☆ Menu List
追憶(上)
Remembrance of my childfood and youth


人生回顧
Remembrance of
my former life


月から見た地球



地球という星/宇宙船
私たちの存在は顕微鏡で
見ようとしても見えない
小さな小さな何ですか?































満鉄路爆破(その1)


張作霖爆殺現場(その2)
(1928,6,4)



片翼で還る樫村機(1937,12,9)









南京攻略戦
(1937,12,12)








上海戦線の日本兵(1938,10,9)






小学校4年生(1938)
中段左から5人目













ノモンハン事件
大敗し死者約8千 (1939,6,24)




小学生時代/左(1940)



褒状(1941)





























赤紙/召集令状


















肉弾三勇士
江下武二、北川丞、作江伊之助


















日本軍侵攻地域
(1942)































サイパンと硫黄島(1945)





硫黄島(1945)



爆撃と艦砲射撃
硫黄島
(1945,2,16〜)





負傷兵の救出
硫黄島 (1945)



火炎放射器の焔
硫黄島(1945)



地下壕爆破で
米兵が手榴弾を(1945)














































勝利の記念碑
(1945)



青春時代を過ごした
家(京都)の入り口



玄関への登り道



玄関前の藤の棚



八坂の塔を望む



茶席の前庭





米爆撃機
(1945)



京都女子専門学校
寄宿舎の被害(1945)



爆弾投下(1945)



被弾する東京都(1945.3.10)



焼け野原となった
東京の下町













ヒットラー






神風特攻隊員(1945)



笑って死地に赴く
特攻隊員(1945)



特攻機の機上から
最後の挨拶(1945)



特攻機の攻撃で炎上する
英空母ビクトリアス(1945)



特攻機の攻撃で
炎上の空母バンカーヒル
(1945)





沖縄戦線救援の
巨大戦艦「大和」(1945)





戦艦「大和」(3)




空母エセックスに
突入寸前の山口大尉機
艦上爆撃機、彗星33型(1945)







米爆撃機



長崎原爆(その1)
炸裂の前期(1945)



長崎原爆(その1)
炸裂の後期(1945)



Fat Man/長崎原爆


原爆で壊滅した
長崎,死者7万人(1945)










北方四島
歯舞・国後・択捉

























































マッカーサー元帥



マッカーサー元帥



進駐軍





極東国際軍事裁判








バターンの
死の行進で死んだ
同僚の死体を運ぶ米兵



バターンの
死の行進の小休止
米兵の手は後ろ手に
縛られていた















大日本帝国海軍
巡潜乙型潜水艦
イ- 58号



重巡洋艦インデアナポリス        1945年7月26日フィリピン沖        で潜水艦イ58に撃沈された














◇ 地球というすばらしい星に生れてすでに3/4世紀という歳月を走り抜けた。省みるに私の少年 時代は、わが国は明けても暮れても戦争、戦争の連続でした。世の中の何もかもが兵隊さんを 中心に回っていたように思う。そして当時欧米諸国がアジアで進めていた植民地政策を遅まきな がら真似る考えだったのか、隣国の満州をはじめ、東南アジア諸国にもわが国の勢力を伸ばしつ ゝあった。

◇ 「過ぎたるは、及ばざるが如し」という諺があるが、隣国を侵略しつゝあったわが国のあまりに も行過ぎた政策を見兼ねた米英からは何かと横槍が入るようになる。ところがこのことに業を煮や したわが国の軍部は、とうとう1941(昭和16)年12月8日未明、突如としてハワイの真珠湾攻撃を敢 行し、当時の言葉を借りれば、止むに止まれぬ自衛の戦争ということで、大国米国と戦う太平洋戦 争の火蓋を切った。

◇ 3年8ヶ月に及んだ国を挙げての戦の結果、わが国が得たものは何んだったのか? わが国は 210万人もの若い兵士と民間人80万人の尊い命を失い、国土は無残にも焦土と化した。加えて千 載に恥を曝す大日本帝国陸海軍の無条件降伏である。なんとお粗末なことよ! 言葉にならない全く 屈辱的な降参の仕方でした。海外で命を落とされた将兵たちのうち、115万人の遺骨は戦後半世 紀を経た今日もなお異国の風雨に曝されつづけている有様である。

◇ 「米国には勝てない」という山本五十六長官を初めとする戦争反対論者の意見もあったが、 「勝敗は時の運」との当時の首相東条英機を中心とする軍指令部の考えで戦が始ったようだ。だが、 作戦上の思慮の足りなさ故に度重なる海戦で招いた失態で、制海空権を喪失し、その結果第一線 の兵士たちは食もなく戦わずして北や南で玉砕また玉砕の有様。遂には沖縄を奪われ、広島と長 崎には原爆を投下された。この原爆投下で広島と長崎と合わせて20数万の市民がアッという間に 蒸発、または焼き殺された。この地獄絵巻からかろうじて生き延びた10数万の人々の中には、戦後 60数年経つ今日もなお原爆の後遺症で苦しんでおられる始末である。

◇ 数十万、数百万の死と簡単に口にするが、これはそれはそれは途轍もない大変な数です。 そんな数の同胞を「興国のため」、「皇国の興廃この一戦にあり」と、勝手な標榜の下、実に無残な 死に追いやった。ところで如何なる戦況の下であっても、最後の一兵まで戦うことを兵士の本分と すべしと謳った軍司令部の面々は、戦中、戦後を通じて、果たしてどのように振る舞い、身を処し たか? 護身がまず先で卑怯千万、恥知らずも甚だしい。

◇ 戦いを始めた責任は連合軍によつて裁かれることになり、極刑のもと巣鴨の露と消えたのは 東條などの7名だけ。勝ち目のない戦いに国民を追い立て自らは生き延びた当時の軍司令部の 面々は口を閉ざして知らぬ顔。それらの高官名を次に掲げておくが、その面々が310万の国民の 命を奪ったのであるといいたい。エリート中のエリートと自賛し、作戦の統帥権を握って「戦いには 勝ちます」と、陛下に開戦を進言した人達ではなかったか? 肩書きは当時のもの、( )内の数字は 2009年当時の年齢です。

◇ 『軍令部総長: 永野修身大将( )、陸軍大臣: 東條英機中将( )、保科善四郎中将( )、軍令 部総長:伏見宮博恭王元帥( )、伏見宮総長副官: 末国正雄大佐( )、木山正義中佐( )、海軍大臣 :大角岑生( )、海軍大臣: 島田繁太郎( )、高田利種少将( )、平塚清一少佐(94)、作戦課: 佐薙 毅大佐( )、作戦課: 三代一就中佐( )、作戦課: 富岡大佐( )、連合艦隊司令長官: 山本五十六 ( )、市来俊男大尉(90)、中島親孝行中佐( )』。

◇ ここに列記した軍人達に絶大な権力を持たせた結果、国が滅び兼ねないとんでもないことにな った。当時を代表する有名な言論人で、わが国の膨張主義を鼓吹していた徳富蘇峰も戦争開始の 最大の責任者であるといわれている。1943年には文化勲章を授かったが、戦後はA級戦犯容疑者 となる。

◇ 聖戦と称した戦は、一体なんだったのか? 戦火に曝された隣国、中国の犠牲者は、推定でも 1千万人を上回るという。中国の人の話は表現がややもすると度を過ぎるが、ともあれ大変な数だ。 米国領だったフィリピンでは100万人、朝鮮半島やインドネシア、ベトナムなどでも多くの犠牲者を出 した。このことは、子や孫に語り継がなければならないが、戦争の実感がない世代が多くなってくる と、またもや戦争のことを他愛も無く語気を強めて語り始めるものが出てくる。「歴史は繰り返す」と 言うが、人間とはかくも愚かな動物なのか?

◇ 1944年、敗戦の一年前だが、数え年で17才になっていた私は、防衛召集の名の下に陸軍二等 兵を拝命した。終戦の当日は下士官室の当番を司っていた。昼前のことだったと思う、間もなく「陛 下の玉音放送がある」と耳打ちされた。やがて下士官控え室の南東の棚の上の小さなラジオから 玉音放送が流れだす。 4,5人の下士官たちと直立不動で拝聴しました。「耐えがたきを耐え、忍びが たきを忍び・・・」との、厳かな陛下の玉音からして、事態はよくなさそう。放送の詳しい内容は私には 理解し難いものでしたが、『米英に降参しますからその覚悟でいてほしい』ということらしい。『戦争は このあたりで止めましょう。戦いはやめてくれ』とのお言葉でした。なんということか??? と思ったが、 その瞬間、まさにその時から、周りの人々の行動や、世の中の空気ががらりと変わり始める。

◇ 「敗戦」という聞き捨てならない不名誉な表現は、間もなく体裁よく「終戦」と言い換えられるよう になった。日本人の狡賢さかと、納得しなかったが、皆さんは平気で「敗戦」という言葉を使っている 。当時は「もう、この国は元の様には立ち直れないのでは?」と思われていたのだが、日本人特有の 勤勉と不屈の精神が功を奏し、「東洋の奇跡」とまでいわれる復興を成し遂げた。

   --------------------------------------------------------------------
◇ 小学校に上がるまでのことはすべて途切れ途切れの夢の如し。だが小学校一年生のとき経験 した室戸台 風の日のことだけは昨日のことの様に覚えている。袴姿がよく似合った担任の長尾千 代先生の指示で、教室の掃除を終えた後は机や椅子を教室の片隅に寄せ集め、できたスペースで みんな思い思いの遊びをしながら風の治まるのを待った。教室の窓のすぐ外は妙法院の庭。そこに 密生していた雑木がひどく揺れざわめいていたのを今も眼前に思い起す。幸い、風は昼過ぎには治 まりました。

◇ 下校途中、赤レンガ造りの旧専売局の前でふり返ると、東山に台風の芯が当たったのか、清水 山の辺りは倒木がひときわ激しく、山肌を無残に曝していた。そこから少し北へ行ったところに秀吉の 菩提を弔う高台寺がある。その東隣の京都護国神社に通じる参道の南側は伯父と父が管理一切を 託されていた沢野家の屋敷。庭に生えていた欅の古木も台風でざっくりと折れた。父たちはそれで正 月の餅を搗く臼と杵を作ってくれました。毎年、年の暮れになると、家族総出での餅つきで賑わったの を懐かしく思い出す。

◇ 小学1年の国語教科書は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。次いでページをめくると 右のページは「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」でした。ページの下半分は、鉄砲担いだ兵隊さん5人 ほどが一列に並んで闊歩する絵だった。戦争が絶えなかった当時の国情からして、大きくなったらこ の兵隊さんのように、鉄砲かついでお国のために戦ってくださいと言いたかったのでしょう。

◇ ここで少し日本の過去を振り返ってみたい。私たちは子供の時から「日本の国は、日清、日露の 戦争に勝った強い国」と聞き育った。 だが、歴史を紐解くと、1895年の日清戦争で獲得した台湾の 50年にわたる統治では、当然のこととは思うが日本政府は異国を統治することの難しさでかなり手を 焼いたということです。 またロシアと戦って、勝利を収めたのは軍備や戦費で支援してくれた当時の 同盟国英国の援助協力があったからこそのことでした。日露戦争の戦勝国だった 我が国は ポーツマス条約(1905年)で旅順港がある遼東半島一帯の租借権をロシアから譲り受け、 それを契機にその北に広がる満州の支配と権益を握ることになる。

◇ 昭和3年(1928年)は私が生まれた年。この年の6月4日、関東軍の急進派が奉天近郊で満州鉄道 (満鉄)の列車 爆破事件を起こした。これは北京政府の高官で満州の実力者でもあった張作霖を爆殺する ためのものと聞く。 続く柳条湖の鉄道爆破事件(1931,9.18)も関東軍の仕業とか。中国東北部は古来 より周辺諸国との紛争が絶えなかった地域であったらしいが、この土地の権益をめぐる中国とわが国 の戦いが満州 事変である。

◇ 中国の教科書には当時の日本のことを次のように書いている、と聞いた。『忘れてはならない九・一 八事変』と題し、『日本侵略軍は計画的に柳条湖事件を引き起こしながら、中国軍が鉄道を破壊したと いう言いがかりをつけ、これを口実にして中国東北軍が駐留していた北大営に侵攻し、瀋陽城を砲撃。 すなわち九・一八事変が勃発した。東北部が陥落した後、1932年に日本はすでに退位していた清朝最 後の皇帝溥儀を擁立し、長春で偽満州国傀儡政権を打ち立て、東北部を中国から分裂させようとした。 日本侵略者の蹄鉄の下、東北部の三千万の同胞は、屈辱的な亡国奴生活を送ったのである』と。

◇ 西欧諸国の植民地政策に習ってか、わが国は大東亜共栄圏の建設と称して、中国北東部(満州)や 東南アジアでの勢力拡大に現を抜かす。それを見て当時の国際連盟は満州国を容認せず、逆にそこか らの撤兵を求めた。また ワシントン軍縮会議では、日米英の軍艦建造?の割合が3: 5: 5 と決定 された。この措置に逆上したわが国は、1933年当時の外相松岡洋祐を国際連盟に送り、それまで常任 理事国であった日本の立場もすっぱりとかなぐり捨て、連盟から脱退する旨の意見を述べた。意気揚々 と議場から退席した松岡元外相の勇姿は戦前戦後のニュースを通じ、繰り返しテレビで放映された。

◇ 小説「蟹工船」の作者、小林多喜二氏は1933年、特高警察の拷問で殺害される。戦前の治安維持法 のもと、共産主義を広めたとして弾圧されたのです。戦後の現在から眺めて見ると、なんとも不可解な国 の政策。 ところで言論弾圧の中で最大のものは、戦争中の横浜事件といわれている。敗戦までの3年間 に雑誌編集者ら約60人が特高警察に検挙されて、「犯罪」としてでっち上げられ、半数の者が「有罪」を言 い渡された。この判決は敗戦直後の9月にあわただしく言い渡され、連合軍の進駐前に、裁判所関係者ら の手によって記録が燃やされるという卑怯なことまでしたらしい。戦後再審請求のもと裁判が繰り返された が、結局「無罪」とはならず「免訴」として片付けられた。

◇ 姉が小学校の修学旅行で東京へ行っていた1934年(昭和 9年)のことである。 雪がちらつく2月26日 の早朝、青年将校の一部が官邸を襲う事件が起こった。これが世に言う2,26事件である。この事件は昭 和天皇の命で鎮圧され、皇道派を名乗る青年将校17人と北一輝という方 が逮捕され、全員銃殺処刑された。戦後になってわかったことだが、過激な思想の持ち主と看做された北 一輝という人は、ありもしない罪を着せられての処刑でした。私が子供のときは、世の中はこのように軍国 主義一辺倒の恐ろしい時代でした。

◇ 小学3年からクラスの担任は小林という男の先生に変わる。めがねを掛けた丸顔の先生でした。見た ところお元気でしたが、体調がすぐれなかったらしい。教壇に続けて立たれたのは学年の前半だけでした。 後期の授業は、自然と自習の時間が多くなり、時折、校長先生や代理の先生が代わる代わる教壇に立た れた。

◇ その頃、学校生活に慣れてきた私はクラスメイトとの遊びが忙しく、学校から帰るや否やランドセルを 玄関脇の座敷に投げ出し、遊び友達のところへ一目散で駆けていった。クラスメイトの細見真造君の家に は毎日のように遊びに行っていた。彼の家は竹屋さんで、仕事場が広かった。そこの仕事場でなにすると もなくよく遊んでいた。近くにあった空き地でも塹壕堀りなどして戦争の真似事をして遊んでいた。豊国神社 の裏手にあった猿山という広っぱでは、野球をしてよく遊びました。

◇ 3年生のときでした。私はトラホームという目の病と中耳炎という耳の病を患った。目の病のときは太陽 光線が眩しいので黒いメガネを掛け、耳の病のときは黒い三角巾を耳に当てゝ学校に通っていた。豊国神 社に隣接する国立京都博物館の庭でもよく遊んでいました。その庭園の南西の隅に生えていた漆の木に 負けたのか、顔がかぶれて困ったことがあった。こんなことが続いて起こってはいたが、学校は休まず行っ ていたので、小学校時代は成績優秀賞と皆勤賞を毎年のように貰っていた。

◇ 顔のかぶれを治すのに『油揚げで顔をぬぐって、それを炭火で焼いて醤油をつけて食べるとよい』と母 に言われました。言われたとおり、七輪の上に餅焼きの金網を置いて油揚げを焼き、醤油を付けて食べま したが、その油揚げは結構美味しかった。それで早く治ったのかどうかはわからないが、今考えるに母の話 はどうも迷信らしく、効き目についても疑わしい。

◇ 耳の治療では大黒町の家から一筋西の本町通りにあった「じっぴ」という医院で診てもらつていました。 ところが、なかなか治らなかったので、医者を替え、五条東通院の医院まで母に連れられ五条通りをてくて くと歩いて通った。程なく耳の病は治りました。しかし本当に治ったのかは疑わしい。というのも、後になって 気づくのだが、聴力がぐ〜んと落ちていた。中程度の難聴になっていたようだ。大学で講義をノート出来なか ったことから難聴であことを知る。このことは、その後の私の人生で、大きく私を困らせることになる。

◇ 小学4年の1937年(昭和12年)7月7日には盧溝橋爆破事件が起る。これまた 関東軍によって仕掛けられた事件だった。 続いて起こった上海事変(昭和12年8月)では、日本人居留民の 保護と称し、わが国は上海に軍を投入し、やがて中国との全面戦争に突入していった。

◇ 斯様な日本の政治のやり方は、良識ある日本人の目から見て、黙視できるものではなかったらしい。 『日本軍の行為は侵略行為で、戦争は罪悪であり、人類の敵』と批判する人たちがいた。その中のひとり、 竹中彰元氏(岐阜県岩手村明泉寺の住職)は、「造言飛語」の容疑で逮捕され、有罪判決を受ける。また、 日本はアメリカと戦争することになるのではと予言する人がいたが、そうした人の書き物は発刊禁止とな り、著者は世間から白眼視された。不用意に軍を批判すると、当時はすぐに逮捕され、裁きなどを受けた。

◇ 日中戦争が始まってしばらくすると、教室の後の黒板に支那(今の中国)の地図が貼られ、日本軍が占 領した町々に次々と日の丸の小旗が書き加えられていった。なにもわかってない子供の私たちは、日の丸 の旗が増えるのを見て喜んでいた。中国の首都、南京が陥落したときは、戦果を祝う提灯行列などがあり 国内の空気は盛り上がっていた。日本軍の南京攻略では、非戦闘員であった中国の市民を無残に殺害す る暴挙が多々あったらしい。情けも何もかけず、全く虫けらの首をはねるように降参してきた中国人の首を はねていたらしい。恐ろしいことだ。本当のことかと疑いたくなる。残虐なことを面白半分で平気でする日本 兵がいたのか。これを知った米英人などからは非難の声が寄せられたが、わが国はこれに耳を貸そうとし なかったようだ。そんなことから米国は日本が必要とする石油の禁輸処置に出た。

◇ 1939年5月、旧満州国とソ連の影響下にあったモンゴルの国境で小規模な紛争が起きる。ところがこの ときの関東軍の独断がもとで大規模な戦闘に発展し、3ヶ月後の8月にはソ連軍の猛攻を受け、日本の主力 部隊の半数以上が死傷するという壊滅的な打撃を受けた。ビール瓶にがソリンを詰めて火を放ち戦車の後 部にあるエンジンに向けて投げつけるのだが、戦力の差が大きく、結局ソ連が主張する国境線まで撤退した。 この戦いで日本側は2万人、ソ連側も2万6千人という死傷者を出した。夜陰に乗じ撤退の指揮をとつた井置 中佐は無断撤退の責任で自決を迫られ、ピストル自殺する。誠に気の毒なことだ。なんということか。部下の 命を尊重しての撤退でしたが、時代が時代だけにそのような考えは上官には通じなかった。戦場に多くの死 者を残しての撤退だけに、話を聴いて子供心にもノモンハンという地名は深く脳裏に焼きついている。

◇ 京都の五条にあった私の家の隣家は、清水焼の茶碗を入れる樅の木箱を造っておられました。仕事を する丁稚さんが3人おられました。我が家には無かった自転車やラジオもその家にはありました。小学生の 頃のこと、甲子園での夏の野球放送が始まると、もっぱらお隣の三球ラジオを聴いていた。大会に決まって 出場する平安(中学)の選手で、ボールより早く走ると評判だった「がんせ(雁瀬?)」という三塁手のことや、級 友の木村君のお兄さんで平安のショートだつた木村選手の活躍を、道路脇に置かれた床机に座って聞くの を唯一の楽しみにしていた。

◇ 隣家の丁稚さんは使い古した鉋や砥石を私にくださいました。私はそれらを現在も持ち続けているが、 当時はそれで木工細工をして遊んでいました。そんなことから私は自然と手先が器用な若者になっていった ようです。満12才、小学校6年生のとき、京都市手工研究会主催の「全市学童手工芸品展覧会」に複葉飛行 機の木製模型を作って応募したところ、入賞しました。翼長40cm程度の模型飛行機でしたが『作品は優秀な り』と認められ、京都大丸百貨店で展示され、京都市からは昭和16年3月2日付けの褒状を頂きました。

◇『日本の国は10年毎に戦争をしている』と母が私に話してくれたのを思い出します。母の言う通りで、我が国 は明治時代から戦争の絶え間がなかった。京都は着物や清水焼の陶器で有名ですが、その着物の図柄や子 供の茶碗にも戦争物である軍旗や飛行機の絵が当たり前のように図案化されて描かれていた。

◇ 1941年12月8日、私が市立京都第三高等小学校の運動場で遊んでいたときのことです。何の前触れもな く校舎の高いところに据え付けられていた拡声器から宣戦布告の臨時ニュースが流れだした。『我が帝国陸 海軍は12月8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』ということでした。勇ましく鳴り響く軍艦 マーチをバックにした放送でした。支那(中国)との戦いにも、まだケリがついていないのに、新たに今度は米 英という大国と戦うのかと、子供心にもこのときばかりは、そんなことして大丈夫か? と、日本の行く末をしみじ みと案じました。

◇ 戦後半世紀後の出版物で知るのだが、ハワイが米国攻撃の最初の標的にされたことで、ハワイに住んで いた日系のアメリカ人は大変な苦痛を強いられたようです。レストランに足を踏み入れた途端、「あんたらジャ ップが来るところではない」と睨みつけられたのです。「俺達はアメリカの国籍を持つアメリカ人だ」と言っても 「なにを抜かすか、黄色い肌のアメリカ人っているか?」と罵られたそうです。

◇ 日米の戦いは戦局が進展するにつれてわが軍の雲行きが徐々におかしくなる。国内では兵士の補充で町 内から出征兵士を送り出す日が来る日も来る日も続く。未成年の学生でさえも学徒動員と称して戦線に送り出 されるようになる。

◇ 満州への移民も奨励されていました。満蒙開拓団と称して、ソ満国境に近い偏狭の地に少しで も多くの日本人を送り込むことが考えられていたのです。日本人の入植で土地を奪われた中国の人々の立場は どのように考えられていたのだろうか? 不当に安い価額で半強制的に土地を買い上げられた中国人の怒りは、 治まることはなかった筈です。

◇ 隣人に松井さんというご家族がいらっしゃいました。一家を挙げて満蒙開拓団に参加されましたが、その数年 後にご主人が一時帰国された。そのとき聞いたのは、慣れない土地での生活ゆえに、私たちが「おこのさん」と呼 んでいた奥様を満州の地で亡くされたとのことでした。戦後になって知るのだが、満蒙開拓団は、実はソ連軍の 南下を少しでも早い時点で知る砦として国が考えたことらしい。

◇ 出征兵士のご家族の多くは兵士の無事と武運長久を祈り、街角に佇んで千人針をお願いしておられた。透 けるほどの薄い晒しの布に糸結びを沢山かがってもらうのに懸命でした。それで敵の弾丸からどうして身を守れ るのかと、 私には不思議に思えてならなかつた。日本の国は神の国と教わっていたので、その布を体に巻きつ けておりさえすれば、神様が守ってくださるのかと考えたが、どうも疑わしい。従兄弟の「広さん」が中国の戦線で 戦死された後は、何の効き目もない「迷信か?」と思うようになる。

◇ 内地では、銃後の守りと称して戦地の兵隊さんに負けないよう、男はねじり鉢巻に足元はゲートル巻き。女性 は白エプロンに必勝の襷(たすき)がけでした。いつまで続くか分からない戦争に「欲しがりません、勝つまでは」と、 心にもないことを言わされていました。「1億火の玉となって戦い抜きましょう」と、どこの家も軒先には竹槍立てて、 それでよしと励まし合っていた。戦後になって知るのだが、機関銃や火炎放射器で攻めてくる米軍に、竹槍で戦へ とは、なんともお粗末で話にもならない狂った戯言である。

◇ 区役所から赤紙(左の絵、召集令状)が届くと、何人も拒否することは許されなかった。一家の大黒柱であ っても例外はない。徴兵制度のもとでは男子は20才になると必ず軍隊に入隊することになっていた。戦況が思 わしくなくなってくると、訓練も十分に受けることなく戦場行きとなる。私たちは日の丸の小旗をちぎれんばかり に振って、出征される兵隊さんを送り出していた。「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照ら されて、友は野末の石の下・・・」と、意味もよく分からないままに大声あげて歌い送り出していました。

◇ 生活物資が乏しかったのか、出征兵士が挨拶のときに使うお立ち台も、まともなものはなかった。出征さ れる方はみんな「リンゴなどの空き箱」の上に立っての挨拶でした。今考えると、こんなことで大国相手によくも 戦ったもんだ。「供出」といって、鉄砲や大砲を作るのに家庭で使っている鍋釜までも出せといわれました。神 社の釣鐘も供出され、終いにはダイヤの指輪まで出せといわれていました。

◇ 私の従兄弟3人はそれぞれ召集されて中国の各地を転戦していましたが、そのうちの一人、母の里の跡取 は朝鮮海峡を渡るとき、潜水艦に攻撃されて船が沈み、結局8時間泳いでいて日本の駆逐艦に助けられたと いう話を聞きました。そんな逞しい楢三さん、復員後は元気で農業に従事しておられたが、胃癌の病には勝て ず、この世を去ってすでに10数年が経つ。

◇ 私の父は明治27年生まれ。したがって48歳だったと思うが、ひょっとして召集令状が来るかも知れない。 「来たら私たち一家はどうすればいいのか?」 母も心配していたと思うが、特に弱音のようなことは聞かなかっ た。父の兵暦は騎兵。軍服を着て馬に跨った若い時の写真は、格好のいい惚れ惚れする兵隊さんでした。 馬の御し方が上手だったので、毎年催される新日吉神社のお祭には、御しにくいじゃじゃ馬を選んで乗るこ とになっていました。

◇ 残念なのは私たちの家から一軒置いて北隣でお米屋さんをしていた従兄弟の広さんです。中支の戦線で 敵の手榴弾を受け、名誉?の戦死とか。人の死は一瞬の出来事として突然もたらされる。とても悲しいことだ。 もうどんなに呼んでも叫んでも、「広さん」は帰ってこない。背の高い整った顔立ちのお兄さんでしたが、5, 6才 年上だったので一緒に遊んだりすることはなかった。お米屋さん特有の縞模様のはっぴをきて動きまわってい らっしゃった真面目なお姿が忘れられない。独立して米屋さんを営んでおられた在りし日の元気な広さんの姿 は私の脳裏から消え去ることはない。

◇ 京都市東大路五条にある西大谷の裏庭の小さなくぐり戸を抜け出ると辺りは広大な清水墓地。くぐり戸を 出て東へ50m? ほど行ったところに「肉弾三勇士」の墓碑がある。上海事変のときと聞くが、敵の堅固な鉄条 網爆破で、爆薬筒を抱え敵陣に突入し戦死なされた江下武二、北川丞、作江伊之助という久留米第24旅団の 兵隊さんの記念碑です。「広さん」の霊を弔う石碑は、その「肉弾三勇士」の石碑のすぐそば、4,5mのところにあり ます。五条の家に住んでいた頃は、清水墓地は近かったので、折りに触れお参りしていたが、東京、九州、大 阪、東京と住居を転々とするようになってからは、ご無沙汰続きですまなく思っている。何かの機会に、またお参 りすることにしたい。

◇ お国のために、また天皇陛下のために命を捧げ、立派な最後を遂げられたという軍人の話を小学校では よく聞かされました。日露戦争のとき、旅順港封鎖で福井丸と運命を共にされた広瀬 武夫少佐の話、後に中佐になられたのだが、この中佐の話は国語の教科書でよく教わりました。「船内くまなく 探せど見えず。杉野はいづこ、杉野はいづこ・・・」と叫びながら、最後は旅順港封鎖の船と命運を共にされたお 話です。その場面を唄にした歌を小学校では何度も何度もよく歌いました。

◇ 東南アジア、特に遠い南方での戦局は日増しにわが軍に不利と化す。この戦局を挽回するため1942年6月 5日に始まったミッドウエイ海戦では、日本の海軍は誠に残念だが悔やみ切れない敗戦を喫してしまった。 ハワイの真珠湾攻撃に続いて米太平洋艦隊を殲滅するはずの作戦だったが、この海戦の結果はよくなかった。 戦後わかったことだが、日本軍の無線が米軍によって殆んど傍受解読されていたのである。日本が奇襲で大成 功したと思っている真珠湾攻撃も、無線が解読され、ルーズベルト大統領は日本の攻撃を未然に知っていたらし い。日本に先に手を出させ、日本を叩く正当な理由づくりに利用したのではという話がある。

◇ ミッドウエイ海戦に話をもどすが、米国は空母ヨークタウン1隻と駆逐艦1隻を失い、亡くした兵士は約400名 足らず。それに対してわが方は4隻の空母と重巡洋艦1隻を失った。また、重巡洋艦1と駆逐艦4の損傷で、合わ せて約3,000名の兵士を失った。艦長で艦船と命運を共にされた方もいらっしゃったとか。三菱重工の長崎造船 所を訪問したとき知ったことだが、三菱重工が造った旗艦、赤城とか加賀、蒼龍ならびに飛龍といった艦船名も この世から消えてなくなってしまった。300機ほどの海爆機と戦闘機を失ったことも各戦線でのその後の勝敗に 大きく影を落とすことになる。

◇ ミッドウエイ作戦立案中での戦いの時期については軍令部内であと1ヶ月先にしてくれという声が上がっていた。 ところが半月後に作戦を始めることになり、案の定、作戦は失敗で大損害を蒙ることになった。日本はこれ以後は、 敗戦の坂道をごろごろと転がり落ち始める。軍令部内ではこの作戦は危険という声があったが、真珠湾攻撃で戦 果を挙げ、神格化されていた山本五十六司令長官に対し「待った」を掛ける人がいなかった。作戦は大敗で終わる のだが、このことは国民には伏せられ、大本営の発表は、被害は少な目に、敵の被害は多めに発表するのが常だ った。新聞など報道機関は国策上、軍部に協力せざるを得なかったのか、大本営発表の拡声器役を演じ、国民を 戦場へ戦場へと駆り立てゝいった。勇ましかったのは、そんなとき流される軍艦マーチの響きだけ。

◇ 明治の時代は、いざ決戦となると日本の軍隊は、向かうところ敵なしで、いずれの戦いにおいても赫々たる戦 果を収め勝利していたと聞く。ところが米国を相手にした戦ではそうはいかなかった。その原因はなんだったのか。 敗戦後になって知るのだが、一つは無線通信を解読されていたこと、二つ目は超短波レーダーの開発技術で米国 に遅れをとっていたことである。米軍の通信隊には日本人の二世の兵士が無線傍受解読で配属されていたのです。 こんなことから日本帝国海軍の総指揮官山本五十六元帥が搭乗する航空機も敵に待ち伏せされて撃墜された。

◇ レーダーの開発もわが国に一歩先んじて米国では行われていました。1942年には米国のMTIとレイセオン社 が波長10cmの超短波レーダーの開発に成功する。そしてこれが直ちに戦艦ワシントンに搭載されたのです。これ と殆ど同時期の1943年以降は、この種のレーダーをわが国も開発し実戦に投入したが、安定した性能が得られな かった。ドイツはこのレーダーをいち早く開発し、欧州戦線に配備して対英国戦では成果を挙げていたので、その 技術供与を受けるため、関係者を潜水艦を使ってドイツに派遣した。三国同盟で戦っているのだからと、技術供与 を迫ったが、極秘の技術ゆえにドイツ側はその申し出に応じてくれなかった。このあたりの交渉は実に重大なことで あり、日米戦の勝敗の分かれ目に大きく影響したようだ。

◇ 10cm波長の超短波レーダーを搭載した戦艦ワシントンは1942年11月14日、日本の戦艦霧島がガダルカナル の島影から出たところをいち早く捕捉し、先手をうって一斉に砲撃を加え霧島を撃沈した。撃沈された霧島は211 名の乗組員と共に南海の波間に消える。このようなことの連続で、日本の艦船や輸送船の多くが撃沈された。前 線への物資の補給が途絶えてくると、前線の兵士は戦うどころの騒ぎではない。「武士は食わねど高楊枝」とは チャンバラ時代のセリフであって、飛び石伝いに物量作戦で反撃してくる米軍をもはやこの時点で阻止する力は わが方にはなかった。

◇ 補給線を絶たれる日本軍は当然各地で苦戦を強いられることになる。南部戦線では戦死した兵士5,000名。 孤島を死守する兵士は補給を絶たれ、戦うまでもなく餓死して死んでいった。これらの者と傷病者を合わせると、 なんと15,000名という多くの日本兵を失うことになった。昭和18(1943)年2月には、戦局が思わしくないので日本は 遂にガダルカナル から撤退した。北部戦線では、カムチャッカ半島に近いアッツ島での玉砕で、2,634名を失う。言葉で玉砕だ、 失ったと語っているが、現実の世界で起こった光景は、筆舌に尽せない壮絶なものだ。

◇ 西部方面のビルマ作戦でも悪戦苦闘の戦いが続いた。力尽きて玉砕に近い総撤退で、これまた多くの死者 を出した。ビルマ・インパール作戦の戦いの体験者が 語る痛ましい話に は絶句する。 一口に玉砕といえば美談のように聞こえるが、事実はそんな綺麗ごとではないのだ。この世のもの かと思えるような、家族にはとても語れない凄惨で馬鹿げた光景が展開されていたのだ。

◇ 戦争を始めた最初の頃は中国でも仏領印度支那(タイ・ベトナム)でも破竹の進撃で、連戦連勝だった。しかし 米英の連合軍と戦うようになってからは戦況は一変する。兵士や物資を輸送する船団は敵、主としてアメリカの 潜水艦に攻撃され、物資の輸送が思うようにいかなくなる。武器や食料が戦場に届かないため、戦いの第一線に いる将兵は退却しながら土着人の食料を略奪するなどして飢えを凌ぐ。ついには餓死し、戦わずして玉砕するとい うことになる。

◇ 戦局が不利になったのを証明するかのように、やがて戦死者の遺骨を迎える日が多くなる。悲しげな葬送? の音楽を耳にした日のことが忘れられない。遺骨は白木の箱に収められ親族の胸に抱かれて帰って来る。白木 の箱の中味は一束の毛髪か、名前が書かれた紙切れ一枚と聞いた。こんな羽目にどこの誰がしてくれたのか?  でも当時は反戦など不平を公言すれば、ピストル持った怖い特高警察や軍刀提げた憲兵に連行され、どんな 痛い目にあわされるかわからなかった。

◇ 本土爆撃が避けられない雲行きとなった昭和18年、京都市は焼夷弾を投下されたときの延焼防止策として 京都市を東西にわたって走る五条通りとお池通りが道幅 50m に拡幅されることになる。全市が火の海になる延 焼を防止するためである。昔からの幅5〜6mの道が50mに拡幅されたのです。誰が決めたのか、通りに面した南 側の家約2万世帯だけが一軒残らず、1 〜 2週間ですべて取り壊された。

◇ クラスメートだった福井和さんの家、大きな立派なお寺でしたが、そのお寺も影も形もなくなりました。残ったの は裏庭の墓石群だけ。「諸行無常の響きあり・・・」とはこのことか。遠い親戚に当たる小間物屋さんの小田垣さん の家も五条通りから消えてなくなってしまった。家を壊すのに当時は大型の建設機械はなかったので、家の棟木 に縄をかけて大勢の人の力で引き倒すのです。土地はその後戦後になっても返還はなされていない。壊された家 に対する代償はどうだったのか。お国の為とはいえ家を引き倒された人の中には、行く末を儚なんで自殺する人も いたと聞く。
  
◇ 昭和19年には米軍のサイパン上陸作戦で4万人以上の若い日本兵が戦死した。全軍が絶滅したので当時の 戦況を語り伝えるものが居ない。このことを思うと心が掻き乱される。サイパン島が米軍の手に落ちると東京、大 阪、名古屋といった大都会もB29の爆撃から逃れることは出来ない。

◇ 私は義務教育を終えた後は、今の近鉄電車、当時は奈良電(軌鉄道)と呼んでいたが、京都と奈良を結んで走 っていた電車の大久保の駅の西に広がる日本国際航空工業(株)の工員になり、そこの宿舎に籍を移し働き始めた。 どんなことでその会社で働くことになったのか、よく思い出せない。とにかく会社の寮に入り、第1中隊第2小隊長を命じられた。そして航空機総組立工場で働いて いた。

◇ 私は子供のとき、隣家の野々山さんの丁稚さんから教わり、鋸の目立ても出来るようになっていた。鉋や鑿など 刃物も一人前に研ぐことも出来るようになっていた。こんなことから、会社での技能養成コース
卒業の後に配属された金属加工の職場におい ても、木工細工と同様に加工技術には格別に優れていた。軍の査察官が工場検閲に来られた時は、工場の職場担 当の係官が査察官を連れて必ず私が仕事をしているところにやってきた。私がしている仕事振りを見せ、工員の働く 姿に納得してもらっていたようです。

◇ 戦局が不利になるにつれ、なんとしてでもこれを挽回しようと残存する艦船をかき集め、満を持して中部太平洋 のマリアナ沖海戦に出て行った日本海軍は、「大鳳」「翔鶴」 「飛鷹」など空母3隻と航空機約200機を失った。 これで海上航空戦力としての能力は著しく失われ、以後、米艦船と 一戦を交える戦力はなくなるのである。

◇1942年にフィリピンを占領した日本軍は、We shall retrun と言ってレイテから撤退して行ったマッカーサーにフィリ ピンを奪還される。1944年10月20日、米軍20万人が比島奪還のため、先ずはレイテ島に上陸した。ここでの戦いで 日本軍はほぼ全滅する。46センチ砲を搭載し不沈艦武蔵もレイテ沖の海鮮で1329人と共に海の藻屑と沈むことにな る。レイテでの戦いでの死者は日本軍約7万人、米軍約3500人、島民約5万人とか。

◇ レイテに続いてやがて日本本土空爆に役立つサイパン島も奪われた。サイパン島の戦では、多くの民間人が犠 牲になった。だが、本当のことは知らされていないから何もわからない。『生きて捕虜の辱めを受けるなかれ』と戦陣 訓を毎日唱えさせられていたので「もうダメだ」となっても、日本人は降参をすることが出来なかった。降参するため 壕から出て行く者がいると、後ろから味方の上官に撃たれて死ぬ始末。テレビで見た光景だが、死を決して崖の草む ら掻き分け、崖下の海めがけて飛び降りるモンペ姿のお母さんを見た。中年女性のその姿は今も鮮烈に脳裏に焼き ついている。テレビでの作り話の映像ではない。本当にあったことである。そのとき亡くなられたご婦人の心境はどん なであったろうか。実にむごいことだ。ご冥福を祈りたい。

◇ 話は変わるが、最近(2006年)のテレビで知りました。日本兵がひもじくなると人を食べたという話が本当のことだ ということを。テレビに出演していたブーケンビルの島民2人が、『私の兄弟は日本兵に食べられてしまいました。足の 肉も頬の肉も』と話すのを見ました。怒りもしないで語る島民の話を聞いて、異様に思えた。人間は食べ物に窮すると 人も食べるのかと。こんなことまでして戦う戦争に何の意味があったのか。言葉にならない酷い目に会わされるのは、 いつも、どこの国にあっても下々の人間である。上層部の政治家や軍人は美味いものを食って胡坐をくんで涼しい顔 なんだ。

◇ 戦闘に加わるまでもなく、飢えに苦しみ不慣れな土地で疫病に倒れた兵士の数も少なくなかった。補給を絶たれた 日本兵は、食べられるものなら何でも食ったらしい。傷口に湧くウジ虫までも摘んで食べていたと言うではありませんか。 人間って、そんなことが出来るのでしょうか? 身の毛がよだつような光景。戦争が招いたこの地獄絵巻に唖然とせずに はいられない。

◇ ところが、そのウジ(ハエの幼虫)が壊死した足を治すという話がある。ハエの幼虫を使った傷の治療が、数千年前 のオーストラリア先住民やマヤ文明の記録にも残っているというのである。戦場で傷にウジが湧いた兵士の方が傷が 早く治ったというのである。このことから、18,19世紀にはナポレオン軍の兵士やアメリカ南北戦争の負傷兵の治療に蛆 虫が使われ、これが2度の世界大戦期までに、欧米の医療機関で広く普及したという。戦後、抗生物質や手術の技術の 発達ですたれたが、80年代になって抗生物質が効かない耐性菌の出現や糖尿病性壊疽の増加で欧米では再び注目さ れ、英国では医療保険が適用され、米国では治療用のウジが医療材料として認可されているというのである。(2007,7,1 朝日新聞抜粋)

◇ 私が働いていた日本国際航空工業株式会社では、サイパン島を奪回するための大型航空機を造っていた。戦車を 搭載できる大型の双胴機である。「大鳥」と名付けられていた。この他に落下傘部隊を空輸するのに使用されていた三 菱製のMC-24という輸送機も組み立てていた。名古屋の三菱の工場が爆撃されそうで危ないので、京都の工場でその 製作を引き継ぐことになったのです。

◇ 双発双胴の「大鳥」は、アメリカのロッキードP-39という戦闘機を一回り大きくしたようなものでした。その主翼長は 36,7メートルあり、翼の厚みも主翼付け根で1メートルはありました。主翼の桁は1ミリ厚の板を牛乳から造ったカゼイン という接着剤でくっつけた合板で出来ていた。

◇ ある日のこと、米空母から飛んできたアメリカの艦載機、グラマンに工場が機銃掃射され、女子挺身隊の女学生数人 が可哀相に亡くなった。 私たちが入った防空壕は襲われなかったので助かったが、長いこと防空壕に隠れてサボッテい るのが見つかって、全員一列に並ばされ、ビンタ。 しかし、「よしおかは、一歩後へ」といわれ、私だけは叩かれなかった。 それほどに私は仕事の上での腕前の冴えで、上司からも大切にされていました。

◇ 各地の戦線で敗色が濃厚になると、兵士の補給が急務となる。そこで召集適齢期が2歳早められ、徴兵は18才から となった。当時の年齢は数え年で表わしていた。数え年で17才になったばかりの私は防衛召集ということで、陸軍二等兵 を拝命した。 二十歳にもならない子供、若年の青年?を戦線に送って、戦いに勝てると考えていたのか、問いたい。判断 を間違うと、キズが深くなるばかりである。軍司令部の高官たちはなにを考えていたのか?

◇ 防衛召集の下、陸軍二等兵を拝命した者は、正式に召集された兵隊さんというほどではないと感じていたが、軍靴を 履き、夜中に軍歌を歌いながら東山の将軍塚から山中を南下する行軍で縦走したことがありました。また、京都東山七 条にある真宗大本山智積院に集められ、戦車攻撃の訓練も受けた。境内の庭に蛸壺(穴)掘って、敵の戦車の下に爆薬 を投じる訓練を受けた。今のイラクの若者がしていることとよく似ている。敵も同じアメリカだ。

◇ 京都の知積院で戦車攻撃の訓練を受けていた頃のある日のこと、大久保の工場から1km 足らず北の田圃にB29爆 撃機が墜落した。野次馬根性で現場を見に行くと、田圃の畦道に機関砲?やピストルの弾が点々と沢山散らばっていた。 後で聞いたことだが、当日現場に駆けつけた人は食べ物の缶詰などを拾えて得をしたという。落下傘で降下した米兵は 農民にスコップで叩かれるのを恐れ、警察のトラックが来るや否や自ら警察のトラックに飛び乗り、どこかへ連れて行か れたと聞いた。

◇ 私が墜落現場を訪れたときは、現場の見張り役は憲兵一人だった。そこで、憲兵が余所見をしている間に機関砲の 弾とピストルの弾をポケットが一杯になるまで拾った。機関砲の弾は長さ20cm 程あった。その弾は工場でバイスに挟ん で、お尻の信管にポンチを当て、ハンマで叩くと、バ〜ンと音がした。しかし、その音は何故か想像していた程には大きく なかったので拍子抜けした。

◇ 私の少年時代は明けても暮れても戦争々々。そして戦局は日増しに厳しさを増す。そこで、召集令状が来るまで待つ のでなく、お国のために志願して軍に参加する若者が増えた。海軍のパイロットになれる「予科練」の制服はなかなか格 好がよくて若者のあこがれの的でした。その制服の格好よさに引かれて予科練を志願する者が多かったのではなかった か。今だから言えるのだが、私は簡単に戦死するのは嫌だから、出来るだけ命の危険性が少ない陸軍兵器学校に入る ことを考えていた。

◇ 昭和20年2月、いよいよサイパン島に続いて硫黄島の攻防戦が始まった。硫黄島は日本列島から南へ1,200km の小 さな火山島。B29の護衛用戦闘機の格好の発進基地にするのに適するということで米軍はなんとしてでもこの島が欲しか った。逆に日本はこの島を奪われると、本土がやすやすと爆撃されるので、この島だけはなんとしてでも死守しなければ ならなかった。

◇ 激しい艦砲射撃の3日後の2月19日に米軍は上陸作戦を開始。米兵6万人と日本の守備隊2万人の激突である。ここ での戦いは史上稀れにみる熾烈さを極めたと伝えられている。5日間で占領できると考えていた米軍は日本軍の抵抗に 会い作戦を練り直し出直すことになった。各地の戦線から屈強の米海兵隊員をかき集め、1ヶ月余り掛けてこの島を攻略 した。

◇ この戦いで全滅し、玉砕した日本兵の国への究極の献身は国民の心を大きく揺り動かした。悲惨な戦闘の実態は敗 戦後、何十年もたって知るのであるが、真実は不明のままである。だが硫黄島は太平洋戦争で最も激しい戦いが繰り広 げられた「屍を超えての戦場」だったという。

◇ 島の死守を命じられたのは栗林忠道中将以下2万人(21,900人?)の日本兵。補給のないまま人間の限界を超える戦を して、持久戦の果てに悲壮な最期を迎えた。本国からの救援は何一つ得られなかった。撤退する船もなかった。残されて いるのはただ戦って死ぬだけ。こんなことがこの時代は通用したのだ。投降をするよう呼びかけた米兵には日本兵の心境 は不可解きわまるもので、到底理解できなかった。

◇ 凄惨を極めた悲壮な激戦の果てに日本軍は玉砕した。この島の攻防戦には当時の私と同じ年齢の16〜17才の少年 兵も加わっていた。地下壕に充満する飢えと渇き。20日間食べるものもなく、戦火で炭化した樹木の炭をかじって飢えを凌 いだという。この話を聞いて、そんなことが可能なのかと、信じられなかったが、本当なのだ。また、亡くなった戦友の屍の 下に隠れて夜を明かしたともいう。そんな戦いだったが、捕虜となって生還した日本兵が千人ほどいらっしゃる。米軍は太 平洋戦争で失った全将兵の半数にあたる2万人の兵士をこの島の戦いで失った。

◇ ここまでは最後まで戦って玉砕するという痛ましいが勇ましい話である。でも、事実はどうだったのか。聞くところによる と、指揮官としての責任を問われ、栗林中将は部下に惨殺されたという話がある。一方、米国では、硫黄島の戦いで勝利 したことを記念するモニュメントがワシントン郊外に建設され、毎年夏になるとこの記念碑の前で戦死者を弔う行事が行な われる。それほどに硫黄島の戦いは米軍にとっても忘れることの出来ない戦いだったのだ。訪米時にその記念碑の前で アメリカ人と撮った写真を左に掲げておく。

◇ 京都市もやがて米機の爆撃に見舞われるのではないかと思うようになる。家財道具が灰になるのは避けたい。そこで、 タンス長持ちなど大切な家財道具を山科の山手に住む父の知人の家に預けることになった。預ける方はいいとしても、預 かる方は迷惑なこと。でも戦時中のことなので、そんな無理も聞いて頂けたのだと思う。父が大八車を借りてきた。私も肩 に綱かけて大八車を引くのを手伝った。東山三条経由、蹴上から国道一号線を東へと山科まで大八車を引いて家具類を 運んだ。幼なかった妹は、母の里、新田辺に住む母の兄の家に預けられた。母の父は天皇陛下をお守りする兵隊さん、 近衛兵でした。

◇ サイパン島を飛び立ったB29は硫黄島から飛び上がった戦闘機に護られて日本の爆撃に向かうことが出来た。そんな 頃だったと思う、京都市でもB29をよく見かけるようになる。もしも焼夷弾によるじゅうたん(絨毯)爆撃を受けたなら、木造家 屋が殆どの京都市はただちに全市が火の海になる。そこで防火対策として京都市は、既に述べたが市内を東西に走る五 条通りとお池通りを50mに拡幅し、南北方向の延焼をこれでストップすることが考えられた。

◇ しかし、その程度のことでは防火対策は十分ではないと京都市は考えた。そこで考えられたのが、「焼夷弾を被弾した 家の消火にあたる人が家に必ずいつも住んでいるか?」ということが問われることになった。このことがもとで、我が家の家 族は父が管理一切を任されていた沢野家の別荘に移り住むことになった。この別荘は京都の豪商、沢野家が元は西本願 寺のものであった屋敷を譲り受けたもので、敷地面積が 3,000坪の邸宅。庭のあちこちに点在する建造物は、歴史もあれば 由緒もあるなかなかのものでした。ここで「でした」と言いますのは、今ではそのような建物は改築され以前の姿は見る影も なくなり、新しい料亭用の建物となっているからです。

◇ 我が家がこの屋敷に住むようになる前は、竹内という上品な上女中さんが一人で屋敷の留守番をしておられた。竹内 さんは祇園花見小路に住んでいらっしゃった池田さんの遠縁のお方。透き通るような響きの綺麗な京言葉を話されるご婦 人で、お会いしたときにお聞きしたお声が今も耳に残っている。物腰の柔らかいとても上品なお方でした。用件があって訪 ねていったときは、父の名前が岩三郎でしたので「岩さんの息子さんが来た!」と、つぶやきながら愛想よく迎えてくださった。

◇ 夕暮れ時、ここの庭から京都市内をバックに八坂の塔を重ね合わせて俯瞰する眺めは見応えのある一幅の絵になる。 五重の塔は法観寺所属のもので、かって内部を見学したことがあるが、塔の高さは40m。建築材は相当な年月を刻んでい る。礎石の中には仏舎利が納められていて、そこが最も聖なる場所と聞いた。塔の中央にある柱は周囲の梁や壁とは繋が っていない。芯柱が塔の先端まで通っているのである。芯柱が僅かであるが前後左右に揺れ動くことで、塔の倒壊が起こら ないよう塔全体のバランスが保たれるのである。昔の人の考えのすばらしさには感動した。

◇ 庭の中ほどに送陽亭という亭(ちん)があった。今も残されている筈。坂本竜馬や桂小五郎など、明治維新に活躍した勤 皇の志士が、この亭を倒幕のための密会の場所としていたと教わった。この亭や屋敷の来歴について父が話すのを私は 何度聞かされたことか。しかし二十歳前後の若僧で、屋敷などの由来には全く関心がなく、話の内容を詳しく聴き覚えようと はしていなかった。父がいなくなった今頃になって、聞いておくべきだったと反省するが、すべて後の祭りでどうにもならない。

◇ 庭の奥まったところに京の匠たちが残した円熟の業が光る「胡廬庵」という茶席があった。茶席に欠かせない「にじり戸」 の存在理由を父から何度も聞きました。いつも威張っている武士になんとか頭を下げさせようと考えたのがその存在理由だ と。木材がもつ独特の味わいを巧みに生かした数寄屋造りの建築美は殊のほかすばらしい。千の利休が大成した「茶の湯」 の世界が醸し出す幽玄の世界を漂わせていると言われると、そのようにも思えた。茶席の周りの庭には、背丈5cmもあろうか と思われるふわふわのみずみずしい杉苔が飛び石を包み込んでいる。京都の庭でないと見られない眺めです。

◇ 山手に打ち込まれたパイプからは飲み水としても使える地下水がこんこんと途切れなく流れ出していました。竹の子が 沢山とれる竹藪があり、そこではどこから持ってきたのか古畳を埋め込んで竹やぶの土壌改良に汗を流していた父の姿が ありました。この竹やぶではひと夏で栗かぼちゃが100個も採れました。柿、栗、びわ、あけびに山桃なども採れました。庭 全体が醸す雰囲気は物音ひとつしない静寂の世界。戦争なんてどこのことと言わんばかりの静寂の世界でした。

◇ やがて真っ青に晴れ渡った京都市の上空を南西から北東にかけて百機ほどのB29があたかも観閲式にでも参加するか のように悠々と見事な編隊組んで飛来するようになる。でも妙に爆弾は投下しなかった。たまに一機の時もあったが、偵察機 だったのでしょうか? 百機程の時は、絵に描いたような見事な眺めでした。

◇ 「銀翼」という言葉があるが、正にその言葉通りのもの。B29が銀翼をきらめかせて高空を飛ぶその光景は、真にお見事 としか言いようがなかった。B29の機体は少し胴長でしたが全体的には均整の取れた美しさそのものでした。初めて目にする 飛行雲を延々となびかせながら超高空(1万米?)を悠々と我が物顔に飛び去っていく光景は、忘れようとしても忘れることが出 来ない見事な美しいさでした。絵に描いたようなそんな編隊飛行の光景を何回見たことだろうか。彼らの行く先は名古屋か、 四日市の工業地帯ではなかったか?

◇ 私が防空壕に入ろうともしないで、紺碧の大空を悠々と飛ぶ銀翼に見惚れているのを見て、父は「防空壕に入るように」と、 2,3回繰り返し促していた。でも、京都にはなぜか爆弾は絶対に落さないんだと半ば信じていたので、私にとって、父の声は馬 耳東風そのものでした。自分たちが今米国と生きるか死ぬかの戦争をしている最中なんだという実感は奇妙なことだが全く欠 落していた。京都人には戦争の実感がどうしても伴わなかった。

◇ 超高空を飛ぶB29には日本の高射砲の弾は届かなった。日本の戦闘機もまたそこまで上がれない。操縦室が与圧されて いないのが原因と聞いた。こんな調子だから日本の戦闘機は戦う術もなかった。考えてみると、恥ずかしいことだが、このとき すでに制空権を奪われていたのです。ところが私達はそれでもいつの日にかは神風が吹いて、気流の乱れで飛来した敵機が 悉く空中分解して落下するのではないかと、元寇の神風を思い浮かべていた。

◇ 京都市は幸い爆撃らしい爆撃には見舞われなかったが、三箇所が小規模ではあったが爆撃を受けた。一箇所は私の母 校修道尋常小学校。体育館の屋根が陥没した程度で被害は大したことではなかったのをこの目で確かめたのでよく知ってい る。亡くなった方もおられたらしいが、そのことは知らなかった。隣接する女学校(今の京都女子大)の女子寮の灯りの漏れが 原因と聞いたが、その真偽の程は定かではない。

◇ ところが、戦後62年たった2007,1,12 の朝日新聞の記事を見て驚いた。当時の京都女子専門学校(現在の京都女子大)の 寄宿舎も爆撃の被害を被むっていたというのだ。被害状況を示す写真も掲載されていた。このときの爆撃は辺りの地名が馬 町だったので「馬町空襲」と呼ばれていたという。昭和20年1月16日午後11時20分ごろのことと記されていた。私の母校、修道 尋常小学校の生徒9人を含む41人が亡くなり、48人が負傷したという。被災家屋も316戸と報ぜられていたが、私の記憶では、 とてもそんなに大きな被害があったとは思っていなかった。子供の私が詳しく調査したわけではないので、本当のところはなん とも言えないが、それでも新聞の記事には納得しかねる。

◇ 被弾したもう一箇所は西陣の街。昭和20年6月のことだが、44人もの人が亡くなったらしい。更にもう一箇所京都市の西方、 航空機の発動機を製造していたと聞く三菱重工の工場です。ここの爆撃では60人程の人が亡くなったらしい。朝日新聞の記事 では40人以上の死者と述べられていたが、京都に対する空襲は、悪化する戦況を国民に知られたくないためか、亡くなった人 の数などは伏せられた模様。真実が意図的に隠される戦時下でしたから、16才だった私が知る由もない。

◇ 大阪の空は高台寺の高台の家から見て南西の方角。エジソンが電球のフィラメントにここの竹を使ったと言われる八幡の 山と、その北向かいの山崎の山の間を通してよく見えた。その大阪の空が夕焼け空のように異様に赤く染まっていたのを今も はっきりと思い出すことができる。思えばその時、その空の下で 1トン爆弾をばら撒かれ、恐ろしい地獄絵巻が展開されていた のだ。 新幹線もマイカーもない時代のことです。大阪まではかなりの距離があるので、京都市の人間には大阪での惨劇を案じ る気配は、水臭いことだが、なかったのではないかと思う。心配するのは、みんな自分のことだけで、精一杯だったのでしょう。

◇ 負け戦となるのが目に見えていたのにも拘わらず、敗戦の決断が出来なかった政府や軍司令部のために、東京都も昭和 20年3月10日、B29の大空襲に見舞われた。この空襲による被災者の数はなんと100万人というではありませんか。火に包まれ ると人間はパット燃える。そして10万人の人が焼け死んだ。燃え盛る紅蓮の炎から逃れるためにみんな川に飛び込んだが、そ こは地獄さながらで川面は死体でいっぱいだったという。なんという恐ろしいことよ。京都の人間には想像も無理な惨状。未だに 本当の話かとも思う。助かった者は、3月10日と11日は死体の後始末。人間に対する尊厳さというもの一切なしで、物を扱う感じ であったと聞いている。

◇ 昭和20年3月17日の夜は、神戸市の長田区もB29の空爆を受けた。照明弾から始まり焼夷弾が投下されると真っ暗闇の街 に無数の炎が立ち上がる。消火にあたるものは誰もいない。このときの状況を話してくださった藤田さんは、母と兄の3人で炎か ら逃れるため路面電車道の国道に出られ、群集に押されながら須磨方面へと向かわれた。一時、西宮へ非難されたが、そこで も戦火に見舞われる。終戦直前にご家族の3人は、国鉄の大阪駅から始発列車に乗り、四国の愛媛県西条市に疎開された。現 在は3人のお子様は独立されたので、夫婦2人きりになられ、慰め酒に酔うと、ぽつりぽつりと神戸大空襲の苦い思い出が口から 出ると話しておられる。(2007年9月18日の朝日新聞に掲載の藤田虎雄様の記事の紹介)

◇ 京都市は幸い本格的な空爆に見舞われることはなかった。でも、いざというときのことを考え、防空頭巾や消火用の道具と して、竹の先にむしろを付けた叩きのようなものを各家庭が用意し、戸外の軒先に立て掛けていた。防火用の水槽も各家の前 に備えていた。戸外にいると爆弾で吹っ飛ばされるので、各家庭には床下に申し訳程度のものだったが、一応防空壕というもの を造っていた。防空壕は家の中の床下に造るしか、他に場所がなかった。畳を揚げて床下に穴を掘り、その上に外した床板など を並べて渡し、土をかぶせるのです。戦後になって考えると、そんなもの何の役にも立たなかったと思う。家が火事になれば、中 に隠れていたものは蒸し焼きだ。子供騙しのようなもので、いざ爆撃にあったなら、目をそむける惨状が、あたり一面を覆ってい たに違いない。

◇ 1945年の3月だったか? 三国同盟の一角だったイタリアが米英の連合軍に降参した。やがて日本もやられるのかといやな 予感がする。続いてソビエト軍の総攻撃でベルリンが陥落した。頼りにしていたドイツも降伏した。日本がドイツと手を組んで米 英と戦うことになったときは、ドイツの存在をとても力強く頼もしく思ったものだが、そのドイツが敗れたことで、日本は一国で世 界を相手に戦わねばならなくなった。

◇ 一時は天下に名を轟かせ、恐れられていたドイツの総統、アドルフ・ヒットラーは、愛人のエバー・ブラウンと共に地下 8m の防空壕で服毒自殺したとか。実に痛ましいことだ。イタリアの総統、ムッソリーニは民衆の手?にかかって吊るされた。その 吊るされた哀れな姿の写真を新聞で見たが、残念というか、気の毒で目をそむける。いずれもなんとも痛ましいことで絶句だ。

◇ ドイツの降伏が濃厚になると、米英ソの首脳が黒海沿岸のヤルタに集まって戦後処理について会談した。これがヤルタ会 談といわれるものである。このとき、スターリンは米国の大統領ルーズベルトに「ソ連はドイツが降伏した後は速やかに日本打 倒のため参戦する」と、密かに耳打ちしたのだ。この考えにはルーズベルトは賛成でした。ソ連が参戦してくれるなら日本との 戦いで米兵150万人が死ななくてすむという考えでした。

◇ 戦況は刻一刻と悪化する。昭和20年3月23日米軍は沖縄への艦砲射撃を始めた。海を埋め尽くす米軍の艦艇、その数は 1,500隻。1945年の4月1日には、一歩も踏ませないと豪語していた沖縄本島へ、50万の米大軍が上陸を開始した。これは沖縄 の人たちにとっては魂が消え失せるほど大変なことだつた。迎え撃つ日本兵は8万6千人。私と同じ年齢の若い少年兵も混じっ ていたらしい。艦砲射撃で日本軍陣地は蜂の巣状態に破壊され、まともに戦うことが出来ない状態になった。だが必死に抵抗 する日本軍との戦いで米軍も 2万人に達する死傷者を出した。負傷した日本軍の兵士の手足は麻酔なしで切断という光景が 展開した。穴倉に身を隠すが食料も飲み水もない。逃げ場を失った島民が日本兵が隠れている塹壕に救いを求めて逃げ込も うとすると、戦闘に邪魔だからといって「日本兵は、これを拒絶した」。

◇ 沖縄の戦局をなんとしてでも挽回しようと考えられたのが、死を覚悟し、爆薬を抱える航空機諸共敵艦に突入する 神風特別特攻隊の編成でした。 国のために命を捨てることが、当然のことのように言われたときのことでしたが、 「なぜ自分が選ばれたのかわからない」という言葉を後にした特攻隊の若者もいた。圧倒的に不利な状況の中、部下の命を守 ろうと玉砕命令を拒否した将校もいた。際立った個性と強烈な使命感を持ち特攻隊に志願した若者は鹿児島の鹿屋基地から 南の海めがけ、片道の燃料で沖縄に向かって飛び立っていった。親と恋人に最後の別れである遺書を残し、上官から別れの 杯を頂いて、敵艦めがけて死地に飛び立って行った若者がいたことを、我々は決して忘れてはならない。

◇ 沖縄の離島、座間味村では、米軍の上陸に先立って米軍に捕まると耳や鼻を削がれ、腹まで掻き切られて殺されるから、 いざというときは舌でも噛み切って死ぬようにと、軍から手榴弾や青酸カリが手渡された。復員した米兵の話によると、米軍は 降参して出てきた日本兵を捕虜にすると、後々面倒なことになるので、英語を話せるもの数人を残してみんな射殺して殺した。 また日本兵の所持品を略奪するのにはその方が都合がよかった。占領地では、老人や子供を一箇所にまとめて火を放ち、逃 れようとする子供は捕まえて股裂きにして火の中に放り込んだ。日本人は動物同然、またはそれ以下に扱われ、ドイツ人のユ ダヤ虐殺とも引けを取らない残虐行為を平然と行っていたのである。

◇ 結局、そんな話を聞かされた座間味村では集団自決された人の数は200人に達したとか。夫が妻の首を剃刀で切り、夫は 妻の後を追って自殺したという。家族が互いに殺し合うのだ。日本軍の命令で男性が何の憎しみもない祖父母や妻や子供を 殺す凄惨な地獄絵がここでも展開されたのである。人が人でなくなる極限の地獄絵図の展開です。ネズミ駆除の毒を飲んで死 を決意した夫婦や親子もおられたらしい。かくして6月22日、遂に日本軍の参謀長も自決し、沖縄での日本軍の組織的な戦いは 終わった。沖縄の戦いで亡くなった人の数は20万人とか。4人にひとり、いや3人にひとりがこの戦いで亡くなったのである。

◇ 内地の人間には想像も出来なかったが、弾雨の中の逃避行、累々たる死者を横目に見て、幼い中学生や女学生までもが 火炎放射器や機関銃で向かってくる米兵と素手?で戦ったのです。そして最後はみんな集団自決で死んでしまった。「ひめゆり 隊」と称し、15,6才の幼い女学生の集まりが戦闘に加わり、最後は洞穴の中で自決した話を聞いた。洞窟の中は血や尿の海で 異様な臭気が漂う。日本軍は自分達のことで精一杯で、自国民の命を救うことは出なかった。島民を守るだけの余力がなかっ たのである。

◇ 味方であるはずの兵隊さんは島民を守ってはくれなかった。荒崎海岸に造られた伊原第一外科壕の 跡地では、戦後60数年たった現在も戦いで死んでいった兵士の遺骨や遺留品が散らばっているとテレビ で聞いた。銃撃で死んだ 6人ばかりの死者の下敷きになり、手榴弾で自爆しようにもピンが抜けずにも がいているところを米兵にその手榴弾を取り上げられ、九死に一生を得た生き残りの島民の話では、米 兵が壕穴に向かって『出て来い! 出て来い!』と叫んでいたという。出て行くと手榴弾や銃撃の餌食でし た。

◇ 死んでいった日本兵の『私たちを忘れないで!』というあの時の叫び、悲しさ、無念が今も壕の中か ら聞こえてくるという。これと同じような惨劇が沖縄の各地で起こっていたのだ。負け戦となると、島民 は仲間のはずの日本軍に壕から追い出され、食料を奪われ、銃弾、砲弾が飛び交う真っ只中に追い 出され、隠れるところがないのでお墓の中に隠れて暮らしたという。飲み水を汲みに井戸まで行くと周 辺は死体が累々。井戸の水の中にも死体が浮いていて蛆虫が這い回っている。その蛆虫を避けなが ら水を汲み、その水で喉の渇きを癒したという。すべてがこのように常識ではとても考えられないこと になる。そして、4月23日にはビルマでも日本軍のラングーン撤退だった。

◇ 戦後45年ほど経ったある日のこと、私は仕事で会社の同僚T.E.さんと沖縄を訪ねたことがある。こ のとき足を伸ばして、ひめゆり隊が自決した洞穴も見学しました。洞穴の前には「ひめゆりの塔」とい う供養塔があり、洞窟内には自決して亡くなられた少女や島民の顔写真が壁面一杯にずらりと掲げ 飾られているのを見て異様な感じがした。

◇ 戦後の新聞で知ったのだが、沖縄戦で散った弟を思い出し、徳島市在住の河野正恵様が語られ た話を紹介する。弟さんは20歳を迎えて、旭川歩兵部隊に入隊。間もなく旧満州(中国北東部)の国境 警備につかれたが、戦況がいよいよ悪くなり沖縄へ送られる。そして「摩文仁の丘にて」と書かれたハ ガキが最後の郵便となった。そばにいた元兵士が伯父に話されたところでは、重傷を負われた弟さん は前額部を包帯で巻いておられた。数日も変えないので汚れた包帯に蛆虫が発生していたという。壕 の中にある野戦病院で待機しておられたのだが、米軍が迫ってきたので中隊長の突撃命令で、弟さん は先頭に立ち、米軍の砲弾で木っ端微塵になり最後を遂げられたというのである。なぜ、壕で待機して いなかったのかと、正恵さんは悔しがる。

◇ 海軍の秘蔵っ子で不沈艦といわれた巨大戦艦大和も遅まきながら特攻機の後を追い昭和20年4月 沖縄に向う。しかし戦局はすでに我に不利。制空権が奪われていたので、九州を離れるや否や敵の艦 上攻撃機に捕まり魚雷を数発受けて轟沈だ。世界にその名を轟かせた不沈戦艦大和も世界最大の46 cm主砲塔からは一発の弾も撃たずして波間に消えた。時代はすでに軍艦の時代から航空機の時代に 移っていたのだ。何事をするにつけても、時代の変遷に疎いと悲惨な結果を迎える。接近戦法をとる敵 機には大和の主砲が唸ることはなかった。一発も打たずして轟沈とはなんという無様なことよ。三千人 余り(3,332人)の乗組員諸共、巨艦の大和はあっという間に九州西方の波間に「水く屍」と消え去ってしま った。

◇ 沈みゆく大和をいと惜しむ士官の中には、傾く甲板に仁王立ちし、軍刀で腹掻き切って愛する大和と 命運を共にされた兵隊さんが居られたとのことである。このことはテレビで知ったのだが、負け戦となると、 このように言語に絶する悲惨な結末を迎える。「海行かば、水く屍・・・」の歌そのままに、すべてが海の藻 屑と消えた。ご両親や妻子を残し、若くして海中に没した兵士の心境はいかばかりかと思うと、戦争の何と 惨いことよ! 天皇陛下万歳なんて、唱えてすむことではない。出陣しても勝ち目がなかった戦いと知りなが ら、出撃を命じた上官の罪の深さよ!

◇ 大和の大砲は重さ1トンの弾丸を40km 先まで飛ばす威力があったらしい。『これが空中でドカーンと炸 裂すると、周辺を飛んでいる航空機はみんな空中分解し、木っ端微塵になって墜落する』と遊び仲間の「岡 本の喜一ちゃん」が愉快に話してくれていた。2才年上だったその岡本の喜一ちゃんも、志願したのか召集 されたのか、いつの間にか姿が見えなくなって、戦死したのか、未だにどこえ行ったのか分からない。

◇ 大和は1941(昭和16)年に旧海軍工廠で完成された排水量6万5千トンの巨大な戦艦でした。「武蔵」と共 に世界最大級のもので、特に大和は不沈艦と称され、めったなことでは沈むことはないといわれていた。だ が1945年4月7日に波間に消える。それから数えて今年、すなわち平成23年で66年である。この「大和」にひ ときわ厚い思いを寄せる呉市の人々は、数十億円の費用をかけてでも、水深350メートルに眠る「大和」の引 き揚げをしたいと考えておられる。結構なことだと私は賛成です。主砲の重さだけでも、なんと驚くなかれ2,78 0トンなんですって。

◇ 昭和20年6月4日、米軍は小禄半島に上陸。沖縄守備隊は摩文仁に撤退する。ここで繰り広げられた戦 闘は想像を絶する激戦だったという。多くの日本兵は、ここで悲惨な最期を遂げられたのだ。この丘を訪れた とき、なぜか全身が縛られるような、痺れるような感覚に襲われ、身辺に鬼気迫るものを感じました。気味悪 く恐ろしくて、その場には長居できなかった。

◇ 沖縄が米軍の手に落ちると、次は本土が決戦場かと私は覚悟した。先ずは九州か四国が危ないのでは ないか。それとも東京湾の近くに一気に迫ってくるかとも考えた。上陸を敢行されそうなところは大変だ。戦い に敗れると、男はみんな奴隷にされるか、なぶり殺しにされると聞いていたからだ。戦局が悪くなってくると、私 も同じ死ぬなら、命のある限りとことん戦って死ぬかと、覚悟はしていました。

◇ 京都に住んでいた私も、いざとなれば米兵と刺し違えて死ぬ覚悟はしていました。そのための短刀も作っ て持っていた。飛行機造りの合間に、会社には悪かったが、大きな鑢(やすり)をグラインダーで加工して作りま した。白木の鞘も得意の腕で見事なものを造った。その短刀の出来栄えは素人が作ったものとは思えない見 事さで、「正宗の名刀」かと言うほどのものでした。ところがその見事さが仇になって盗まれてしまったのです。 「海の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きせぬ」とはこのことか。

◇ 私と同年代の有名な作家、城山三郎氏は平成19年(2007年)3月22日の早朝、この世を去られたが、城山 氏が海軍の兵隊さんだったとき、『竹竿の先に爆弾つけて、海中で米軍の上陸艇が来るのを待ち構えていて 突く訓練を受けていた』といっておられた。水が苦手な私なら、突く先に溺れ死んだが、当時はみんなこんな馬 鹿々々しいことで米軍と戦えると思っていたのです。女性も竹槍で火炎放射器や機関銃を持つ米兵と戦わね ばならなかったのです。なんともお粗末もいいところで、話にもならない気違い沙汰とはこのことだ。

◇ 昭和20年8月6日には、『広島に凄い威力の爆弾が投下された』と口伝に聞 いた。聞いた情報はそれだけだったが、訳のわからない恐ろしい爆弾を一方的に落されてこの戦争に勝てる のかと、高台寺の家の庭から京都市内を漠然と俯瞰しながら私も少年なりに行く先を想像し不安に思ってい た。みんな一生懸命に頑張って戦っているのだが、我が国はすでにそのような得たいの知れない凄い威力の 爆弾を思うままに投下されるようになっていた。続いて8月9日の11時2分には長崎にもである。米国の白人に よる黄色人種に対する暴爆である。ひどいことになっているとは聞いたが、その実態は知る由もなく、また、 なにもすることが出来なかった。

◇ 戦後数十年もたって知るのだが、広島ではざっと14万人が、長崎では7万5千人もの人が生きながら原爆 の一瞬の閃光、熱線で炭のように体を焼かれ死んでいったのです。命を取り止めた人々も、熱線で身を焼か れ、ケロイド状の皮膚や肉片が垂れ下がる哀れな姿で見るに耐えられない状態でした。そのときの被爆者の 心境はどんなであっただろうか。地獄どころの騒ぎではない。その人々は「水、水、水を・・・」と叫んで 亡くなっていったと聞いている。

◇ 戦争とはいえ原爆投下を命じたアメリカが卑怯なように思えたが、負けた者の負け惜しみかも知れない。 原爆で一瞬にして蒸発した人、傷ついた人、現在も被爆症状で苦しむ人々、そのときの被害状況を時々テレ ビで見るが、昭和21年までに亡くなった被爆者の数は、広島で26万人、長崎で14万人を超えるという。8月11 日には阿南陸相は、まだ徹底抗戦を呼びかけていた。満州の牡丹江では日本軍は自分たちが逃げるのが忙し くて、同胞を蹴散らす。

◇ 原爆を発明したオッペンハイマーは『私は死神。呪わしい死神になってしまった』と呟いたという。ま た、アインシュタイン博士は、広島や長崎の惨劇が起こることを知っていたなら、原爆を造るための公式を 大統領に渡す前に破棄していた』と語ったとか。だが、それらはすべて「後の祭り」。「後悔先に立たず」 である。失態を演じてしまってからの言葉で、先を読むことが出来ないのが人間の「性/さが」か。実に悲し いことである。

◇ 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分44秒、マグニチュード7.9の激震が関東一円を襲った。そのとき の死者行方不明者数は、14万2800人 (東京10万7500人、神奈川3万3000人、他県2300人)。その関東大震災の 被害と同じ被害を広島や長崎の人々は被ったのです。まことに気の毒なことである。

◇ 広島をはじめ、多くの都会が蒙った爆撃による惨禍も、京都の人間には他所事であまり理解されてなか ったのではなかったか。私は数え年で17才という若さだから、世間のことは深くは分っていなかった。関東 大震災では死者が14万人だったというが、広島の死者の数もそれと同じだ。広島の場合は、熱線により一瞬 のうちに人間が蒸発するという惨劇だ。蒸発を避けられたが黒焦げの死体となった人の数も数知れない。わ めくことも泣き叫ぶこともせず、みんなアットいう間に死んでいった。こんなことがこの世で許されること なのか? 

◇ 原爆に遭遇するまでは「一億火の玉になって戦うのだ」と、みんな勇ましかった。武器を造る鉄が不足し、 鍋や釜の供出にも文句を言わず応じていた。白人を鬼畜米英と呼んでみたり「撃ちてし止まん」などと口先 だけは勇ましかったが、「最後の一兵になるまで戦う」ということが、どんなことなのかわかっていなかっ たのだと思う。

◇ ルーズベルト大統領は沖縄の戦いが激しかった最中の1945年4月12日に病死した。その後を継いだトル ーマンは、日本の降伏が近いとみたとき、日本領土の分割案、占領の仕方でスターリンに文書を送った。 その中で千島については論じていなかった。これを見てスターリンは、即日トルーマンに文書を送り、千島 と北海道の釧路と留萌を結んだ線の北半分はソ連が占領したい旨述べる。ところがトルーマンはこれには反 対で、北海道、本州、四国、九州はマッカーサーが占領する旨伝えた。戦いに敗れた国の領土はチェスの駒 を動かすような調子で決められるのである。哀れなことよ。

◇ 広島への原爆投下でわが国の降伏が早まると診たスターリンは、日本攻撃の予定日8/11を2日早め、日本 との不可侵条約を一方的に破棄し、8/9に圧倒的な勢力で満州と千島列島に攻め込んだ。日本軍は時すでに戦 意を失っていたから、殆ど戦う気迫もなく戦線はソ連の為すがままだった。

◇ 原爆に見舞われた上にソ連軍に攻め込まれ、戦いもこれまでと思われた天皇は御前会議でやむなくポッダム宣言というものを受諾されることに なった。かくて1945年8月15日わが国は無条件降伏することになる。ところが、中国にも降参すると言うのに は私は違和感を感じ、これにはどうしてもちょっと納得がいかなかった。

◇ 日本が降伏した8月15日の日は私は下士官室の当番役でした。その日の正午に陛下の玉音放送があるとい うので、下士官達と共に棚の上の安っぽいラジオからの放送を待つ。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、・ ・・、(軍部にむけて、陸軍に向けて)、お前たちの気持ちはよくわかるが、戦争は止めてくれ、・・・」と いう御言葉でした。

◇ 日本がとうとう戦争に負けたということです。辛いことだが我慢して戦うのは止めましょうということら しい。2,3 人の下士官は、本土決戦の白虎隊と口ずさみ、抑えきれない無念の腹いせか、腰の軍刀を振り回し、 詰め所の周りの木の小枝に斬りつけていた。憂さ晴らしだが何の足しにもならない気違沙汰。止めに入るだけ の甲斐性も勇気もないので距離をおいて傍観するのみでした。下士官たちは戦争に負けたのが悔しくて、やけ くその酒盛りをすることを考え、私に命令した。山科にある上官の家まで行って、すき焼きなど、鍋物にする 野菜を貰ってきてくれ、とのことでした。かなりの距離でしたが、ひとりで自転車で行ってきました。その任 務を果たした後は、自宅に帰ってよしでした。後で知るのだが、阿南陸軍大臣の自決のニュース。鈴木貫太郎 氏が率いる政府は総辞職。続いて戦陣訓で知られる近衛文麿が自殺という結末でした。

◇ 千島をソ連が占拠できるならとスターリンがトルーマンの分割案を呑んだのは8月16日のこと。わが国の 北方四島であるクナシリ、エトロフ、歯舞諸島がソ連軍に占拠されたのはその後の9月1日のこと。そしてソ連 は終戦記念日は9月15日だと、一方的に勝手なことをほざいている。あきれた国だ。大国であることを盾にし て、ちっぽけな日本を馬鹿にしている。9月11日には東条英機がピストル自殺に失敗した。そんな9月の4日に 、後日 有名な女優になった有馬稲子さんは、暗闇に乗じ用意したポンポン船で韓国を脱出し、母国日本の 土を踏む。

◇ 満州に住んでいた満蒙開拓団の人々は大変だった。日本軍に見捨てられ、それはそれは筆舌に尽くせない 苦難の逃避行となった。私のホームページを訪れてくださった方は、このホームページに掲げてあります「平 和への祈り」を読んでみてください。当時がどんなに悲惨だったか理解していただけると思います。そして私 たちは、もう あの頃に戻って、赤い夕日に照らされる満州を見ることはない。

◇ 満州に放置された邦人の数は100万人を超えるという。内地にいる我々も、これからはどうゆうことになる のかと心配だったが、心配したからといって何かが始まる訳でもなかった。幸い、京都にいた私の周辺では何 も変ったことは起こらなかった。ただ坦々と時が流れて行くだけ。これが突然訪れた太平洋戦争終焉の有様。

◇ 父は幸い? 召集されずに済みました。2度も召集され、中国の戦線を渡り歩いた従兄弟の久雄さんは四国 の善通寺部隊の兵隊さん。幸い傷ひとつ負わず元気で復員してくださいました。いつも大丈夫かと心配してい たので、このときはとても嬉しかった。聞くところによると、善通寺の部隊は戦いに強かったので、襟章を見 ただけで支那兵は戦わずに逃げていったと笑っておられた。その久雄さんも昨年95才であの世に旅立たれた。

◇ 世界情勢に疎い日本の軍部や政治家のお陰で第2次世界大戦では何百万人という人々が家を焼かれ、家族 を殺され、耐え難い苦痛や辛酸を舐めさせられた。「かくれんぼ」「めんこ」「凧揚げ」「コマ回し」に「バイ」 や「カルタ」などで遊んでくれた年上の遊び仲間は、いつの間にか姿を消した。みんな戦死してしまったのか。

◇ 適齢期になった京都の若者は深草にあった16 師団に入隊です。多くがフィリピンのレイテ島へ送られて マッカーサーが率いる米軍の機関銃や火炎放射器の犠牲になって死んでいってしまったのに違いない。姉の友 人だった中川の「いいやん」が南十字星をバックに椰子の木陰で撮った写真を送ってくれていたが、それ以来 音信は途絶えた。よく遊んでくれたお町内の先輩たちは、未だに誰ひとりとして帰って来ない。フィリピンで は 7万人もの日本兵が亡くなったというが、7万人とは大変な数だ。こんな沢山の若者を死に追いやりながら、 軍の上層部からの謝罪は一言もない。

◇ 詳細は不明だが、ヒットラーは自殺に先立ちカプセル入りの毒薬(青酸カリ?)で確実に死ねるか愛犬を使っ て確かめたという。この愛犬の死体発見現場からソ連軍はヒットラーの自殺場所を推定し、死体を掘り出し火 葬して遺骨の一部、歯型などをソ連に持ち帰ったという。何のための行為か知らないが現在もモスコーで保管 されているらしい。

◇ ヒットラーの側近は、みんな毒入りカプセルを持っていたという。敗戦直後にヨーゼル・ゲッペルスは地 下壕で自殺。戦時中は頼もしく輝いていたゲーリング空軍元帥は米軍に捕らえられ死刑に処せられたとか。こ れら高官の妻子も夫と死を共にした。

◇ その直前の光景をテレビで見たが、可哀そうで目を背けたくなる。胸を強くしめつけられる思いがし た。せめてご婦人や子供たちは、なんとか助けてもらいたかった。負け戦ではこうゆう惨いことが平気で まかり通る。恐ろしいことだ。だから戦争なんて馬鹿げたことは絶対してはならない。絶対にです。

◇ 広島や長崎における被爆後の光景、敗戦直前のドイツでの市街戦の悲惨さ、負け戦の戦場は実にもう 無茶苦茶。人間という動物は、どうしてこんな無慈悲で残酷なことが出来るのかと思う。人間はひとつ間 違うと、何をしでかすか解からない動物。実に恐ろしい動物だ。チャップリン曰く「一人殺せば悪人とい われるが、100万人殺せば英雄と言われる」と。何かが狂っている。

◇ 敗戦を体裁よく終戦と言い換えていたのには少々あきれたが、いつ命がなくなるか分からない恐ろしい 戦争がなくなったのでやれやれと思った。敗戦後わかったことだが、わが国はアジア諸国の迷惑を無視して 侵略の道を遮二無二に突き進んでいたようだ。だから他国を侵略するなど間違ったことを考えて軍を指揮し ていた指導者を戦死した兵隊さん同様に、靖国神社に祭るのはどう考えてもおかしい。

◇ 戦争に負けたら、男性はみんな嬲り殺しされるか、捕虜か奴隷にされると聞いていた。だから、占領軍 が進駐してきたらどうなることかと心配していたが、敗戦後の街中は以前のままで特に変わったことにはな らなかった。京都では山紫水明で有名な南禅寺界隈の別荘群に進駐軍が8千人も住んでいたというが、そ のようなことは報じられることもなかったので全く知らなかった。私は占領軍または進駐軍といった兵士を目 にすることはなかった。

◇ 東京や横浜には進駐軍と称する戦勝国の軍隊が上陸した。敵の大将、マッカーサーがコーン製のマド ロスパイフをくわえて厚木飛行場に降り立った姿は、あまりにも印象的である。鬼畜米英と誹謗していた米兵 の身なりは清潔で綺麗で感覚的に進んでいた。それまでの日本人の邪推は見事に覆された。アメリカの兵 隊は子供にチョコレートやキャンディを与えていると聞いた。降参すればどうゆうことになるのかと、そればか り心配していたが、市民が慄くような恐ろしいことは何ひとつ起こらなかったし、聞くこともなかった。

◇ 戦中から戦後にかけて食べ物をはじめ生活必要物資は不足勝ちでタバコなども配給だった。欲しいだ け手に入れることは出来なかった。洗濯に使う石鹸一つも貴重品で十分に手に入らなかった。何もかもが 「配給」といって、切符と交換でした。

◇ 共同生活で誰かがずぼらして不衛生な生活をすると、待ってましたと言わんばかりに嫌らしい白い蟻の ような虫のお出ましになる。風呂屋がその媒介所となるので、銭湯に行くときは特に要注意でした。その虫が 肌着に住み着くのには降参で、思い出すのも嫌やでゾットする。実に不衛生極まりない生活が待ち受けてい た。母が熱湯かけて洗濯してくれていたのを思い出す。今は亡き母親であるが、「お母さん! 有難う」と叫びた い。進駐軍の兵隊さんがDDTという白い粉(薬)を日本人の頭の上からぶっ掛ける光景、戦後生まれの若者 にそのような光景、わかってもらえるだろうか?

◇ ナチスドイツは隣国を侵略したり、400万人のユダヤ人を捕らえて、彼らをガス室に送って虐殺した。この 犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判(1945年11月〜1946年10月)に続き、ナチスと同盟国であった日本の指導 者も裁かれることになった。この裁判は1947年 東京の市谷にあった旧陸軍仕官学校(現在の防衛省)の講 堂に設けられた法廷で行われた。東条英機など、数十名のA級戦犯者が法廷で問われたのは、満州事変に 始まり、中国各地に及んだ戦争責任、太平洋においてアメリカと戦った戦争、およびイギリスやオランダなど の植民地での戦争責任であった。アメリカやイギリスの国内法で用いられていた概念で、戦争の全体の計画 に関与した罪が問われた。

◇ 昭和天皇も開戦の責を免れるものではなかった。宣戦布告をしたこと、軍を統帥していたことでオースト ラリアの判事は天皇を裁くことを強く求めた。だが、東京裁判を設置したマッカーサーは、日本国内の治安維持などを考えて、天 皇を裁くことにはしなかった。

◇ 東京裁判は、勝者が敗者を裁いたもの。裁判のリード役だったイギリスの代表判事の考えは「恨みの仕 返し」であったが、判事の中にはそのような考えを心よしとしなかったお方もいらっしゃった。絶対的な平和思 想を貫いたのはインド代表判事の Mr. Justice Pal である。西欧諸国の植民地政策などを指摘し、パル氏は 被告全員を無罪とした。また、トルーマンの原子爆弾使用の指示は、ナチス指導者の非人道的残虐行為の 指令に近似するものと酷評した。Mr. Palは1966年に日本を訪れたとき、四季の美しい日本の風土を愛で、日 本の憲法が世界に広がってほしいという彼の願望を述べるなどしていたと聞いている。

◇ 東京裁判での判決は、平和と人道に対する罪で、12名の判事の中、7名(イギリス、アメリカ、ソ連、中国、 フランス、オーストラリア、ニュージランドの代表判事)が賛成したことで、戦犯の25名が有罪、7名がデス・バイ ・ハング(Death by hang/死刑)となった。戦いを始めた東条英機、政治家でありながら戦いにストップを掛けら れなかった広田弘毅、満州侵略から日中戦争をはじめた土肥原賢二と板垣征四郎、南京事件の虐殺行為を 止めなかった石根司令官など7人が絞首刑で巣鴨の露と消えた。2年半に及んだ東京裁判の結末である。ま たこの他、B,C 級戦犯として篠原多磨男大佐( )以下200余名が絞首刑として処刑されている。

◇ 戦時中のことといはいえ、他国の非戦闘員の生命財産にたいする日本軍が行った無差別破壊は酷かった らしい。また、「パターンの死の行進」というのがある。これは約6万5000人の米国人とフィリピン人の捕虜が灼 熱の太陽の下、120Km を9日間歩かされた行軍です。 病気または疲労のため行進から落後すると、銃殺、あ るいは拳銃で刺されたりしたらしい。小休止の時も米兵の手は後手に縛られたままであったとか。アジア太平 洋各地域の非戦闘員に対する日本軍の残虐行為は、鬼畜のような性格の持ち主でないと、とても出来ない酷 いものだったと言われている。

◇ この行軍の末、収容所にたどり着いたのは約5万4千人。約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その 他殴打、処刑などで死亡したらしい。米軍の死亡者は2,300人と記録されている。看視の日本兵は少なく、逃亡 は容易だったらしい。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かっ たようである。脱走した捕虜から事情を聞いたアメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として戦意 向上、すなわち世論の反日感情を掻き立てることに利用した。この事件は組織的に行われたものではないが、 ほとんどの生存者は「死の行進」が日本軍の最高司令部によって計画されたものだと信じていた。本間中将ら が実態を把握したのは、その2ヶ月後。実情を知った本間中将は、和知参謀長にできるだけの対策を講ずるよ う命じた。戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将 は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。

◇ 一方、敗戦でソ連の捕虜となった関東軍の元兵士達は旧満州からソ連の領内まで200km の道を歩かされ た。待っていたのはマイナス40度という酷寒の地で3〜5 年の重労働である。労働は木材の伐採などと聞くが、 経験したことのない寒さと飢えの下、亡くなった元日本兵の数は6万6千人。戦後60年あまり経った平成18年の ある日、モンゴル出身の関取、朝青龍が語った話で知ったのだが、モンゴルにも捕虜としてシベリヤから回され た旧日本兵がいた。そのうちの1万人余りがモンゴルの地で亡くなったという。

◇ ソ連の捕虜となった関東軍の元日本兵に対するソ連の扱い方は、日露戦争に敗れたソ連のシッペ返し 的仕打ちでした。スターリンはこの時がくるのをずっと待っていたのだ。敗戦一年前に関東軍の参謀として満 州に渡った瀬島龍三氏は敗戦処理でソ連と交渉した人物だが、交渉でどのような密約を結んだのか、非難 されると思ってか、死ぬまで語らずじまい。そんな人間だったが瀬島氏は11年の抑留生活から帰国後、商社 伊藤忠に迎えられた。その一方で岸信介や中曽根康弘氏にも近づき、行政改革の参謀として働いたが、戦 後処理については聞かれても一切語らず、幾つかのナゾを残したまま2007年9月、95才でこの世を去った。 見方によっては許しがたい卑怯な人間だ。

◇ 敗戦は終戦と書き換えられ「民主主義」をモットーに、学校の先生のおっしゃることも世の中のこともすべ てが一夜にして手の平を返したように豹変した。資本家や官僚専属の軍病院が国立病院になり、飢えと寒さ の歳末で下々の庶民は大変だったが、それでも親兄弟が戦場に送り込まれた軍国時代のことを思えば、戦 後の世の中は実に平和でなんともいい時代になった。

◇ 負け戦だったので、戦後の悲哀を痛切に感じる。 艦船などの戦後処理については一切報道されなかっ た。それらについての片鱗がテレビを通じて放映されるのは、戦後半世紀以上経った2009,6,14(san.)でした。 米国のインデアナポリスを撃沈した日本の潜水艦イ58号は、激戦を乗り越えて日本に帰ってきたが、米軍の 手で長崎の沖合いで爆破され、現在もその姿を200メートルの海底に留めているとか。艦長だった橋本以行 中佐の敏とした立派な軍服姿を写真で拝見したが、軍人の鑑、ぐっと胸に迫る重いものを感じた。

◇ インディアナポリス(Indianapolis)は、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦。1945年7月26日にテニアン島 へ原子爆弾を運んだ後、大役を果たしての気の緩みがあったのか、終戦半月前の7月30日フィリピン海で日本 の潜水艦イ58(回天特別攻撃隊・多門隊)の雷撃により沈没した。 その乗り組み員だったジミーオドネル氏88 才に日本のマスコミが取材(2008年?)で当時のことを訊ねると、『彼らは彼らの仕事をしただけ』と憎しみのよう なものは何も言わなかった。『戦争が終われば、みんなフレンド』という言葉が返ってきた。これとて、戦後の数 十年という時の流れがあってのことです。戦争というもののなんと空しいことよ。そんな戦争をしなくてはならな い窮地に追いやられることが起こるという人間社会のむずかしさを思い知らされるが、今後私たちは、どうすれ ばいいのか。国連とて万能でないことを知ると、平和を維持し続けることの、なんと難しいことよ。



◇ 海外戦没者数と未帰還者の遺体/遺骨数を、次の[ ] 内に記す。前が戦没 者数、後が未送還者の遺骨数(朝日新聞抜粋)

旧ソ連・モンゴル[54,400人/34,620体], 満州、中国北東部[245,400人/206,320体],

中国本土[465,700人/27,230体], ビルマ・インド[167,000人/ 55,670体],

タイ・マレーシヤ・シンガポール[21,000人/800体], ボルネオ・インドネシア [43,400人/25,470体],

千島・樺太・アリューシャン[24,400人/22,690体], 沖縄[186,000人/450体],

硫黄島[21,900人/13,300体], 中部太平洋[247,000人/174,420体 ],

フィリピン[518,000人/384,900体], 西イリアン[53,000人/ 20,780体],

東部ニューギニア・ビスマーク・ソロモン諸島[246,000人/140,890体]

______つづく______



back_________ _________next