| 人生回顧 The dim vistas of my life ![]() 地球という星/宇宙船 ![]() 焼け野原となった 東京の下町 ![]() 満鉄路爆破(その1) ![]() 張作霖爆殺現場(その2) (1928,6,4) ![]() 片翼で還る樫村機(1937,12,9) ![]() 南京攻略戦 (1937,12,12) ![]() 上海戦線の日本兵(1938,10,9) ![]() 小学校4年生(1938) 中段左から5人目 ![]() ノモンハン事件 大敗し死者約8千 (1939,6,24) ![]() 小学生時代/左(1940) ![]() 赤紙/召集令状 ![]() 褒状(1941) ![]() 肉弾三勇士 江下武二、北川丞、作江伊之助 ![]() 日本軍侵攻地域 (1942) ![]() サイパンと硫黄島(1945) ![]() 硫黄島(1945) ![]() 爆撃と艦砲射撃 硫黄島 (1945,2,16〜) ![]() 負傷兵の救出 硫黄島 (1945) ![]() 火炎放射器の焔 硫黄島(1945) ![]() 勝利の記念碑 (1945) ![]() 今も残る父との合作、 玄関道左手の石組み ![]() 八坂の塔 ![]() 胡廬庵 ![]() 米爆撃機 (1945) ![]() 京都女子専門学校 寄宿舎の被害(1945) ![]() 爆弾投下(1945) ![]() 被弾する東京都(1945.3.10) ![]() 地下壕爆破で 米兵が手榴弾を(1945) ![]() 神風特攻隊員(1945) ![]() 笑って死地に赴く 特攻隊員(1945) ![]() 特攻機の機上から 最後の挨拶(1945) ![]() 特攻機の攻撃で炎上する 英空母ビクトリアス(1945) ![]() 空母エセックスに 突入寸前の山口大尉機 艦上爆撃機、彗星33型(1945) ![]() 特攻機の攻撃で 炎上の空母バンカーヒル (1945) ![]() 沖縄戦線救援の 巨大戦艦「大和」(1945) ![]() 戦艦「大和」(3) ![]() 米爆撃機 ![]() 長崎原爆(その1) 炸裂の前期(1945) ![]() 長崎原爆(その1) 炸裂の後期(1945) ![]() Fat Man/長崎原爆 ![]() 原爆で壊滅した 長崎,死者7万人(1945) ![]() 北方四島 歯舞・国後・択捉 ![]() ヒットラー ![]() マッカーサー元帥 ![]() マッカーサー元帥 ![]() 進駐軍 ![]() 極東国際軍事裁判 ![]() バターンの 死の行進で死んだ 同僚の死体を運ぶ米兵 ![]() バターンの 死の行進の小休止 米兵の手は後ろ手に 縛られていた ![]() 大日本帝国海軍 巡潜乙型潜水艦 イ- 58号 ![]() 重巡洋艦インデアナポリス 1945年7月26日フィリピン沖 で潜水艦イ58に撃沈された |
◇ 地球というすばらしい星に生れてすでに3/4世紀という歳月を走り抜けた。ところで省みる
に私の少年時代はなんだったのか。わが国は明けてもくれても戦争、戦争でした。初めは隣国
の満州で、つづいて東南アジアで。そして遂には日露戦争のとき、軍備や戦費の調達で助けられ、
日露戦争終結の仲裁役までしてくれた米国に戦を挑むことになった。 ◇ 1941(昭和16)年12月8日未明のこと、日本軍の突如としたハワイ・真珠湾攻撃で大国米国と 戦う太平洋戦争の火蓋が切られた。自衛の戦争と考えたのであろうが、日本が世界の列強相手に 無謀とも思える戦いを挑んで得たものは何んだったのか? 3年8ヶ月の戦いで国土は焦土と化し、 軍210万人民80万人、合わせて310万人の死と千載に恥を曝す大日本帝国の無条件降伏である。 海外で命を落とした将兵たちのうち、115万人の遺骨は未だに異国の風雨に曝されつづけている。 ◇ 米国には勝てないという山本五十六を初めとする戦争反対論者の意見に対し、勝敗はやって みないとわからないという元首相東条英機を囲む軍指令部の将官たちの考えで戦いの口火が切ら れた。この結果、わが国の主要都市は見るも無残に破壊され、多くは一面焼け野原の焦土と化した。 広島と長崎は原爆攻撃で非戦闘員であった20数万人の市民が、あっという間に原爆の熱線で蒸発 、または焼き殺された。生き延びた人々も未だに原爆症状で苦しんでいる。 ◇ 数百万の同胞を死に追いやりながら己の責任を取らされた者は東條の他数名で、後は極刑か ら逃れた卑怯な軍人?である。参考までに誤った戦いを始めた軍令部の関係者の氏名を次に列挙 する。エリート中のエリートといわれ、作戦の統帥権を握って「戦いには勝ちます」と開戦を天皇陛 下に進言した責任ある人たちである。肩書きは当時のもの。( )内の数字は2009年現在の年齢。 軍令部総長:永野修身大将( )、陸軍大臣:東條英機中将( )、保科善四郎中将( ) 軍令部総長:伏見宮博恭王元帥( )、伏見宮総長副官:末国正雄大佐( )、木山正義中佐( )、 海軍大臣:大角岑生( )、海軍大臣:島田繁太郎( )、高田利種少将( )、平塚清一少佐(94)、 作戦課:佐薙毅大佐( )、作戦課:三代一就中佐( )、作戦課:富岡大佐( )、 連合艦隊司令長官:山本五十六( )、市来俊男大尉(90)、中島親孝行中佐( )、 ◇ 愚かな政治家や軍人に権力を持たせると「気違いに刃物」で、国を滅ぼし兼ねないとんでも ないことになる。聖戦と称した戦争とは、一体なんだったのか。戦火に曝された中国の犠牲者は、 推定でも1千万人を上回るという。米国領であったフィリピンでは100万人の島民が命を落とし、 朝鮮半島やインドネシア、ベトナムなどでも多くの犠牲者を出した。このことは、次の世代であ る子や孫に語り継がねばならないが、戦争の実感がない世代が多くなってくると、子や孫たちを またもや戦場に送り兼ねない戦争のことを平気で語り始める。「歴史は繰り返す」と言うが、人 間とはかくも愚かな動物なのか? ◇ 今から65年前の日のことである。防衛召集で陸軍二等兵を拝命していた私は、終戦日の当日は 下士官室の当番でした。誰かから聞きました。「天皇陛下の玉音放送がある」と。昼すぎだったか、 部屋の南東の隅の棚の上にあった小さなラジオから流れ出た玉音放送を5,6名の下士官と共に拝聴 することになった。どうやら敗戦ということらしい。その瞬間、まさにその瞬間からである。周り の世の中、社会ががらりと変わりはじめた。 ◇ 「敗戦」という不名誉な言葉は、やがて体裁よく「終戦」と言い換えられたのには納得が いかなかった。そして、当時は「もう、この国は元の様には立ち直れないのでは?」と思われた。 しかし日本人の持つ勤勉と不屈の精神であろうか、「東洋の奇跡」とまでいわれる復興を成し遂げ るのである。 -------------------------------------------------------------------- ◇ 小学校に上がるまでのことは途切れ途切れの夢の如し。だが、小学校一年生のとき経験した 昭和9年9月の室戸台風のことは、昨日のことの様に今でもよく覚えている。袴姿がよ く似合った担任の長尾先生の指示で、教室の掃除の後、机や椅子を教室の片隅に寄せたままにして、 みんな教室で遊びながら風の治まるのを待った。教室の窓のすぐ外は妙法院の庭。そこに密生して いた雑木がひどく揺れざわめいていたのが今も眼前に思い出せる。幸い、風は昼過ぎには治まった。 ◇ 下校途中、帰り道にある赤レンガ造りの旧専売局の建物の前で後ろをふり返ると、東山に台風 の芯が当たったのか、清水寺の裏山の辺りは倒木がひときわ激しく、山肌を無残に曝していた。そ こから少し北へ行ったところに秀吉の菩提を弔う高台寺がある。その真向かい一帯は伯父と父が 管理一切を託されていた沢野家の広大な別荘。その庭に生えていた欅の巨木も台風でざっく りと折れた。そこで、それで正月の餅を搗く見事な臼と杵ができました。年の暮れになると、家族 総出の餅つきをしていたことが懐かしく思い出される。 ◇ 小学校1年の国語教科書は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。次いでページ をめくると右のページは「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」でした。ページの下半分には、鉄 砲担いだ兵隊さん5人ほどが一列に並んで闊歩する絵があった。戦争が絶えなかった当時の国情か らして大きくなったらこの兵隊さんのように、鉄砲かついでお国のために戦ってくださいと言いた かったのだろう。 ◇ ここで少し日本の過去を振り返ってみたい。私たちは子供の時から「日本の兵隊さんは日清、 日露の戦いに勝った強い兵隊さん」と聞かされて育った。だが、歴史を紐解くと、1895年の日清戦 争で獲得した台湾の50年にわたる統治では、当然のことと思うか政府は苦労したらしい。また、ロ シアと戦って勝てたのは軍備や戦費で支援してくれた米英の援助協力があったからなのでした。 日露戦争に勝ったわが国はポーツマス条約(1905年) で旅順港があった遼東半島一帯の租借権をロシアから譲り受け、それを契機にその北に広がる中国 北東部の広大な地域、満州の支配と権益を握ることになる。 ◇ 昭和3年(1928年)は私が生まれた年。この年の6月4日、関東軍の急進派が奉天近郊で満州鉄道 (満鉄)の 列車爆破事件を起こした。これは北京政府の高官で満州の実力者でもあった 張作霖 を爆殺するためだった。続く柳条湖の鉄道爆破事件(1931,9.18)も関東軍の仕業とか。 中国東北部は古来より周辺諸国との紛争が絶えなかった地域で、この土地の権益をめぐって、わが 国が中国と争ったのが 満州事変である。 ◇ 中国の教科書には当時の日本のことを『忘れてはならない九・一八事変』と題し、次のように記 している。『日本侵略軍は計画的に柳条湖事件を引き起こしながら、中国軍が鉄道を破壊したという 言いがかりをつけ、これを口実にして中国東北軍が駐留していた北大営に侵攻し、瀋陽城を砲撃した。 すなわち九・一八事変が勃発したのである。東北部が陥落した後、1932年に日本はすでに退位していた 清朝最後の皇帝溥儀を擁立し、長春で偽満州国傀儡政権を打ち立て、東北部を中国から分裂させよう とした。日本侵略者の蹄鉄の下、東北部の三千万の同胞は、屈辱的な亡国奴生活を送ったのである』と。 ◇ 西欧諸国がアジアで植民地政策を進めていたことにヒントを得てか、わが国は大東亜共栄圏の建設 と称し、中国北東部(満州)や東南アジアでの勢力拡大を図る。国際連盟は、それを見て満州国 を容認せず、逆にそこからの撤兵を求めた。ところが、わが国はそうした要求には応じようとはしなか った。またワシントン軍縮会議で決められた日米英の軍備?の割合を 3: 5: 5 と決定さ れたことに逆上し、1933年、松岡洋祐外相を国際連盟に送り、それまで常任理事国であった日本の立場 をすっぱりと捨て去り、連盟から脱退する旨宣言したのである。そのとき議場から意気揚々と引き上げ る松岡外相の勇姿は戦前戦後のニュースを通じて繰り返し報道されたので、その光景が今も目頭に焼き 付いている。 ◇ 小説「蟹工船」の作者、小林多喜二氏は1933年、特高警察の拷問で殺害された。戦前の治安維持法 のもと、共産主義を広めたとして弾圧された。戦後の現在から眺めて見ると、なんとも不可解な国の政 策。ところで言論弾圧の中で最大のものは、戦争中の横浜事件といわれている。敗戦までの3年間に雑 誌編集者ら約60人が特高警察に検挙され、「犯罪」としてでっち上げられ、半数の者が「有罪」を言い 渡された。この判決は敗戦直後の9月にあわただしく言い渡され、連合軍の進駐前に、裁判所関係者らは 記録を燃やすという卑怯なことまでしたらしい。戦後再審請求のもと裁判が繰り返されたが、結局「無 罪」とならず「免訴」として片付けられられている。 ◇ 1934年(昭和9年)姉が小学校の修学旅行で東京へ行っていたときのことである。雪がちらつく2月26 日の早朝、青年将校の一部が官邸を襲う事件が起こった。これが世に言う2,26事件である。この事件は 昭和天皇の命で鎮圧され、皇道派を名乗る青年将校17人と 北一輝という民間人が逮捕され、全員銃殺処刑された。戦後になって わかったことだが、過激な思想の持ち主と看做された北一輝という人は、ありもしない罪を着せられて の処刑でした。私が子供のときは、そんな恐ろしい軍国主義一辺倒の時代でした。 ◇ 小学3年からクラス担任は小林という男の先生に変わりました。めがねを掛けた丸顔の先生でした。 見たところ病身とは思えなかったが、体調がすぐれなかったらしく、教壇に続けて立たれたのは学年の 前半だけ。後半は、自然と自習の時間が多くなり、時折、校長先生や代理の先生が代わる代わる教壇に 立たれた。 ◇ その頃、学校生活に慣れてきた私はクラスメイトとの遊びで忙しく、学校から帰るや否やランドセル を玄関脇の座敷に投げ出し、遊び友達のところへ一目散に駆けていった。クラスメイトの細見真造君の家 には毎日のように遊びに行っていた。彼の家は竹屋さんで、仕事場が広かったのでそこの仕事場でよく遊 んでいた。その近くにあった空き地でも塹壕堀りなどして戦争ごっこしてよく遊んだ。豊国神社の裏手に あった猿山という広っぱでは、野球などして遊んだものである。 ◇ 幼少の頃から細身な私は、3年生のときでした。トラホームという目の病と中耳炎という耳の病を患 った。目の病のときは太陽光線が眩しいので黒いメガネを掛け、耳の病のときは黒い三角巾を耳に当てゝ 学校に通っていた。国立京都博物館は家から近かったので、その庭でもよく遊んだ。庭の南西に生えてい た漆の木に負けて顔がかぶれて困ったことがあった。こんなことが続いて起こってはいたが、学校は休ま ず行っていたので毎年皆勤賞を頂いていた。 ◇ 顔のかぶれを治すのに『油揚げで顔をぬぐって、それを炭火で焼いて醤油をつけて食べるとよい』と 母に教わったのを思い出す。言われたとおり、七輪の上に餅焼きの金網を置いて油揚げを焼き、醤油を付 けて食べたが、その美味しかったこと。そんなことで早く治ったのかどうかはわからないが、今考えるに、 母の話はどうも迷信らしく、効き目についても疑わしい。 ◇ 耳の治療は五条大黒町の家から一筋西の本町通りにあった「じっぴ」という医院で診て貰っていた。 ところが、なかなか治らなかったので、医者を替え、五条東通院の医院まで母に連れられ五条通りをてく てくと歩いて通ったのを覚えている。程なく耳の病は治りました。しかし本当に治っていたのか疑わしい。 というのも、後になって気づくのだが、聴力がぐ〜んと落ちた中程度の難聴になっていたようです。大学 の講義を的確にノート出来なかったことから難聴であることを知る。このことは、その後の私の人生で、 大きく私を困らせた。平成20年、私が80才の高齢になったころに市場に出回った最近の補聴器は、一昔の ものと異なり、性能もよくなり、やっとこれで助かるようになりました。 ◇ 小学4年生、9才のときか、1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋爆破事件 が起る。これまた関東軍によって仕掛けられた事件でしたが、続いて起こった上海事変(昭和12年8月)では、 日本人居留民の保護と称して、わが国は上海に軍を投入し、いつしか中国との全面戦争に突入していった。 ◇ 日本のこうしたやり方は、良識ある日本人の目から見て、黙視できるものではなかったらしい。『日本 軍の行為は侵略行為で、戦争は罪悪であり、人類の敵』と批判する人たちがいた。その中のひとり、竹中彰 元氏(岐阜県岩手村明泉寺の住職)は、「造言飛語」の容疑で逮捕され、有罪判決を受ける。また、日本はア メリカと戦争することになるのではと予言する人がいたが、そうした人の書き物は発刊禁止され、世間から は冷たい目で見られた。不用意に軍を批判すると、当時はすぐに逮捕され、裁きなどを受ける暗黒の時代で あった。 ◇ 日中戦争が始まってしばらくすると、教室の後の黒板には支那(今の中国)の地図が貼られ、日本軍が占 領した支那の町に次々と日の丸の小旗が書き加えられていった。なにもわかってない子供の私たちは、日の 丸の旗が増えるのを見て喜んでいた。やがて中国の首都、南京が陥落したときのことである。戦果を祝う提 灯行列などがあり盛り上がっていた。しかし、日本軍による南京攻略は、非戦闘員であった多数の中国 市民を殺害する暴挙であったらしい。目を被いたくなる残虐なことを面白半分で平気でする日本兵がいたら しい。これを知った米英人などからは非難の声が寄せられたが、わが国はこれに耳を貸そうとしなかったよ うである。そこで、米国は戦争継続に必須の石油の禁輸処置に出た。 ◇ 1939年5月、旧満州国とソ連の影響下にあったモンゴルの国境で小規模な紛争が起きた。ところがこの ときの関東軍の独断がもとで大規模な戦闘に発展し、3ヶ月後の8月にはソ連軍の猛攻を受け、日本の主力部 隊の半数以上が死傷するという壊滅的な打撃を受けた。ビール瓶にカソリンを詰めて火を放ち戦車の後部に あるエンジンに向けて投げつけるのだが、戦力の差が大きく、結局ソ連が主張する国境線まで撤退した。こ の戦いで日本側は2万人、ソ連側も2万6千人という死傷者をだした。夜陰に乗じ撤退の指揮をとつた井置中佐 は、無断撤退の責任で自決を迫られ、ピストル自殺。気の毒なことである。部下の命を尊重しての撤退であ ったのだが、時代が時代だけにそのような考えは上官には通じなかった。戦場に多くの死者を残しての撤退 だけに、子供心にもノモンハンの戦いには、悔しい思いをしたものである。今だにそのときの無念が脳裏に 焼きついていて消えない。 ◇ 私が数え年で14才の時(1941年)、学校の運動場で遊んでいたとき、何の前触れもなく、校舎の高いとこ ろに据え付けられていた拡声器から、宣戦布告の臨時ニュースが流れだした。『帝国陸海軍が今8日未明、 西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』と、勇ましく響く軍艦マーチをバックに放送である。支那 (中国)との戦いにも、まだケリがついてないのに、今度は米英という大国と戦うのかと、子供心にもこれか ら日本はどうなるのかと、随分と心配したものである。 ◇ 『日本の国は、10年毎に戦争をしている』と母が話してくれました。母の言う通りで、我が国は明治 時代から戦争の絶え間がなかった。京都は着物や清水焼の陶器で有名ですが、その着物の図柄にも戦争物で ある軍旗や飛行機の絵が描かれていた。高級な西陣織りの帯にまでも。そして私たちが食事で必ず使用する ご飯茶碗、特に子供用のかわいいお茶碗には、鉄砲かついだ兵隊さん、サイドカーに跨る憲兵さん、戦車、 飛行機、大砲、機関銃といったものが、当たり前のように図案化されて描かれていた。 ◇ 戦後半世紀後の出版物で知るのだが、ハワイが米国攻撃の最初の標的にされたことで、ハワイに住んで いた日系のアメリカ人は大変な苦痛を強いられたようである。レストランに足を踏み入れた途端、「あんた らジャップが来るところではない」と睨みつけられた。「俺達はアメリカの国籍を持つアメリカ人だ」と 言っても「なにを抜かすか、黄色い肌のアメリカ人っているか?」と罵られたそうである。 ◇ 日米の戦いも戦局が進展するにつれて徐々に雲行きがおかしくなってきていたようである。国内では兵 士の補充で町内から出征兵士を送り出す日が来る日も来る日も続いた。未成年の学生でさえも学徒動員の名 のもと、戦線に送り出されるようになる。満州への移民も奨励されていたようです。 満蒙開拓団と称し、ソ満国境に近い偏狭の地に少しでも多くの日本人を送り込むことが考えられ ていたのです。日本人の入植で土地を奪われた中国の人々の立場はどのように考えられていたのだろうか。 不当に安い価額で半強制的に土地を買い上げられた中国人の怒りは、治まることはなかった筈である。 ◇ 隣人に松井さんというご家族がいらっしゃった。一家を挙げて満蒙開拓団に参加されましたが、数年後 ご主人が一時帰国されたとき聞いたのは、慣れない土地での生活ゆえに、私たちが「おこのさん」と呼んで いた奥様を満州の地で亡くされたことでした。戦後になって知るのだが、満蒙開拓団は、実はソ連軍の南下 を少しでも早い時点で知る砦として国が考えたことで、開拓団の幸せを考えての政策ではなかった。 ◇ 出征兵士のご家族の多くは兵士の無事と武運長久を祈り、街角に佇んで千人針をお願いしておられた。透 けるほどの薄い布に糸結びを沢山かがってもらうのに懸命でした。それで敵の弾丸からどうして身を守れるの か。私は不思議に思えてならなかつたが、日本は神の国と教わっていたので、その布を体に巻きつけておれば、 神様が守ってくださるのかと思った。だが、どうも疑わしい。従兄弟が戦死した後は、何の効き目もない「迷 信か?」と思うようになる。 ◇ 内地では、銃後の守りと称して戦地の兵隊さんに負けないよう、男はねじり鉢巻に足元はゲートル巻き。 女性は白エプロンに必勝の襷(たすき)がけで、いつまで続くか分からない戦争に「欲しがりません、勝つま では」と、心にもないことを言わされていた。「1億火の玉となって戦い抜きましょう」と、どこの家も軒先 には竹槍立てて、それでよしと励まし合っていた。戦後になって知るのだが、機関銃や火炎放射器で攻めて くる米軍に、竹槍で戦へとは、なんともお粗末で狂った話である。 ◇ 区役所から赤紙(左の絵、召集令状)が届くと、何人も拒否することは許されなかった。一家の大黒柱であ っても例外ではない。徴兵制度のもとでは男子は20才になると必ず軍隊に入隊することになっていた。戦況が 思わしくなくなってくると、訓練も十分に受けることなく戦場行きとなる。私たちは日の丸の小旗をちぎれん ばかりに振って、出征される兵隊さんを送り出していた。「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の、赤い夕 日に照らされて、友は野末の石の下・・・」と、大声あげて送り出していました。 ◇ 生活物資が乏しかったのか、出征兵士が挨拶のときに使うお立ち台も、まともなものはなかった。出征さ れる方はみんな「みかんの空き箱」の上に立っての挨拶でした。今考えると、こんなことで大国相手によくも 戦ったものだと思う。「供出」といって、鉄砲や大砲を作るのに家庭で使っている鍋釜を出せという。神社の 釣鐘も供出されました。終いにはダイヤの指輪まで出せという。 ◇ 京都の五条にあった私の家の隣家は、清水焼の茶碗を入れる樅の木箱を造っておられました。仕事をする 丁稚さんが3人おられました。我が家には無かった自転車やラジオもその家にはありました。小学生の頃のこと ですが、甲子園の夏の野球放送はもっぱらお隣の三球ラジオで聴いていた。大会に決まって出場する平安(中学 )の選手で、ボールより早く走ると評判だった「がんせ(雁瀬?)」という選手のことや、級友のお兄さんで平安 のショートだつた木村選手の活躍を、道路脇に置かれた床机に座って聞くのが楽しみでした。 ◇ 隣家の丁稚さんは使い古した鉋や砥石を私にくださいました。私はそれらを現在も持ち続けているが、当 時はそれで木工細工をして遊んでいました。ところがそんなことから、自然と手先が器用になったようです。 満12才のとき、京都市手工研究会主催の「全市学童手工芸品展覧会」に複葉飛行機の木製模型を作って応募し たところ、入賞しました。翼長40cm程度の模型飛行機でしたが、『作品は優秀なり』と認められ、京都大丸百 貨店で展示され、京都市からは昭和16年3月2日付けの 褒状を頂きました。 ◇ 私の従兄弟3人はそれぞれ召集されて中国の各地を転戦していましたが、そのうちの一人、母の里の跡取は 朝鮮海峡を渡るとき、敵の潜水艦に攻撃されて船が沈み、結局8時間泳いでいて日本の駆逐艦に助けられたと いう話を聞きました。そんな逞しい楢三さん、復員後は元気で農業に従事しておられたが、癌の病には勝てず、 この世を去ってすでに10数年が経つ。 ◇ 私の父は明治27年生まれ。したがって47歳ぐらいだったが、ひょっとして召集令状が来るかも知れない。 「来たら私たち一家はどうすればいいのか?」 母も心配していたと思うが、特に弱音のようなことは聞かなか った。父の兵暦は騎兵。軍服を着て馬に跨った若い時の写真は、格好のいい兵隊さんでした。馬の御し方が上手 だったので、毎年催される新日吉神社のお祭には、御しにくいじゃじゃ馬に乗ることになっていた。 ◇ 残念なのは私たちの家から一軒置いて北隣でお米屋さんをしていた従兄弟の広さん。中支の戦線で敵の手 榴弾を受け、名誉?の戦死とか。人の死は一瞬の出来事として突然もたらされる。とても悲しいことでした。 もうどんなに呼んでも叫んでも、「広さん」は帰って来ない。背の高い整った顔立ちのお兄さんでしたが、5,6 才年上だったので一緒に遊んだりすることはなかった。口数の少ない素敵なお兄さん。独立して米屋さんを営 んでおられたときの姿がはっきりとこの目に残っている。 ◇ 京都市東大路五条にある西大谷の裏庭の小さなくぐり戸を抜け出ると辺りは広大な清水墓地。くぐり戸から 東へ50m ほど行ったところに「肉弾三勇士」の墓碑がある。上海事変のとき、敵の堅固な鉄条網爆破で、爆薬 筒を抱え敵陣に突入し戦死された江下武二、北川丞、作江伊之助という久留米第24旅団兵士の記念碑である。 「肉弾 三勇士」の石碑のすぐそばに「広さん」の石碑がある。五条の家に住んでいたときは、清水墓地は 近かったので、よくお参りしていたが、東京、九州、大阪、東京と住居を転々とするようになってからは、ご 無沙汰続きですまなく思っている。何かの機会に、お参りしようと思っている。 ◇ お国のために命を捧げ、立派な最後を遂げられた軍人の話を小学校ではよく聞かされました。 日露戦争のとき、旅順港封鎖で福井丸と運命を共にされた広瀬武夫少佐、後 に中佐になられたが、この方の最後も国語の教科書で教わった。「船内くまなく探せど見えず。杉野はいづこ、 杉野はいづこ・・・」と叫びながら、旅順港封鎖の船と命運を共にされた中佐のお話。その場面を唄にした歌を 小学校ではよく歌ったものです。 ◇ 東南アジア、特に遠い南方での戦局は日増しにわが軍に不利と化す。この戦局を挽回するため1942年6月5日 に始まった ミッドウエイ海戦では、日本の海軍は誠に残念だが悔やみ切れない敗戦を喫し てしまった。ハワイの真珠湾攻撃に続いて米太平洋艦隊を殲滅する作戦だったが、この海戦の結果はよくなかっ た。戦後わかったことだが、日本軍の無線が米軍によって殆んどが傍受解読されていたのである。日本が奇襲で 大成功したと思っている真珠湾攻撃も、無線が解読され、ルーズベルト大統領は日本の動きを知っていたという 話をよく聞く。 ◇ 米国は空母ヨークタウン1隻と駆逐艦1隻を失い、亡くした兵士は約400名足らず。それに対して、わが方は4 隻の空母と重巡洋艦1隻を失った。また、重巡洋艦1と駆逐艦4の損傷で、合わせて約3,000名の兵士を失う。艦長 で艦船と命運を共にされた方もいらっしゃったとか。三菱重工の長崎造船所を訪問したとき知ったことだが 三菱重工が造った旗艦、赤城とか加賀、蒼龍ならびに飛龍といった艦船名も、この世から消えてなくなってしま った。300機ほどの海爆機と戦闘機を失ったことも各戦線でのその後の勝敗に大きく影を落とすことになる。 ◇ ミッドウエイ作戦を立案したのは連合艦隊でした。時期については軍令部内であと1ヶ月先にしてくれとい う声があったが、半月後に作戦が始まった。作戦は失敗で大きな損害を蒙り、日本はこれ以後敗戦の坂道を転が り落ち始めた。軍令部内ではこの作戦は危険という声があったが、真珠湾攻撃で戦果を挙げ、神格化されていた 山本五十六司令長官に「待った」を掛ける人がいなかった。結局作戦は失敗で大敗したことは国民には伏せられ、 大本営の発表は、被害は少な目に、敵の被害は多めに発表するのが常だった。新聞など報道機関は国策上、軍部 に協力せざるを得なかったのか、大本営発表の拡声器役を演じ、国民を戦場へ戦場へと駆り立てゝいつた。勇ま しかったのは、そんなとき流される軍艦マーチの響きだけ。 ◇ 明治の時代からいざ決戦となると日本の軍隊は、向かうところ敵なしで、いずれの戦いにおいても赫々たる 戦果を収め勝利してきた。ところが、米国を相手にした戦ではそうはいかなかった。その原因はなんなのか。敗 戦後になって知るのであるが、一つは無線通信を解読されていたこと、二つ目は超短波レーダーの開発技術で米 国が進んでいたことである。米軍の通信隊には日本人の二世の兵士が無線傍受解読で配属されていたのです。こ んなことから日本帝国海軍の総指揮官であった山本五十六元帥の航空機も敵に待ち伏せされて撃墜されてしまっ た。 ◇ レーダーの開発もわが国に一歩先んじて米国では行われていました。1942年には米国のMTIとレイセオン社 が波長10cmの超短波レーダーの開発に成功する。そしてこれが直ちに戦艦ワシントンに搭載されたのです。これ と殆ど同時期の1943年以降は、この種のレーダーをわが国も開発し実戦に投入したが、安定した性能が得られな かった。ドイツはこのレーダーをいち早く開発し、欧州戦線に配備し、対英国戦では成果を挙げていた。そこで その技術供与を受けるため、関係者を潜水艦を使ってドイツに派遣し、三国同盟で戦っているのだからと、技術 供与を迫ったが、極秘の技術ゆえにドイツ側はその申し出に応じてくれなかった。このあたりの交渉は実に重大 なことであり、日米戦の勝敗の分かれ目に大きく影響したのではないかと思っている。 ◇ 10cm波長の超短波レーダーを搭載した戦艦ワシントンは1942年11月14日、日本の戦艦霧島がガダルカナル の島影から出たところをいち早く捕捉し、先手をうって一斉に砲撃を加え霧島を撃沈した。撃沈された霧島は 211名の乗組員と共に南海の波間に消えてしまった。このようなことの連続で、日本の艦船や輸送船の多くが 撃沈され、前線に物資の補給が途絶えてくると、前線の兵士は戦うどころの騒ぎではない。「武士は食わねど 高楊枝」とはチャンバラ時代のセリフであって、飛び石伝いに物量作戦で反撃してくる米軍をもはやこの時点 で阻止する力はわが方にはなかった。 ◇ 補給線を絶たれる日本軍は各地で苦戦を強いられることになる。南部戦線では戦死した兵士5,000名。孤島を 死守する兵士は補給を絶たれ、戦うまでもなく餓死していった。これらの者と傷病者を合わせると、なんと15, 000名という多くの日本兵を失うことになった。昭和18(1943)年2月には、戦局が思わしくないので日本は遂に ガダルカナルから撤退した。 北部戦線では、カムチャッカ半島に近いアッツ島での玉砕で、2,634名を失った。言葉で玉砕だ、失 ったと語っているが、現実の世界で起こった光景は、筆舌に尽せない壮絶なものだ。 ◇ 西部方面のビルマ作戦でも悪戦苦闘の戦いが続いた。力尽きて玉砕に近い総撤退で、これまた多くの死者を出 した。ビルマ・インパール作戦の戦いの体験者が語る 痛ましい話に は絶句する。一口に玉砕といえば美談のように聞こえるが、事実はそんな綺麗ごとではない。この世のものかと 思えるような、家族にはとても語れない凄惨で馬鹿げた光景が展開されたのだ。 ◇ 初めは中国や仏領印度支那(タイ・ベトナム)では破竹の進撃で、連戦連勝だったが、米英の連合軍と戦うよ うになってからは戦況は一変する。兵士や物資を輸送する船団は敵、主としてアメリカの潜水艦に攻撃され、物 資の輸送が思うようにいかなかった。武器や食料が戦場に届かないため、戦いの第一線にいる将兵は退却しなが ら土着人の食料を略奪するなどして飢えを凌ぐが、ついには餓死し、戦わずして玉砕するという痛ましいことだ。 ◇ 戦局が不利になったのを証明するかのように、やがて戦死者の遺骨を迎える日が多くなる。悲しそうな葬送? の音楽を耳にした日のことが忘れられない。遺骨は白木の箱に収められ親族の胸に抱かれて帰って来る。白木の 箱の中味は一束の毛髪か、名前が書かれた紙切れ一枚と聞いた。こんな羽目にどこの誰がしてくれたのか? でも 当時は反戦など不平を公言すれば、ピストル持った怖い特高警察や軍刀提げた憲兵に連行され、どんな痛い目に あわされるかわからなかった。 ◇ 昭和19年、米軍のサイパン上陸作戦で4万人以上の若い日本兵が死んだことを思うと心が掻き乱される。 サイパン島が米軍の手に落ちると東京、大阪、名古屋といった大都会もB29の爆撃から逃れることは出来なかっ た。明日はわが身で京都も同じこと。焼夷弾を投下されたときの延焼防止策として京都市では東西に走る五条通 りとお池通りが道幅 50m に拡幅された。全市が火の海になる延焼を防止するためである。昔からの幅5〜6mの道 が50mに拡幅されたのです。誰が決めたのか、通りに面した南側の家だけが一軒残らず、すべて取り壊された。 ◇ クラスメートだった福井和さんの家、大きな立派なお寺でしたが、そのお寺も影も形もなくなった。残った のは裏庭の墓石群だけ。「諸行無常の響きあり・・・」とはこのことか。遠い親戚に当たる小間物屋さんの小田 垣さんの家も五条通りから消えてなくなってしまった。家を壊すのに当時は大型の建設機械はなかったので、家 の棟木に縄をかけて大勢の人の力で引き倒した。お国の為とはいえ家を引き倒された人の中には、行く末を儚な んで自殺する人もいた。 ◇ 私は義務教育を終えた後は、今の近鉄電車、当時は奈良電(軌鉄道)と呼んでいたが、京都と奈良を結んで走 っていた電車の大久保の駅の西に広がる日本国際航空工業(株)で働き始めた。どんなことでその会社で働くこと になったのかは思い出せない。とにかく会社の寮に入り、 第1中隊第2小隊長を命じられ、航空機総組立工場で働いていた。 ◇ 私は隣の丁稚さんから教わり、鋸の目立ても出来るようになっていたし、鉋や鑿など刃物も一人前に研ぐこ とも出来た。こんなことから、工場での技能養成 コース卒業の後に配属された金属加工の職場においても、木工細工と同様に加工技術には優れていた。 軍の査察官が工場検閲に来られた時は、工場の職場担当係官が査察官を連れて必ず私が仕事をしているところにや ってきた。私がしている仕事振りを見せて、工員の働く姿に納得してもらうためだったと思う。 ◇ 最近(2006年)のテレビで知りました。日本兵がひもじくなると人を食べたという話が本当のことだと知りま した。テレビに出演したブーケンビルの島民2人が、『私の兄弟は日本兵に食べられてしまいました。足の肉も、 頬の肉も』と話すのを見ました。怒りもしないで語る島民の話を聞いて、異様に思えた。人間は食べ物に窮する と人も食べるのかと。こんなことまでして戦う戦争に何の意味があったのか。言葉にならない酷い目に会わされ るのは、いつも、どこの国にあっても下々の人間である。上層部の政治家や軍人は美味いものを食って胡坐をく んで涼しい顔なんだ。 ◇ 戦闘に加わるまでもなく、飢えに苦しみ不慣れな土地で疫病に倒れた兵士の数も少なくなかった。補給を絶 たれた日本兵は、食べられるものなら何でも食ったらしい。傷口に湧くウジ虫までも摘んで食べていたと言うで はありませんか。人間って、そんなことが出来るのでしょうか? 身の毛がよだつような光景。戦争が招いたこの 地獄絵巻に唖然とせずにはいられない。 ◇ ところが、そのウジ(ハエの幼虫)が壊死した足を治すという話がある。ハエの幼虫を使った傷の治療が、数 千年前のオーストラリア先住民やマヤ文明の記録にも残っているというのである。戦場で傷にウジが湧いた兵士 の方が早く傷が治ったというのである。このことから、18,19世紀にはナポレオン軍の兵士やアメリカ南北戦争の 負傷兵の治療に蛆虫が使われ、これが2度の世界大戦期までに、欧米の医療機関で広く普及したという。戦後、抗 生物質や手術技術の発達によってすたれたが、80年代になって抗生物質が効かない耐性菌の出現や糖尿病性壊疽 の増加により、欧米では再び注目され、英国では医療保険が適用され、米国では治療用のウジが医療材料として 認可されているという。(2007,7,1 朝日新聞抜粋) ◇ 戦局が不利になるにつれ、なんとしてでもこれを挽回するため、残存する艦船をかき集め、満を持して中部 太平洋のマリアナ沖海戦に出て行った日本海軍は、この 戦いで「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」など空母3隻と航空機約200機を失った。これで海上航空戦力としての能力は著 しく失われ、以後、米艦船と一戦を交える戦力はなくなってしまった。そして、We shall retrun. と言ってレイ テから撤退していったマッカーサーにレイテ島などを奪還されるのである。 ◇ そのあげく日本本土空爆に役立つサイパン島までも奪われた。サイパン島の戦では、多くの民間人も犠牲に なった。だが、本当のことは知らされてないから何もわからない。『生きて捕虜の辱めを受けるなかれ』と毎日 戦陣訓を唱えさせられていたので「もうダメだ」となっても、日本人は降参をすることが出来なかった。降参する ため壕から出て行く者がいると、後ろから味方の上官に撃たれて死ぬ始末。テレビで見た光景だが、死を決して 崖の草むら掻き分け、崖下の海めがけて飛び降りるモンペ姿のお母さん。中年女性のその姿は今も脳裏にはっき りと焼きついている。テレビでの作り話の映像ではない。本当にあったことである。そのとき亡くなられたご婦 人の心境はどんなであったろうか。むごいことだ。 ◇ 私が働いていた会社では、サイパン島を奪回するのための大型航空機を造っていた。戦車を搭載できる 大型の双胴の航空機でした。「大鳥」と銘銘されていた。この外に落下傘部隊を空輸するのに使用するMC-24 という三菱の輸送機も製作していました。名古屋の三菱工場が爆撃されそうで危ないので、爆撃のなさそう な私たちの京都の工場でその製作を引き継ぐことになったのです。 ◇ 双発双胴の「大鳥」は、アメリカのロッキードP-39という戦闘機を一回り大きくしたようなものでした。 その主翼長は40メートル近くあり、翼の厚みも主翼付け根で1メートルはありました。主翼の桁は1ミリ厚の 板を牛乳から造ったカゼインという接着剤でくっつけた合板で出来ていた。 ◇ ある日のこと、米空母から飛んできたアメリカの艦載機、グラマンに工場が機銃掃射され、女子挺身隊 の女学生数人が可哀相に亡くなった。私が入った防空壕は襲われなかったので助かったが、長いこと防空壕 に隠れてサボッテいるのが見つかって、全員一列に並ばされ、ビンタ。しかし、「よしおかは、一歩後へ」 といわれた。私だけは叩かれなかったのです。それほどに私は仕事の上での腕前の冴えで、上司からも大切 にされていた。 ◇ 各地の戦線で敗色が濃厚になると、兵士の補給が急務となる。そこで召集適齢期が2歳早められ、徴兵は 18才からとなった。当時は年齢は数え年で表わしていたが、数え年で17才になったばかりの私は防衛召集と いうことで、陸軍二等兵を拝命。正式に召集された兵隊さんというほどではないが、軍靴を履き、夜中に軍 歌を歌いながら東山の将軍塚から山中を南下する行軍で縦走したことがありました。また、京都東山七条に ある真宗大本山智積院に集められ、戦車攻撃の訓練も受けた。境内の庭に蛸壺(穴)掘って、敵の戦車の下に 爆薬を投じる訓練です。今のイラクの若者がしていることとよく似ている。敵も同じアメリカだ。 ◇ 京都の知積院で戦車攻撃の訓練を受けていた頃のある日のこと、大久保の工場から1km 足らず北の田圃に B29爆撃機が墜落した。野次馬根性で現場を見に行くと、田圃の畦道に機関砲?やピストルの弾が点々と沢山散 らばっていた。後で聞いたことだが、当日現場に駆けつけた人は食べ物の缶詰などを拾えて得をしたという。 落下傘で降下した米兵は農民にスコップで叩かれるのを恐れ、警察のトラックが来るや否や自ら警察のトラッ クに飛び乗り、どこかへ連れて行かれたと聞いた。 ◇ 私が墜落現場を訪れたときは、現場の見張り役は憲兵一人だった。そこで、憲兵が余所見をしている間に 機関砲の弾とピストルの弾をポケットが一杯になるまで拾った。機関砲の弾は長さ20cm 程あった。その弾は工 場でバイスに挟んで、お尻の信管にポンチを当て、ハンマで叩くと、バ〜ンと音がした。しかし、その音は何 故か想像していた程には大きくなかったので拍子抜けした。 ◇ 私の少年時代は明けても暮れても戦争々々でした。戦局は日増しに厳しさを増す。そこで、召集令状が来る まで待つのでなく、お国のために志願して軍に参加する若者が増えた。海軍のパイロットになれる「予科練」の 制服はなかなか格好がよくて若者のあこがれの的でした。その制服の格好よさに引かれて予科練を志願する者が 多かったのではなかったか。今だから言えるのだが、私は簡単に戦死するのは嫌だから、出来るだけ命の危険性 が少ない陸軍兵器学校に入ることを考えていた。 ◇ 昭和20年2月16日にサイパン島に続いて硫黄島の攻防戦が始まった。硫黄島は日本列島から南へ1,200km の 小さな火山島。B29の護衛用戦闘機の格好の発進基地に適するということで米軍はなんとしてでもこの島が欲しか った。逆に日本はこの島を奪われると、本土がやすやすと爆撃されるので、この島はなんとしてでも死守しよう とした。 ◇ 米軍は硫黄島の攻略に際して爆撃と艦砲射撃を先に敢行。その3日後の2月19日に上陸作戦を始めた。米兵6 万人と日本の守備隊2万人の激突である。ここでの戦いは史上稀れにみる熾烈を極めたと聞いている。5日間で占 領できると考えていた米軍は、日本軍の激しい抵抗に会い、作戦を練り直し出直すことになった。各地の戦線か ら屈強の米海兵隊員をかき集め、1ヶ月余り掛けてこの島をとうとう攻略した。 ◇ この戦いで全滅し、玉砕した日本兵の国への究極の献身は国民の心を大きく揺り動かした。悲惨な戦闘の実 態は敗戦後、何十年もたって知るのであるが、真実は不明のままである。硫黄島は太平洋戦争で最も激しい戦い が繰り広げられた戦場だったという。 ◇ 島の死守を命じられたのは栗林忠道中将以下2万人(21,900人?)の日本兵。補給のないまま人間の限界を超え る戦をして、持久戦の果てに悲壮な最期を迎えた。本国からの救援は何一つ得られなかった。撤退する船もなか った。残されているのはただ戦って死ぬだけ。こんなことがこの時代は通用したのだ。投降をするよう呼びかけ た米兵には日本兵の心境は不可解きわまるもので、到底理解されなかった。 ◇ 凄惨を極めた悲壮な激戦の果てに日本軍の玉砕である。この島の攻防戦には当時の私と同じ年齢の16〜17才 の少年兵も加わっていた。地下壕に充満する飢えと渇き。20日間食べるものもなく、戦火で炭化した樹木の炭を かじって飢えを凌いだという。この話を聞いて、そんなことが可能なのかと、信じられなかったが、本当なのだ。 また、亡くなった戦友の屍の下に隠れて夜を明かしたともいう。そんな戦いだったが、捕虜となって生還した日 本兵が千人ほどいらっしゃる。米軍は太平洋戦争で失った全将兵の半数にあたる2万人の兵士をこの島の戦いで 失った。 ◇ ここまでは最後まで戦って玉砕するという痛ましいが勇ましい話である。でも、事実はどうだったのか。聞 くところによると、指揮官としての責任を問われ、栗林中将は部下に惨殺されたという話がある。一方、米国 では、硫黄島の戦いで勝利したことを記念するモニュメントがワシントン郊外に建設され、毎年夏になるとこ の記念碑の前で戦死者を弔う行事が行なわれる。それほどに硫黄島の戦いは米軍にとっても忘れることの出来な い戦いだったのです。訪米時にその記念碑の前でアメリカ人と撮った写真を左に掲げておく。 ◇ 京都市もやがて米機の爆撃に見舞われるのではないかと思うようになる。家財道具が灰になるのは避けたい。 そこで、タンス長持ちなど大切な家財道具を山科の山手に住む父の知人の家に預けることになった。預ける方は いいとしても、預かる方は迷惑なこと。でも戦時中のことなので、そんな無理も聞いて頂けたのだと思う。父が 大八車を借りてきた。私も肩に綱かけて大八車を引くのを手伝った。東山三条経由、蹴上から国道一号線を東へ と山科まで大八車を引いて家具類を運んだ。幼なかった妹は、母の里、新田辺に住む母の兄の家に預けられた。母 の父は天皇陛下をお守りする兵隊さん、近衛兵でした。 ◇ サイパン島を飛び立ったB29は硫黄島から飛び上がった戦闘機に護られて日本の爆撃に向かうことが出来た。 そんな頃だったと思う、京都市でもB29をよく見かけるようになる。もしも焼夷弾によるじゅうたん(絨毯)爆撃 を受けたなら、木造家屋が殆どの京都市はただちに全市が火の海になる。そこで防火対策として京都市は、既に 述べたが市内を東西に走る五条通りとお池通りを50mに拡幅し、南北方向の延焼をこれでストップすることを考え た。 ◇ しかし、その程度では防火対策は十分ではないと京都市は考えた。そこで考えられたのが、「焼夷弾を被弾 した家の消火にあたる人が、その家に必ずいつも住んでいるか?」ということである。このことがもとで、我が家 の家族は父が管理一切を任されていた沢野家の別荘に移り住むことになった。この別荘は京都の豪商、沢野家が 元々西本願寺のものであった屋敷を譲り受けたもので、敷地面積が 3,000坪の屋敷。庭のあちこちに点在する建 造物は、歴史もあれば由緒もあるなかなかのものでした。ここで「でした」と申しますのは、今ではそのような 建物は壊されて新しい料亭用の建物が所狭しとびっしりと建てられているからである。そのわけは後述する。 ◇ 我が家がこの屋敷に住むようになる前は、竹内という上品な上女中さんが一人で屋敷の留守番をしておら れた。竹内さんは祇園花見小路に住んでいらっしゃった池田さんの遠縁のお方。透き通るような響きの綺麗な 京言葉を話されるご婦人で、お会いしたときにお聞きしたお声が今も耳に残っている。物腰の柔らかいとても 上品なお方でした。用件があって訪ねていったときは、父の名前が岩三郎でしたので「岩さんの息子さんが来た!」 と、つぶやきながら愛想よく迎えてくださった。 ◇ 夕暮れ時、ここの庭から京都市内をバックに八坂の塔を重ね合わせて俯瞰する眺めは見応えのある一幅の絵 になる。五重の塔は法観寺所属のもので、内部を見学したことがあるが、塔の高さは40m。建築材は相当な年月を 刻んでいる。礎石の中には仏舎利が納められていて、そこが最も聖なる場所と聞いた。塔の中央にある柱は周囲 の梁や壁とは繋がっていない。芯柱が塔の先端まで通っているのである。芯柱が僅かであるが前後左右に揺れ動 くことで、塔の倒壊が起こらないよう塔全体のバランスが保たれるのである。昔の人の考えのすばらしさに感心 しました。 ◇ 庭の中ほどに送陽亭という亭(ちん)があった。坂本竜馬や桂小五郎など、明治維新に活躍した勤皇の志士が、 この亭を倒幕のための密会の場所としていたらしい。この亭や屋敷の来歴について父が話すのを私は何度も聞か されたが、二十歳前後の若僧で、屋敷などの由来に全く興味がなく、話の内容を詳しく覚えようとはしてなかっ た。父がいなくなった今頃になって、聞いておくべきだったと反省するが、すべて後の祭りでどうにもならない。 ◇ 庭の奥まったところに「胡廬庵」という茶席があった。茶席に欠かせない「にじり戸」の存在理由を父から 何度も聞かされました。武士に頭を下げさせるのが、その存在目的だと。木材がもつ独特の味わいを巧みに生か した数寄屋造りの建築美は殊のほかすばらしい。千の利休が大成した「茶の湯」の世界が醸し出す幽玄の世界を 漂わせていると言われると、そのようにも思えたものである。茶席の周りの庭には、背丈5cmもあろうかと思われ るふわふわのみずみずしい杉苔が飛び石を包み込んでいる。京都の庭でないと見られないものだ。 ◇ 山手に打ち込まれたパイプからは飲み水としても役立つ綺麗な地下水がこんこんと途切れなく流れ出してい た。竹の子が沢山とれる竹藪があり、そこではどこから持ってきたのか古畳を埋め込んで竹やぶの土壌改良に父 が汗を流していたのを見て覚えている。この竹やぶではひと夏で栗かぼちゃが100個も採れました。柿、栗、びわ、 あけびに山桃なども採れました。庭全体が醸す雰囲気は物音ひとつしない静寂の世界。戦争なんてどこのことと 言わんばかりの静けさでした。 ◇ やがて真っ青に晴れ渡った京都市の上空を南西から北東にかけて百機ほどのB29があたかも観閲式にでも参加 するかのように編隊組んで悠々と飛来するようになる。でも妙に爆弾は投下しなかった。たまに一機の時もあっ たが、偵察機だったのでしょうか。百機程の時は、絵に描いたような見事な眺めでした。 ◇ 「銀翼」という言葉があるが、正にその言葉通りのもの。B29が銀翼をきらめかせて高空を飛ぶその光景は、 真にお見事としか言いようがなかった。B29の機体は少し胴長でしたが全体的には均整の取れた美しさそのもので した。初めて目にする飛行雲を延々となびかせながら超高空(1万米?)を悠々と我が物顔に飛び去っていく光景は、 忘れようとしても忘れることが出来ない憎い美しいさでした。絵に描いたようなそんな見事な編隊飛行の光景を 何回見たことだろうか。彼らの行く先は名古屋か、四日市の工業地帯ではなかったか。 ◇ 私が防空壕に入ろうともしないで、紺碧の大空を悠々と飛ぶ銀翼に見惚れているのを見て、父は「防空壕に 入るように」と、2,3回促していたのは覚えている。でも、京都にはなぜか爆弾は絶対に落さないんだと半ば信じ ていたので、私にとっては父の声は馬耳東風そのものでした。自分たちが今米国と生きるか死ぬかの戦争をして いる最中なんだという実感は物の見事に欠落していて、京都人には戦争の実感がどうしても伴わなかった。 ◇ 超高空を飛ぶB29には日本の高射砲の弾は届かなった。日本の戦闘機もまたそこまで上がれない。操縦室が 与圧されてないのが原因と聞いた。こんな調子だから日本の戦闘機は戦う術がなかった。考えてみると、恥ず かしいことだが、このときすでに制空権を奪われていたのです。ところが私達はそれでもいつの日にかは神風 が吹いて、気流の乱れで飛来した敵機が悉く空中分解して落下するのではないかと、元寇の神風を思い浮かべて いた。 ◇ 京都市は幸い爆撃らしい爆撃には見舞われなかったが、一度だけ、二箇所が小規模な爆撃を受けた。一箇 所は私の母校、修道尋常小学校の体育館のあたり。体育館の屋根が陥没した程度で被害は大したことではなか ったのをこの目で確かめたので知っている。亡くなった方もおられたらしい。隣接する女学校(今の京都女子大 )の女子寮の灯りの漏れが原因と聞いたが、その真偽は定かでない。 ◇ ところが、戦後62年たった2007,1,12 の朝日新聞の記事を見て驚いた。当時の京都女子専門学校(現在の 京都女子大)の寄宿舎も爆撃の被害を被むっていたのだ。被害状況を示す写真も掲載されている。このときの 爆撃は辺りの地名が馬町でしたので「馬町空襲」と呼ばれていたという。昭和20年1月16日午後11時20分ごろ のことと記されていた。私の母校、修道尋常小学校の生徒9人を含む41人が亡くなり、48人が負傷したという。 被災家屋も316戸と報ぜられているが、私の記憶では、とてもそんなに大きな被害があったとは思っていなか った。私が詳しく調査したわけではないので、本当のところはなんとも言えないが、それでも新聞の記事には 納得しかねる。 ◇ 被弾したもう一箇所は西陣の街。航空機の発動機を製造していた三菱重工の工場が標的になったらしい。 この爆撃で60人程の人が亡くなったとか。朝日の記事では40人以上の死者と述べられていたが、京都に対する 空襲は、悪化する戦況を国民に知られたくないので、亡くなった人の数などは伏せられたらしい。真実が意図 的に隠されていたのだから、15才前後の私が知る由もない。 ◇ 大阪の空は高台寺の家から見て南西の方角。エジソンが電球のフィラメントにここの竹を使ったと言 われる八幡の山と、その北向かいの山崎の山の間を通してよく見える。その大阪の空が夕焼け空のように 異様に赤く染まっていたのを今も思い出すことができる。思えばその時、その空の下で1トン爆弾をばら撒 かれた恐ろしい地獄絵巻が展開されていたのだ。 新幹線もマイカーもない時代です。大阪まではかなりの 距離があるので、京都市の人間には大阪での惨劇を案じる気配は、水臭いことだが、なかったのではないか と思う。心配するのは、みんな自分のことだけで精一杯だったのでしょう。 ◇ 負け戦となるのが目に見えていたのにも拘わらず、敗戦の決断が出来なかった政府や軍部のために、 東京都も昭和20年3月10日にB29の大空襲に見舞われた。この空襲による被災者の数はなんと100万人とい うではありませんか。そして10万人の人が焼け死んだという。燃え盛る紅蓮の炎から逃れるために、みん な川に飛び込んだが、そこは地獄さながらで川面は死体でいっぱいだったという。なんという恐ろしい ことよ。京都の人間には想像するのも無理な惨状。未だに本当の話かとも思う。 ◇ 昭和20年3月17日の夜、現在の神戸市長田区もB29の空爆を受けた。照明弾から始まり焼夷弾が投下される と、真っ暗闇の街に無数の炎が立ち上がる。消火にあたるものは誰もいない。このときの状況を話してくだ さった藤田さんは、母と兄の3人で炎から逃れるため路面電車道の国道に出られた。群集に押されながら須磨 方面へと向かい、一時、西宮へ非難されたが、そこでも戦火に見舞われた。終戦直前にご家族の3人は、国鉄 の大阪駅から始発列車に乗り、四国の愛媛県西条市に疎開された。現在は3人のお子様は独立されたので、夫 婦2人きりになられ、慰め酒に酔うと、ぽつりぽつりと神戸大空襲の苦い思い出が口から出ると話しておられた。 (2007年9月18日の朝日新聞に掲載の藤田虎雄様の記事の紹介) ◇ 京都市は幸い本格的な空爆に見舞われることはなかった。でも、いざというときのことを考え、防空頭巾 や消火道具として、竹の先にむしろを付けた叩きのようなものを各家庭が用意し、戸外の軒先に立て掛けてい た。防火用の水槽も各家の前に備えていた。戸外にいると爆弾で吹っ飛ばされるので、各家庭には床下に申し 訳程度のものだったが、一応防空壕というものを造っていた。防空壕は家の中の床下に造るしか、他に設ける 場所がなかった。畳を揚げて床下に穴を掘り、その上に古い床板などを渡して土をかぶせるのです。後になっ て考えると、そんなもの何の役にも立たなかったと思う。家が火事になれば、中に隠れていたものは蒸し焼き だ。子供騙しのようなもので、いざ爆撃にあったなら、目をそむけるような惨状が、あたり一面を覆っていた に違いない。 ◇ 1945年の3月だったか? 三国同盟の一角だったイタリアが米英の連合軍に降参した。やがて日本もやら れるのかといやな予感がする。続いてソビエト軍の総攻撃でベルリンが陥落し、頼りにしていたドイツも 降伏した。日本がドイツと手を組んで米英と戦うことになったときは、ドイツの存在をとても力強く頼も しく思ったものだが、そのドイツが敗れたことで、日本は世界を相手に戦わねばならなくなった。 ◇ 一時は天下に名を轟かせ、恐れられていたドイツの総統、アドルフ・ヒットラーは、愛人のエバー・ ブラウン婦人と共に地下 8m の防空壕で服毒自殺したとか。イタリアの総統、ムッソリーニは民衆の手? にかかって吊るされた。その吊るされた哀れな姿の写真を新聞で見たことがある。いずれもなんとも痛まし いことで言葉がない。 ◇ ドイツの降伏が濃厚になると、米英ソの首脳が黒海沿岸のヤルタに集まって戦後処理について会談 した。これがヤルタ会談といわれるものである。このとき、スターリンは米国の大統領ルーズベルトに 「ソ連はドイツが降伏した後は速やかに日本打倒のため参戦する」と、密かに耳打ちした。この考えに はルーズベルトは賛成でした。ソ連が参戦してくれるなら日本との戦いで米兵150万人が死ななくてすむ と考えたのある。 ◇ 戦況は刻一刻と悪化する。昭和20年3月には、沖縄では米軍の艦砲射撃が始まった。海を埋め尽くす 米軍の艦艇は150隻に及ぶ。4月1日には、一歩も踏ませないと豪語していた沖縄本島への上陸作戦も始ま った。これは沖縄の人たちにとっては魂が消え失せるほど大変なことだつたと思う。迎え撃つ日本兵は 8万6千人。私と同じ年齢の若い少年兵も混じっていた。艦砲射撃で日本軍陣地は蜂の巣状態に破壊され、 まともに戦うことが出来ない状態になった。負傷した兵士の手足は麻酔なしで切断という光景が展開する。 穴倉に身を隠すが食料も飲み水もない。逃げ場を失った島民が日本兵の隠れている塹壕に救いを求めて 逃げ込もうとすると、日本兵はこれを拒絶したというではありませんか。 ◇ 沖縄の戦局をなんとしてでも挽回しようと、考えられたのが死を覚悟し、爆薬を抱えた航空機諸共 敵艦に突入する 神風特別特攻隊の編成だ。国のために命を捨てることが当たり前のよ うにいわれたときのことでしたが、「なぜ自分が選ばれたのかわからない」という言葉を後にした特攻隊 の若者、圧倒的に不利な状況の中、部下の命を守ろうと玉砕命令を拒否した将校もいた。際立った個性と 強烈な使命感持ち特攻隊に志願した若者は鹿児島の鹿屋基地から南の海めがけ、片道の燃料で沖縄に向か って飛び立った。親に最後の別れと遺書を残し、上官から別れの杯を頂いて、敵艦めがけて死地に飛び立 って行った若者がいたことを我々は決して忘れてはならない。 ◇ 沖縄の離島、座間味村では、米軍の上陸に先立って米軍に捕まると耳や鼻を削がれ、腹まで掻き切ら れて殺されるから、いざというときは舌でも噛み切って死ぬようにと、軍から手榴弾や青酸カリが手渡さ れたという。結局、座間味村では集団自決された人の数は200人に達した。夫が妻の首を剃刀で切り、夫 は後をおって自殺した。家族が互いに殺し合ったのである。日本軍の命令で男性が何の憎しみもない祖父 母や妻や子供を殺す凄惨な地獄絵が展開されたのである。人が人でなくなる極限の地獄絵図の展開である。 ネズミ駆除の毒を飲んで死を決意した夫婦や親子もおられたらしい。かくして6月22日、遂に日本軍の参 謀長も自決し、沖縄での日本軍の組織的な戦いは終わった。沖縄の戦いで亡くなった人の数は20万人とか。 4人にひとり、いや3人にひとりがこの戦いで亡くなったのである。 ◇ 内地の人間には想像も出来なかったが、弾雨の中の逃避行、累々たる死者を横目に見て、幼い中学生 や女学生までが火炎放射器や機関銃で向かってくる米兵と素手?で戦ったのだ。そして最後はみんな集団 自決で死んでしまった。「ひめゆり隊」と称し、15,6才の幼い女学生の集まりが戦闘に加わり、最後は洞 穴の中で自決して死んだ話を聞いた。洞窟の中は血の尿の海で異様な臭気が漂う。日本軍は自分達のこと で精一杯で、自国民の命を粗末にする戦い。島民を守るだけの余力はなかった。 ◇ 味方であるはずの兵隊さんは島民を守ってはくれなかった。荒崎海岸に造られた伊原第一外科壕の 跡地では、戦後60数年たった現在も戦いで死んでいった兵士の遺骨や遺留品が散らばっているとテレビで 聞いた。銃撃で死んだ6人ばかりの死者の下敷きになり、手榴弾で自爆しようにもピンが抜けずにもがい ているところを米兵にその手榴弾を取り上げられ、九死に一生を得た生き残りの島民の話では、米兵が 壕穴に向かって『出て来い! 出て来い!』と叫んでいたという。出て行くと手榴弾や銃撃の餌食である。 死んでいった日本兵の『私たちを忘れないで!』というあの時の叫びが、悲しさ、無念が今も壕の中から 聞こえてくるという。これと同じような惨劇が沖縄の各地で起こっていたのだ。負け戦となると、島民は 仲間のはずの日本軍に壕から追い出され、食料を奪われ、銃弾、砲弾が飛び交う真っ只中に追い出された のです。すべてがこのように常識ではとても考えられないことになる。そして、4月23日にはビルマで 日本軍のラングーン撤退だった。 ◇ 戦後45年ほど経ったある日のこと、私は仕事で会社の同僚T.E.さんと沖縄を訪ねたことがある。こ のとき足を伸ばして、ひめゆり隊が自決した洞穴を見学した。洞穴の前には「ひめゆりの塔」という供 養塔があり、洞窟内には自決して亡くなられた少女や島民の顔写真が壁面一杯にずらりと掲げ飾られて いました。 ◇ 戦後の新聞で知ったのだが、沖縄戦で散った弟を思い出し、徳島市在住の河野正恵様が語られた話 を紹介する。弟さんは20歳を迎えて、旭川歩兵部隊に入隊。間もなく旧満州(中国北東部)の国境警備に つかれたが、戦況がいよいよ悪くなり沖縄へ送られる。そして「摩文仁の丘にて」と書かれたハガキが 最後の郵便となった。そばにいた元兵士が伯父に話されたところでは、重傷を負われた弟さんは前額 部を包帯で巻いておられ、数日も変えないので汚れた包帯に蛆虫が発生していたという。壕の中にある 野戦病院で待機しておられたのだが、米軍が迫ってきたので中隊長の突撃命令で、弟さんは先頭に立ち、 米軍の砲弾で木っ端微塵になり最後を遂げられたというのである。なぜ、壕で待機していなかったのか と、正恵さんは残念がる。 ◇ 海軍の秘蔵っ子で不沈艦といわれた巨大戦艦大和も遅まきながら特攻機の後を追い昭和20年4月沖縄 に向った。しかし戦局はすでに我に不利。制空権が奪われていたので、九州を離れるや否や敵の艦上攻 撃機に捕まり魚雷を数発受けて轟沈だ。世界にその名を轟かせた不沈戦艦大和も世界最大の46cm主砲塔 から一発の弾も撃たずして波間に消えた。時代はすでに軍艦の時代から航空機の時代に移っていたのだ。 何事にも時代の変遷に疎いと悲惨な結果を迎えることになる。接近戦法をとる敵機には大和の主砲を使え るチャンスがなかった。一発も打たずして轟沈とはなんという無様なことよ。三千人余り(3,332人)の乗 組員諸共巨艦大和はあっという間に九州西方の波間に「水く屍」と消え去った。 ◇ 沈みゆく大和をいと惜しむ士官の中には、傾く甲板に仁王立ちし、軍刀で腹掻き切って愛する大和 と命運を共にした兵隊さんが居られた。このことはテレビで知ったのだが、負け戦となると、すべてが このように言語に絶する悲惨な結末を迎える。「海行かば、水く屍・・・」の歌そのままに、すべてが 海中の藻屑と消えた。ご両親や妻子を残し、若くして海中に没した兵士の心境はいかばかりかと思うと、 戦争の何と惨いことよ! 天皇陛下万歳なんて、唱えてすむことではない。出陣しても勝ち目がなかった 戦いと知りながら、出撃を命じた上官の罪の深さよ! この時点で我が国には勝ち目はなかったのだ。 ◇ 大和の大砲は重さ1トンの弾丸を40km 先まで飛ばす威力があったらしい。『これが空中でドカーンと炸 裂すると、周辺を飛んでいる航空機はみんな木っ端微塵になって空中分解し、墜落する』と遊び仲間の「岡 本の喜一ちゃん」が愉快に話してくれた。2才年上だったその岡本の喜一ちゃんも、志願したのか召集された のか、いつの間にかおらなくなって、戦死したのか、未だに姿を見せない。 ◇ 大和は1941(昭和16)年に旧海軍工廠で完成された排水量6万5千トンの巨大な戦艦でした。「武蔵」と共 に世界最大のもので、特に大和は不沈艦と称され、めったなことでは沈むことはないといわれていた。だが 1945年4月7日に波間に消えた。それから数えて今年で64年である。この「大和」にひときわあつい思い を寄せる呉市の人々は、数十億円の費用をかけてでも、水深350メートルに眠る「大和」の引き揚げをしたい と考えておられる。主砲の重さだけでも、なんと驚くなかれ 2,780トンなんですって。 ◇ 昭和20年6月4日、米軍 小禄半島に上陸。沖縄守備隊は摩文仁に撤退する。ここで繰り広げられた 戦闘は想像を絶する激戦だった。多くの日本兵は、ここで悲惨な最期を遂げられたのだ。この丘を訪れ たとき、なぜか全身が縛られるような、痺れるような感覚に襲われ、身辺に鬼気迫るものを感じた。気 味悪く恐ろしくて、その場には長居できなかった。 ◇ 沖縄が米軍の手に落ちると、次は本土が決戦場かと覚悟した。先ずは九州か四国が危ないのではな いか。それとも東京湾の近くに一気に迫ってくるかとも考えた。上陸を敢行されそうなところは大変だ。 戦いに敗れると、男はみんな奴隷にされるか、なぶり殺しにされると聞いていたから大変だ。戦局が悪く なってくると、同じ死ぬなら、とことん戦って死ぬかと考えるようになっていた。 ◇ 京都に住んでいたひ弱い私でさえも、いざとなれば米兵と刺し違えて死ぬ覚悟はしていた。そのため の短刀も作って持っていた。飛行機造りの合間に、会社には悪かったが、大きな鑢(やすり)をグラインダー で加工して作った。白木の鞘も得意の腕で見事なものを造った。その短刀の出来栄えは素人が作ったものと は思えない見事さで、「正宗の名刀」かと言うほどのものでした。ところがその見事さが仇になって盗まれ てしまった。「海の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きせぬ」とはこのことかと思った。 ◇ 私と同年代の有名な作家、城山三郎氏は平成19年(2007年)3月22日の早朝、この世を去られたが、城山 氏が海軍の兵隊さんだったとき『竹竿の先に爆弾つけて、海中で米軍の上陸艇が来るのを待ち構えていて突 く訓練を受けていた』といっておられた。水が苦手な私なら突く先に溺れ死んだが、当時はみんなこんな 馬鹿々々しいことで米兵と戦えると思っていたのです。女性も竹槍で火炎放射器や機関銃を持つ米兵と戦 わねばならなかったのです。考えればお粗末もいいところで、話にもならない気違い沙汰とはこのことだ。 ◇ 昭和20年8月6日には、『広島に 凄い威力の爆弾が投下された』と口伝に聞いた。聞いた情報はそれだ けだったが、訳のわからない恐ろしい爆弾を一方的に落されてこの戦争に勝てるのかと、庭から京都市内 を漠然と眺めながら私も少年なりに行く先を想像し不安に思っていた。みんな一生懸命に頑張って戦っ ているのだが、我が国はすでにそのような得たいの知れない凄い威力の爆弾を思うままに投下されるよ うになっていた。続いて8月9日の11時2分に長崎にもである。米国の白人による黄色人種に対する暴爆である。 ひどいことになっているとは聞いたが、その実態は知る由もなく、また、なにもすることが出来なかった。 ◇ 戦後数十年もたって知るのだが、広島ではざっと14万人が、長崎では7万5千人もの人が生きながら原爆 の一瞬の閃光、熱線で炭のように体を焼かれ死んでいったのです。命を取り止めた人々も、熱線で身を焼かれ、 ケロイド状の皮膚や肉片が垂れ下がる哀れな姿で見るに耐えられない状態でした。そのときの被爆者の心境は どんなであっただろうか。地獄どころの騒ぎではない。その人々は「水、水、水を・・・」と叫んで亡くなっ ていったと聞いている。 ◇ 戦争とはいえ原爆投下を命じたアメリカが卑怯なように思えたが、負けた者の負け惜しみか。原爆で 一瞬にして蒸発した人、傷ついた人、現在も被爆症状で苦しむ人々、そのときの被害状況を時々テレビ で見るが、昭和21年までに亡くなった被爆者の数は、広島で26万人、長崎で14万人を超えるという。8月11日 には阿南陸相はまだ徹底抗戦を呼びかけていた。満州の牡丹江では日本軍は自分たちが逃げるのが忙しくて、 同胞を蹴散らす。 ◇ 原爆を発明したオッペンハイマーは『私は死神。呪わしい死神になってしまった』と呟いたという。 また、アインシュタイン博士は、広島や長崎の惨劇が起こることを知っていたなら、原爆を造るための 公式を大統領に渡す前に破棄していた』と語ったとか。だが、それらはすべて「後の祭り」。「後悔先に 立たず」である。失態を演じてしまってからの言葉で、先を読むことが出来ないのが人間の「性/さが」か。 実に悲しいことである。 ◇ 広島をはじめ、多くの都会が蒙った爆撃による惨禍も、京都の人間には他所事であまり理解されてな かったのではなかったか。私は数え年で17才という若さだから、世間のことは深くは分っていなかった。 関東大震災では死者が14万人だったというが、広島の死者の数もそれと同じだ。広島の場合は、熱線により 一瞬のうちに人間が蒸発するという惨劇だ。蒸発を避けられたが黒焦げの死体となった人の数も数知れない。 わめくことも泣き叫ぶこともせずみんな死んでいった。こんなことがこの世で許されることなのか? ◇ 原爆に遭遇するまでは「一億火の玉になって戦うのだ」と、みんな勇ましかった。武器を造る鉄が不足し、 鍋や釜の供出にも文句を言わず応じていた。白人を鬼畜米英と呼んでみたり「撃ちてし止まん」などと口先 だけは勇ましかったが、「最後の一兵になるまで戦う」ということが、どんなことなのかわかっていなか ったのだと思う。 ◇ ルーズベルト大統領は沖縄の戦いが激しかった最中の1945年4月12日に病死した。その後を継いだトル ーマンは、日本の降伏が近いとみたとき、日本領土の分割案、占領の仕方でスターリンに文書を送った。 その中で千島については論じていなかった。これを見てスターリンは、即日トルーマンに文書を送り、 千島と北海道の釧路と留萌を結んだ線の北半分はソ連が占領したい旨述べる。ところがトルーマンはこれ には反対で、北海道、本州、四国、九州はマッカーサーが占領する旨伝えた。戦いに敗れた国の領土はチェス の駒を動かすような調子で決められるのである。哀れなことよ。 ◇ 広島への原爆投下でわが国の降伏が早まると診たスターリンは、日本攻撃の予定日8/11を2日早め、 日本との不可侵条約を一方的に破棄し、8/9に圧倒的な勢力で満州と千島列島に攻め込んだ。日本軍は 時すでに戦意を失っていたから、殆ど戦う気迫もなく戦線はソ連の為すがままだった。 ◇ 原爆に見舞われた上にソ連軍に攻め込まれ、戦いもこれまでと思われた天皇は御前会議でやむなく ポッダム宣言というもの を受諾されることになった。かくて1945年8月15日わが国は無条件降伏することになった。ところが、 中国にも降参すると言うのには違和感を感じ、これにはどうしてもちょっと納得がいかなかった。 ◇ 日本が降伏した8月15日の日は私は下士官室の当番。その日の12時に天皇陛下の終戦の詔勅、すなわち 玉音放送があるというのです。下士官達と共に棚の上に据え付けてあったラジオの前で直立不動で聞きまし た。日本は戦争に負けたということで、辛いことだが我慢して戦うのは止めましょうということらしい。よ く理解できなかったが、2,3 の下士官は、本土決戦の白虎隊と口ずさみ、腹いせに腰の軍刀を振り回し、詰 め所があった知積院の庭の小枝に斬りつけていた。憂さ晴らしだが何の足しにもならない気違沙汰。止めに 入るだけのかいしょもないのでこちらは距離をおいて傍観するのみ。何も言いませんでした。下士官たちは、 戦争に負けたのが悔しくて、やけくその酒盛りをすることを考えた。そして、私に命令した。山科にある上 官の家まで自転車で行って、すき焼きなど、鍋物にする野菜などを受け取りに行ってくれ、とのことでした。 後で知るのだが、阿南陸軍大臣が自決されたとか。鈴木貫太郎は総辞職。続いて戦陣訓の近衛文麿が自殺。 勝てもしない戦争に突入したから当然の結末か? ◇ 千島をソ連が占拠できるならとスターリンがトルーマンの分割案を呑んだのは8月16日のこと。わが国の 北方四島であるクナシリ、エトロフ、歯舞諸島がソ連軍に占拠されたのはその後の9月1日のこと。そして ソ連は終戦記念日は9月15日だと、一方的に勝手なことをほざいている。あきれた国だ。大国であることを 盾にして、ちっぽけな日本を馬鹿にしている。9月11日には東条英機がピストル自殺に失敗した。そんな9月 の4日に、後日 有名な女優になった有馬稲子さんは、暗闇に乗じ用意したポンポン船で韓国を脱出し、母国 日本の土を踏む。 ◇ 満州に住んでいた満蒙開拓団の方々は大変だった。日本軍に見捨てられ、それはそれは筆舌に尽くせない 苦難の逃避行となった。私のホームページを訪れてくださった方は、このホームページに掲げてあります「 平和への祈り」を読んでみてください。当時がどんなに悲惨だったか理解していただけると思います。そして 私たちは、もう あの頃に戻って、赤い夕日に照らされる満州を見ることはない。 ◇ 満州に放置された邦人の数は100万人を超えるという。内地にいる我々も、これからはどうゆうことになる のかと心配だったが、心配したからといって何かが始まる訳でもなかった。幸い、京都にいる私の周辺は何も変 わることはなかった。ただ坦々と時が流れて行くだけ。これが突然訪れた太平洋戦争終焉の様子である。 ◇ 父は幸い? 召集されずに済みました。2度も召集され、中国の戦線を渡り歩いた従兄弟の久雄さんは四国 の善通寺部隊の兵隊さん。幸い傷ひとつ負わず元気で復員されました。いつも大丈夫かと心配していたので、 このときはとても嬉しかった。聞くところによると、善通寺の部隊は戦いに強かったので、襟章を見ただけで 支那兵は戦わずに逃げていったと笑っておられた。その久雄さんも昨年95?才であの世に旅立たれた。 ◇ 世界情勢に疎い日本の軍部や政治家のお陰で第2次世界大戦では何百万人という人々が家を焼かれ、家族 を殺され、耐え難い苦痛や辛酸を舐めさせられた。「かくれんぼ」「めんこ」「凧揚げ」「コマ回し」に「バイ」や 「カルタ」などで遊んでくれた年上の遊び仲間は、いつの間にか姿を消した。みんな戦死してしまったのか。 ◇ 京都の若者は深草にあった16 師団に入隊させられ、多くがフィリピンのレイテ島へ送られ、マッカーサー が率いる米軍の機関銃や火炎放射器の犠牲になって死んでいってしまったの違いない。姉の友人だった中川の いいやんが南十字星をバックに椰子の木陰で撮った写真を送ってくれていたが、それ以来音信は途絶えた。よく 遊んでくれたお町内の先輩たちは、未だに誰ひとりとして帰って来ない。フィリピンでは 7万人もの日本兵が亡 くなったというが、7万人とは大変な数だ。こんな沢山の若者を死に追いやりながら、軍の上層部からの謝罪の 一言もない。 ◇ 詳細は不明だが、ヒットラーは自殺に先立ちカプセル入りの毒薬(青酸カリ?)で確実に死ねるか愛犬を 使って確かめたという。この愛犬の死体発見現場からソ連軍はヒットラーの自殺場所を推定し、死体を掘り 出し火葬して遺骨の一部、歯型などをソ連に持ち帰ったという。何のための行為か知らないが現在もモスコー で保管されているらしい。 ◇ ヒットラーの側近は、みんな毒入りカプセルを持っていた。敗戦直後にヨーゼル・ゲッペルスは地 下壕で自殺。戦時中は頼もしく輝いていたゲーリング空軍元帥は米軍に捕らえられ死刑に処せられたと か。これら高官の妻子も夫と死を共にした。 ◇ その直前の光景をテレビで見たが、可哀そうで目を背けたくなる。胸を強くしめつけられる思いがし た。せめてご婦人や子供たちは、なんとか助けてもらいたかった。負け戦ではこうゆう惨いことが平気で まかり通る。恐ろしいことだ。だから戦争なんて馬鹿げたことは絶対してはならない。 ◇ 広島や長崎における被爆後の光景、敗戦直前のドイツでの市街戦の悲惨さ、負け戦の戦場は実にもう 無茶苦茶。人間という動物は、どうしてこんな無慈悲で残酷なことが出来るのかと思う。人間はひとつ間 違うと、何をしでかすか解からない。実に恐ろしい動物だ。チャップリン曰く「一人殺せば悪人といわれ るが、100万人殺せば英雄と言われる」と。何かが狂っている。 ◇ 敗戦を体裁よく終戦と言い換えていたのには少々あきれたが、いつ命がなくなるか分からない恐ろしい 戦争がなくなったのでやれやれと思った。敗戦後わかったことだが、わが国はアジア諸国の迷惑を無視して 侵略の道を遮二無二に突き進んでいたようだ。だから他国を侵略するなど間違ったことを考えて軍を指揮し ていた指導者を戦死した兵隊さん同様に、靖国神社に祭るのはどう考えてもおかしい。間違っている。 ◇ 戦争に負けたら、男性はみんな嬲り殺しされるか、捕虜か奴隷にされると聞いていた。だから、占領軍 が進駐してきたらどうなることかと心配していたが、敗戦後の街中は以前のままで特に変わったことにはな らなかった。京都の場合は占領軍または進駐軍といった兵士を目にすることもなかった。 ◇ 東京や横浜には進駐軍と称する戦勝国の軍隊が上陸した。敵の大将、 マッカーサ ーがコーン製のマドロスパイフをくわえて厚木飛行場に降り立った姿は、あまりにも有名であ る。鬼畜米英と誹謗していた米兵の身なりは清潔で綺麗で感覚的に進んでいた。それまでの日本人の邪推 は見事に覆された。アメリカの兵隊は子供にチョコレートやキャンディを与えていると聞いた。降参すれ ばどうゆうことになるのかと心配していたが、そうゆうことで市民が慄くような恐ろしいことは何ひとつ 聞くことはなかった。 ◇ 戦中から戦後にかけて食べ物をはじめ生活必要物資は不足勝ちでタバコなども配給だった。欲しいだ け手に入れることは出来なかった。洗濯に使う石鹸一つも貴重品で十分に手に入らなかった。何もかもが 「配給」といって、切符と交換でした。 ◇ 共同生活で誰かがずぼらして不衛生な生活をすると、待ってました言わんばかりに嫌らしい白い蟻 のような虫のお出ましになる。風呂屋がその媒介所となるので、銭湯に行くときは、要注意であった。 その虫が肌着に住み着くのには降参だった。思い出すのもいやでゾットする。実に不衛生極まりない生活 が待ち受けていた。母が熱湯かけて洗濯してくれていたのを思い出す。今は亡き母親であるが、「お母さ ん! 有難う」と叫びたい。進駐軍の兵隊さんがDDTという白い粉(薬)を日本人の頭の上からぶっ掛ける光景、 戦後生まれの若者にそのような光景、わかってもらえるだろうか? ◇ ナチスドイツは隣国を侵略したり、400万人のユダヤ人を捕らえて、彼らをガス室に送り虐殺した。 この犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判(1945年11月〜1946年10月)に続き、ナチスと同盟国であった日本の 指導者も裁かれることになった。この裁判は1947年 東京の市谷にあった旧陸軍仕官学校(現在の防衛省)の 講堂に設けられた法廷で行われた。東条英機など、数十名のA級戦犯者が法廷で問われたのは、満州事変 に始まり、中国各地に及んだ戦争責任、太平洋においてアメリカと戦った戦争、およびイギリスやオラン ダなどの植民地での戦争責任であった。アメリカやイギリスの国内法で用いられていた概念で、犯罪全体 の計画に関与した罪が問われた。 ◇ 昭和天皇も開戦の責を免れるものではなかった。宣戦布告をしたこと、軍を統帥していたことでオー ストラリアの判事は天皇を裁くことを強く求めた。だが、 東京裁判を設置し たマッカーサーは、日本国内の治安維持などを考えて、天皇を裁くことにはしなかった。 ◇ 東京裁判は、勝者が敗者を裁いたもの。裁判のリード役だったイギリスの代表判事の考えは「恨みの 仕返し」であったが、判事の中にはそのような考えを心よしとしなかったものもいた。絶対的な平和思想を 貫いたのはインド代表判事の Mr. Justice Pal である。西欧諸国の植民地政策などを指摘し、パル氏は被告 全員を無罪とした。また、トルーマンの原子爆弾使用の指示は、ナチス指導者の非人道的残虐行為の指令に 近似するものと酷評した。Mr. Palは1966年に日本を訪れたとき、四季の美しい日本の風土を愛で、日本の 憲法が世界に広がってほしいという彼の願望を述べるなどしていたと聞いている。 ◇ 東京裁判での判決は、平和と人道に対する罪で、12名の判事の中、7名(イギリス、アメリカ、ソ連、中国、 フランス、オーストラリア、ニュージランドの代表判事)が賛成に加わったことで、戦犯の25名が有罪、7名が デス・バイ・ハング(Death by hang/死刑)となった。戦いを始めた東条英機、政治家でありながら戦いにストッ プを掛けられなかった広田弘毅、満州侵略から日中戦争をはじめた土肥原賢二と板垣征四郎、南京事件の虐殺 行為を止めなかった石根司令官など7人が絞首刑で巣鴨の露と消えた。2年半に及んだ東京裁判の結末である。 またこの他、B,C 級戦犯として篠原多磨男大佐( )以下200余名が絞首刑として処刑された。 ◇ 戦時中のことといはいえ、他国の非戦闘員の生命財産にたいする日本軍が行った無差別破壊は酷かった らしい。また、「パターンの死の行進」というのがある。これは約6万5000人の米国人とフィリピン人の捕虜 が灼熱の太陽の下、120Km を9日間歩かされた行軍。病気または疲労のため行進から落後すると、銃殺、ある いは拳銃で刺されたりした。小休止の時も米兵の手は後手に縛られたままであった。アジア太平洋各地域の 非戦闘員に対する日本軍の残虐行為は、鬼畜のような性格の持ち主でないと、とても出来ない酷いものだった と言われている。 ◇ この行軍の末、収容所にたどり着いたのは約5万4千人。約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その 他殴打、処刑などで死亡したらしい。米軍の死亡者は2,300人と記録されている。看視の日本兵は少なく、逃亡 は容易だったらしい。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多か ったようである。脱走した捕虜から事情を聞いたアメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として、 戦意向上、すなわち世論の反日感情を掻き立てることに利用した。この事件は組織的に行われたものではない が、ほとんどの生存者は「死の行進」が日本軍の最高司令部によって計画されたものだと信じていた。本間 中将らが実態を把握したのは、その2ヶ月後。実情を知った本間中将は、和知参謀長にできるだけの対策を講 ずるよう命じた。戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢 少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。 ◇ 一方、敗戦でソ連の捕虜となった関東軍の元兵士達は旧満州からソ連の領内まで200km の道を歩かされた。 待っていたのはマイナス40度という酷寒の地で3〜5 年の重労働である。労働は木材の伐採などと聞くが、経 験したことのない寒さと飢えの下、亡くなった元日本兵の数は6万6千人。戦後60年あまり経った平成18年の ある日、モンゴル出身の関取、朝青龍が語った話で知ったのだが、モンゴルにも捕虜としてシベリヤから回 された旧日本兵がいた。そのうちの1万人余りがモンゴルの地で亡くなったという。 ◇ ソ連の捕虜となった関東軍の元日本兵に対するソ連の扱い方は、日露戦争に敗れたソ連のシッペ返し的 仕打ち。スターリンはこの時がくるのをずっと待っていたのである。敗戦一年前に関東軍の参謀として満州 に渡った瀬島龍三氏は敗戦処理でソ連と交渉した人物だが、どのような密約のもと交渉を結んだのか、非難 されると思ってか、死ぬまで語らず、墓場に持っていってしまった。瀬島氏は11年の抑留生活から帰国後、 商社伊藤忠に迎えられた一方で、岸信介や中曽根康弘氏にも近づき行政改革の参謀として働いたが、戦後処 理については聞かれても一切語らず、幾つかのナゾを残したまま2007年9月、95才でこの世を去った見方に よって卑怯な人間だ。 ◇ 敗戦は終戦と書き換えられ「民主主義」をモットーに、学校の先生のおっしゃることも世の中のことも すべてが一夜にして手の平を返したように豹変した。資本家や官僚専属の軍病院が国立病院になり、飢えと 寒さの歳末で下々の庶民は大変だったが、それでも親兄弟が戦場に送り込まれた軍国時代のことを思えば、 戦後の世の中は実に平和でなんともいい時代になったものである。 ◇ 負け戦だったので、戦後の悲哀を痛切に感じる艦船などの戦後処理については一切報道されなかった。 それらについての片鱗がテレビを通じて放映されるのは、戦後半世紀以上経った2009,6,14(san.)でした。 米国のインデアナポリスを撃沈した日本の潜水艦イ58号は、激戦を乗り越えて日本に帰ってきたが、米軍の 手で長崎の沖合いで爆破され現在もその姿を200メートルの海底に留めている。艦長だった橋本以行中佐の 敏とした立派な軍服姿を写真で拝見したが、ぐっと胸に迫る重いものを感じた。 ◇ インディアナポリス(Indianapolis)は、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦。1945年7月26日に テニアン島へ原子爆弾を運んだ後、大役を果たしての気の緩みがあったのか、終戦半月前の7月30日フィリ ピン海で日本の潜水艦伊58(回天特別攻撃隊・多門隊)の雷撃により沈没した。 その乗り組み員だった ジミーオドネル氏88才に日本のマスコミが取材(2008年?)で当時のことを訊ねると、『彼らは彼らの仕事を しただけ』と憎しみのようなものは何も言わなかった。『戦争が終われば、みんなフレンド』という言葉 が返ってきた。これとて、戦後の数十年という時の流れがあってのことです。戦争というもののなんと空 しいことよ。そんな戦争をしなくてはならない窮地に追いやられることが起こるという人間社会のむずか しさを思い知らされるが、今後私たちは、どうすればいいのか。国連とて万能でないことを知ると、平和 を維持し続けることの、なんと難しいことよ。 ◇ 海外戦没者数と未帰還者の遺体/遺骨数を、次の[ ] 内に記す。前が戦没 者数、後が未送還者の遺骨数(朝日新聞抜粋) 旧ソ連・モンゴル[54,400人/34,620体], 満州、中国北東部[245,400人/206,320体], 中国本土[465,700人/27,230体], ビルマ・インド[167,000人/ 55,670体], タイ・マレーシヤ・シンガポール[21,000人/800体], ボルネオ・インドネシア [43,400人/25,470体], 千島・樺太・アリューシャン[24,400人/22,690体], 沖縄[186,000人/450体], 硫黄島[21,900人/13,300体], 中部太平洋[247,000人/174,420体 ], フィリピン[518,000人/384,900体], 西イリアン[53,000人/ 20,780体], 東部ニューギニア・ビスマーク・ソロモン諸島[246,000人/140,890体] |
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