寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
   曙町より(六)

   こみや
 小宮君は葡萄一株拾ったそうだが、僕は小鳥を一羽拾った。
 
 このあいだかなり寒かった朝、日の当たった縁側に一羽のカナリ
 
ヤが来て、丸くふくれ上がって、縁の端の敷居につかまっていた。
 
 人を見ても逃げもせず、かえって向こうから近寄って来た。
 
 どこかにしまってあるはずの鳥籠を探しているうちに、見えなく
                     なんど
なったと思ったら、納戸の中へはいり込んでいた。
                                                       えばこ
 籠に入れてから、さっそく粟を買って来て、それを餌函に入れて
 
やろうとしていると、もう籠の中からそれを見つけてしさりに啼き
 
立て、早くくれとでもいうように見えた。
 
 菜っ葉をやると、さも、うまそうについばんでは、くちばしを止
 
まり木にこすりつけた。
   ひなた
 日向につるしてやると朗らかに鳴きだしたが、声を開いてみると
 
立派なローラーである。
 
 猫の「ポウヤ」が十月に死んでから、妙にさびしくなった家が、
 
これでまた急ににぎやかになったような気がして、それからは、毎
 
朝新しい菜っ葉をやっては、玉をころがすような朗らかなワープリ
 
ングを聞くのが楽しみであった。
 
 ところが、今朝家人がえさを取り替える際に、ちょっとの不注意
                                       にが
で、せっかくのこの楽しみを再び空に遁してしまった。
 
 惜しいというよりはかわいそうな気がした。
 
 夕方家へ帰って見ると、見馴れぬ子猫が一匹いる。
 
 死んだ「ボウヤ」にそっくりの白い猫である。
 
 今朝、どこからか迷って来たのが、もうすっかりなついてしまっ
 
て、落ち着いているのだそうであるっ
 
 それを聞いた時に、ちょっと不思議な気がした。
 
 どうも以前に一度、やはり小鳥が死ぬか逃げるかした同じ日に、
 
子猫が迷い込んで来たことがあったような記憶がある。それと同じ
 
出来事が、今日再び繰り返して起こつたような気がするのである。
 
 しかし、どうもはっきりしたことが思い出せない。
 
 あるいはよくあるそういう種類の錯覚かもしれない。
 
 拾ったと思ったら無くする、無くしたと思ったらもう拾っている。
 
 おもしろいと思えばおもしろく、はかないと言えばはかなくもあ
 
る。
 
 この猫をひざへのせて夕刊を読んでいたら号外が来て、後継内閣
                           くだ              いぬかい
組織の大命が政友会総裁に降ったとある。犬養さんは総理大臣を拾
 
ったのである。
   に
 遁げたカナリヤもだれかに拾われなければ飢え死ぬか凍え死ぬだ
 
ろうと思う。
 
(昭和七年一月、渋柿)


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