上田敏「海潮音」

 
 良心

ヴィクトル・ユウゴオ




 かはごろもまと     こ ら   ひきぐ
 革衣 纏へる児等を引具して
 
 髪おどろ色蒼ざめて、降る雨を、
                    さか
 エホバよりカインは離り迷ひいで、
                      しゆうねん
 夕闇の落つるがまゝに愁然と、
  おほはら      ふもと
 大原の山の麓にたどりつきぬ。
       う                もろごゑ
 妻は倦み児等も疲れて諸声に、
   つち
 「地に伏していざ、いのねむ」と語りけり。
 やまかげ
 山陰にカインはいねず、夢おぼろ、
  う ば たま  やみよ
 烏羽玉の暗夜の空を仰ぎみれば、
        てんがん
 広大の天眼くわつと、かしこくも、
 
 物陰の奥より、ひしと、みいりたるに、
 
 わなゝきて「未だ近し」と叫びつつ、
 
 倦《う》みし妻、眠れる児等を促して、
                          のが
 もくねんと、ゆくへも知らに逃れゆく。
                     み そ か   よ     み そ よ
 かゝなべて、日には三十日、夜は、三十夜、
                 おと
 色変へて、風の音にもをのゝきぬ。
              ふしめ
 やらはれの、伏眼の旅は果もなし、
       いこ
 眠なく休ひもえせで、はろばろと、
 
 後の世のアシュルの国、海のほとり、
  ありそ
 荒磯にこそはつきにけれ。「いざ、こゝに
 
 とゞまらむ。この世のはてに今ぞ来し、
 
 いざ」と、いへば、陰雲暗きめぢのあなた、
                 てんがん     にら
 いつも、いつも、天眼ひしと睨みたり。
                            をのの
 おそれみに身も世もあらず、戦きて、
                 いつせい
 「隠せよ」と叫ぶ一声。児等はただ
  たけ
 猛き親を口に指あて眺めたり。
 
 沙漠の地、毛織の幕に住居する
 
 後の世のうからのみおやヤバルにぞ
 
 「このむたに幕ひろげよ」と命ずれば、
 
 ひるがへる布の高壁めぐらして
 
 鉛もて地に固むるに、金髪の
 
 孫むすめ曙のチラは語りぬ。
 
 「かくすれば、はや何も見給ふまじ」と。
           まなこにら
 「否なほも 眼睨 む」とカインいふ。
  かく                   き
 角を吹き鼓をうちて、城のうちを
            たみぐさ
 ゆきめぐる民草のおやユバルいふ、
 
 「おのれ今固き守や設けむ」と。
 あかがね    つ
 銅 の壁築き上げて父の身を、
                           いかに
 そがなかに隠しぬれども、如何せむ、
                まなまこにら
 「いつも、いつも 眼睨 む」といらへあり。
 
 「恐しき塔をめぐらし、近よりの
                    とりでも  つきしろ
 難きやうにすべし。砦守る城築あげて、
      まち
 その邑を固くもらむ」と、エノクいふ。
  か じ   おや
 鍛冶の祖トバルカインは、いそしみて、
         むへんとじよう
 宏大の無辺都城を営むに、
  はらから           こ ら
 同胞は、セツの児等、エノスの児等を、
            かりくら
 野辺かけて狩暮しつゝ、ある時は
 たびびと まなこ
 旅人の眼をくりて、夕されば
 せいてん  そ や
 星天に征矢を放ちぬ。これよりぞ、
  みかげいし とばり
 花崗石、帳に代り、くろがねを
            き      みようふ
 石にくみ、城の形、冥府に似たる
 
 塔影は野を暗うして、その壁ぞ
 
 山のごと厚くなりける。工成りて
            かべたて      お き ほど
 戸を固め、壁建終り、大城戸に
 
 刻める文字を眺むれば「このうちに
 
 神はゆめ入る可からず」と、ゑりにたり。
          せきでん
 さて親は石殿に住はせたれど、
 
 憂愁のやつれ姿ぞいぢらしき。
 
 「おほぢ君、眼は消えしや」と、チラの問へば、
 
 「否、そこに今もなほ在り」と、カインいふ。
   おくつき
 「墳塋に寂しく眠る人のごと、
 
 地の下にわれは住はむ。何物も
              われ  また
 われを見じ、吾も亦何をも見じ」と。
           あな  うが
 さてこゝに坑を穿てば「よし」といひて、
           あんけつどう
 たゞひとり闇穴道におりたちて、
 
 物陰の座にうちかくる、ひたおもて、
  ち げ
 地下の戸を、はたと閉づれば、こはいかに、
 てんがん      おくつ き
 天眼なほも奥津城にカインを眺む。



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