャスル・フィルムズが販売する『ニューズ・パレイド・一九三七年版』から順にスキャンしたものである。Cが『ライフ』誌の写真と同じ構図であり、おそらくは原図と思われる。奇妙なことにE、F、Gはこの子どもを運ぶところであり、Cとは時間が入れ替わっている。これは、重要な部分をタイトル代わりに先に表示し、後で説明する映像をもって来るというニュース映画の手法 である。例えば、Aは明らかに駅の外であり、@は駅構内のはずれであるから、本来はA@の順に撮影されているが、フィルムでは「上海南站」をタイトルがわりに先に表示している。


2.当日中に駅に入ったGeorge C. Bruceの写真
 [George C. Bruce, "Shanghai's Undeclared War", Mercury Press, Shanghai,1937 or 1938, PAGE 17]


写真の説明文を下に掲げる。

TOP: (LEFT) Overhead railway bridge of the Shanghai South Station, Nantao, wrecked by Japanese bombs. (Right) Dead bodies littered the station area following the explosions. MIDDLE: (Left) More death scenes taken immediately following the bombing. (Right) Scenes of wreckeage met the eyes following the terrific detonations which were audible throughout the Shanghai area BOTTOM: (Left) Six Japanese beombers[ママ] flying in formation, high among the clouds over Nantao. (Right) Death and destruction, too horrible to describe, met relatives and rescuers on their arrival at the scene of the bombing.
上:(左)南市にある上海南駅の線路の陸橋は日本軍機(右)によって瓦礫と化した。爆発に続いて死体が駅構内に散乱した。中:(左)死体は爆撃直後にはもっと見られた。(右)上海周辺で聞かれた恐るべき大音響にの後に瓦礫が出現した。下:(右)六機の日本爆撃機は編隊を組んで南市の空の雲間を飛んでいた。家族・知人と救助のものたちが現れて爆撃の情景に接したが、死と破壊は言語に絶した。

 

 ウォンのフィルムとブルースの写真の比較

   ウォンのフィルム ブルースの写真
煙、粉塵 駅周辺に大量の煙が上がっている。構内も煙か粉塵が舞い上がり画面が白っぽくなっている部分がある。 構内の粉塵はおさまっている
現場にいる人物 けがをした赤ん坊と子どもの他は学生ボランティアしか現れていない(注1) 家族や救助者多数が駆けつけて いる。
死体 構内の死体が撮られていない(注2) 死体を撮したものがある。その死体もすでに一部は片付けられたものであったGeorge C. Bruceの写真の説明文 中:(左)による
構図 構図など意図することなく、直ちに撮ったものである 構図やアングルを計算しながら撮られたものである
画像の緊迫感 緊迫感、臨場感に溢れている すでに落ち着いている

注1.5.North-China Daily News後述).によれば、Ta Tung 大学の学生グループが真っ先に駅に救助に駆けつけたという。『ライフ』誌で言う、治療に当たっていた「ボーイ・スカウト」とはこの学生の一団のひとりであったかもしれない。
注2.ウォンの証言は死体を撮らなかった理由が述べられている(後述4による)。

上記の5点からしてウォンの方がブルースより先に入ったことは明らかである。また、当日中に現場は封鎖され、片付けと救助のものしか立ち入れなくなっている (5.North-China Daily News)から翌日に入るということはありえない。

これらのことからして、ウォンが最も早く現場に入ったカメラマンである、ということは動かせない事実となる。ウォンの画の方が緊迫感、臨場感に溢れているのは爆撃直後であったという 緊張感によるものだろう。

松尾の主張1.はまったく誤りであった。


反論2

2.ウォンはニュース・フィルム撮影機とカメラの両方で撮影した

ウォンがムービーカメラで撮ろうが、スチルカメラで撮ろうが、これ自体は実はどちらでもいいことである。しかし、この写真が「ヤラセ写真」だとする意見は戦前からあるのだが、 それらの主張はなぜかすべて、ムービーカメラとスチルカメラの両方を携行し、ムービーカメラは事実を撮っており、スチルカメラは「ヤラセ写真」専用だったという見方である。ここで二つの文献 を参照する。特に記してはないが、この二つの文献ともウォン自身の証言に基づくと考えられる。

3. 台湾新聞記者協会の王小亭の記事
http://www.atj.org.tw/newscon1.asp?page=prev1243 


 

  アメリカ・ハースト社の中国駐在記者となった王小亭は、いつもドイツ製撮影機を肩に吊し、シャツの上には3,4台のカメラを掛けていた。空襲開始時には「弁公大楼」にいて、連続した爆音に驚いてビルの外に逃げだしたが、頭の中に撮影をしようという考えが閃き、ニュース・カメラを握りしめた、そのときは身の危険を忘れていた。
  線路を過ぎようとしたとき陸橋が燃えているのを背景として写真を撮ろうとしたが、そのとき一人の男性が赤ん坊を抱いて線路を渡っていた。男はその子をホームに置いた後、またかえって重傷を負った子どもを抱えてきた。その子の母親は線路上で死んでいた。このとき王小亭は人の心をつかんでやまない画像を撮影した。日本軍機が再び戻って来た。彼はすばやくフィルムを撮り終えて赤ん坊のところへ向かい、赤ん坊を抱えて安全な場所につれて行った。


4.”Great News Photos and stories behind them”  Author:John Faber より

On the roof of the Butterfield Swires Building, which faced th Whampoo, were many correspondents and cameramen. They waites to record the bombing. By three o'clock the Japanese had not shown up. Word came through that the bombing had been postponed. The newsmen left. All but H.S."Newsreel" Wong of Hearst Metrotone News; he decided to wait a little longer.
About four P.M. he heard the sound of planes. Three Japanese bombers came in low. They circled the temporary Japanese airfield and passed over Wong again. Seconds later, he left the concussion of bomb exploding. Black smoke arose in the direction of Chinese Arsenal, two miles away.
Wong grabbed his 35mm Eyemo camera and film. He raced his car toward the arsenal. As he approached it, he realized that the railroad station had been hit.
"It was a horrible sight. People were still trying to get up. Dead and injured lay strewn across the tracks and platform. Limbs lay all over the place. Only my work helped me forget what I was seeing.. I stopped to reload my camera. I notices that my shoes were soaked with blood.
"I walked across the railway track, and made many long scene with the burning overhead bridge in the background. Then I saw a man pick up a baby from the track, and carry him to the platform. He went back to get another badly injured child. The mother lay dead on the tracks. As I filmed this tragedy,  I heard the sound of planes returning. Quickly, I shot my remaining few feet on the baby, I ran toward the child, intending to carry him to safety, but the father returned. The bombers passed overhead. No bombs were dropped.
 (要点のみを翻訳) ウォンは他の多くのカメラマンや記者とともに黄甫江を望むビルの屋上で日本の爆撃機を待ち続けていた。日本軍機はもう来ない、という言葉が行き交い、記者は残ったが、カメラマンではウォンだけが残った。
  日本軍機が彼の頭上を越して行き、中国軍の軍需倉庫の方向で爆撃音が聞こえたので、ウォンは35mmアイモをわしづかみにして車でそちらへと向かった。軍需倉庫に近づこうとしたところ、駅舎がやられているのに気が付いた。多くの負傷者がもがいており、線路や プラットホームのあちこちに死者・負傷者が散らばっていた。あまり の凄まじい光景にカメラを止めて線路を越えて行った。と、ひとりの男が赤ん坊を線路からホームへ運んでいた。男は他の負傷者を収容しに戻った。母親は線路上で死んでいた。カメラを回してすべての光景を撮ったところへ、日本軍機が戻って来たので、カメラを止めて私は赤ん坊を安全なところまで運んでいこうと走って行った。そこへ父親が戻ってきた。爆撃機は爆弾を落とすことなく通り過ぎた。

  ウォンだけが他の記者とともに待機を続けたカメラマンだったこと、爆撃のあったところにアイモをつかんで真っ先に駆けつけたカメラマンだったことが書かれている。 ウォンの証言によってウォンの行動を把握しているのであるが、 もしこの記述にウソがあれば、他の記者が暴露したであろうから、証言の真実性は保証されている。
  ウォンが持って行ったカメラについては35mmアイモ(ムービーカメラ)についてしか記載がない。スティルカメラを持って行ったとしても特に隠す必要はない。また、例え持って行ったとしても、現場の状況でより適切なのはスティルカメラではなく、ムービーカメラであり、スティルカメラ撮影の必要はなかったということが理解されよう。

  この点に関して松尾はもうひとつ不思議な論拠を主張する。 

  なぜ、このような写真とニュース映画が同時に撮影され、存在しているのか、不思議に感じる人が多いのではないか。
  それはこの時代、写真と映画フィルムを同時に撮影することが多かったからなのである。
   当時のライカなどのカメラは、映画用の三十五ミリフィルムを短く切って使うため互換性があり、仮にカメラが何らかの原因により壊れて写真の撮影ができなくなっても、映画フィルムを印画紙に焼き付けることによって、写真とし てもプリントすることが可能であったのである。
 そしてまた、その逆も可能であった。
(松尾一郎、「プロパガンダ戦『南京事件』」2004年1月、pp67)

「写真とニュース映画が同時に撮影され、」などともっともらしく述べているが、その証拠はまったく示していない。そもそも映画フィルムを写真としてプリントすることができるというならば、それは映画撮影機だけを持っていけばよいという話になる のが普通だろうと思うが・・・。
  なぜ、否定派がスチル・カメラと映画撮影機の二つを持っていったと主張するかというと 《雑誌に載せる写真は赤ん坊を座らせる場所を設定して、カメラで撮り、爆撃の他の場面は映画撮影機で撮っていた、『ライフ』誌に載せた写真の他に、赤ん坊を運ぶ動画や準備中の写真が出てきたのでばれた 》 という解釈らしい。 しかし、「ヤラセ」や「演出」写真を撮ったものが、その証拠動画、写真をわざわざ撮影したり、わざわざハースト社に送ったりすることがあるだろうか。映画撮影機とカメラの両方を持っていったという話の根拠もなければ、映画撮影機とカメラの両方を持っていったから、ヤラセ、演出がうまくできた、という話も成り立っていない。お粗末な「検証」である。

  ちなみに、『ライフ』誌に載った写真は『ニューズ・パレイド・一九三七年版』の画像のCと同じもので、トリミングを受けているものである。

  『ニューズ・パレイド・一九三七年版』の画の中には、@ホームに大人と子どもと赤ん坊がいるものと、A子どもがひとりいるものとB赤ん坊が治療を受けているところが入っていない 。現在、入手できていないが、オリジナル・ムービー・フィルムにこの両者が入っていれば、ウォンがムービー・カメラだけを携行していったことは確定的となろう。
 

3.発煙筒を使った
4.被害を受けたように赤ん坊に扮装させた(すでに反証済み)

ウォンが最初に駅に入ったカメラマンであること、赤ん坊が大けがをしていたことで、発煙筒を使うような動機はまったくないことはすでに明らかである。Battle of Chinaというアメリカの宣伝映画のフィルムの一部に画面の他の部分にも粉塵か煙かが立ち上っており、赤ん坊の左下手からの煙も説明される。
発煙




1.
ウォンは最初に上海南駅の恐ろしい現場に到着した

 

  『ライフ』誌にはウォンが真っ先に駆けつけたとあるが、その事情が納得できるように書かれている。ウォンと相前後して、記者たちも駆けつけたはずで、ウォンが この件に関してウソを言っていれば後で批判されたはずだから、ウソを言うことはありえなかった。
  爆撃機が軍需倉庫(軍需工場という訳も成り立つ)を狙っていた、とウォンに判断されているのは後述する、爆撃に対する非難と日本軍の説明との関連上、注目される。ウォン自らが、カメラは35mmを持って行ったことを明らかにしている。
  他の資料ではニュース・フィルム画像にいる、線路上の死者は14歳の少年であるとしている。「母親」は ニュース・フィルム画像には出ていない、線路上の別の場所で死んでいたのであろうか。また、 ニュース・フィルムの観客は赤ん坊が泣いているのにカメラマン(ウォン)はただカメラを回しているだけでいいのだろうか、と思っただろうが、 ウォンは少なくとも具体的な行動の必要を感じていたのである。
  ところで「父親」が戻ってきた、というウォンの判断が正しいかどうかについては留保したい。ホーム上にいる白い服の男はさきほど腕を腰に当てていた男である。私は画像からは父親とは判断しない。
  この記事も、台湾新聞記者協会の記事も、本人の証言がもとになっているであろうから、疑いたがる人(否定派)はどこまでも疑うだろうが、少なくとも、全体として、ニュース・フィルム画像から感じる多くの「謎」について説得力のある回答となっている。

5.North-China Daily News August 29, 1937

   Scores of students stationed in the Ta Tung College played heroic parts as they rushed to the station, doing the rescue work. They were practically the first on the scene, removing debris and helping the injured on to lorries which arrived shortly after.

Many of the wounded were rushed to hospitals in the city, but a large number came to the Settlement. The Lester Chinese Hospital reported about 100 cases, mostly women and children. The operating rooms were kept busy until evening.

   When a representative of the North-China Daily News visited the Lester Chinese Hospital in the afternoon, extra beds were seen being placed in wards. A group of the wounded were brought to the hospital by Chinese ambulances. One baby, badly wounded, was picked up from the side of its dead mother. At least two children, each aged about thirteen, lying in the hospital, lost their parents.

  Ta Tung 大学の学生グループが真っ先に駅に救助に駆けつけたという。『ライフ』誌で言う、治療に当たっていた「ボーイ・スカウト」とはこの学生の一団のひとりであったかもしれない。また、レスター病院に収容された、「死亡した母親の横に寝かされたひどい傷を負った赤ん坊」とは写真の赤ん坊のことではないだろうか、と思わせる。

ウォンの説明はハースト社以外のメディアである、North-China Daily Newsの報道内容ともよく合致している。

さらに、ウォンの撮影したニュースフィルム(の一部)と別のカメラマンが撮った写真セットはウォンが最も早く現場に入ったカメラマンであったことを裏付ける。







 







2.上海南駅爆撃の被害状況について
  
上海南駅の赤ん坊の写真はその写真に表れる悲惨さだけで、日本軍を告発するのではない。日本軍の上海南駅、南市爆撃、さらには上海、南京、広東と続く戦略爆撃の悲惨さの記事に支えられている。否定派が仮にこの写真を否定し去ることができたとしても、日本軍の爆撃は中国人の記憶からも、世界の人たちからの記憶からも消し去ることはできないのである。その被害の状況とはいかなるものであったのか。

『ルック』誌 1937年10月4日号(再掲)

爆弾が南駅を直撃したとき、駅は戦争による上海の破壊から列車で南へ逃れようとしていた中国人たちがひしめていてた。・・・
プラットホーム近くの中国人たちは・・・8機の双発の飛行機はそれぞれ駅を爆撃した。同時に軍機は上海南部の居住区である南市を爆撃した。民間人地区であった南市は空襲への備えをまったくしていなかったし、軍機は爆撃後も何らの砲撃を受けなかった。以前に日本軍は南市を爆撃するときは予告すると言明していたが、実際にはなんの予告もしなかった。・・・
上海の爆撃によって日本は中国の最も巨大にして富裕な都市を 攻撃したのであった。軍機はまた、中国の首都、南京をも爆撃したばかりである。

台湾新聞記者協会(再掲、拙訳)

  1937年8月28日、日本軍は100機以上の飛行機を上海に向けて次々と飛び立たせ、狂気のような爆撃を行った、当時上海には南北二つの駅があったが、北駅はすでに交戦区となっており、交通は完全に遮断されていた。このため、南駅は陸路からの唯一の出口となり、家を引き払って避難しようと思っている市民でいっぱいだった。路上の民衆は午後2時に左右から四機の日本軍機が南部での戦闘に飛来し、現場を空爆し、500人以上が爆死した、まもなく、8機の日本機が再びやってきて爆弾を投下し、200人が爆死した。南駅は廃墟と化し、死体であふれ見るに忍びなかった。


North-China Daily News August 29, 1937より

a.爆撃の状況について要旨を訳出

8月28日十二機の日本軍機からなる空襲部隊が午後1時45分頃 に南駅と周辺に8個以上の爆弾を投下した。少なくとも200名以上が死傷し、そのほとんどが婦人と子どもからなる避難民であった。駅周辺には4個の爆弾が投下され、貯水タンク、陸橋が崩壊し、ホームと線路瓦礫に覆われた。プラットホームと線路上には黒こげのばらばら死体がまき散らされた。

駅周辺の路上にも4個の爆弾が着弾した。他には北駅の2ブロック北のKuo Ho Road
(孔虹路?)とSan Kuan Tang 街、Loh Ka Pangエリアが爆撃された。

悲惨な爆撃であったとしても、中国軍が南駅を軍事目的に使用していたのが事実であれば、空襲にも一定の理由があったということになる。爆撃の不当性について、当時の日中の見解を比較して見る。


b.爆撃の不当性を避難する中国軍スポークスマンの部分

日本は南駅は「中国軍部隊を南から輸送するのに使われていたので、」爆撃したのだと申し立てをした。中国軍スポークスマンはただのひとりの中国軍兵士も昨日も、最近においても南市には 見られなかったと述べた。

スポークスマンは「南市は人口密集した町で中国軍部隊や軍関係の部署はない、日本側がこの空襲を”中国軍に対する威嚇である”と強く申し立ててもなんら正当化されない 」と述べた。

スポークスマンはこの攻撃はおそらく中国市民を標的としたテロであり、あるいは虹口で日本軍兵士の生命が失われたことに対する復仇のつもりであろうと推定した。彼は空襲に対する警告を日本軍はしなかった と指摘した。

記者会見の席で外国の当局者もまた、最近南市を歩き回ったが、ひとりの中国軍兵士もいなかったことを確認した。

南市からすっかり脱出しようとしている市民の問題に質問が及んだとき、スポークスマンは軌道が恒常的に日本空軍の爆撃によって寸断されていることを挙げ、脱出が困難であることを認めた。乗客はいままでも日本軍機の機銃掃射によって絶え間なく威嚇されていた。


東京朝日新聞 昭和十二年八月二十九日

南停車場壊滅に帰す
敵増援部隊の本拠爆撃
【上海特電二十八日発】
我が海軍航空隊では二十八日午後上海南方南市の南站(南停車場)を中心とした地方及び龍華方面の空爆を敢行南市を震撼せしめた、南停車場は殆んど壊滅に帰し龍華飛行場も大打撃を受けた
【上海二十八日発同盟】二十八日午後の我が飛行機の集中爆撃により上海南停車場ら多数の爆弾見事命中駅構内多数の支那兵は倉庫より駅構内貨車に充満して居た軍需品とともに木端微塵となった、支那側報道によるとこれがため死者三百 名、負傷者二百名を出したと伝えて居る、先に北停車場が我が爆撃に壊滅して以来南停車場は支那増援部隊の到着の本拠となつて居たものだが駅構内は完全に粉砕され二百ヤードの鉄路は跡形もなく吹き飛ばされ軍用停車場としての機能を完全に喪失した
【上海特電二十八日発】南市附近の敵軍及び龍華飛行場の爆撃は支那側作戦の策源地ため南市に大動揺を与えた、敵は南市がフランス租界に隣接しかつ外人居留民も多数居住しているのを奇貨とし同方面を作戦根拠地となし江岸には地雷を敷設そのた堅固な防御を構築している

  東京朝日新聞によれば、日本側は「増援部隊の本拠」であると指摘している。また、南市を戦略基地としていると非難している。軍事目標として敵部隊を攻撃するのは正当である。しかし、南駅には中国兵はひとりもいなかったし、南市にもいなかったと中国側は声明した。欧米当局者もこれを確認している。中国兵が充満していたのなら、貨車に軍需品が充満していた、という推測も可能であろうが、一兵もいない駅に軍需品を満載した貨車が来るということはありえない。
   この爆撃については、駅を取り巻く避難民を中国軍部隊と見間違えた、という説明も見られる。仮にそうであっても、結果としては避難民が密集する鉄道駅を爆撃して、無辜の市民多数を殺傷するという悲惨な結末をもたらした。避難民を殺傷したことに対する、日本側の弁解は何もない。もちろん、予告がなかったという非難に対しては日本は一切答えていない。民間人の殺傷したという非難に対しては反論の余地がなかった ため無視を決め込んだと取られてもしかたがない 。国内においては民間人の殺傷についてはまったく報道されなかった。国内的には報道統制において日本に不利な情報を許さなかったとしても国際的には支持を失った。これは情報戦における敗北ではなく、国際間における日本の戦略そのものの敗北であった。

  軍事目標がないことを知ってしたのだとすれば、上海爆撃は市民に対する空からのテロル攻撃でしかなかった。
  この爆撃に前後して、南京、広東その他の都市爆撃が行われた。軍事目標を攻撃するという声明はあったが、戦場から数百キロ離れた都市に対する爆撃であり、当時の常識であった戦争行動の枠を越えていた。アメリカ、イギリス、フランスは日本軍の空襲を非難した。
  上海南駅の赤ん坊の写真は軍事的に日本より弱い中国に対する情け容赦のない、爆撃は各国の中国に対する同情と日本に対する反感を植え付けるものとなった。写真は単にその表象(シンボル)に過ぎず、実態は日本軍の非道な攻撃に対するレスポンスであった。









 




 
 



疑惑
  『ルック』誌の写真は赤ん坊がひとり、爆撃跡に泣いているという構図であり、当時からアメリカ人の間にあっても、作為的な写真ではないかとの疑惑が指摘された、ということは理解できる。この写真をめぐって、作為があるという指摘があること自体は言論の自由、批判の自由がある社会であることの証でもあり、特に問題とするに値しない。当時、この写真に疑いを表明する可能性があったのは、ライバルのメディア、写真家のライバル、アメリカが日本と中国の戦争にコミットすることを恐れる「孤立主義者」、日本の利益を擁護するものたちであろう。

作為的な写真とした場合、ではだれがその作為的な写真を作り上げたというのであろうか。
ウォンが送ったのはおそらく未現像のニュース・フイルムであろう。彼はハースト社に雇われている身であり、できるだけ画になって、話題性のある、新鮮なフィルムを届けることが仕事であった。かれが送ったのはニュースフィルムだけで、特別に撮影された写真などというものはなかった。ニュース・フィルムから衝撃的なショットを選びだし、必要なトリミングを施し、キャプションや説明を付けたのは『ライフ』社のスタッフであった。  

ところが、これらの証明をした論者はいずれも同じ3枚の写真を使っている。ジャパン・タイムズ、日本に・・を与えてはという小冊子、・・これは東中野の「検証本」の写真A、写真2、写真Dに相当する。これの写真は『ライフ』に使われたものではない。ニュース・フィルム・リールの中にしかないものであった。ということはなにものかがハースト系列の映画社のフィルムにアクセスをした、ということになる。はたして、ライバルの写真家や疑い深い孤立主義者が検証をするためにハースト系列の映画社が進んでこのフィルムを提供するだろうか。

あるいはまた、熱心な探索家がこのフィルム の全容を見たときに果たして、この映画フィルムがやらせなどと真実思ったであろうか。第一に「やらせ」の根拠とされた部分は黒服の男が赤ん坊を運ぶ部分とホームに白服の男、黒服のこどもと赤ん坊がいる部分である。ということはやらせの証拠になる部分をウォンはわざわざ撮影しており、しかもそれを堂々とハースト社に送ったということになる。このことを不思議に思わなかったのだろうか。第二にフィルムすべてを見れば、赤ん坊がホームに置かれるに至った経緯はわかったはずであるのに、都合のいい写真を取り出して解説してるいることである。

これらの証明は最初はアメリカ人に対して日本への敵視を緩和するために利用された。それが国内向けになったときには、中国がアメリカ向けに宣伝戦を行っているという文脈で語られるようになった。





日本の侵略のシンボリック・イメージとして使われたのは事実である。
上海爆撃は事実であった。民間人を狙った恐怖作戦として非難されても仕方のない軍事行動であった。上海爆撃がなければこの赤ん坊の撮影はなかったし、イメージ・シンボルとして定着することもなかった。

東中野は「イメージ操作があるから事実ではない」と歪曲しているが、これは誤りである。
上海爆撃は事実であり、


上海爆撃の問題点
1.結果として民間人多数を死傷させたこと
2.日本軍が主張する中国軍部隊はいなかったこと
3.「軍需物資が入った貨車」という証拠はない。この主張は中国軍部隊がいなかったことから後で継ぎ足されたものではないかと思われる。
4.爆撃するときには予告をする、といっていたが、事前の予告はなかった。このことに関しては日本側は口をつぐんでいる。



中国がやらせ・演出・にせ写真を撮る−情報戦を行うという例証にしようとしている
その証拠として王小亭が中国の宣伝部員であったとしている

南京大虐殺でもニセ写真を撮っていたという例証にしようとしている。

「大虐殺派」が上海爆撃の写真を「南京大虐殺」の写真として使ってきたと主張する

南京大虐殺においてもニセ写真が証拠として使われていた例証とする。