伊東静雄「反響」
小さな手帖から


    訪問者

 
 トマトを盛つた盆のかげに
 
 忘れられてゐる扇
 

 
 その少女は十九だと答へたつけ
 
 はじめてひとに見せるのだといふ作詩を差出すとき
 
 さつきからの緊張にすつかりうけ應へはうはの空だつた
 
 もつと私が若かつたら
 
 きつとそれを少女の氣隨な不機嫌ととつたらう
 
 或はもすこし年をとつてゐたなら
 
 かの女の目のなかで懼れと好奇心が爭つて
 
 強ひて冷淡に微笑しようと骨折るのを
                                   めいろ
 耄碌した老詩人にむける憐れみの目色と邪推したらう
 

 
 いま私は疊にうづくまり
 
 客がおいていつたノート・ブックをあける
 
 鉛筆書きの澤山の詩
 
 愛の空想の詩をそこによむ
 
 やつと目覺めたばかりの愛が
      しか
 まだ聢とした目あてを見つける以前に
 
 はやはげしい喪失の身悶えから神を呼んでゐる
 
 そして自分で課した絶望で懸命に拒絶し防禦してゐる
 
 あゝ純潔な何か
 

 
 出されたまゝ觸れられなかつたお茶に
 
 もう小さい蛾が浮んでゐる
 
 生涯を詩に捧げたいと
 
 少女は言つたつけ
 
 この世での仕事の意味もまだ知らずに




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