さわやか
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新聞投稿 昭和61年度


琉球新報

   妻の一言と「男」の甲斐性  風と共に去りぬ   女のパンチ  子供は大人次第である  宇宙の神秘と奇蹟  新春に思う

沖縄タイムス

宇宙の試練に感謝  地球を守れ   御遠慮ください   自由とは

強い反日感情  あなたとならば地獄の底まで  強い嫁  新人類の務め   自然の前に謙虚となれ  奇蹟か偶然か不思議な雨  日本一の労務者  何かが狂っている子供たち

 


 

妻の一言と「」の甲斐性 昭和61年5月2日 琉球新報 声

 どういう訳か、ブルドックとゴリラをミックスしたような、恐ろしく醜怪で、醜貌な男であっても、その妻の過大賞賛の一言で神々しく輝いて見える。だが、逆に知的選良で眉目秀麗なる男といえども、妻の愚痴や蔑みの言葉で大きくイメージダウンし、貧弱な男となり、冴えない汚れた光を放つようになる。

 妻の評価の一言に燃える男となるか、あるいは甲斐性のない卑俗な男と見られるかが決定されるとなると、女は魔力を持って男の運命を自由に操る事ができる、とも言える。勿論、妻にどういう評価の言葉を出さすかは夫の人間性、働きにかかるものではあるが、そこに正直な妻、愛情豊な賢い妻、悪妻のの妻に大別される受け止め方があると思う。

 飲み、打つ、買う、の3拍子揃った夫となると、これは結婚資以前の男となるが、それでも愛情豊な賢い妻の、過剰評価の励ましの言葉で燃える男ともなる。酒乱で暴力を振るう夫でも、陰で褒め称える妻の言葉を他から聞いたとき、はっと目が覚めたりするものである。

 愚痴をこぼす妻は逆に蔑みの眼で見られる。だが、悪い夫でも殊勝な心がけで褒め称える妻は美しく、高貴に見える。そういう互いに励まし、褒め称えあう夫婦はいつまでも栄えていくと思う。

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風と共に去りぬ 昭和61年2月18日 琉球新報 声

 空は今日も灰色で小雨まじりの寒風が吹き荒れ、2月のお天気はご機嫌斜めである。だが、男はど根性、冷たい雨風なんのその、心勇んでスコップを使っていると、風に乗って飛んで来た紙くずが、私の汗だらけの額にペッたりと張り付いた。顔を左右に振ったが、それはしつこくへばり付いて離れない。 こしゃくな紙くずめ! 私は苛立ってスコップを投げ捨てると、その紙くずを額から剥ぎ取って投げ捨てた。

 それが手から離れた瞬間、福沢諭吉が嫣然とウインクして風に舞い上がった。何とそれは一万円札だったのだ。 ”天は人の上に一万円札を飛ばした"、 私は形振りかまわずその後を追った。待ってくれ〜〜〜! 一万円〜〜〜! だが、私の絶叫も空しく、一万円札は、はるか彼方の空の果てへ消えてしまった。

 私は石につまずきその場にばったり、ニューヨークステーキが絶望の渦の中へかすんで消えた。その様を一部始終見ていた仕事仲間たちが一斉に腹を抱えて笑った。 「親方ともあろう者がみっともない」 そう言われても返す言葉がない。これも、人生のちょっとして悲喜劇のドラマである。私は苦笑しながら立ち上がって作業を開始した。 しかし、もし、あの一万円札が手に入ったら大いに悩んだと思う。使うべきか否か、警察へ届けるべきか否か、と・・・。

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女のパンチ 昭和61年1月29日 琉球新報 声

 戦後強くなったのは女と靴下。では、弱くなったのは男とその足の裏か? その事については何とも言えないが、女性が華々しく勇躍した事は、サッチャー首相の出現からも疑う余地のない事実である。その世相を反映してか、3人の娘たちは確かに強い。

 一方、3人の息子たちはじつにおとなしく、近くにいても何処にいるのか、その気配さえ感じられないほどである。私が泰然自若として、女房殿のかかあ殿下を寛大に黙認している事に責任があるかもしれないが、それにしても歯がゆい。

 ある日、小学2年生の3男がしょんぼり帰ってきた。同じクラスの女の子に虐められたとのことである。一斉に怒ったのが娘たちで、「あんた、それでも男か。殴られたら殴り返せ」 と凄まじい剣幕である。これは如何に無神経な私でも聞き捨てにならない。そこで、10年ぶりに一括した。

 「殴られたら殴り返せとは何事か、馬鹿者ども〜〜〜、暴力は絶対に許さん。殴られたぐらいで腹が立つようでは、まだ心の修行がなっとらん。父さんは情けない。殴られてもにっこり笑える広い心となれ〜〜〜」

 娘たちは仰天し、青褪めて静まり返った。父親の威厳がこれほど効果があるとは、私もびっくり。そして、自己陶酔の勢いに乗って今度は女房を一括した。

 「お前の日ごろの躾が悪いから、子供達が横着になるのだ。ばかもの〜〜〜、鼾かいて昼寝ばかりしないで、しっかり子供たちを監視しろ〜〜〜」

 するといきなり顔面パンチ、眼からハート型のピンクの火花が美しく飛び散った。やはり、女は強い。私はそのまま失神した。

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子供は大人次第である 昭和61年1月9日 琉球新報 声

 真っ白い画用紙に素晴らしい絵を描くか、あるいは汚れた醜い絵を描くかは描く人の筆一つにかかる。それと同じで子供の心は純白で無垢であったはず。浅地にも紺地にも染まるがそれは親、大人たちの思いのままではないだろうか。最近の子供たちはずる賢くて性質が悪く、無気力、となげく前にまず、大人たち自らを反省する必要があると思う。

 子供たちのいじめが今、深刻な社会問題となっているが、それは大人社会の投影であって、原因がどうのこうのという種類のものではない。子供たちはその純粋無垢の中で良心と理性に忠実であり、自分と正義を絶えず比較して見つめる眼と、裁きの厳しさを持っている。

 その純白さが黒く醜く染められていくのも敏感に感じ取る能力を持っていて、そこに己に対する失望と苛立ち、そして反抗と自暴自棄が芽を出してくる。虐めは良心の裁きに自暴自棄になった自己破壊である。成績の良し悪し、あるいは能力の差で子供たちの優劣を決める学校、家庭、そして、周囲の大人たちの目にも問題がある。そんなものが社会に出たとき、どれほどの価値があり、どれほどの効果があるのか。

 心の問題、人間性の問題、それらを深く強く見つめて子供と接するべきではないだろうか。

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宇宙の神秘と奇蹟 昭和61年1月7日 琉球新報 論壇

 東方の空と海の境界線を光が走った次の瞬間、深紅の太陽が忽然と姿を現した。朱色の輝きが次第に盛り上がり、暁闇の領域をゆっくりと押し上げながら星明りの一つ一つを吸収していく。刻一刻と光彩の変移を見せる空と海、そして濃紫の横雲と島影の情景が、壮麗な神秘性に包まれて光の祭典を開始する。そこには森羅万象の厳正な原理と奇蹟、巧妙に仕組まれて躍動する宇宙根源の理法が燦然と光り輝いている。

 人は誰でも真実なるもの、本物なるものと同化し、己を理にかなった存在へ導こうとする良心の願望を持っている。それは、この宇宙自体がそうであり、それ以外の存在は、それを許されづに抹殺される、ということを無意識が掌握しているからである。

 人間がこの地上に出現して良心と理性に目覚め、神なるものを具体化してからまだ年限は浅い。40億年という生命誕生の長い歴史からすれば、600万年前後の歴史しか持たない人間は、今、始まったばかりと言える。したがって、人間の本能には進化の線上にある始原からの生物の一つ一つの特性が潜んでおり、受継がれてきた野生本能の惰性は、理性と良心を圧倒し、まだ絶対的優位の段階にある。

 良心と理性が動物的本能と衝動を抑え、真実の光に輝くのは、これから先、どれぐらいの年限がかかるか、残念ながら今のところ絶望的である。汚れ傷つき、煩悩の泥沼から憧憬の目で超然とした真実なるものを見上げると、崇高なる高次元で、毅然と聳えるその頂上のあまりの高さに、ぼう然と立ちすくむばかりである。

 良心に逆らい、動物的衝動の導くままに理性を失い、無意識の罪悪感の責め苦を負いながら、己さえ安全であればいい、食うか食われるかの厳しい現実を生きていくためには手段を選ばず、愛も情けも正義も無用、強い者が生き残り、弱いものが滅び去る世の中である。それが人間の掟、そこに真実と正義なるもの、良心なるものが入り込む隙間はない。今、人間の心はそういう冷たい大きな流れに乗っている。

 虚飾に欲望と獣性を隠し、発達した頭脳は冷たい硬質の光を放ち、争いの火花を散らす。そこでは神の光も、愛も屈折されて闘争の武器ともなってします。そういう獣臭の消えやらない人間界で苦しみながら重荷を背負って生きていくことに何の意味があり、価値があるのか。疲れ果てた者は真実と正義に失望し、自己嫌悪、自己破壊に陥ったりする。

 人間の本性は善か悪かのいずれかに定まっているわけではない。今、そして、これからも人間は進化の過程にあるのであって、言い換えれば宇宙根源による創造の途中でしかない。東空の壮麗な光の祭典を目の当たりにしたとき、人間の進化の目標、根源者の意図が感動の渦の中で見えるような気がする。

 日が昇る水平線の彼方には神々の国、ニライ・カナイが存在するという。我々の祖先が素朴で、人情豊な心の広がりで、色彩鮮やかに浮かび上がらせた理想郷である。それは西空とその水平線の彼方にも存在する。夕日が沈むと、朱色と青色に分かれた西空を背景に三日月がくっきりと輪郭を現す。それは東から広がってくる闇の領域に星明りが一つ一つ増すごとに、冴えた輝きを強めていく。その彼方にもニライ・カナイは存在するのだ。我々の祖先はそこに人間の古里、目標なるものを置いていたのかもしれない。

 人間が真の意味で神と同化し、その聖域を見るようになれるのは、果たして可能かどうか、現段階では何とも言えない。それに対する答えは我々人間の力の次元外に存在する。創造の根源者がこの宇宙を有らしめ、無限の力を全次元の隅々に及ぼしているという現実は、その可能性がある、ということかもしれない。

 無力な人間の中の、さらに微小な存在の私だが、今年は心広く寛大に、枝葉末節にとらわれず、宇宙の神秘と奇蹟を見つめて語れる年にしたいと思う。

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 新春に思う 昭和61年正月元旦 琉球新報 声

 私は汗水流し、汚れ傷つき裏切られても、平気で働き続ける労務者である。嵐も吹けば雨も降る。労務者の道よなぜ険し、などと感傷に浸ったりはしない。これは決して負け惜しみで言っているのではない。その証拠に、腹いせに私の右の頬を殴って暴れまわる失恋男に 「ありがとう!私のような者を殴ってくれて〜〜、これはお礼です」 と言いながら、一万円上げて、ではこれにて失礼、となって立ち去ったこともあったのだ。妻や、半ダースの子供たちはそんな私によく言う。

 「なぜ、そんなに無神経で平気で生きていられるのですか」

 それは私がソーキ骨(肋骨)が足りないからではないのである。夜明け空の美しさ、沈む夕日の寂しさ、そして、清浄な星空の広がりに壮大なロマンを感じ、心をときめかすことも出来るからだ。無意識の奥で純粋で美しく正しくありたい、という自己浄化作用が立派に存在するあつかましい労務者かもしれない。

 混沌とした人間界、そこには利害得失を複雑に絡ませる対人関係がある。だが、父ちゃんは負けない、妻や子よ! 父ちゃんは泣きはしない。これからは枝葉末節ににこだわらず、広々とした心で宇宙の神秘と無限性を語っていこう。新春にあたり、ここで心を新たにしたい。

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宇宙の試練に感謝 昭和61年12月28日 沖縄タイムス 論壇

 夜間工事を終えて快い汗を拭きながらふと、上を見上げると、そこは無限に広がる豪奢な星空であった。暁闇の静けさは星空の隅々に穏やかに満ち溢れ、これから始まらんとする太古、始原からの夜明けの躍動に、超然とした緊張を秘めているようにも感じられた。

 宇宙の広がりには果てというのがない。たとえあったとしても、われわれの想像と推測では捕らえることの出来ない無限に近い広大さである。我々の銀河系でさえ約二千億個の恒星を有し、凸レンズ型その果てから果てを秒速30万キロを誇る光ですら、10万年がかりでようやくたどり着くという広大さである。

 光が一年間走り続ける距離は9兆5千億キロ、これを基にして銀河系の最長直径を計算すると、95京となる。つまり、九千五百兆の十倍ということになる。地球と太陽までの距離が一億四千九百六十万キロ、光は8・3分でその距離を飛ぶ。この事から我々の銀河系がいかに広いか想像を絶するものがある。

 しかし、その銀河系といえども宇宙全体からすると微細な光点となってしまう。なんという広大さ、無限性であろうか。私は驚嘆のうめき声を思わず上げ、卑小な労務者であることを忘れて恐れ多くも星空の壮麗さに陶酔、それと一体となったような錯覚に陥った。

 宇宙の年齢は120億歳。私はたったの46歳。宇宙とは一体何なのだ。そいて、その神秘性と無限性の渦の中でただぼう然と立ちすくんでいるこの私は、一体何なのだ。私は汚れて働くことしか能のない汗臭い労務者。宇宙、自然界の奇蹟と理法、恵みの仕組みに対して全くの無知蒙昧、数学の簡単な問題を、息子に教えられても理解できない頭の悪い男である。しかし、そんな私でも宇宙の寛大な懐の中で生かされ、地球という美しい恵みの惑星で働く自由を与えられている。そう考えた時、人間とは何か、宇宙の奇蹟とすばらしさに対して人間はどうあるべきか、という思いが忽然とわきあがってくる。

 生命の母体ともいえる我々の地球は、宇宙の闇空間に浮かぶ最も美しい惑星である。生命を誕生させ、守り育てて来たその機能、働きはまさに奇蹟であり、人間こそ宇宙の申し子として地上に現れた生命体、そして、宇宙、自然界の最高傑作ともいえる。

 我々の肉体は奇蹟の粋を一点に集中して完成されたものであり、その肉体機能の頂点から発芽して成長し、やがて蕾を出し開花したのが知覚であり、それを駆使する心、精神、魂が我々人間の本体ではなかろうか。こういう素晴らしい人間に真の不幸、災いがあるはずがない。あるとすれば、人間完成を待ちわびる宇宙の愛の鞭と試練ではなかろうか。

 守られ生かされている喜びと感謝を心に刻み、報恩の心を生かす働きに転じた時、人間はあらゆる災い、苦しみから解放される。そこには自分自身であろうとする自我の汚れと邪悪はなく、清純な自己主張のきらめきが存在する。心の世界と事象物象の世界をいかに美しく正しく彩り描いていくか、人間一人一人の心の持ち方、努力にかかると思う。

 東の空が朱色に染まり、その盛り上がりの外輪で闇が溶け始めたとき、私は帰途についた。去り行く一年の試練に感謝し、来る年の希望と喜びに心勇みながら・・・。

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地球を守れ 昭和61年11月27日 沖縄タイムス 論壇

 12年ぶりに噴火し、35年ぶりに溶岩が河口から溢れ出たという三原山の映像を見た。夜空を朱色に染めて、繰り返される爆発、そして、山腹を生き物のように流れる溶岩流、そのさまは私には何故か物悲しく見えた。血の涙を流しながら、人間の裏切りと横暴に蓄積されてきた怒りと悲しみが、いま、爆発を起しているとしか思えないのである。

 それと呼応するかのように世界最大のカルデラを持つ阿蘇山も土砂を噴き上げ、噴火の兆しを見せている。我々の地球、宇宙には生命の根源的親なる力が隅々まで満ち溢れている。一万兆分の一センチという究極の基本素粒子クオークから、直径150億光年余の宇宙の果てまでその力の行き届かぬところはなく、生命体の維持と進化に無限の恵みを与えている。しかし、その親に対し、われわれ人間は他の生物よりあまりにも親不孝すぎるのではないだろうか。

 最近世界各地に異変が起こっている。異常気象、火山噴火、地震、津波などの天変地異が相次いで起こり、それによる死者の数は数万にも及ぶ。エジプトではありえない雪が降ったり、ニューギニアでは霜が降り、南極で異常高温、摂氏4度を記録したり、さらに中国やソ連などでは冷害、大干ばつ、集中豪雨で大凶作となったり、地球は今あえぐかのような異常を示し、人類は不吉な黒い霧に巻き込まれつつある。

 しかし、それはただ自然界、地球だけに原因があるのだろうか。私はそこに人間の罪悪を思い知らされるのである。つまり、自然界のリズムを狂わし、それを蝕み、汚染し続ける悪性の腫瘍、それが地球、はては宇宙全体にとっては人間となっていると思う。

 大気は亜硫酸ガス、一酸化炭素、窒素化合物などの有毒ガスが濃度を強めており、海岸は重油や汚物などの垂れ流しでその表面を薄い油の膜で覆われていく。海は地球環境の正常維持に重大な役目を果たしている。海水一グラムあたり70カロリーの割りで熱が大気中に放出されて、寒冷化を防いでいるし、炭酸ガスの放出、吸入で大気組成のバランスを保っている。それが油の皮膜で覆われると、自然界の仕組みを狂わすことになる。

 さらに材木の切り出しやダム建設、道路工事、宅地造成などの産業開発による自然破壊が当然のように行われており、その結果、動植物の生態系は甚だしく乱されて、異常気象に拍車をかけている。小さな島、沖縄でも自然破壊による被害は広がっており、近海汚染、河川汚染は全くひどいものである。絶滅した野鳥も少なくない。リュウキュウカラスバト、ダイトウミソサザイ、ミヤコショウビン、リュウキュウガモ、その他いずれも人間によって完全この世から姿を消してしまったのである。

 私は沖縄の自然を愛する者として、新石垣空港建設が、年内着工不可能になったことに対して、安堵の胸を撫で下ろしほっとしている。沖縄だけはせめて海を守る島であってほしいと願うのである。もし、それを強行すれば沖縄は世界各国から蔑まれ、国際自然保護連合から自然を荒らす島として非難されるはずである。

 美しい白保の海に生息するアオサンゴは、ワシントン条約によって保護されており、日本も昭和55年にそれに批准していることを御承知でしょうか。地球を守る、それはこれから人類が果たさねばならない大きな義務であり、課題だと思う。政府は大企業と結びついた重工業優先策だけではなく、人類が生き残り繁栄するために如何にして自然を守り、浄化していくべきか考える時期にあると思う。

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御遠慮ください公道でのラブ 昭和61年11月13日 沖縄タイムス 読者から

 ある昼下がり、工事現場へ車で急いでいるとき、交差点で信号が赤に変わった。私は前の車と余裕の間隔を取って停車させた。急いでいる時は、不思議にも、出会うほとんどの信号が赤に変わるもので、心は焦るばかり。しかし、人間は進化の頂点に立つ生物にふさわしく、いかなる時も冷静で、寛大でなければならないと思い、心穏やかに青になるのを待った。

 長時間の数十秒後、ようやく青になったため、私はギヤを入れ発射させようとした。ところが前の車はいつまでも発射しないのである。私は時計を見ながらいらいら、ついに高度な生物であることを忘れて怒りのクラクションを鳴らそうとした。だが、前の車の中を見てびっくり、それを止めた。

 20歳前後の男女が熱烈な口づけに陶酔していたのである。往来の激しい国道のど真ん中、しかも、衆目をおそれず、なんとまあ大胆なことか。信号機の青はバラ色にしか見えないのであろうか。しかし、これは非常識である。他人に迷惑をかける真昼の決闘は慎むべきである。

 お二人は虹とオーロラの花園で熱々ムードかもしれないが、こちらは急いでいるのだ。迷惑千万、たいへん困る。やむを得ずクラクションを鳴らした。二人は現実に戻って、びっくり、慌てて密着した体を離し、猛スピードで走り去った。恋も青春の花の一つだと思う。しかし、健全に美しく咲かしてこそ、高度に進化した生物と言えるのではなかろうか。

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自由とは 昭和61年11月3日 沖縄タイムス 読者から

 汗水流し、懸命に働いた後の気分は爽快で、わが暮らし楽にならずとも幸せである。仕事疲れはさわやかであって、苦痛ではない。そのさわやかさで家に帰ると、高3の息子が笑顔で待っていた。胸の内に幼少のころから秘めていた彼の青春の夢は、パイロットになる事だった。それが航空大学の一次試験にパスしたことにより、実現可能となっていたのである。

 しかし、私は反対した。理由は私が異常な飛行機恐怖症で、飛行機事故は絶対に助からないという観念があるからだ。たちまち息子の顔は怒りに変わった。しばらく口論が続いたあと、息子は切り札を出した。

 「人間は生まれながらにして自由だ。いかに、父親とはいえ、それを束縛する権利はない」

 筋の通った見事なお言葉である。私は反論できず、黙ってしまった。 「親の言葉と茄子の花は千に一つも仇はない」 と教えられた私は、時代遅れの古い人間かもしれない、と反省したのである。 それから数日後、さわやかな仕事疲れで帰ってくると、息子がしょんぼりと座っていた。片方の視力が0・5ではパイロットになれないとの事である。 あれほど反対した私は、息子に同情して、なぐさめの言葉をかけた。

 「人は自由である。しかし、真の自由はあらゆる所で束縛されるものだ。それが人生だ」

 息子は寂しげに笑顔でうなずいた。

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アジア大会の強い反日感情 昭和61年10月25日 沖縄タイムス 読者から

 「参加することに意義がある」 とは、フランスの初代国際オリンピック委員長クーベルダン男爵が1914年に述べた言葉である。 つまり、勝ち負けは別、自国の威信と名誉のため、金メダルを取ろうがどうしようが、そんな煩わしいことはさておいて、全力を出し切ってスポーツ競技をやりましょう、ということにもなる。

 勝者は喜びよりも敗者の心を思いやり、なぐさめ励ます。敗者は勝者の栄冠を笑顔で称える。そこには愛の涙が金メダル以上に美しくきらめき輝くのである。ところがソウルで行われた今度のアジア大会、凄まじい金メダルをかけての闘いだったように思える。

 つまり、日本打倒という憎悪の白熱化した炎が中国と韓国から向けられたのである。声援は怒涛のように起こり、すべて日本の対戦相手に向けられた。日本選手にはヤジと罵声とブーイングだけであった。日本選手は顔面蒼白、次々と負けていった。負けてぼう然自失と立ちすくす者、グランドにうつぶせとなり悔し泣きする者、それらはほとんどが日本選手であった。

 勝った選手は邪悪を倒したかのように歓喜し、とんだり跳ねたりする。これでは何のためのスポーツか、と言いたくなる。しかし、なぜ、中国、韓国人が日本選手をこれほどまでに目の敵にするのか、日本は深く反省すべきだと思う。経済大国であっても、他国から嫌われるようでは、何の意味もなく、将来は絶望である。如何にして世界の国々から好かれるか、これが日本の課題となろう。

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あなたとならば地獄の底まで 昭和61年10月6日 沖縄タイムス 読者から

 9月19日の6面、海外小説を読んで思わず吹き出してしまったが、夫婦愛の悲喜劇に熱いものが込み上げた。旦那様が銀行強盗で逮捕され、服役中となれば奥様は離婚するか否か、と大いに悩むと思う。もちろん愛がなければ、奥様は自由と大いなる可能性への片道切符を手に入れたことになる。

 しかし、愛があればその強度に比例して悩みも増大する。さらになりふりかまわぬ狂った愛ともなれば、旦那が、たとへ強盗犯、殺人犯、爆弾テロ、ハイジャック犯であろうがそんなことどうでもいい。たとへ火の中、水の中、地獄の底までも旦那の後を追い、一心同体となる。閻魔大王も見ちゃおれない熱々ムードで針の山、剣の山、火の山を腕を組み、口づけを交わしながら花園を散歩するかのように歩くかもしれない。

 それほどまでに奥様に愛される旦那は幸せですね〜! なぜ、そんな一途な奥さんがありながら、銀行強盗などをして刑務所に入り、奥様と離れて暮らさねばならない愚かなことをしたのか、あー、もったいない、と私は言いたい。限られた面会時間、奥様は最愛の夫と一秒でも長く一緒に居たかったのだ。看守の隙を見て奥様は強力な瞬間接着剤で二人の手をぴったりとくっ付けてしまった。

 離れることを絶対許さない愛を象徴するかのように接着剤は強力。二人は病院へ、ようやく離れるまで一時間半もかかったとの事である。あと、4,5年で旦那様は刑務所から出てくるとの事だが、その時こそまともに働き、正しい人生を強い夫婦愛の光で輝かしてほしいてと願う。

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強い嫁 昭和61年9月16日 沖縄タイムス 読者から

 「女性が年を取って男性の注意を引かなくなると神様のほうへ向きを変える」 とはフランスの小説家バルザックの言葉である。 では、男が年を取って女性の注意を引かなくなるとどうなるか。 男、千差万別ではあるが、頑固でへそ曲がりの意地悪じいさんなら、嫁いじめも一つの生き甲斐となるかもしれない。そういう舅に当たった嫁は旦那さんや姑が良くても大変だと思う。

 「おい、そこの三流嫁、老いたりとはいえ、まだ何でも出来るんだぞ。太陽でも西から出せるんだ、馬鹿にするな!」

 といった調子。なぜそういうことを言ったのかは分からないが、嫁にとっては腹の立つこととなる。だが、その嫁はびくともせずに笑顔で答えた。 「西から上がっても、たまにはいいでしょう」と。 へそ曲がりの舅は怒って言った。

 「バカ、太陽が西から上がるわけないじゃないか。キチガイ病院で脳の検査でもしろ」

  しかし、その嫁はなんと言われても怒らない。

 「そんなこと、どうでもいいことです。西から出ようが、東から出ようが、おじいさんのツンツルテンのハゲ頭から出ようが、照ってくだされば天下泰平、ありがたいことです。キチガイ病院の脳の検査はノーですよ、おーほっほっほっほっほほほほほほほ、あはははははは〜〜〜」

 へそ曲がりのじいさんは、ぎゃふんとなってとうとう黙ってしまった。これぞまさしく現代の強い嫁である。 

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新人類の務め 昭和61年7月30日 沖縄タイムス 読者から

 昭和一ケタ以前の方々には良い意味で頑固な方々が多い。質実剛健で一つの信念を貫き、守り通す。そこに人間としての誇りと美徳のきらめきが見られる。しかし、そういう方々に言わすと、最近の若者はなっとらんとなる。

 男と女の識別が出来ない奇怪な容姿、モヒカンへアースタイルにアイシャドウを塗って悠然と街を行く若者、電柱に長身のおしゃれ姿をもたせ、「今夜、どう〜〜〜?」 などとギャルに甘い声をかけるキザな色男、あるときは秀麗なるセールスマン、ある時は臭い労務者、またある時は片目の運転手、月光仮面も驚愕するほどオートバイを暴走させ、さかだちさせる若者、まさに変化自在で神出鬼没、天才か馬鹿か、頑固一徹の方々はただあ然とするばかりである。

 終戦直後の混乱期、ヤミ食品を頑として受け付けず、栄養失調で死んだ裁判官がいた。古の伝統を受け継ぐ者には賞賛があるだろうし、変化自在の目まぐるしい者は、馬鹿げているとしか見なさないだろう。見方はいろいろあると思うが、やはり古いものには不完全にせよ無視できない何かが潜んでいるように思える。そういう古き伝統に反発するのではなく、完全なるものに徐々に近づけていく、それが新人類の務めではないだろうか。

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自然の前に謙虚となれ 昭和61年6月2日 沖縄タイムス 読者から 

35億年前から40億年前にかけて誕生した生命は進化と繁栄を続けたが、6億5千年前にその90%が絶滅した。そういうことはこれまでに18回もあったという学説があり、その周期は2600万年に一回らしい。原因は、ネメシスという彗星で、接近すると隕石の嵐を激しく地上に降らすためであるという。もし、その仮説が正しいとすれば、来年からその存在が宇宙の果てで確認できるはずである。

 恐竜が絶滅したのが6500万年前で、その時代に哺乳類が出現している。地上をわがもの顔で徘徊し、その全盛を誇った強大な生命体が滅びると、弱いものが生き残り、それが繁栄し強くなると滅亡してしまう。その繰り返しのドラマが生命体の歴史でもあるように思える。次の絶滅は1300万年後、と計算されているが、その時代の人間の科学力で、それは簡単に乗り越えてしまうに違いない。

 だが、それ以上に危険性を孕んでいるのは、人間が自ら築き上げた科学力である、と言える。自然、宇宙には、その秩序を狂わそうとする事象、物象に対し、抹殺か制御の力を向ける意図的なものがある。人間がそれに立ち向かい、逆らって支配することは絶対に不可能である。

 人間は自然、宇宙の力の前に謙虚となり、己の無力さを悟るべきだと思う。自然、宇宙の創造の力によって誕生し、今、生かされている事実、それを無視し、残虐に殺しあう戦争を続けていけば人間はそのうち見捨てられるのではあるまいか。

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奇蹟か偶然か不思議な雨 昭和61年3月29日 沖縄タイムス 読者から

 舗装工事専門の我々労務者にとって、最も気になるのは天気である。雨が降れば作業の途中であっても直ちに中止しなければならない。雨の中でアスファルト舗装をやろうものなら、道路の強度が脆くなり、全面やり直しとなった上、信用をなくして仕事がもらえなくなるのだ。作業中止となった時は民家の軒下や、大木、岩陰などに雨宿りし、沖縄はなぜ沖縄か、レーガンとゴルバチョフはどこの馬の骨が、などと天下国家を語り合ったりする。

 その日は朝から快晴で、お天気はご機嫌麗しくさわやかであった。その日のミッションはアスファルト200トンの道路舗装工事であった。久しぶりの黒字見積もりの工事で、これまでの累積赤字が穴埋め出来て、お釣りが来る計算であった。儲かったらボーナスをやる、と言う私の言葉に、男たちは歓喜の声を上げ、奮然と作業開始となった。だが、午後になって、視界の果てに連なる山々の頂に一塊の黒雲がかかり、急速に空を覆って広がってきたのである。

 不気味に渦巻きながら、時折、稲妻の閃光を見せる積乱雲はあっという間に空を覆い、雷鳴と共に大雨を降らせた。アスファルトを10トンを積載して待機する大型ダンプは10台だった。金額にして120万円分である。中止してそれらを廃棄処分にすると莫大な赤字となる。ばら色の夢が絶望の絶壁の淵に立たされた。

 だが、奇妙な事に、道路舗装現場の周囲にのみ雨は降っていて、雨滴が風に煽られて現場内に舞い込むだけであった。「最後の最後まで諦めるな〜、雨が降るまで作業続行〜〜」 私は大声で叫んで男たちを急かし、アスファルトフニッシャーのオペを促した。

 周囲は土砂降り、雷鳴がとどろき、稲妻が走る。しかし、現場には雨は降らない。全く信じられない現象であった。50分後、ようやく舗装完了、同時に豪雨が現場を襲った。まだ高温のアスファルト舗装面は、激しく渦巻き上がる蒸気に隠された。男たちは視界を遮る凄まじい蒸気の乱舞を見ながら首をかしげ、あ然となった。奇蹟か偶然か、数年経った今でも釈然としない。

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日本一の労務者 昭和61年3月27日 沖縄タイムス 茶飲み話

 「お父さんの仕事は何?」

 と子供たちからよく聞かれる。公務員とか学者、大学教授などのような世に誇れる身分であれば、父親としての威厳を派手な金メッキで光り輝かして、泰然自若としていられるが、自然の厳しさの中で汚れて働く卑小な身分では、父親としての威厳をあつかましく発揮することは出来ない。

 そこで、「日本一の労務者だ」 と答える。子供たちが幼少のころはそれで通用したが、中学、高校ともなるとやはり人間をその職業によってランク付けし、甲乙丙の刻印を付けて見つめる知恵が出てきて始末が悪い。人間の真価は職業で決められるものではない。精神の豊な人間性である、と苦し紛れに言う心理の裏には、ある種の負け惜しみとひがみが潜んでいるのかもしれない。

 それにしても 「労務者グァー」 とまともに罵倒される時には内心穏やかではなくなる。労務者としての身分が、子供たちに肩身の狭い思いをさせているのではないか思うと時々、一人酒を飲みながら惨めな気持ちになったりする。

 ある時、子供たちに 「大きくなったら何になるか」 と訊いた。すると、「日本一の労務者になる」 と言ってくれたのである。その時の、子供たちの笑顔を見たとき、卑小な巳であっても自信が湧き、父親として働く意欲が新たに燃え上がった。

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何かが狂っている子供たち 昭和61年2月27日 沖縄タイムス 読者から

 3時休みに道端に座り、汗を拭いていると、数人の中学生の女の子たちが、通りすがりに私をじろじろ見て立ち止まった。労務者の風体はどこでも目立つものである。汚れた作業服と色黒面の人相悪さを奇異に思い、観察しているのだと思った。そこで、良い社会勉強にでもなればと思って、にっこり笑って見せると、その中の一人が言った。

 「おじさん、お金ちょうだい」

 私はびっくり、首を傾げた。私の知り合いの子供たちだろうか? 訳がわからないで、キョトンとしていると、「百円でいいわよ」 と言う。 「なんに使うんだ」 と訊くと、「アイスクリームを買う」 と答えた。私の頭の中で何かが大爆発、一体全体、これはどうしたことなのだ。悲しむべきか、怒るべきか・・・? 子供たちの目つきは期待に輝いていた。もらえなくてもともと、もらえれば儲け、という顔つきである。

 私は子供たちを叱る気にはなれなかった。その純粋さは大人たちの心の世界を、そのまま正直に映し出しているように思えたからである。自分たちの言動になんの恥じらいもない子供たち、何かが狂っている。私は子供たちに百円玉を一つずつ手渡して言った。 「知らない人にお金を頂戴ということを、2度と言ってはいけません」 だが、子供たちは百円玉を握り締め、喜んで駆け去った。

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