読者のぶりぶり通信〔MAIL&FORMDECORD篇〕【No.099】

◆ 「風葬の教室」についての質問(2) - のぶさん BACK

1999/11/27/22:37
「風葬の教室」の授業も終わりに近づいています。
3分間スピーチと並行して授業しいるので、14回もかかりました。
前回に続いて、あと2つ大きな質問をします。

1つ目は、冒頭の「鳥獣戯画」の意味です。転校の場面では、クラスの友だちを「口をぱくぱく動かしておなかをすかせている雛鳥のように見えます」と重ねて、田舎者として見下している意味で使っていると思いました。いじめがエスカレートする場面では、「狂気の張りついた獣のような瞳」と重ねて、恐怖の対象の意味だと思いました。最後の場面では、「自分たちを人間だと思っている愚かな者たちを、まず動物にまでおとしめます」と重ねて軽蔑している意味だと思いました。このように場面によって変化しているのかどうか。

2つ目は、いじめの引き金になる恵美子の「いい気になっちゃってさ」が「泣き声」と表現されている意味です。恵美子はクラスの感情を決定する「泣き女」でもあり「笑い女」でもあります。泣くというのは、弱者の強者への訴えだとすると、いじめている恵美子が弱者になってしまいます。私は、それ以前に充満していた陰惨な空気である、吉沢先生について「恵美子なら許せるが杏なら許せない」「彼女たち全員の存在価値が崩れる」という部分から、田舎者の都会人への劣等感の表れと考えました。

いずれ、この授業の様子はホームページで公開したいと思います。



★ たまぶり ★

のぶさん、今回の現場での取り組み、収穫のほうはいかがでしたか?
半ば羨ましく感じつつ、メールを拝見しました。のぶさんとの遣り取りは、お互いの教室における授業を踏まえた上で語り合える点、実に楽しい作業でもあります。

(1)前回に述べた《野原》の場面が杏の変化・成長を象徴するものだとすると、この《鳥獣戯画》は杏が身を置く教室空間(其処で生起する事件をも含む)を象徴していると私は捉えています。新入生として杏が紹介される場面で「口をぱくぱく」させている子供たちの言葉は彼女の耳には入ってきませんよね。その段階(教壇の上にいる段階)では、杏にとって、教室は《戯画》のごとく外から眺める対象でしかないわけです。ところが、教壇から一歩踏み出すと、彼らの声が耳に届くようになる。すなわち、彼女は《戯画》の世界に入り込んで行くことになるわけです。《鳥獣戯画》云々というのは、物語の結末を知っている(すなわち、事件を対象化しえている)「現代の時間を生きている語り手」の把握(言説)だと私は考えます。

都と鄙の対比というのも、確かに導き出しうる一つの視点でしょうが、それで全体を一貫して読んでしまうのは、少し難があるような気がしています。当初から杏の中にクラスメイトたちを馬鹿にする気持ちがなかったとは言えませんが、自殺を思いとどまった彼女が獲得し、「責任」という言葉とともに心に常備するようになった「軽蔑」という言葉(人の殺し方)。その段階で主人公は、あらためて「軽蔑」という言葉(方法)を発見したわけですから……。

のぶさんが着目された点で言えば、「鳥獣」「獣」「動物」に対比される「人間」という語を押さえていくべきだと私は思います。アッコの汚れた上履きに対する欲望を自覚した時に杏が抱いた「私は人間なのだ」という感慨ですね。「獣」の「群れ」として行動している者たちには、「良心」や「道徳」、「感情」すら存在しないと杏は言います。そんな「獣」たちが吉沢に対して抱く欲望(あるいは愛)の形に杏が対置しえたのが、アッコの汚れた上履きに対する欲望(愛)―フェティシズム―であり、それは所謂《真っ当な》ものではないにせよ、まさに「人間」的な文化の位相にあるものだったわけです。

杏の逆転(逆襲)が可能であったのは、群れとしての「獣」たちとの差異の発見、すなわち、個としての「人間」たることの発見が根底にあると見るべきでしょう。さもなければ、この小説のストーリーは、一面、極めてご都合主義的にしか読めなくなってしまうと思います。

(2)のぶさんご自身、「恵美子はクラスの感情を決定する『泣き女』でもあり『笑い女』でもあります」と把握されているのですから、一方で「泣くというのは、弱者の強者への訴えだとすると…」という設定をなさるのなら、同時に「笑う」ということの説明づけが必要になってくると思います。

確かにクラスメイトの母親の訃報の件、吉沢への手紙の件で、恵美子は「泣く」という行為を選択しています。それでも、語り手自身が「泣き女」でもあり「笑い女」でもあるとわざわざ併記しているわけですから、「恵美子はクラスの雰囲気を、自分の望む方向へ領導しうる存在だ」という把握でよいのではないでしょうか。

無論、「笑い」を文化的に定義する際、そこに「屈従」という一面を見出すことは可能でしょうが、上にも述べた通り、都と鄙の対比(とそれに伴う優越・劣等の感情)は全体を貫く基軸ではないと私は考えています。

末筆ながら、ホームページでの授業風景の公開、心待ちに致しております。それでは。



◆ 【No.099-2】Re: Re:「風葬の教室」についての質問2 - のぶさん
1999/12/19/22:58

ご多忙の折、質問に解答していただきまして毎度ありがとうございます。
風葬の教室も無事終わり、テストも終わりました。出来は・・・・です。風葬の教室の最後は我田引水というか、得意の心理学もどきの方に無理矢理持って行きました。

アッコの上靴に欲望を感じることは、マスローの欲求の階層表を使って説明しました。いじめられて絶望して自殺を決意するが軽蔑という方法を発見して生きる喜びを感じることについては、論理療法を使って説明しました。出来事があって結果に直結するのでなく、その間に思い込みがある。その思い込みを変えれば結果も変わるというように。我ながら強引で、山田さんに悪いなぁと思いながら授業していました。

予告していた、「風葬の教室」の授業展開をホームページに掲載しました。「ひよこの眼」もついでに掲載しました。よろしければご覧いただき、また批評していただければ教師冥利につきます。
今後ともよろしくお願いします。

また、筑摩の「国語通信」やエーアイ出版の「WWWイエローページVol.8」で私のホームページを紹介してもらいました。嬉しかったです。



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