清水義範「トンネル」の授業

電車の窓の外に、トンネルの中でこたつにあたりながら生活している20代の男と小学生の女の子の姿が見えたら、あなたはどうしますか。そして、それがずっと以前に亡くなった大切な人たちだったとしたら……。迷わず深夜のトンネルに入っていった主人公の行動を、私たちはどう読み解いていくべきなのでしょうか。

清水義範「トンネル」の授業
1995年12月。高2の生徒たちによって、私の準備していた《読み》がくつがえされ、10代の感性に思わず脱帽させられた授業でした。国語の授業のあり方について、私なりの考えも少々盛り込んでみたつもりです。
全5章。『教育』第46巻第10号に発表。

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 これまで何度か引用したことがあるが、次に引くのは、かつて高1の生徒(普通科・1992年度)が提出してくれた感想文の一部分である。
     ぼくはこのような国語の授業がはじめてです。こんな楽しい小説が授業に出てくるとは思いませんでした。国語といえばどこか勉強というふんいきのある文章を読んでいって、それがテストに出るというパターンなのでぼくは嫌いでした。でもぼくはこの作品に興味があったので熱中して読むことができました。

 いつしか所謂「国語嫌い」になってしまった生徒たちにとって、「国語の授業」とは「楽しい小説」と出会う時間などでは毛頭なく、「どこか勉強というふんいきのある文章」を読まされて「それがテストに出るというパターン」の繰り返し、いわば、ある種の苦行めいたものなのだろうか。長い学校生活の中で彼らがそのように馴らされてきているのだとすれば、そして「国語の授業」が生徒たちを「国語嫌い」にさせ、のみならず、読むことや書くこニから彼らを遠ざけることの一翼を担ってしまっているのだとすれば、私たちの日々の営みはいったい何なのだろうか。

 生徒たちに読むことや書くことの楽しさを知ってもらうこと、あるいは心揺さぶる作品との衝撃的な出会いを演出すること――シンプルだが、それが私たちの原点であり、責務でもあるはずだ。いまさら言うまでもなく、読むことや書くことの喜びは、自己発見や自己表現の喜びであり、それは他者へ向けて自己を開いていくことにもつながるものとしてある。次に引く高2の生徒(普通科・1995年度)の感想文には、その喜びが素朴な言葉で語られている。

     僕は、この作品を読んで、いつもと違う感じがしました。それは、まず、おもしろいと思ったことだ。今までの国語の中でこのようなものは、読んだことがなかったからだ。(中略)でもやっぱり、この作品を読んで、一番に言いたいことは、この感想文の題名に書いたとおり、「もう一つの国語」だという気がした。なぜなら、自分をやる気にしたからです。やる気というのは、人間にとって、重要なことだと思う。もしやる気がなかったら、ただボーッとしているだけだろう。そして、全然お もしろくないのだ。それが過去の僕の国語に対する姿なのです。逆に言えば、やる気を起こしたら、わくわくしたりして、楽しいのだと思う。だから、この作品は、とても好きだと言える。 ほとんどが自分の心の中を語っただけになってしまったけど、僕も前にも言ったように、少しですけど、意見が言えたのでうれしかったです。

 時代状況の変化に伴って、教室で向き合う生徒たちの読書体験や語彙の質もまた確かに変わってきていることを、私たちは否応なく実感させられている。そして、ふと目にした書物のタイトル――『ことばを失った若者たち』(講談社、1985年)、『心が壊れる子どもたち』(講談社、1987年)、『滅びゆく思考力』(大修館書店、1992年)等々――に、何とも言えぬ暗澹たる思いを掻き立てられてしまうのは、おそらく私だけではあるまい。しかしながら、生徒たちの中には読むことや書く(表現する)ことへの欲求が確かに存在する。

 そんな彼らの欲求を国語教室に誘い出すための《仕掛け》、あるいは《起爆剤》として、私は現代作家の小説(自主教材)を国語教室に投げ込むことがある(注1)。自主教材には、頼りになる所謂「指導書」はない。それは生徒たちにとっても同様であり、いわば、お互いが《徒手空拳》で作品に向き合わねばならないわけである。ただし、このことを「生徒たちの位置に下りていく作業」などといった言葉で形容してほしくない。私たちは、生徒たちより年齢的に上ではあっても、決して出来上がった存在ではないと思うからだ。もちろん、自主教材を用いる場合でも、それを年間授業テーマや授業計画の一連の流れの中に位置づけることを忘れてはならないが、ともあれ、それらはいつも所与の役割を十分に果たしてくれた。実際のところ、前掲の感想文は、いずれも現代作家の小説を用いた授業の後に提出されたものであった。

 生徒たちの感想文や作文は、授業時に配布する資料プリントや教科通信の記事として、あるいは、時に講堂礼拝の講話(わが校では学年ごとに毎週1回礼拝があり、その折に教員が持ち回りで当該学年生徒全員の前で話をする)として、機会を得ては彼らに還元されていく。いずれの場合でも、文の巧拙よりもまず、彼らの文章の面白いと思える点についてコメントすることを私は心がける。こうした作業を続けていくと、やがて志賀直哉「城の崎にて」であれ、中島敦「山月記」であれ、彼らの《爆発》はとめどなく続くことになる。

 《読み》のたちあがる場――そんな国語教室を私たちはめざしたいものだ。ここでいう《読み》とは、生徒たちが作品を読み、自身の読みを表明(表現)する過程、さらには生徒同士の読みや教師のそれとがせめぎ合いつつ作品の主題を紡ぎ出していく過程をも含めた意味で用いている。


/注/
(1)自主教材選定の基準については、拙稿「《山田詠美》を国語教室へ」(『日文協 国語教育』第27号、1995年11月)に注記した。

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