北村稔著「『南京事件』の探求」−「ティンパーリーの謎」を批判する その2
『ティンパーリーの謎』を嗤う その2                                    2003/11/07 初回上網                                             

1.「裏面からの外交工作」という思いこみ

この章で北村はティンパリーの活動やフィッチの活動すべてを国民党政府の意向によるものだったという断定していくわけです。それに対して国民党政府の意向に添っているということは証明されていない、と反論していきたいと思います。

■北村は『近代来華外国人名辞典』の誤読した上に 『曽虚白自伝』の誇大な自己宣伝を間に受けて、裏付けることなく鵜呑みにして、ティンパリーが情報工作員だという結論に達しました。
しかし、ティンパリーは国民党の情報工作員だという論拠は崩壊しているので、もうそんな反論はしなくていいんじゃないですか。

情報工作員である、ないに関わらず、ティンパリーが中国を助け、アメリカの介入を世論に訴えたというのは事実です。そこで中国国民のためを思って自発的にしただけではなく、国民党政府に依頼されてそれ以上のことをやったことを北村が証明したかどうかを検証します。むろん、この検証は北村の妄想を暴露するだけに終わるので簡単に行きます。いいですか。
了解。

#ティンパリーは漢口で国際宣伝処の曽虚白と会談したあと、上海に戻ると直ちに国民党の外交戦略を推進しはじめる。その方針は二つの部分から成っているた。一つは、日本軍の南京占領の残酷さをメディアを通じて広く世界に告発し、あわよくばこれにより日本と第三国との間に外交問題を惹起させることであった。もう一つは主要目的であるアメリカへの働きかけであり、南京在住のアメリカ人との連携のもとに展開される。まず初めに、メディアを通じた日本軍の告発からみてみよう。 <中略>
テインパリーが前言に「日本人検閲官に差し止められることがなければ、恐らくこの本書は書かれることはなかった」と書くのは国民党国際宣伝処との関係を隠蔽するためのカムフラージュである。

基本的にわからないのはティンパリーが国民党国際宣伝処と結びついていたとして、前言のこの部分がいったい何のカムフラージュの用を足すのか、ということである。わかりますか。
■いいえ、さっぱりわかりません。実際問題、ティンパリーの意図を疑うとしたら日本の報道しか知らない、当時の日本人しかいません。これを読んだとしても当時の日本人はやはり疑うでしょう。

北村による前言の訳出はその前段だけでうち切られています。ティンパリーが本を書いた意図を正確に知るために、その後半部分を『南京戦争資料 9』から引用して見ます。 

              ★"WHAT WAR MEANS"の「前言」部分の続き
「昨年の十二月南京を占拠した日本軍が中国市民に対して行った暴行を報ずる電報が、上海国際電報局の日本側電報検閲官に差さしおさえられるという事実がなったならば、おそらくこの本が書かれることはなかったであろう。こうして削除され、あるいは不完全なものになった電文の中には、著者が『マンチェスター・ガーディアン』に打電しようとした電報もいくつかはいっていた。
私の伝聞のニュース・ソースの確実性については十分満足すべきものであるにもかかわらず、日本当局は、誇張しすぎているなどと言いたてた。そこで私は文書による証拠を探し始めていたのだが、何の困難もなく非の打ちどころのない筋から確証を得ることができた。こうして明らかにされた事件の実状は、あまりにも恐ろしいものだったので、私は直ちにこれを出版しようと思いついたのである

動機は検閲で報道できなかったので、反発したということに重点があるのではなく、ニュースの根拠を求めているうちに「確証が得られ」、「事件の実状があまりにも恐ろしいもの」であることを知ったので出版しようとした、ということである。この説明はティンパリーの動機を言い尽くしており、どこにもおかしな点はない。

つづいて、北村は「わざと検閲を引き起こして、英国と日本の間に騒動を起こそうとした、それは中国の対外戦略に奉仕するためだ」という。この反論は渡辺久志さんが事実関係を克明に調査して明らかにしている。以下は『中帰連』所載の「もとめているのは『実像』か『虚像』か?」による。

1.検閲が行われているのを知っていて、わざと検閲に引っかかるような電文を送ろうとした。
−ティンパリーが使った電報局はデンマークの大北通信であり、その電報局は「日本軍の管轄」ではなかった。日本の検閲官が威力を持って入ってきたことこそ問題であった。

2.郵便や無線など他のニュースを送る方法もあった。
−すでに郵便や無線にまで検閲の網が拡げられつつあった。

3.送ろうとした電文は社説になったものであり、ニュース性はなかった。
−『社説』は南京からの最新情報であり、早く世界に発信しなければならなかった。

4.わざと悶着を起こして外交問題にしようとたくらんだ。
−すでに、上海における検閲のあり方など中国主権の「接収」自体が日本と欧米各国の間の外交問題化していたのであり、ティンパリーの電文検閲の問題もその一部であった。すでにイギリスとの間には誤爆事件など、深刻なトラブルを抱えており、ティンパリー個人の抗議が新たな外交問題の焦点になるという状況にはなかった。

■実によく調べてあります。北村の解釈は前提がすでに崩壊していますが、例え前提が例え正しくても上述のように事実関係すべてが誤りであっては到底成り立ちませんね。


2.宣教組織を通じたアメリカへの働きかけ?

二月初め、南京に滞在していた国際委員会のメンバーの一人である、ジョージ・フィッチは日本軍の暴行に遭った中国人被害者を撮影したマギーのフィルムを上海に持ち出すことに成功した。フィッチからフィルムを見せられたティンパリーは上海で南京に滞在しているベイツに対し、フィッチがフィルムを持ってアメリカを講演してまわる計画を勧める。アメリカの政界に働きかけて対日政策を見直してもらう目的である。早いほうがいいので、飛行機がいい、資金の手はずを整えると手紙を書く。

フィッチに送った手紙の内容を読んで、北村は「ティンパリーが国民党の対外戦略に奉仕している、ティンパリーは国民党筋から金を算段したはずだ」と主張するわけです。

■ティンパリーの一存ではありえませんよね。まず、マギーが撮影し、フィッチはフィルムを南京の外に持ち出すことをみずからの判断でしている。

アメリカ人、イギリス人たちだけでなく、ラーベやドイツ大使館員たちもマギーのフィルムと報告書をドイツに送りヒトラーの日本に対する政策をかえようとしていました。このことひとつ採ってみても、南京の実状を外部に向けて発信しようという強い意思が南京在住外国人たちの総意であったことがわかります。

■また、手紙を受け取ったフィッチはティンパリーの言うがままに動いているわけではないですね。早いほうがいいと言われたのに、広東を1ヶ月もかけて回っている。

アメリカを回る計画はティンパリーに勧められるまでもなく、フィッチ自身の計画でしょう。YMCA、教会関係を巡回して南京の難民に対する救援資金が欲しかった。日本兵に焼かれたYMCA会館を再建するのも初期の目的だったでしょう。会館が焼かれたときにフィッチはひどくショックを受けていましたから。

■ティンパリーがつつましい生活をしていたから金は国民党からもらっていたはずだ、とは決めつけられないでしょう。

推測、即、断定ですめば歴史などいくらでも作れますね。ティンパリーというのは非常に幅広い人脈を持っていました。正当な目的さえ示せば寄付に応じるひとも多かったでしょう。フィッチがアメリカにたつことになる1ヶ月までには集めることも不可能と決めつけられないでしょう。
それよりも、北村がいうようにティンパリーが廬溝橋事件の直後から米英に派遣され、国民党の宣伝戦略に働いていたとすれば、フィッチ一人の航空賃などは工作資金からただちに支出できたはずでしょう。例え手元においてなくとも、上海にある国民党の機関に言えばただちに手配をしてもらえるはずですが、そういうことは考えないのかな、北村は。

■どちらにしろ、国民党がティンパリーに対してフィッチのアメリカでの活動費まで用立てたと証明したけりゃ、その極秘司令書と旅費の領収書のコピーが必要ですね。

アメリカに渡った先では教会組織に働きかけて、中国でのキリスト教の拠点を守り、難民を支援するために義捐金を集めながら講演をしたことでしょう。潤沢な金が集まったとまではいいませんが、さりとて講演旅行に困ることはなかったでしょう。

もちろん、国民党筋から資金援助をもらえたとしても、なんら問題はないです。南京の実態を知らせること、日本への制裁を訴えること、難民に援助を与えること、これらのことに関して、国民党政府とティンパリー、フィッチ、ベイツらの間には利害は完全に一致していますから。これらの活動をしたからといって、国民党の対外戦略をやったということは言えないのです。
要するに、

1.南京大虐殺を見た外国人は必ずこれを告発する。

2.国民党政府もこれを告発する。

3.外国人が告発するからといって、即、国民党政府の差し金とは言えない。

4.外国人が自発的にする以上のことをしたことが明らかな場合だけ、国民党政府の関与を疑うことが出来る。

この単純な理屈がわからないのが北村稔です。

3.方法論なき探求

■しかし、北村の論証もずさんですね。

全体として短絡的にすぎます。なにかあるとすぐ、疑わしい事実があるとすぐ国民党政府の差し金だ、と言い張り、証拠がないときには証拠を隠したと言い募る。根本的な問題は北村の研究姿勢にあります。かれにとって、南京大虐殺は誰かによって作られた認識である、そして作ったのはティンパリー、完成させたのは南京と東京の裁判。このような前提が先に立てた、これが第一の問題です。

そして、ティンパリーが宣伝処の手先であることを「発見」した。しかし、それは『近代来華外国人名辞典』の誤読と『曽虚白自伝』の鵜呑みのためだった。それもよしとしましょう。しかし、その後の探求においてはこの結論を大前提としてすべてをそこから解釈した。そこが間違いだと思います。その後の探求においてもひとつひとつの事実を確かめ、彼の「発見」に少しずつ肉付けをして行かなくてはならない。ところが、ティンパリーが宣伝処の手先であることを「発見」したあとはすべてにわたって、事実に対して基礎的な裏付けをしていない。

つまり、北村の研究方法は演繹法しかないんですよね。帰納法的な証明というのがない。

■えーと、演繹法と帰納法って?

平たく言うと、演繹法というのは大前提−小前提−結論というもの。てっとり早くいうと三段論法です。例えば、日本人は国際的に見ると誠実でお人好しだ。日本人の新聞記者もそうだ。だから、日本人の記者は情報工作に関わらない。 演繹法というのは大前提と小前提の中にすでに結論が内在している論証方法です。ということは演繹法をいくらつなげても新しい真実というのは出て来ない。

これに対して帰納法というのはある事象に関して、これでもか、これでもかといろんな事実を発見・発掘してきてそこからその事象の本質を抽出する論証方法です。自然科学の方法論は基本的にこれです。
もし、北村が曽虚白自伝などを不幸にして誤読したとしても、いろんな方向からティンパリーのしたこと、ティンパリーの周囲の人物のしたことを事実をもって積み上げてきたとすれば、これほど馬鹿げた妄想を抱くことはなかったと思われます。

北村の方法論は、そうではなく、曽自伝の誤読を根拠として一切の資料をこれには合わして解釈を強行したのです。私の知る範囲ではティンパリーとスマイスのつながりを示す記録というのはもちろん、金の受け渡しなどの資料もありません。曽の発言にスマイスに書かせたというのがあれば、当然それを裏付ける資料を探すべきですが、それだけはしない。

4.訴訟指揮という幻想

■ティンパリーの本が南京、東京の裁判の訴訟指揮に使われたといいますが、そうですか。
南京法廷における判決の一部を引用してあるね。ティンパリーの著作についてはこうだ。
そして以上の「敵人罪行調査報告」を補完する証拠資料として、ティンパーリーやスマイスの著作が援用されるのである。
「このほか外国人記者ティンパーリーの著した『日軍暴行紀実』や、スマイスの著した『南京戦禍写真』、さらに南京攻防戦に参加した我軍の営長の郭岐が著した『陥都血涙録』があり、これらの[書物の]各部分の記述は悉く一致する。また当時の南京に止まったアメリカ人教授ベイツやスマイスは目撃した実情に基づき本法廷で宣誓署名して事実であることを証言した」 pp71
つまり、三冊の本が長々と判決文で読まれた「敵人罪行調査報告」の補完資料となったというだけである。これのどこが「特筆」の名に値するのだろう。

■東京の裁判でも裁判官がティンパリーの著作を読んでいたという証拠があるそうですが。
#東京の裁判でも、判決書の中に裁判官がティンパリーの著作を読んでいたことを示す文面が見られる。判決文には「日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した」と述べられるが、法廷で陳述された多くの証言の中にはこの数字への言及は見あたらない。それゆえ一万二千という人数は、WHAT WAR MEANSにいう「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうち約三十パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」を敷衍させたものと考えられる。ティンパーリーの著作が訴訟指揮の基本方針を形成させたことは容易に想像される。pp67

裁判官というのは書証や証言にあることでしか、判決を下さない。これは裁判のイロハである。
北村自身書いているのだが、自分の書いた文章を忘れたのだろうか。

二つの裁判では、日本軍占領下の南京に在住しWHAT WAR MEANSに匿名の証言者として登場した欧米人たちが、書面での宣誓口述書やほうていに出頭して証言した。これらの証人にはベイツやフィッチ、スマイスらが含まれる。

WHAT WAR MEANS自体ではなく、その中に文章を書いた国際委員会の委員たちが証言している。
       ★ベイツ証言
スマイス教授と私とは、我々の調査、所見、埋葬調査の結果として、我々が確実に知る範囲では、一万二千人の市民、すなわち、男女、子供が城内で殺害されたと結論しました。

■ちゃんと証言があるじゃないですか。

実際に証言があったのに、なかったなどと言ってはいけません。ベイツ教授が証人として出廷しているのにその証言は読まなかったらしい。いったい、どこを読んだのだろう、北村君は。ティンパリーの本を読んだから、それを訴訟指揮の基本方針にした、などとはまったくの北村君の妄想だね。

■訴訟指揮の問題はひどいミスですね。


5.開いた口がふさがらない裁判批判

事実のあからさまな脚色がない」以上、WHAT WAR MEANSに登場する外国人たち、すなわちベイツ、フィッチ、スマイスらの証言もまた、脚色のないものであったということになる。南京、東京裁判のティンパリー著書に関連する部分は事件の正確な認識を裁判に伝えた、その部分の事実認定については誤りがないということになる。 pp123


ということはティンパリー著作によって裁判に誤った認識が盛り込まれたとする北村の裁判批判は全面的に破綻したということになる。

ところが、北村はティンパリー著作を利用して新たな裁判批判を説き起こすのである。北村は南京・東京の判決を次のようにまとめる。

南京と東京の「南京事件」判決の構成要因を、傍線部分を基準に順不同で要点化すれば、
1.「六、七週間にわたって展開された計画的虐殺である」、
2.「南京における残虐行為は広く世界に知られ、各国で批判の声があがった」、
3.「日本軍による放火・略奪・暴行の蔓延」、
4.「死者は十万人から三十万人に及んだ」である。 pp79

■ハーイ、質問があります。「六、七週間にわたって展開された計画的虐殺である」という条文が二つの裁判のどこにありますか。

当然の突っ込みですね。pp69の南京法廷の判決に「陥落後に計画的な虐殺を行い報復した」という部分があり、北村はここに傍線を引いています。しかし、第六師団は十二月中に移動を始めていることは法廷も知悉する事実である。陥落後に計画的な虐殺を行ったということは谷寿夫に関する判決であり、六、七週間にわたって計画的虐殺をしたという事実認定をした事実はない。

さらに極東裁判は支那派遣軍の司令官松井が軍隊の統制を行わず、市民保護の義務を果たさなかったことで有罪としている。つまり松井が計画した虐殺であるとは認定していない。虐殺が六−七週間に及んだことは書いてあるが、他の誰かが計画的した虐殺であるということも、どこにも書かれていない。

■それを言いたかったのです。おーい。北村さん、「計画的な虐殺」って書いてある部分をコピペして示してくれよ。・・・この歴史学者さんはどこに目をつけているのかな。

そもそも南京大虐殺全体が計画的な虐殺であったという認識には私は賛成しない。南京における虐殺の種類は

1.投降を受け入れず敗残兵をすべて殺戮した
2.捕虜を虐殺した
3.便衣兵容疑の市民を虐殺した
4.戦闘中に市民が巻き込まれるのを構わず戦闘行為を続けた
5.戦闘気分の延長で市民を殺害した
6.兵士の個人的・恣意的殺人があった

虐殺のうち組織性の高い部分は1.2.3.4.であり、これらは軍事行動の逸脱である。それらは3週間以内に終了した。5.と6.の部分は6−7週間を越えてもなお少数存在した。

そして、1.の「六、七週間にわたって展開された計画的虐殺である」と4.の「死者は十万人から三十万人に及んだ」という 部分はティンパリーの著作にないのにも関わらず、裁判の事実認定に織り込まれた誤った判断だと主張するのである。

■はっきり言って大笑い。

もともとティンパリーの著作が訴訟指揮を決定したという事実がない。訴訟指揮に使われたと北村のあげる証拠は崩壊している。裁判の構成要素は外国人の証言・資料と中国側の証言・資料であり、これらを総合して事実認定に至っている。

1.と4.の条項は中国側裁判資料によって明らかにされた部分です。ティンパリーの著作の素材である外国人証言・資料は城内での見聞に限られて、時期も概ね四週間までに限られている。城内からの犠牲者は便衣兵容疑者の連行後殺害、陥落後の短期間の掃討、日本軍兵士の私的・恣意的な殺人である。これらの数は多く見積もっても5万人を越えない。中国側主張の城外における20万人以上の大量殺戮は外国人たちによって目撃されていない。

すなわち1.のうち「計画的虐殺」という部分と4.の「三十万人」という部分は中国側資料に基づくものであり、その当否を検証するには中国側資料を見なければならない。ところが、北村はあくまでティンパリーの著作が裁判全体を動かしているはずだから、その著作にない事実認定は誤った判断であると主張するのである。この論理展開には開いた口がふさがらない。

頭わるーい!!

このあとも誤った観念のもと、延々と裁判批判を続けるのであるが、もはやティンパリーの著作とは関連のないことであり、古くから否定派が言い続けてきたことの再現フィルムであって新味はないのでここで打ちきる。


6.タネ本におんぶにだっこ

■最初に言っていた北村本のタネ本というやつ読みましたよ。

ずいぶんもネタが共通していたでしょう。

■共通も何もパクリそのものじゃないですか。

「新『南京大虐殺』のまぼろし」から「 郭岐『陥都血涙録』と、田伯烈の『外国人の見た日本軍の暴行』」の章をそのまんま頂いています。問題意識から疑問点の展開、細かな印象操作についても、そっくりです。

■了見の狭い著者だったら著作権侵害で訴えてますよ。

まあ、ノンフィクションの分野ですから、事実関係は同じにしかならないし、考え方だって似てきます。pp31では1999年に鈴木明の「新『南京大虐殺』のまぼろし」に遭遇したと一行だけ書いていますが、細部だけではなく全体の構想から似ているから、多少は断りをいれないとね。ティンパリーの著作が訴訟指揮に使われたというのは大ウソですが、北村本が鈴木明の著作が論証指針に使われたのは紛れもない事実です。巻末に参考図書として特筆大書しておかないといけませんね。

■私が鈴木だったら、特筆大書はいいから、ずいぶん本が売れただろう、儲けさせてやったんだから、盆暮れの付け届けだけは忘れるなよ、と言っちゃいますね。

(笑い)もっとも同じ否定論者仲間ですから、鈴木もあえて口を挟まなかったのかもしれませんが。というか、鈴木は南京大虐殺に関してはかなり、著作の回数が少ないひとでしたし、北村本が出る頃はもう晩年でしたから、クレームをつける元気もなかったかもしれませんね。

■鈴木明がそれなりに本をしこたま買い込んで、勉強家だったのに較べると北村はずいぶん楽をしていますよね。

そうそう、北村の巻末の資料の数も非常に少いし。まあ、東中野のように何でもたくさん並べればいいというものでもないですが、郭岐の『陥都血涙録』なども鈴木本を読むだけで、すましているかのようです。鈴木は中国の文献だけで「新『南京大虐殺』のまぼろし」を書こうとしたと言い、実際にそうしています。北村が日本の文献を使わないと宣言したのも、もしかして鈴木のまねかもしれません。ただし鈴木と違って、宣言に反して本文には得体の知れない日本の文献を何回も引用するのは笑えますね。

■いったい、鈴木明というのはどんな人ですか。

TBSで働いていたひとでね、スポーツ関係から南京事件まで幅広いテーマを扱ってルポライターと称していました。話は面白いのですが、基本的に大状況が読めていないので歴史に関する考察なんかは主観的なことしか書けません。だから、本多勝一なんかとディスカッションしたことがあるのだけれど、論理的に詰められると完敗している。

■なぜ、北村に受けたんですか。

一人称の「僕」で通すスタイル。「僕」がいろんな発言、発見、記録に接して「驚いた」とか、「本当か?」「そんなはずはない!」と瞬間に反応して見せ、読者を感性的に巻き込んで同調させるという書き方です。そういう書き方はうまい。ですから、筆先で筆者の感動を「演技」して見て同意を求めるという、「芸」なんですね。北村は鈴木のそういう感性的な「疑問」、「問題点」に巻き込まれたのです。

しかし、歴史を書くときに大状況というのがわかっていないから、特定の個人の行動が歴史を動かした大事件のように描かれる。そういうのは小説や素人向け歴史読本としては非常に面白いんだが、歴史としては適当ではない。

ティンパリーに焦点を当てて南京大虐殺を説明しようとするということ自体、鈴木明の影響というのが感じられる。ある一点だけに焦点を絞り、それが原因だというのは俗受けしやすいがウソになる。ちょっと昔、渡辺昇一というひとがマギーが南京大虐殺を言いふらした、大虐殺が広まったのはマギーのせいだという論を唱えていた。北村がティンパリーのせいで南京大虐殺が広まった、というのもこの路線です。

鈴木は「南京で数万人のひとが犠牲になったと言われるが、伝えられ方が政治的であるために本当のところがわかりにくい、南京大虐殺のまぼろしだー」というような目くらましを使っておいて、華麗な筆捌きで「なかった」説の印象操作を積み上げていくのだが、論理のひとがそれをまともに跡づけようとするとこれまた華麗なる失敗に終わらざるをえない、というところだね。

7.北村本が受ける層とその理由

この本が右翼・歴史修正主義者にもっとも受けたのは、ティンバリーが国民党政府の意を受けて著作を書いたという部分であろう。彼らにとって事実の正確な認識などはどうでもよい。ただ、南京大虐殺が投げかける日本軍の暴虐という彼らにとって不快な悪夢を少しでも忘れさせるようなことなら何でも受け入れる素地がある。そのために信じれることならウソでも何でも歓迎するのである。そして、ティンパリーが情報工作員であった、ティンパリーがウソを書いたために南京大虐殺の認識が出来たとする北村の立論は事実誤認や論理の破綻がいくらあっても、おいしい認識として受容されるのである。

その証拠に北村本を引用する著書やサイトは無数にあるが、その内容はティンパリーが国際宣伝処に雇われていたという以上のものはないのである。具体的にティンパリーがどのように南京大虐殺を歪めて書いたとか、国際宣伝処のどういう指示を彼が実行したとかは一切書かれない。それも無理はない。当の北村本に何も書いていないからである。ただ、北村本がまき散らしたティンパリー情報工作員説の幻想に酔っているだけなのである。北村のうわべ上の成功と内実の致命的な失敗はここにある。

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