寺田寅彦「柿の種」
自序


                           まつねとうようじょう  大正九年ごろから、友人松根東洋城の主宰する俳句雑誌「渋柿」   の巻頭第一ページに、「無題」という題で、時々に短い即興的漫筆                             こみやとよたか を載せて来た。中ごろから小宮豊隆が仲間入りをして、大正十四、   五年ごろは豊隆がもっぱらこの欄を受け持った。昭和二年からは、   豊隆と自分とがひと月代わりに書くことになった。昭和六年からは あけぼのちょう 「曙町より」という見出しで、豊隆の「仙台より」と、やはりだい   たいひと月代わりに書いて来た。それがだんだんに蓄積してかなり   の分量になつた。                                      おやま じろう  今度、もと岩波書店でおなじみの小山二郎君が、あらたに出版業   をはじめるというので、この機会にこれらの単文を集めて小冊子を、               じょうし 同業の店から上梓するようにしないかとすすめられた。    元来が、ほとんど同人雑誌のような俳句雑誌のために、きわめて   気楽に気ままに書き流したものである。原稿の締め切りに迫った催   促のはがきを受け取ってから、全く不用意に机の前にすわって、そ   れから大急ぎで何か書く種を捜すというような場合も多かった。雑   誌の読者に読ませるというよりは、東洋城や豊隆に読ませるつもり                                             さ じ で書いたものに過ぎない。従って、身辺の些事に関するたわいもな   いフィロソフィーレンや、われながら幼稚な、あるいはいやみな感   傷などが主なる基調をなしている。言わば書信集か、あるいは日記   の断片のようなものに過ぎないのである。しかし、これだけ集めて   みて、そうしてそれを、そういう一つの全体として客観して見ると、   その間に一人の人間を通して見た現代世相の推移の反映のようなも   のも見られるようである。そういう意味で読んでもらえるものなら   ば、これを上梓するのも全く無用ではあるまいと思った次第である。                                                               よ そ ゆ  これらの短文の中のあるものは、その後に自分の書いた「他処行   き」の随筆中に、少しばかりちがった着物をきて現われているのも   ある。しかし、重複を避けるためにこれを取り除くとすると、この   集の内容の自然な推移の連鎖を勝手に中断することになって、従っ   て一つの忠実な記録としてのこの集の意味を成さぬことになるから、   やはり、そういうのもかまわず残らず採録して、実際の年月順に並   べることにした。    中には、ほんの二、三ではあるが、「無題」「曙町より」とは別   の欄に載せた短文や書信がある。これも実質的には全く同じもので   あるから、他のものといっしょにして年月の順に挿入することにし   た。    大正十三年ごろの「無題」に、ページの空白を埋めるために自画   のカットを入れたのがある。その中の数葉を選んでこの集の景物と   する。これも大正のジャーナリズムの世界の片すみに起こつた、さ   さやかな一つの現象の記録というほかには意味はない。                                                   せわ  この書の読者への著者の願いは、なるべく心の忙しくない、ゆっ   くりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいと   いう事である。  
(昭和八年六月、『柿の種』)
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