夏目漱石「夢十夜」
第二夜



　
　こんな夢を見た。
　  おしょう 　　しつ　 　 さ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 あんどん　　　　　　　 　　　　とも
　和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行燈がぼんやり点っ
　　　　　　　　　かたひざ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　か　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ちょうじ
ている。片膝を座蒲団の上に突いて、燈心を掻き立てたとき、花の様な丁子
　
がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。
　ふすま　　 え　　　ぶそん　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おちこち
　襖の画は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒むそうな
　　　　　　　　　　 かたぶ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　かいちゅうもんじゅ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 た
漁夫が笠を傾けて土手の上を通る。床には海中文殊の軸が懸っている。焚き
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 にお
残した線香が暗い方でいまだに臭っている。広い寺だから森閑として、人気
　
がない。黒い天井に差す丸行燈の丸い影が、仰向く途端に生きてる様に見え
　
た。
　　たてひざ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 めく
　立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思っ
　
た所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとの如く直して、そ
　
の上にどっかり坐った。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　い　つ
　お前は侍である。侍なら悟れぬ筈はなかろうと和尚が云った。そう何日ま
　　　　　　　　　　　　　　　　もっ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　くず
でも悟れぬ所を以て見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃ
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 く　や
と言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持っ
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　むこう　　　　　　　　　　　 け
て来いと云ってぷいと向をむいた。怪しからん。
　
　隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って
　
見せる。悟った上で、今夜又入室する。そうして和尚の首と悟りと引替にし
　
てやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければなら
　
ない。自分は侍である。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　じじん　　　　　　　　　　　はずか
　もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて、生きている訳には行かな
　
い。綺麗に死んでしまう。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　は　い　　　　　　　　　　　　　　　　しゅざや
　こう考えた時、自分の手は又思わず布団の下へ這入った。そうして朱鞘の
　　　　　　　　　　　　ず　　　　　　　　　　　　　　　　　　つか　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　むこう
短刀を引き摺り出した。ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい
 は　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　すご
刃が一度に暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行く
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ことごと　 きっさき　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　こ
様に思われる。そうして、悉く切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　くすん　ご ぶ
自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭の様に縮められて、九寸五分の先へ来
　　やむ　　　　　　 とが　　　　　　　　　　　　　　　　　 たちま　　　　　　　　　　　 や　　　たく　　　　　　　　　からだ
て已を得ず尖ってるのを見て、忽ちぐさりと遣り度なった。身体の血が右の
　
手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。
　　　　 ふる
唇が顫えた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ぜんが
　短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけて置いて、それから全伽を組んだ。――
じょうしゅういわ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　くそぼうず　　　　　　はがみ
趙 州 曰く無と。無とは何だ。糞坊主めと歯噛みをした。
　　　　　　　　　　　　　　か　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　こめかみ
　奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。米噛が釣って痛い。
　
眼は普通の倍も大きく開けてやった。
　　かけもの　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　やかん
　懸物が見える。行燈が見える。畳が見える。和尚の薬缶頭がありありと見
　　　　　　 わにぐち　　 あ　　　　　あざわら
える。鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。怪しからん坊主だ。どうしても
　
あの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じ
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 かおり
た。無だと云うのにやっぱり線香の香がした。何だ線香の癖に。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　なぐ
　自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云う程擲った。そうして奥
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 りょうわき　　　　　　　　　　　　　　　　せなか　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つぎ
歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。脊中が棒の様になった。膝の接
 め
目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛
　
い。苦しい。無は中々出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　く　や　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おもい　　　　　　おお
つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨
いわ　　　　　　ぶつ
巌の上に打けて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 じっ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 い
　それでも我慢して凝と坐っていた。堪えがたい程切ないものを胸に盛れて
　
忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　あせ　　　　　　　　　　　　　　ど　こ　　　　　　　　　　ふさ
へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、何処も一面に塞がって、まるで出
　
口がない様な残刻極まる状態であった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 あんどん　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ちがいだな
　その内に頭が変になった。行燈も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無い様
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 いいか
な、無くって有る様に見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加
げん　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 こつぜん
減に坐っていた様である。ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
　
　はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打っ
　
た。