120人の報道員とカメラマンは何 をみたか   
                   ―虐殺否 定発言だけを集めた阿羅著作(1)

                              阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判                                          2013.06.07 first upload


阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判 (以下阿羅本と略す)

阿羅は南京大虐殺の否定を図って、当時、南京に従軍した り、滞在した多くの日本人証言 を集めた。その結果多くの証言者から「虐殺はなかった、見なかった」という証言を得た。また、既に虐殺の証言を行ったひとたちへの反論あるいは前言の撤回 も引き出すのにも成功している。しかし、それは証言者を選び、聞き方を工夫して得られたものであり、実は多くの証言者が語っているのは虐殺の認識がないま ま「虐殺の一部分、あるいはその痕跡」を目撃あるいは伝え聞いたことを示しているのである。それゆえに虐殺否定の証言の持つ構造を確かめることは、虐殺の 証明だけでなく、否定論者の認識の成り立ちを解析するのにも重要である。

阿羅本の問題点

1.そもそも、殺戮の現場に行っていない、見ていない証言者が多い。

 阿羅は軍首脳 なら全般的な軍の方針を知っ ており、広範な情報が集中するからという理由で上級将校である証言者を重視している。実際には上級将校は殺戮を命令していても殺戮の残虐性を感覚的に実感 していない。実行者である兵士において殺戮の残虐性をはじめて痛切に認識出来るのである。この点、上級将校の証言からなるこの証言集では虐殺の有無に対す る有用な証言は期待できない。

 また、報道関 係者なら広く見聞し、偏りの ない見方をするだろうと考えたと思われるが、当時の記者は「暴戻支那を庸懲する」という日本政府の方針に沿い、好戦的な内地の世論に向けた扇動記事、戦意 高揚記事を書いていた。記者の中には日本軍の先頭部隊と寝食を共にし、中国兵に対する敵愾心を共有したものと、軍首脳のそばにいて全般的な作戦や、交戦状 況を書くことを主眼としたものがあった。(ただし、位置の情報はかけない)。そのような記者に虐殺の認識が乏しいのは当然であった。

  これに対して、カメラマン、技師の一部はそのようなイデオロギーに関係なく事実を見ており、虐殺に関する証言が多い。また、記者にあっても陸軍付きの記者 より海軍付きの記者のほうが虐殺に対する感覚は鋭敏であった。

2.殺戮やその跡を見ても証言をしていない

@ 捕虜や敗残 兵の処刑を戦闘そのものであるとする見方があった。
A 捕虜の処刑が違法であるという認識を欠いたものがあった。
B 戦争とはこんなものだという考えがあった。
C 中国兵に対する憎しみ、中国人に対する蔑視感からなんとも感じない。

■当然、国際法 の捕虜に対して取扱規定に詳しいものは処刑に対してより疑問を持った見方をしている。

3.虐殺は民間人、あるいは便衣兵の疑いによる摘出、移送、殺害と作業が分担、区分けされその一部を見ても虐殺の一部であるとの認識が 生まれにくい。

4.比較的少数の殺戮の現場を見たり、その痕跡を見ても大虐殺との認識に達しない。

5.阿羅の不適切なインタビュー方法

阿羅は南京にお いて何があったのか、何を見 たのか、聞いたのかという偏らない検証ではなく、「虐殺があったか」「虐殺をみたか」「虐殺があったという話を聞いたか」「大虐殺はあったか」という聞き 方をしている。これは証言者が虐殺の認識を持っていたか、どうかの聞き取りである。この聞き方では証人が虐殺というものをどう認識していたかによって答え は異なる。虐殺があったかどうかは証言が提示する事実の再構成によって著者ならびに読者で判断されるべきものである。

6.他者の虐殺証言の否定、あるいは撤回発言について

いくつかの虐殺 証言者を引き合いに出して否 定させるよう努力したあとが伺える。その手法は証言者の人格攻撃を主としたものである。その当人が当該事実について発言したということは人格攻撃によって 崩れるものではない。撤回発言の場合も前証言をすべてうち消すだけの内容に乏しい。私は、いくつかの前証言、肯定証言を発見・提示することが出来たので、 うち消すに足る内容を持った証言を阿羅が提示したかどうか見て欲しい。

7.国際的なものの見方を学んだ外交官の発言など、阿羅本にない種類の証言例をあとで掲げる。



以下、阿羅本の記述を中心にどこを読みとるべきか、提示する。

1) 120人の報道員とカメラマンは何をみたか

【第 一章】
ジャーナリストの見た南京

T、 朝日新聞
(1)大阪朝日新聞・山本治上海支局員--25
(2)東京朝日新聞・足立和雄記者--14
(3)東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長--15
U、毎日新聞
(4)東京日々新聞・金沢喜雄カメラマン--4
(5)東京日々新聞・佐藤振寿カメラマン--11
(6)大阪毎日新聞・五島広作記者--6
(7)東京日々新聞・鈴木二郎記者--10
V、読売新聞
(8)報知新聞・二村次郎カメラマン--5
(9)報知新聞・田口利介記者--16
(10)読売新聞・樋口哲雄撮影技師--18
(11)読売新聞・森博カメラマン--26
W、同盟通信
(12)同盟通信・新井正義記者--12
(13)同盟通信映画部・浅井達三カメラマン--13
(14)同盟通信・細波孝無電技師--19

X、 その他
(15)新愛知新聞・南正義記者--64h
(16)福岡日々新聞・三苫幹之介記者--21
(17)都新聞・小池秋羊記者--17
(18)福島民報・箭内正五郎記者--29

T、 朝日新聞

■大阪朝日新聞 山本治 pp20
 
城壁の死体はきれいなもので、首を斬られたとかいう虐殺されたものではありません。戦死体は弾が当たって死ぬのできれい です。pp25

山本は入城式の日、すなわち12月18日に陸軍の飛行機で南京に来て、数日で上海に戻った。大規模な虐殺が終了して入市したのである。虐殺という言葉を 「残虐な殺し方」とのみ解釈している人のようである。

■東京朝日新聞 足立和雄 pp26
 

―南京で大虐殺があったと言われていますが、どんなことをご覧になっますか。
「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその 前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった」

「残念だ、とりかえしつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那には勝てないと思いました」

「中国人の婦女子の見ている前で、一人でも二人でも市民の見ている前でやった。これでは日本は支那には勝てないと思いました。支那人の怨みをかったし、道 義的にも何ももう言えないと思いました」

               pp27-28

「私が見た数十人を射ったほか、多くて百人か二百人単位のがほかにもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるか もしれない」

数十人の中国人の処刑を目撃し、百人単位、二百人単位の処刑の可能性も指摘している。足立氏と行動を共にした友人の記者である守山義雄氏の文集には下記のよう な文を寄稿している。これも阿羅が引きだした「南京大虐殺はなかった」という証言とは趣を異にする。
 

★『守山義雄文集』所 収、足立和雄「南京の大虐殺」守山義雄文集刊行会・1975年刊
昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集 まってきた。
そのなかに、守山君と私もふくまれていた。
朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視さて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人 男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことが あってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ 眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。
「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。

 

★ドイツ哲学者篠原正瑛氏の回顧録より引用

戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、その頃東京朝日新聞のベルリン市局長をしていた守山義雄氏から、南京に侵入した日本人による大量虐殺事 件の真相を聞いたことがある。

守山氏は、東京朝日の従軍記者として、その事実をまのあたりに見てきた人である。
南京を占領した日本軍は、一度に三万数千人の中国人、しかもその大部分が老人と婦人と子供たちを市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の 猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。
そ のときの南京城壁の中は、文字通り死体の山を築き、血の海に長靴がつかるほどだったという。守山氏は、このような残虐非道の行為までも、「皇軍」とか「聖 戦」とかという偽りの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと幾日も思い悩んだそうである。

(『西にナチズム、東に軍国主義』日中文化交流157号)

平松儀勝氏
 

虐殺事件に関しては、守山君が船着き場で中国兵を射殺するところを見たといって憤慨していたので、よく覚えている


■東京朝日新聞 橋本登美三郎 pp34
五十人からの新聞記者を統括する立場で現場に行った記者ではない。「南京大虐殺」のことを聞く方が無理である。

U. 毎日新聞(東京日々新聞)
 
■東京日々新聞 金沢喜雄
カメラマン pp40

「い や。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して河に流したことはあるでしょう。それは南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と 同じですよ。あれだけの戦線で、しかも完全なる包囲作戦をとっていますから、死体があり、川に死体が流れているのは当たり前です。殲滅するためにわざわざ 包囲作戦をとったのですよ。
 また、南京城内も戦場になったところですから、難民が撃たれて死んでいるのは当然でしょう。そういうことはあったと思います。それが戦争です。それを虐 殺というのなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です。pp43-44


「南京大虐殺」を見ていないという人たちの代表的な言い方だろう。

■東京日々新聞 佐藤振寿カメラマン pp45

十 四日だと思いますが、中山門から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。飛行場の手前です。建物に八十八師の看板がかけて ありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。pp51

敗 残兵の「整理」とは何か。戦闘ならば銃剣によって殺すことなどはあり得ない。つまり、戦意を喪失し、あるいは武装解除 しても捕虜として受け入れないという方針があった。これが「捕虜は取らない方針」なのである。本来捕虜にするべき敵兵をそのまま殺した、これが虐殺にほか ならない。それを日本軍は「敗残兵の『整理』」と呼び、「戦闘行為の続き」とした。報道関係者もその認識を受け入れていたのである。

こ ういう噂を一度聞いたことがあります。なんでも鎮江の方で捕まえた三千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃ったというのです。逃げ遅れた警備の日本 兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで三千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。もちろんその時は戦後言われてい る虐殺というのではなく、戦闘だと聞いてました。<後略>pp54

鎮江は十三師団の進路に 当たり、南京から50キロもある。三千人の捕虜を連行したというのは間違いであろう。ただし、少人数の部隊で多数の捕虜を獲得したという例は多いし、下関 で捕虜・敗残兵・便衣兵容疑の市民が射殺されたことは間違いない。どの部分が聞き間違いかは別として、「捕虜」と呼ばれたものを殺されたという噂を聞いた ということは事実であるし、「捕虜」を殺すことさえ戦闘とされ、当時報道員もそれを受け入れた、このことが証言の重要部分である。

さて、佐藤氏は「従軍とは歩くこと」において上述のことを詳しく記しているが、「敗残兵の整理」と一言に片づけられるような光景ではなかったことがわかる だろう。

 一夜が明けると12月14日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。
 (中略)
 そんな時、連絡員の1人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてきた。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。
行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。
 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メ‐トル平方、深さ3メート ルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザかせて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやってい るように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
  左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気 合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、いきなり 向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾 が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。
 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達して いて、狂気の世昇にいるようだ。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すに は、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。
 後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてど うして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。<略>  

  さて筆者が目撃した場所はどこであったのか、大きな門の写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨 舎のうち、右の構舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが棚○○、捕虜収容所、占獲集積所」という文字が読める。「駐軍八十八 師司令郡」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中で も蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。
 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称である。

「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p610〜P612 

十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部に ある玄武潮の風景写真を撮ったり した帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止める助手台の窓から 身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か 助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装 していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。この時の状混が『南京戦 史」の歩兵第七聯隊(金沢、伊佐部隊)第二中隊の昭和八年兵・井上又一氏の日記にくわしく書かれていた。


壱拾弐月拾六日
  午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又出かける。若い奴を三百三十五名を捕えてくる。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来る のである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新間記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来る…… 十重二十重にまし来る支那人の為、流石の新間記者もつひに逃げ去る。

  難民区から敗残兵を駆り立てた時の様子が如実に書かれている。便衣に着かえた中国兵を〃処断〃する情景を書いた他の兵士の日記もあるが、私は現場を見てい ないので評論する資格がない。私が自信を持って書くことができるのは、この眼で見た八十八師の営庭での敗残兵の〃処断〃だけである。

 
十二月十五日午後八時三十分発令の「歩兵第七聯隊作命甲第一一一号」には、
 一、本十五日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所二依レハ殆ト下士官兵ノミニシテ将校ハ認メラレサル情況ナリ、将校八便衣二更へ難民区内二潜在シアルカ如シ
 二、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区二指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス憲兵隊は協カスルハズ

 歩七の戦闘詳報によると、十二月十一二日から二十四日の間に敗残兵六、六七○人を刺射殺したと記されており、その大部分 は十六日に処断されているが、それは歩七の前述の作戦命令によるものである。歩七聯隊長・伊佐大佐の日記をみても、
 「十四、五、六日ノ三日間デ六干五百人の敗兵ヲ厳重処分ス」と記されている。
  歩七の参戦者とは『南京戦史』編集委員が再度会談し、当峙の状況としては掃蕩命令を忠実に実行したとのことであったが、最近(昭和六十三年末)同師団の土 屋正治氏の質問に対し「今にして思えば、聯隊長の当峙の状況判断については、痛恨の情に堪えない」と答えられた。【南京戦史331ぺ−ジ】
「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p618〜P619



■大阪毎日新聞 五島広作 pp59

第六師団長谷寿夫付き従軍記者である。「師 団の司令部にいて師団長と行動を共にすることが多かった」。つまり、現場ではなく師団の中央にいて大所高所の方針を報道してお り、虐殺行為は見ていないというのが正しい。記者仲間の話にも「出 なかった」というのは、そうであろう。《このことは後述する》

■東京日々新聞 鈴木二郎 pp63

鈴木二郎は『丸』の昭和三十六年一月号に「祟った特ダネ”百人斬り競争”」、同じく『丸』の昭和四十六年十一月号に「私はあの”南京の 悲劇”を目撃 した」を書いた。その後山本七平が「私の中の日本軍」で鈴木批判を行い、これに対する反論集『ペンの陰謀』の中で「当時の従軍記者」を書いた。

インタビューは鈴木氏の証言は『ペンの陰謀』にある通り ですね、と問い、疑問視された事柄だけを質問している。 その主要な部分は下記の部分である。
 

−そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、大量虐殺にぶつかった。
二 十五メートルの城壁の上にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。 その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、 城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。そこにわたしはまた、わたしをつき殺そうとした兵の、形相とまみえるこ とになり、しばらくぼうぜんと立ちすくんでいた。

 だが、ただ一つこの残虐な情景のなかに、不可解な現象がおこっていたことをわすれるこ とができない。それは刺されて落ちる捕虜たちの態度であり、表情であった。死を前にあるものは、ニンマリとした笑いを浮かべ、あるものは、ときにケラケラ と嗤って、”死の順番”を待っていたのである。

神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『功志社』の門をくぐって みた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名あまりの敗残兵が、針金でしばりつけていた。どの顔も紙のように白く、肌もあら わにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、私をジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二、三人がツルはしをもってい たので工兵と知れた。
そばに立っている私には目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、『こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな』とさけぶや、やにわ に、ツルはしをふりあげて、この無抵抗の捕虜の一人の頭めがけて、ふりおろした。

鋭 く光ったツルはしのさきが、”ザクッ”と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできす、ほか の兵の暴力のなすがままになってしまった。まさに目をおおう瞬時のできごとだった。この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるような ものもいた。それをみたわたしは、とめるすべもなく逃げ出した。

光華門につうじる道路の両側にえんえんとつづく、散兵壕とみられるなかは、 無数の焼けただれた死体でうめられ、道路に敷かれたたくさんの丸太の下にも、 死体が敷かれていて、腕、足の飛び出しているありさまは、まさにこの世の 地獄絵である。
 その上を戦車は容赦なく、キャタピラの音をひびかせて走っているのを見て、死臭、硝煙の臭いとともに、焦熱地獄、血の池地獄に立つ思いがした。自らが ”獄卒”の立場と、ある錯覚におちいるほどだった。  『丸』 昭和四十六年十一月号「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」


これに対して鈴木氏は丁寧だが断固として自分の記憶を確 認してインタビューは終わった。阿羅のインタビュー手法は否定証言を得ようとする目的としても拙劣である。ここでも、 あくまでも鈴木氏に南京で何があったのか、何を見たのか、聞いたのかを、事前の知識に関わらず自由に語らせて聞き取るべきだと思うのである。例え、すでに 書いたものばかりであろうと、 聞き取りでは書いたものとは違ったニュアンスが出るものである。
表現の差異だけでほとんど同じ証言が得られれば真実の告白であるし、少しの表現の差異の中に本人の記憶の誤差範囲というもの を見てとることもできる。もしも、ウソを書いていたのだとしたら、デスクで時間をかけて書いたときとは違い、種々の矛盾が出てくるものなのだ。しかし、阿 羅は正面から、ここは間違いではないかという聞き方しかしなかったので鈴木も書いた通りだという硬直した返事しか返さなかったのは惜しい。

さて、最大の問題になるのは、城壁の上の中国兵の処刑だろうと思われる。このいかにもありそうにない光景は事実であったと思われる。実はひとは最大の恐怖 に曝されるときは発作的に笑ったりすることがある。上海戦で兵士とともに塹壕に中国の砲撃を受けたある記者は至近に弾着すると「ハッハッハ」と兵士たちが ほとんど機械的に笑ったという経験を証言している。

さらに、鈴木二郎は前掲『丸』の記事の締めくくりでこう記している。

いまにして、現場記者として、ようやくこの一片の証言を書く勇気を持ったのであるが、『南京大虐殺』としてのちに世界の 耳目をおどろかせる情景があったと は、とうじ硝煙と死体、そして血煙りのなかにあったわたしとしては責任感と興奮、戦争という行為にある是認感覚、神経、国際戦争法規への無知などにより恥 ずかしいことながら気がつかなかった。
したがって、南京虐殺目撃以前、つまり上海、南京間の従軍一カ月の官にもしばしば虐殺を目撃しいいるのであり、たびかさなるムゴイ戦闘、戦場での、多くの 死体と血の臭いに、神経がマヒ状態にあった事はたしかであるが、目の前に多数の日本軍戦死者の姿を見るたびにわきおこる敵がい心、復しゅうと、神経の片す みに嗜虐的なヒラメキがなかったとはいえない。

つまり、同じ残虐行為を見ても残虐とは感じられず、虐殺を見てもこれは戦争なのだ、と心に言い聞かせていたということを告白している。鈴木は、戦後になっ てそのことを反省したが、記者の中には戦争中の感覚をそのまま持ち続けているひともいるということだ。

 V、読売新聞(報知新聞)

■報知新聞 二村次郎カメラマン pp75

−それで思い出すのは、南京に入った時、城内に大きい穴があったことです。
南京城に入ってすぐです。長方形で長さが二、三十メートルくらいありました。深さも一メートル以上はあり、掘ったばかりの穴でした。大きい穴だったから住 宅の密集地でなく、野原かそういう所だったと思います。

数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのは見たことがあります。たしか昼でした。

捕虜といっても、戦いの途中、捕虜の一人や二人を斬るのは見たことがあります。

また、戦争では捕虜を連れていく訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。南京で捕まえた何百人の捕虜はたべさせるものがなかったか ら、それで殺したのかもしれないな。あの時、捕虜を連れていった兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかる と思います。

ところで鈴木明著『南京大虐殺のまぼろし』での証言では

「大 きな穴」について「市内はそれほど死体はなかったと思う。捕虜が手をしばられて連れ去られてゆくのを見たことはある。なんだか知らないが大きな穴があっ た。何だときくと、死体を収容するのだといっていたが、そんな死体があると思えなかったので、ふしぎに思った記憶がある」となる。pp226

より具体的であり、穴と捕虜の連行、死体の関係が点線で結ばれる証言になっている。
阿羅のインタビューでも二村次郎カメラマンはいくつもヒントを与えているのに、阿羅の問い方は同じく否定論者のジャーナリストである鈴木明に較べてもあた かも虐殺を避けているようにしか思えない。


■報知新聞 田口利介 pp83
 
百人斬りの曹長について
中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣のものもいたと言います。
長 参謀についてきかれて
私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富 永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ。
の発言が興味深い。


■読売新聞 樋口哲雄撮影技師 pp90
「入城式のあとはブラブラしていた」といい、遊んだ話が多く、戦闘の話も出てこない。中央ロータリーの死体は長くほおってあったのだが、それにさえ触れて いない。

■読売新聞 森博カメラマン pp95

捕虜を江岸に行って放そうとしたが、結局殺したということです。岸が死体でいっぱいだったとも聞きました。
(どの位捕虜をやったかというと)相当多数だ、と聞きました。
(上の命令でやったのではなく)下士官が単独でやったと思う。分隊長クラスあるいはその上も知っていたかもしれません。
 その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、 捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。陸軍の下士官の中にはには上官を上官とも思わず馬鹿にしているのがいた。
南京戦の後、下士官から捕虜を斬ってみないかと言われたことがある。やらなくてもいいことをやった。略奪、放火もやっていた。南京の事件を話題にしたこと はない。


ちなみに、読売新聞、真柄カメラマン(東京在住)は

 虐殺の場面は見てい る。これは誰にもいったことがない。私は生まれてはじめて持ったピストルの試写をやってみようと、淋しいところを探してゆくと土手が あり、小さい川があった。そこに中国人が二百人はいたと思う。機関銃でやられていた。あれが世にいう“南京大虐殺”だったのではないのか? 入城式の二日 ぐらい前だった。他の人から、そんな話をきいたことはない。
                                                                     『「南京大虐殺」のまぼろし』P.225



さらに、読売新聞の原四郎記者は
 
当時の新聞記者が見ていないというのは、つまりは当時の記者は日本軍の勇敢な記事だけ送っていればよかったのだから、 ヒューマニズムの立場から、日本軍の暴行というようなものを、つっこんで取材していないのは当り前

という非常に興味深いコメントをしています。


W. 同盟通信

■同盟通信 新井正義 pp104

死体は見た。兵士の死体だ。便衣の者もいた。その中に捕虜の死体もあっただろう。南京の全域をカバーした訳じゃないが、 全部で三、四万の死体があったのじゃないかな。大部分は戦闘で死んだものなのだが、その中にもそいうものがあったのかもしれない。

柳川兵団は杭州湾上陸以来、特別大きい戦闘もなくすんなり南京まで行った。彼らが何かやったとは思えない。上海で戦っていた師団があとから追いついてき た。彼らは、仲間が半分近くもやられた連中もいたから、気が立っていた。やったとすれば彼らだろう。

十 五日に旧支局に入った。旧支局は街の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。旧支局に入ってから、女子大学の校長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容して いるが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。そこでわれわれは軍司令部にそのことを伝えに行った。私 自身は虐殺の現場や死体を見たことがない。<中略>下関で、堀川か誰かが、兵隊の射殺現場を見たと言ってた。
十六日に軍官学校で処刑を見たと前田が書いているが、それは軍政部じゃないのか。 どっちにしろ私はみていない。pp105-107


私自身は虐殺の現場や死体を見たことがない」と書いて いますが、同盟の前田の方では新井といっしょに処刑を見たと書いています。
 
"処刑"

 翌日(十二 月十六日)、新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で"処刑"の現場に行きあわせる。
 校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴 をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと 「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。
 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があ るだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
 私は辛うじて十人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。
(『戦争の流れの中に』P117〜P118)


■同盟通信映画部 浅井達三 pp108
 
中 国人が城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が目に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着かえている者や、難民と なって南京にのがれてきた農民もいると思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っぱられていったと思います。
−それはいつ頃ですか。
昼でした。二百人か三百人かの列で、その列が二つか三つあったようです。

この証言もつっこんで聞いたなら、虐殺との関連が出てくるのは明らかだが、阿羅のインタビューはこの事実には関心がない。 しかし、浅井の認識はこうであった。
 
私は日本を代表して最初から東京裁判を撮ってました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。

■同盟通信 細波孝 無電技士 pp116

−南京の船着き場ですね?
「そうです。城門を出た河川敷の土手のところです。ここには塹壕やトーチカがありました。揚子江に向かってますが、中には逆に南京に向いてるトーチカもア リマシタ。コンクリート製で、真四角の水車小屋のようなものです。中国では守りのため、重要なところにはこういうのが一つ二つはありました。
 中国軍はみみで戦おうとしたんでしょうが、結局ここから逃げてしまいました。蒋介石なども下関から逃げたようです。私が下関に行った時、ここでやったら しく、まだ家具などが燃えていました。
−やっているのを見たのですか。
「いや、やったすぐ後のことだと思います。やってるところは見せないでしょうからね。トーチカに捕虜を詰め民で焼き殺したと思います。トーチカの銃眼から 苦しそうに息をしてこちらを見ている中国兵がいたことが、いまも印象に残っています。苦しそうに鼻をふんふんいわせてね」
 ――トーチカには何人位いましたか。
「二、三十人は入るんじゃないかな。家具などが詰めてありました。そういうのが三つか四つありました。たぶん、焼いたと思います。銃弾はもったいないの で、家具にガソリンをかけて焼いたと思いますよ。トーチカの中だけでなく、揚子江にも死体はありました。中には針金で縛って繋いでたのもありました」
――死体の数はどの位ですか。
「さあ、どの位か。百人位でしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう」

X、 その他

■新愛知新聞 南正義 pp126

― 捕虜をやったと言われていますが。
「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考えは日本軍にはなかったと思います。もちろん中国にだって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊 して逃げ、便衣隊になってスパイをやるし、捕虜になって助かるという気はありません。
 お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。それは、あとからこういう国際法に照らし合わせればとい うことでね。戦場を知らない人がそれを虐殺だと言っているだけです。
便衣兵のことを虐殺だと言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません。


■福岡日々新聞 三苫幹之介 pp131-141

私は陥 落直 後の南京を見ておりますから、自信をもって言えることですが、大虐殺の話なんか見ても利いてもおりません。

三苫は第 18師団つきの従軍記者で12月13日午後に入城しただちに師団司令部に入っている。12月14日に水西門外で四、五百人の中国兵の死体を見ているが、戦 闘の死者だと思っていたらしい。ここは大量殺害があった場所だ。

■都新聞 小池秋羊記者 pp142

―その時の南京の様子はどうでした?
「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れだしてました。連れていかれる中国人の親か兄 弟か が、兵隊でないと補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。それでも補助憲兵は連れていったようです」
―何人位の敗残兵を連れていったのですか。
「十人か二十人かにまとめて連れていきました。たぶん射殺したと思います」
―どこでですか。
「直接見ていませんが、郊外に連れていって射殺したのではないでしょうか」

虐殺されたもの、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、この地下に数体の死体がありました、地下に水がたまっていて、 この水が血で赤くなっており、青白い死体を見たときはぞっとしました。

下関から出発する時は下関にあるドック、それはグランド・スタンドのようななべ型の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれていたのも目撃しまし た」
―ドックの死体はどの位ですか。
「五体や十体じゃなかったと思います。何十体かあったと思います。これは戦死体だと思います。




 

   陥落当初に血まみれの民間人が彷徨っていた、陥落当初に難民区に隠れていた敗残兵は補助憲兵が連れだしていたが、その家族が兵隊でないと補助憲兵にす がっていた、10−20人とまとめて連行した。中央ロータリーの死体、ユウ江門のぺちゃんこの死体、下関のドックの何十体の死体を目撃。
「南京全体を見ていた訳ではないので見ていない場所で虐殺があったといわれれば否定はできません」


■福島民報 箭内正五郎 pp151
― 連隊本部と一緒になるのはいつ頃ですか。
「はっきりしませんが、十二月十七日頃です。南京城内の北門から二、三キロ離れたところに連隊本部があり、ここで一緒になりました。
―二月十七日の入場式を見てますか。
「見てません。ですから私は入場式の終わったあと南京についたと思います。第六十五連隊は山田旅団長と両角連隊長、それに一部の兵だけが北門から入って入 城式に参加しました。私は南京城内にはいってません」
―十二月十四日頃、第六十五連隊は一万五千人とも二万人ともいわれる捕虜を捕まえますね。
「いま申したように私は後方の輜重部隊にいましたので、捕虜を捕まえた時はいませんでした。捕虜を捕まえたことは連隊本部に着いた時、聞きました」
―捕虜はどうしたのですか。
「かかえていても面倒なので逃がしたのではないでしょうか。その頃捕虜は追い払うしかなかったのですが、逃がしたと言うと、叱られましたから、退却させた とか、殲滅したと言っていたようです」
―捕虜の話は書かなかったのですか。
 

一 万五千人以上の捕虜を捕まえたことは一大ニュースであり、東京朝日新聞の特ダネであった。それを一切記事にしなかったというのは不審である。捕虜に関心か なかったというが、十二月十九日には部隊総出で殺害した捕虜の処理を行い、そのために対岸渡航が延期になった事実がある。これら を一切知らぬ、存ぜぬというのは隠しているとしかいえない。彼は連隊本部付で食事から何から世話を受けており、いたということはすでに殺害の意図を知って 記事にしなかったのである。また彼の兄は箭内准尉は機関銃中隊長として殺害準備の段階から関わっており、戦後にも虚偽の証言をして暴動説 を唱えている。すべて庇うためのウソである。



★『南京戦史資料集 2』偕行社 より引用
   南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮っていた ら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている。

■同盟通信部映画部カメラマン 浅井達三
  カメラマンとしていろんな場所を見ている。兵士の徴発物、銀行の略奪、便衣隊の手榴弾運搬、中 国人200-300人の列、難民区以外に住む中国人は表に出ない、紅卍字会、中国人は日本軍を怖がっていた、死体は撮らない(撮っても掲載はされない)、 やらせ写真について、パネー号沈没など。正確な観察がある。

「中 国人が城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が目に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民と なって南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られていったと思います」
−それはいつ頃ですか。
「昼でした。二百人か三百人かの列で、その列が二つか三つあったようです」

敗残兵や便衣隊をやるのが戦争だとおもっていたので、記者仲間では虐殺ということは話題にならなかった、という発言がある。

言及された白井カメラマンの発言を紹介する
 
白井茂氏『カメラと人生』より  pp137-138 (映画カメラマン・東宝記録映画『南京』撮影者)

  「中山路を揚子江へと向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々と並んでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っている しわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私 に哀願する。延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのであ る。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。
  柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が真赤に 血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。 見たもの全部を撮ったわ けではない。また撮ったものも切られたものがある。(中略)よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が 当たってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛 す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをポンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。
  戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから 幾日も幾日も心に焼き付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残 酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の目にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争を やらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。」


 

白井カメラマンの同僚の藤井新一氏の証言である。


海軍の従軍記者岩田岩二氏が遅れて砲艦で南京入りしたが、「彼は南京が近づくと無数の死体が流れてきたと言っていました。」

■同盟通信無線技士 細波孝氏
12月14日、湯山の近くに1万人が竹囲いの中にいた。湯山では窪地のようなところで何人か捕虜をやったと聞いた。
下関のトーチカに20−30人ずつ捕虜をつめ込んで焼き殺したと思う、そういうのを3−4つ見た。
中山門に通ずる通りで捕虜の移送を見た。八列縦隊で50m位で区切っていくつかありました。湯山の捕虜を何回かに分けて移送したと思う。捕虜は顔が青白 く、三途の川を連れていかれるようなものだったな、と捕虜の殺害現場の下関に着いて思った。
12月15日か16日の朝早く、(あるいは同僚だった深沢氏の証言では17日夕かも知れない)下関では湯山の捕虜と思われる死体を見た、1万人をやったと 思う、見たのは終わりの方で江岸にあった死体は流されたとらしく、実際に見た死体は百人位である。

 

#考察
記者と違って見たものをありのまま語っており、貴重な証言と言える。捕虜の収容、移送、殺害現場という流れを見ているので事態がよく 把握される。下関に行ってからはじめて移送中の捕虜の顔が絶望的な表情だったのを思い出している。他の報道員にしても移送だけを見ていたとしたら、何の印 象も残さず、証言に至ることもなかっただろうと思われる。また、国際法で捕虜を処刑してはいけないということを知っていたことが具体的な証言をしたことに 繋がっている。この細波氏にして「死体に免疫」になっており、他の報道仲間で話題にしていないくらいだから、彼のほかの報道員が話題にしなかったのは当然 と言える。また、下関には車に同乗して行っている。次の小池記者が「車を持っていなかったので行動半径は限られていた」というのと対称的である。すなわ ち、行ってないところのものは見ることが出来ず、証言もないのである。また、捕虜の処刑に関して「やっているところは(軍は)見せなかっただろう」として いるのも重要である。

さて、『「南京事件」日本人48人の証言』では外交官関係として最終章に載せられた証言であるが、本稿では記者・カメラマンの証言として一括するのでここ に収録する。また、海軍従軍絵画通信員もカメラマンに順ずるので引き続き紹介する。
外 務省 情報部特派カメラマン・渡辺義雄 P.282〜285
「そう です。下関(シャーカン)に着きましたら、そこにいた兵隊がわれわれに、二、三百メートルか五百メートル先で首斬りをやっているから見ないか、川べ りで斬って川に落としている、と言うのです。間もなく川が赤くなる、とも言っていました。そう言われましたが、木村さんは死体を見るのも嫌な人ですから、 見たくないと言い、そのままになりました」
(中略)
――斬られた中国人は捕虜だったのですか。
「翌日か翌々日に南京城内で将校と下士官の二人がいましたので、いろいろ聞きますと、捕虜をつかまえて南京にある監獄に入れたが入りきれないし、食べさせ る食糧もない。やむをえずやったと言ってました。二人は、私に、それではどうやって食わすのだと言ってました。それを聞いて私はしょうがないなと考えまし た」
――どの位の捕虜がいたのでしょうか。
「捕虜と犯罪人で一万人位いたと聞きました。そのうち何人かをやったということですが、犯罪人をやったのか、捕虜はどの位その巻き添えをくったのかはわか りません」

新聞社のカメラマンよりは広い視野を持っていたことがわかる。はっきり捕虜の殺害であることを認識している。

海軍従 軍絵画通信員・住谷磐根 P.276

 その うち一人の中尉が試し斬りをすると、軍刀を持っていこうとするので私もついていきました。行くと、埠頭の突端に鉄の柵があり、そこから先はコンク リートで護岸されていまして、ここに、四、五人ずつ並べて後から銃剣で突いてコンクリートに落としていました。日本兵は二十人ほどで、中国兵が千人弱いま した。それを見ていた中尉は、試し斬りをする気も失せてしまいました。私が懐中電灯をつけて見ていましたら、兵隊から、そこにいると返り血を浴びると言わ れましたので、それをしおに帰りました。
 翌朝、早く起きて行ってみると、コンクリートには死屍累々で、数えてみると八百人ほどの死体がありました。中には死にきれずに手を動かしている者や、ご そごそ動いている者もいました。銃剣で後から刺すだけですから死なない兵もいます。揚子江はまだ増水していませんでしたが、増水すれば護岸コンクリートぎ りぎりのところまで来ますから、流れてしまいます。これがあとで南京虐殺と言われたものだと思います。

こちらは、現在では虐殺に当たる行為だったという認識である。




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