便衣兵なるものは存在しなかった
              2013.06.04 first upload

  便衣兵の議論というと素人には到底理解できない高尚な法律論義が延々と繰り返されるのが常です。
  しかし、議論の前提となる南京に便 衣兵がいたのか、いなかったのかという点については比較的スルーされる場合が多いようです。私は安全区内で不法なゲリラ活動をしていた便衣兵というものの 史料を読んだことがありません。ただし、史料がないという証明は記録をすべてさらさなければならないので、ここでは便衣兵がいたという史料は多数あると 言っているグース氏のサイトの史料を検証してみます(色のついていないテーブルは史料に関するグース氏の発言です)。

T.史料は便衣兵か敗残兵か 1.東京朝日新聞1937年12月16日
『南 京大虐殺否定論13のウソ』P200 柏書房 南京事件調査研究会編

「なお潜伏二万五千 敗残兵狩り続く 外国権益を特別保護」
敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏するもの二万五千名と推定されているので、我が軍は清掃(粛清)に努力し、一方敗残兵の嫌疑あるものは取り調 べ、老人婦女子に保護を加えている〜以下略〜」
(東京朝日新聞1937年12月16日)

東京朝日新聞の記事ですが、この情報は記者が独自に取材したものではなく、当然軍司令部の発表を記事にしたものです。こ こには、「便衣兵」という文字は出てきません。潜伏した二万五千については敗残兵との表現であり、軍司令部の認識は「敗残兵」であったことが伺えま す。

2.ニューヨークタイムズ 1937年12月17日(ハ レット・アベンド記事)
(南京 事件資料集・アメリカ関係資料編P415 青木書店)

昨日南京の日本軍司令部は、南京城内で一万五〇〇〇人以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士二万五〇 〇〇人がいると信じられている。

日本軍司令部の発表ですが、「南京城内で一万五〇〇〇人以上の捕虜」を得たとしているところが目 につきます。便衣兵は捕虜資格がないわけですから、軍司令部に正確な国際法の知識があったとすれば、「正規兵ないし敗残兵を捕 まえた」という認識を持っていたことを示します。残りの二万五〇〇〇人は前掲の東京朝日新聞記事にある通り、便衣兵ではなく敗残兵と認識してい ました。

3.ラーベの日記、十二月十六日
『南 京の真実』P136  ジョン・ラーベ著 講談社文庫
 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺されるのだ。そのうち五十人は安全区の警察 官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されるという。

「武装解除した」という表現ですが、だれが武装解除したのか が問題です。可能性としては中国兵自身が武装解除した、安全区国際委員会が武装解除した、日本軍が捕まえる際に武装解除した、の三つがあります。 そのいず れでしょうか。言うまでもなく、最後のケー スだけが便衣兵に該当します。十六日の日記の伏線となる部分を読んでみましょう。

ラーベの日記、十二月十三日

『南 京の真実』P122  ジョン・ラーベ著 講談社文庫
日本軍は北へ向かうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊を見つけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。武器を 投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が侵入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
 私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。

P124
元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺され たにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。

武装解除はラーベらが行ったものでした。したがって、日記にあるのは中国人敗残兵です。

4.ラーベの日記、ヒットラー宛の上申書
『南京の真実』P358-359 
しかしながら、またしても私は思い違いをしていたのです!
 この部隊の兵士全員、それ からさらに、この日武器を捨てて安全区に逃げ込んだ数千 人の兵たちも、日本軍によって難民のなかからよりわけられたのです。み な、手を出すようにいわれました。銃の台尻を握ったことのある人なら、たこができることをご存知でしょう。

このパラグラフにある、「この部隊の兵士全員」というのはどの部隊を指すのか、上申書の直前の部分を読んでみましょう。

『南京の真実』P358
まず最初にここで完全武装した兵四百人を擁する部隊に出会いました。あくまでも彼らのためを思ってしたこととはいえ、このため、あとになって私は若干良心 の呵責を感じることになります。私は兵たちに、機関銃を装備した日本軍が遠くから進軍してくると伝え、危険を知らせました。そして、武器を捨てるよう、私 が安全区の収容所にいれてもらうようにとすすめたのです。しばらく考えた後でかれらは私の忠告に従いました。

「この部隊の兵士全員」というのもラーベ自身が武装解除させた部隊のこと でした。同時に自ら武器を捨てた兵士のケースもあります。ともに敗残兵の範疇です。


こ こまで の四つの資料はすべて便衣兵の史料ではなく、敗残兵の史料でした。


U.便衣兵による武器の隠匿、扇動はあったのか


便 衣兵による大規模な反乱がなかったのは、反乱が起こる前に日本軍が早期に摘発したからです。南京陥落は12月13日です。16日には大規模な便衣兵摘 発が行われています。その後1月上旬まで摘発は継続されています。(グース氏のサイト)

日本軍が機先を制したので武装ゲリラの反乱はなかったが、反 乱の意思はあったはずという解釈です。しかし、敗残兵は憲兵隊の取り調べを受けることなく即時処刑されているので、反乱の具体的な計画があったという証明 はされていません。「反乱の意思があったはず」というのはグース氏の思い込みに過ぎません。
  また、たとえ反乱を予定していたとしても、国際法違反の便衣兵というものは実行に及ばなければ違反を構成しません(日本軍の軍律違反にはなりますが、 国際法違反には相当しません)。

もし、武装ゲリラを企図して潜伏していたとすれば、摘発の際に武器をもって抵抗しないということはありえませんし、散発的な武器による抵抗があったとして もその記録が残らないことはありえません。

中 国兵が潜伏中に反日撹乱工作を行ったという資料を探してみました。(グー ス氏のサイト)

武装反乱が証明されないので、「反日攪乱工作」というものを企図・実行したものを便衣兵と解釈しようとしているわけで す。「反日攪乱工作」なるものの具体内容は不明ですが、少なくとも武器を取って戦うことは含まれていないようです。こ れは国際法から定義される不法戦闘員には該当せず、便衣兵とは言えませんが、いちおう、示された資料を見てみましょう。

5.チャイナプレス 1938年1月 25日記事(1)
『再 審 南京大虐殺』 P151 明成社 
日本会議国際広報委員会、 大原 康男、 竹本 忠雄著

 ラーベ日記2月3日の部分にラーベが転載した『大陸報(チャイナプレス)1月25日』の記事。(但し、日本語版では該当部分は削除されている)

中 国軍の将校が隠れていた!
報道によると、高級将校が外国大使館に隠れていた。12月28日に安全区で摘発、高級将校23名、初級将校54名、下士官、兵1498名。南京保安隊長は 難 民区4区の工作を指導、八八師副師長馬宝山中将と警察局高官もいた。馬将軍は反日感情と動乱を扇動、王新蕘保安隊長は部下3名と掠奪強姦市民に対する脅迫 をしていた。
 また、発見された武器は、大砲一基、チェコ製マシンガン21丁、ライフル50丁、手榴弾7000発などである。

(『The Good man of nanking』 172-173  ラーベ日記の英語版) 
馬宝山 (マーポーシャン)
王新蕘 (ワンシンロウ)
以上は、音訳を漢字に当てたものと思われる。

チャイナ・プレスは上海の日本軍憲兵隊のブリーフィングを記事にしたものです。この記事では「馬将軍は反日感情と動乱を扇動」したことになっています。し か し、南京市はすでに日本軍に制圧されており、7万人の日本兵が警備に当たっています。南京市民が「反日感情を扇動」されたと仮定しても、武器を持たないと ころの 市民が軍事的に反抗することは不可能です。

6.チャイナプレス 1938年1月25日記事(2)
『南 京虐殺の徹底検証』P277 展転社 東中野修道著
■馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を扇動
  また上海でアメリカ人が発行する『チャイナプレス』(1938年1月25日号)も同じ事を報じている。それによれば、12月28日現在で、外国大使館か ら、支那軍の将校23名と、下士官兵54名、兵卒1498名が摘発された。これは、12月24日からの住民登録の結果でもあった。つづけて「チャイナプレ ス」1月25日号は、その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する

その 報告書の主張するところによれば、彼らの中には南 京平和防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ音訳)がいた。かれは陳弥(チェンミー音訳)と名乗って、国際難民地域の第四部門のグループを指揮していた。ま た、前第八八師の副師長馬? 香(マーポーシャン音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(ミシンキ音訳)もいるといわれている。馬中将は安全地帯内で反日撹乱工作の扇動を続けていた、と 言われる。また、安全地帯には黄安(フワンアン音訳)大尉のほか17人が、機関銃1丁ライフル17丁をもってかくまわれ、王信労と3人の元部下は掠奪、扇 動、強姦に携わったという
 安全地帯内に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。

上二つは同 じ記事かと思われますが、訳の妥当性を検証するために引用しました。

 潜伏した中国兵が、略奪、強姦、(市民を脅迫しての)扇動を行ったという史料はあるじゃないですか、国際委員会委員長のラーベも日記に記録してますよ。(グー ス氏のサイト)


原文とふたつの訳を比較検証してみましょう。
大原、 竹本訳 
12月28日に → 12月28日までに (up to December 28)
■12月28日一日だけで多数が摘発されたわけではありません。

難民区4区の工作を指導 → 国際安全区の第4分隊の司令官であった(was in command of fourth branch detoucment of International Safety Zone)
■工作を指導したということは書かれていません。

馬将軍は反日感情と動乱を扇動 → 馬将軍は反日暴動の扇動をしていたと告発された
(General Ma, it is claimed,  was active in instigating anti-Japanese disorders within the zone)
王新蕘保安隊長は部下3名と掠奪強姦市民に対する脅迫 をしていた → 王新蕘保安隊長と三名の元部下3名は掠奪、脅迫、強姦 をしていた <(Wang Hsianglao and three former subcordinates were engaged in looting, intimidating and raping.)
■重要な違いはありません。

東中野訳
王信労と3人の元部下は掠奪、扇動、強姦に 携わった
■脅迫を扇動と訳しています。 

大原・竹本訳は「工作を指導」を勝手に追加し、東中野訳は脅迫を扇動とすり替えており、どちらも意図的な「翻訳作業」です。グース氏による訳の妥当性の 「検証」とは原文と対照することなく、二つの訳文のうちの強烈な捏造である東中野訳を取って、扇動があった と認定してしまいました。グース氏がワンシンロウが「略奪、強姦、(市民を脅迫しての)扇動を行った」 と主張したというのは見え透いた捏造です。

7.飯沼守(少将、上海派遣軍参謀課長)日記
『南京 戦史資料集』P232
 飯沼守(少将、上海派遣軍参謀課長)日記
1月4日(快晴)
憲兵は南京難民区区域或いは外国大使館に潜伏しある不逞徒を捕らえつつあり。八八師副師長など主なる者なり。 

88師の副 師長ということで情報が一致していますから、事件があったのは間違いないと思います。(グー ス氏のサイト)

この日記で確認されることは八八師副師長な どが捕まったことだけです。グース氏の「事件」はなにを意味するのか。もし、彼らが反日攪乱行動を扇動していたとすれば、南京の治安確保に対する重大な脅 威ですから、捕まえたという事実のみを日記 に記すことはなく、便衣兵組織の全容解明とさらなる捜査・摘発へ の関心が示されてしかるべきです。 それが書かれていないということは、なかったというとです。他の資料でそのことを確認してみましょう。

『南京 戦史資料集T』P475
南京ニ於ケル申シ送リ要点、 中沢三夫第十六師団参謀長
先日モ八十八師ノ大隊長ヲ捕縛セリ。
特ニ注意スベキハ各国外交機関内ニ隠匿シアル相当階級ノ人物アルコトナリトス。右八十八師ノ大隊長ノ自白ニヨレハ米大使館内ニ団長及営長尚隠レアリ。

第十六師団参謀長も八八師副師長の「武器隠匿」についての言及は一切な く、関心は他の高級将 校の「隠匿」でした。

8. 『ニューヨーク・タイムズ』1月24日上海発 ハレット・アベンド
南京事 件資料集・アメリカ関係資料編P444 青木書店

「本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの安全区に中国人将校23名下士官54名、兵士1498名が隠れていた、 その 内の一部は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これらの高級将校の一部は、大使館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難している事が、 特に強調された。

 これらの平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。某国大使館近くと特に曖昧に言及された一防空壕の捜索では、軽 砲1、機関銃34、小銃弾42.000、手榴弾7000、砲弾500、迫撃砲2.000が発見された。

  記者側から質問を浴びせられて、日本の報道官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入ったものであることを認め、いずれかの非中立的な外国が紛糾を起 こしたと示唆しようというのではない、と言った。その大使館の国名を挙げるように強く求められたが、報道官はこう言って返答を避けた。「この問題について は皆さん自身の回答にお任せしましょう。」

何の 為にこんなに大量の武器を隠匿していたのでしょうかね?
観賞用ってことはないと思いますが…(グー ス氏のサイト)

1月4日には中国軍の将校か捕まったことだけが、飯沼日記に書かれていたわけですが、1月24日の憲兵隊ブリーフィングでは将校が武器を隠匿していたとさ れるに至ったわけです。
「軽砲1、機関銃34、小銃弾42.000、手榴弾7000、砲弾500、迫撃砲2.000」(訳文の迫撃砲2000は迫撃砲弾の誤訳です)という ラインアップは抗日 ゲリラ活動をするための軍需物資としては相当おかしいでしょう。都市ゲリラでは軽砲や迫撃砲は使用できません。都市ゲリラを企図するのであれば分散配置さ れた兵士集団が機関銃、小銃と弾薬 を保持したはずです。1箇所に小銃・機関銃と弾丸をまとめて置いて保管するというのは平時における武器庫でしかありません。もしも、武器庫として保管した ものであれば、蜂起に備えた武器を守りとおすために、日本軍の摘発隊と銃撃戦を戦ってでも武器を守ったはずです。

ダーディン、スティールなどの記者は12月13日に中国兵が安全区に逃げ込み、武器を捨てていたことを報告しています。武器を道端など目につくところに放 置していれば周囲の家屋に捜索が入りますから、人目につかないよう隠すことは当然です。 安全区に持ち込んだものの、処置に窮した武器弾薬を手当たり次第に投げ込んだというのが真相でしょう。

高 級将校 が武器を「隠し持っていた」とは到底読めないわけです。

二点目に、処刑は掠奪の罪名であったことが示されています。罪名は抗日活動や武器の所持ではなかったわけです。一般犯罪として処刑されたのですから、「便 衣兵」の 存在を示す資料ではなかったのです。

9.
『ニューヨーク・タイムズ』の記事(1月4日付)
『南京 虐殺の徹底検証』P275 展転社 東中野修道著

 それが、1938年1月3日上海発の『ニューヨーク・タイムズ』の記事(1月4日付)である。
 「元支那軍将校が避難民のなかに---大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。
南 京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見 し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピ ストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。
 この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引 きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。こ の元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう

以上のように、安全区に潜伏した便衣 兵が、強姦や略奪を行ったという史料はあります。安全区に潜伏した便衣兵の大部分は、早い時期に摘発されていますが、 摘発を逃れた便衣兵は、武装蜂起のタイミングを図りつつ、日本軍が強姦や略奪を行っ ているという偽情報を流していたのでしょう。(グー ス氏のサイト)

記事の内容は「元大佐ら」が、武器を隠し持ち、掠奪、強姦を行ったことです。元中国兵が武器を所持していたとすれば、便衣兵ゲリラである可能性が濃厚で す。しかし、彼らは南京市民に対する掠奪・強姦を自白したことになっていますが、取り調べの後に掠奪の罪名で処刑されているので、敵対行動はなかったこと を示します。

元 中国兵が強姦・略奪を行ったという史料ではありますが、日 本軍憲兵隊も便衣兵であったと結論していません。
 


総括

 史料を読む際にはだれが何の目的で記録したものなのか、注意して読む必 要があります。日記資料は自分のメモリーのために書かれているので、ことさらウソを書くことはありません。この意味で3.と4.のラーベの日記7.飯沼 日記に意識的なウソはありません。この二つの資料は武器を捨てた中国軍将兵が隠れていたことを示します。便衣兵については書い てありません。他方、日本憲兵隊の上海におけるブリーフィング内容(9. ニューヨークタイムズ1月4日5. と6.のチャイナプレス1月25日 )は日本軍と日本国 内の新聞にこれを裏付ける記載がありません。ということは上海の日本軍憲兵隊が海外向けにだけ宣伝する必要があったということを示します。史料を読む上で はこれらのことを念頭において読めば、真実が見えてきます。

1.東京朝日新聞2.ニューヨークタイムズ12月17日は南京 の日本軍司令部のブリーフィングであり、国内外で同じような趣旨の記事が書かれているので 信憑性はそれなりにあります。このふたつは城内で敗残 兵、正規兵を捕らえた、さらに捕らえる予定ということで一致しています。

9.ニューヨークタイムズ1月4日5.と6.のチャイナプレス1月25日は上海 の日本軍憲兵隊の外国向けブリーフィングをそのまま記事にしたものです。 その内容は元中国軍将校が武器隠匿と扇動を、元兵士が掠奪・強姦を行ったというものです。これは一応便衣兵容疑があったという史料に はなります。
しかし、元中国軍将校が武器隠匿は7.飯沼日記で見るように裏付けがありません。元兵士の扇動については8.ニューヨークタイムズ1月25日の発表がこれ を否定しました。これらの記事は便衣兵がいたという史料 にはなりません。


日本軍憲兵隊の海外向け発表はいったい何の目的だったのか。それは日本軍兵士の掠奪・強姦を打ち消すことだったと推定されます。つまり、日本軍憲兵隊も元 兵士の件は「便衣兵がいた」ことを証するためではなく、日本軍兵士が掠奪・強姦をしたんじゃない、中国軍兵士がやったんだ、ということを海外に向かって訴 えるために発表していたのです。(この事件自体が捏造なのですが、それは別の項目で触れます。)これらの記事が便衣兵の史料として読むには無理があるのは そのためです。

この記事をあたかも便衣兵の証拠のように利用しようとしたのは東中野が最初であり、小林よしのり、グース氏が後を追いました。東中野とグース氏が翻訳を歪 曲してまで扇動を捏造したことでもわかるように、便衣兵の具体的な活動の史料は存在しないのです。

以上、見てきたように「便衣兵なるものの史料はなく、便衣兵はいなかった」というのが史料の検証の結論です。


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