伊東静雄「反響」
わがひとに與ふる哀歌


    有明海の思ひ出


 
 馬車は遠く光のなかを驅け去り
 
 私はひとりで岸邊に殘る
 
 既に海波は天の彼方に
 
 最後の一滴までたぎり墜ち了り
 
 沈默な合唱をかしこにしてゐる
 
 月光の窓の戀人
 くさむら
 叢にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は
 
 無限な泥海の輝き返るなかを
 
 縫ひながら
 
 私の岸に辿りつくよすがはない
 
 それらの氣配にならぬ歌の
 
 うち顫ひちらちらとする
 
 緑の島のあたりに
 
 遙かにわたしは目を放つ
          いざな
 夢みつつ誘はれつつ
 
 如何にしばしば少年等は
             すべりいた
 各自の小さい滑板にのり
  か
 彼の島を目指して滑り行つただらう
 
 あゝ わが祖父の物語!
 
 泥海ふかく溺れた兒らは
 
 透明に 透明に
        ヽ  ヽ  ヽ  ヽ
 無數なしやつぱに化身をしたと

 
  自註 有明海沿の少年等は、小さい板にのり、八月の限りない
                          ヽ ヽ ヽ ヽ
      干潟を蹴つて遠く滑る。しやつぱは、泥海の底に孔をうが
 
      ち棲む一種の蝦。




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