読者のぶりぶり通信〔MAIL&FORMDECORD篇〕【No.096】

◆ おしえてください(1) - のぶさん BACK

1999/11/03/12:08
御無沙汰してます。用事のある時だけのメールになってすいません。
「ひよこの眼」の節はお世話になりました。
2学期も後半、「舞姫」を20時間で終えて、中間試験後の教材として「風葬の教室」を選びました。
文庫本からOCRでとりました。ところどころカットしました。

そこで、またいろいろ教えていただきたいのですが、最後の部分の、私が好きな野原の場面です。
この野原は、死骸が転がっている、あるいは風化した野原でしょうか。
また、私は、そこに生えている草や木のとりこになるが、草や木は私を殺すにはあまりにも若い
ただの生きもの、とありますが、この「草や木」は何を比喩しているのでしょうか。
クラスメイトでしょうか。



★ たまぶり ★

のぶさん、どうもお久しぶりです。
「ひよこの眼」第2信への返事およびメルマガでの私見表明の遅滞、誠に申し訳ありません。
私自身、授業で取り上げたことのない教材でもあり、現在、国教法で取り上げ、学生たち(大学3回生)と
議論の最中ですので、いま暫くお待ち下さい。

ともあれ、「風葬の教室」の野原の件についてお答えしたいと思います。
私は、授業においては、野原の場面が作品の初めと終わりに描き込まれていることの意味を捉えることでよいのではないかと考えています。
前者では「草や木に殺されている」杏が、後者では草や木を「私を殺すにはあまりにも若いただの生き物なのです」と言い切っていますよね。

2つの場面に見られる杏の変化は、もちろん教室での事件(体験)を経たからなんですけれども(また、それゆえに比喩と見なせば見なし得るのでしょうが)、直接的な比喩というより、むしろ杏の変化=成長(増田正子論文風に言えば「死」と「再生」)を象徴する場面として、さらに(作中に展開する事件を挟むように「事件前・野原」と「事件後・野原」が織り込まれていることは)「いじめ克服」という具象的・個別的な事象をより抽象化する装置として機能していると捉えるべきだと私は思います。(以前、執筆を担当した『読書を教室へ《中学校篇》』(東洋館出版)の「風葬の教室」の項に、「単なるいじめ克服小説として捉えると大きなしっぺ返しを食いそうだ」と書いたことがあるんですが……。)

すなわち、自分という生命を取り巻く他の生命の力の前で立ち尽くしていた杏が、自分の生命の力を信ずることが出来るようになった、という変化。小学校の教室における事件をその時制でリアルタイム風に語る「杏と等身大の語り手」の言葉と、その事象を過去のものとして捉え返している(すなわち事件の時間の外にいる)「現代の時間を生きている語り手」の言葉とが微妙に混在していること――これは生徒たちの「うんうん、よく解る」という反応と「こんな小学生、おるわけないで!」という反応によって峻別しうるはず――で、作品世界は事件そのものの解決といったレベルを越えて、杏の現在(あるいは私たち読者の現在)へ向かって広がるベクトルを持つものになっているような気がします。

そういう意味では、まだお応えすることのできずにいる「ひよこの眼」もそうなんですが、「死」というものを対置して捉え返される生命の姿、「生」に対する処し方の問題が掬〔すく〕い上げられてくるようにも思うのです。



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