寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
   曙町より(三)

 
 君の、空中飛行、水中潜行の夢の話は、その中にむせっぼいほど
  のうえん
に濃艶なる寡囲気を包有している。
 
 これに対する、僕のさびしいミゼラブルな夢の一つを御紹介する。
 
 それは「さまよえるユダヤ人」にもふさわしかるべき種類の夢で
 
ある。
 
 大学構内、耐震家屋のそばを通っていると、枯れ樹の枝に妙な花
 
が咲いていて散りかかる。
 
 見ると、その花弁の一つ一つが羽蟻のような虫である。
 
 そうして、それが人にふりかかると、それがみんな虱になって取
 
り付くのである。
 
 そこへT工学士が来た。彼は今この虱のことについて学位論文を
 
書いているというのである。
 
 そのうちにも。この「虱の花」はパッパッと飛んで来て、僕のか
 
らだに付くのである。
 
 あとで考えてみると、その二、三日前に地震研究所である人とこ
 
のT工学士について話をしたことがある。
 
 またやはり二、三日前の新聞で、見合いの時に頭から軋が出たの
 
で縁談の破れた女の話を読んだことがあった。
 
 しかし枯れ木の花が虱に変わる、ということがどこから来たかな
 
かなか思いつかれない。
 
 それはとにかく、この夢の募囲気と、君の夢の雰囲気との対照が
 
おもしろいと思うのでお知らせすることにする。
 
(昭和六年七月、渋柿)


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