読者のぶりぶり通信〔MAIL&FORMDECORD篇〕【No.028】

◆ これからの国語として - 藤平 純 BACK

1998/03/09/12:20
私は24歳で制作,編集を仕事としているものです。
高校3年の時の最後の国語の授業を思いだしました。
最後の国語の授業では
「俺のお気に入りの本を読む!」
と先生が言い,持ち込まれたのは
「あなただけ,こんばんは」という,倉本 総だったか山田太一の小説でした。
たしか,テレビドラマになっていた。という話でした。
生徒に読ませている間,先生は眼鏡をはずして,涙をふいていました。
先生が奥さんにプロポーズするときに
「この本を読んでくれ」
とわたしたそうですから,もう何度も読んでいたことでしょうに。
当時,もう小学校5年生のお子さんがいたはずです。

「風葬の教室」は高校2年の時に,図書館司書の先生に進められて読みました。
読んだ後の興奮をおさえきれず,読書感想文として提出しました。
誰しももっているだろう,イジメの記憶をされるほうにしても,された側にても
胸のなかに,なにかを発見させてくれる小説だったと思います。
セックス描写がどうのこうの,とは山田詠美を語るに付き物ですが,それだけで教科書にのれないのは,
なんたる損失だろうか。と思いました。
少年少女のどの程度が性を避けて死んでいくことができるというのでしょうか。
むしろ,少子化,売春,AIDSが叫ばれる現代を語るのに,適しているのではないだろうか。
大人達の都合で読む本を制限されるのは,どうかと思います。
本を読まない人達は自分にあった本をみつけられなかったひとだと思います。

ぜひこのような授業をお続けください。
これから,母になるかもしれない立場としてはこのような作品にふれあう機会のある授業をのぞみます。

「風葬の教室」等が教科書の候補だったことも知りませんでした。
勉強になりました。ありがとうございます。



★ たまぶり ★

藤平さん、感想をお送りいただき有り難うございました。
藤平さんご自身、高校時代に作品との幸せな出会いをされたのだろうと思います。また、そんな出会いをコーディネイト出来る教員がいたというのも幸せなことですね。

私は、読むことや書くことを嫌いにさせ、読む悦びや表現する悦びから子供たちを遠ざけてしまうのが国語の授業なら、ない方がかえって害が少なくていいと思っています。それに、自分が好きで生業とした営みがマイナスにしか結果しないというのではあまりにも虚しいですから……。

国語教室で文学作品を「読む」作業は、虚構世界を潜り抜けた上で自分たちを取り巻く現実に出会いなおしていくということにつながると思いますし、このこと自体は個人の読書の作業とも本質を同じくしていると考えます。

ただ、教室で「読む」ことの意義は、それが成員たちの共通体験となる、あるいは意見を出し合った上での「読み」が作り出されていく、というダイナミックな過程にあるのではないかと思います。その過程では、私自身が逆に生徒たちからいろいろと気付かされることも多く、発見の楽しさを味わうことにもなります。



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