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追憶(下)
Remembrance of the latter half of my life




人生回顧(つづき) Remembrance of the latter part of my life



9.11同時多発テロ





東山三十六峰



加茂川





姉、父、母、桜井さん:1965



学生時代の高台寺の家



茶室の庭



庭の飛び石



福井君の愛機「隼」


京都府立第二中学校:1946


東寺の塔



中学時代 琵琶湖で



高校時代 福井君は
右から2人目:1949






朝鮮戦争1



朝鮮戦争2



朝鮮戦争3



朝鮮戦争4



朝鮮戦争に加わった
ソビエットのMiG-15:1951



この地下に核シェルター



Mig-15と互角に戦った
F-86 セイバージェット



F-86 セイバージェット




隣家の津田家



俊信さんと記念撮影:1951



かっての我が家から
望めた八坂の五重の塔



津田家からの眺望
現在、土井料亭




栖鳳邸



京工大: 1951-55




セスナ機 : 1952


セスナ機から見た
大丸百貨店



セスナ機から見た
二条城




大学同期 : 1952
前列中央



機械実習 : 1953



浜名湖 : 1953





エデンの東 : 1955


大岡山駅 : 1955



於伊能家



羽田空港 : 1955



竹 橋 : 1956



航空局/運輸省



東京駅前 : 1956
同期の永野君(右)と




日本橋 : 1956




小嶋氏とイカ干し
遠賀川畔 : 1957






イラク戦争



イラク戦争1




イラク戦争3




George W Bush 視察




イラク戦争4









伊丹を基地とした
B-26 米軽爆機



B-26 軽爆: 1957















平安神宮の大鳥居



平安神宮 : 1960










航空局官舎(元米兵宿舎)
裏庭で遊ぶ長女と二女



官舎の前は空港エプロン
そこでのスナッブ:1969




マイファミリ: 1970


最初のマイホーム
豊中上野八丁目:1971



JAL DC-8 機: 1972



ハワイ : 1972



ワイキキ浜辺 : 1972



ハワイで話し合った
世銀(WMF)社員



ワシントン : 1973



ハワイFAA訪問 : 1975



三宅島で撮影



シカゴ空港: 1976



シカゴARSRレーダー



東豊中の家:1976



嘗ての私の9畳の間



上司(先輩):Mr.MT



モントリオール:1981



国際会議室: 1981



新型SSRアンテナ



冬のモントリオール



コヒーブレイク:1985



研究表彰状 : 1986



東京湾海上交通
管制所のスタッフ:1987





鶴岡八幡神社



鎌倉五山第一位
建長寺





ルクセンブルグ研究所



ルクセンブルグ会場



ルクセンブルグで



ギリシャとドイツの紳士と
意気投合:1988





ルーブル美術館: 1988



モナリザの前で



オランダの若者と
歓談 : 1988



パリの街角:1988



ルーブルで出会った
美しいドイツの女性







堂島ビル:1988



三菱(西支)での親睦会



GATSS日本代表



GATSSメンバー
1991



ロシア語を教わった
GATSSメンバー



Cruiser's Owner
1991



Cruiser's Guest



GATSSメンバー



Chesapeake Bay: 1991




阪神大震災-1 : 1995



阪神大震災-2



阪神大震災-3







9.11多発テロ : 2001



日本舞踊舞う孫
ドイツ新聞に掲載



川西みつなかホール
2008,03,16



クラス会: 2003



表の門扉 : 2005



裏の門扉 : 2005



万実と南禅寺で
2007,10,07



菜央達と南禅寺で
2007,10,07



新年挨拶で集合
2008,01,04



ウォーレン バフェット氏



白河院 : 2008





Le Salon de パソコン



大阪科学技術会
合同ゴルフ会:2008,11,10



半世紀ぶりの再会
2009, 4, 9


> チリー落盤事故
2010,10,13



チリー落盤事故2
2010,10,13



東日本大震災
2011,3,11



福島原発水素爆発
2011,3,12











テレビチューナ
2011,7,24



例年8月16日
大文字 送り火



クラス会: 2011,10,21



天皇陛下追悼の辞
2012,3,11



菜央 13参り
2012,3,20



記念撮影
2012,3,20



京都市内を背に
2012,3,20



研究発表会プログラム



932年目の金環日食


◇ 2001年9月11日ニューヨークの世界貿易センタービルに大型旅客機が突入した。それも二 機が次々と。その結果、二棟ともものの見事に崩落した。この惨劇を仕組んだのは何者なのか? 米政府の発表ではオサマ・ビン・ラディン一派のアルカイダの仕業だというが、本当にそうなの か? 一説にこの惨劇は極秘の組織によって計画されたものという噂が流れていた。

◇ 米政府はイラクの石油欲しさに9.11事件をイラク攻撃の口実にしようと考えていたのでは ないか? かってエンパイヤ・ステートメント・ビルに爆撃機が衝突したことがあった。だが、ビル は崩落はしなかった。米国ではこれと似た事件が5件ほどあったという。しかしどのビルも崩壊 するようなことにはならなかった。世界貿易センタービルだけが、なぜどうして崩落してしまった のか?  爆薬が仕掛けられていたという話があったが、このことはどうなのか?

◇ 事件があったその年の10月には、米国はアルカイダ殲滅で欧州勢の加勢も得てアフガニス タンに進攻した。またそれから少し経った2003年3月20日には、国連の反対をも振り切ってイラク に進攻した。「イラクはテロと通じている」、また「危険な大量破壊兵器を保有している」というのが、 侵攻の理由だった。

◇ わが国の小泉元首相はブッシュ政策支援で、それまで門外不出だった自衛隊の海外派兵に 踏み切る。それから11年の歳月が流れたが、戦争を放棄したわが国にとってよかったことなのか、 それとも猛反省すべきことだったのか?

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◇ 「国破れて山河在り、城春にして草木深し。時に感じて花にも涙をそそぎ、別れを恨んでは鳥 にも心を驚かす」 これは詩人、杜甫の「春望の詩」である。私の故郷、京都は何が幸いしたのか 知れないが、杜甫のこの詩のとうりで、国は戦いに破れたが、街中を流れる鴨川の流れも都を取り 巻く四方の山々の姿にも変わるところはなかった。

◇ 戦時中から戦後の一時期(昭和24年)までは、私は両親と共に秀吉の菩提を弔うため建立された 高台寺に隣接する沢野家の別荘に訳あって住んでいた。姉の夫は中国で戦っていたので、姉と当時3才 だった孫(健ちゃん)とも一緒でした。当時は食料不足で米は配給でした。父は庭の平坦なところを畑 として耕し、いろんな野菜を栽培してくれていましたので我が家は食べ物に窮することはなかった。 屋敷の一角にあった100坪程度の竹藪では竹の子は勿論のこと、栗南瓜が一夏で100個も採れたことを 覚えている。そんなことだったが、母はお米の中に大根や野菜のみじん切りを混入し、炊き上がった 米飯の嵩を増やすのに苦心していたのを近くで見ていてよく覚えている。

◇ 庭でサツマイモも作っているのを知った町会長さんが『その葉でいいから頂だけませんか』と 訪ねて来られたことがありました。これにはそんなものまで食べられるのかと、すごく驚きました。 南瓜の種を炒って中の実を食べたことはありましたが、サツマイモの葉を食べるなんていうことは とてもとても考えが及ぶようなことではありませんでした。食べ物にすごくお困りだったんだと思う。 ところで当時の配給のパンは真っ黒けで、壁土で作っているのかと思い、不気味で口にはしなかった。 配給の黒い色の海藻メンも見るからに不気味で、私の喉は受け付けませんでした。

◇ 母の里は京都と奈良の中間点にある新田辺という田舎。今では京田辺市となり、田舎風情はなくな りましたが、私が子供の頃は「いなか、いなか」といって、よくお邪魔しました。戦後の食糧難時代は、 田舎へ行けばまともなお米のご飯がいただけるという考えが頭に染み付いていました。今になって思え ば、すごく勝手で迷惑なことを考えていたものと深く反省しています。母の里には私より2,3歳年上の 従兄弟、楢三さんと忠雄さんがいらっしゃいましたが、楢三さんは復員後家業を継いで農業をしておら れましたが、不運にも胃癌で急逝。忠雄さんは奈良電の助役にまでなっておられたが、若くして病気に 取り付かれ亡くなり、奥方も後を追うようにして亡くなられたことを聞いたときは「この世はなんと無 情なところよ」と、ショックで、可哀想でとても残念でした。

  ◇ 終戦直後の一時は食糧難のときだったので、母と二人で食料の買出しに出かけたことが一度だけあ りました。尋ねる先は伊勢の中川というところ。姉の夫の遠い遠〜い親戚でした。母とそのお宅を尋ね るため、訪れたことのなかった遠い所まで一緒に出かけたのを覚えています。そしてそんなことは先に も後にもそのとき一回きりです。母が奈良電の東寺の駅から伊勢の中川までの切符を買おうとしたが、 戦後の世相混乱のときでもあり、遠距離までの切符はすっと売ってはくれませんでした。仕方なく東寺 から近鉄の名張までの切符を買って、名張で一旦下車し、中川までの切符を買い求めての移動でした。

◇ 姉の夫は伊勢の津の人。その親戚が中川という田舎に住んでおられたのです。そこを尋ねての買出 しでした。近鉄の車内は買い出しの人と荷物で通路はいっぱい。乗り降りは、勇ましい人は窓からでし た。いくらかの食べ物を求めて、初めて訪ねる親戚に母は自分の着物を物々交換用にと持参していまし た。そのときの母の心情がどんなものだったのか、今思えばとても済まなく思い掛ける言葉もない。同 時に胸の奥にぐっと迫るものを感じます。生きるために家族のことを心配し、恥を忍んでの買出しだっ たのです。ときに私は15か16歳ぐらいでした。母の気持を慮るだけの才覚や気持ちにゆとりは持ち合わ せていませんでした。そのときはただ母のお供をしていただけ。母の気苦労をねぎらう言葉も思いつか ないまゝの買出しでした。

◇ 終戦後は働きたくても職が見つからない。そんなときのことでしたが、戦時中に日本国際航業株式 会社で一緒だった宮本さんという大久保の宮大工さんから仕事の誘いで声が掛りました。国鉄梅田駅の まあ前に広がる闇市で、いち早く立ち上がったお方の店を建てる仕事でした。建築場所は国鉄梅田駅の 真正面。仕事の合間には梅田駅前の闇市をよく見物しました。今の阪神デパートのすぐ西隣の辺りが闇 市の場でした。地面に「ゴザ」まがいのものを敷いたり木箱を置いて、日用品まがいのものが並べて売 られていました。売り手の身なりも買い手の姿も、古びれた軍服に戦闘帽を被ったやつれた姿が多かっ た。

◇ 梅田での仕事は1ヶ月ほどでした。私が17歳のときのことで、なかなかこれはいいと思える職業に はつけなかった。親が心配して紹介してくれた玩具づくり屋さんの手伝いなどをしていたこともありま した。それも1年ほどしか続かなかった。その次は五条の実家のお向かいさんである河崎さんのお宅の お仕事のお手伝いです。木製の電気の笠、「ぼんぼり」と言えばわかってもらえると思いますが、それ を作られるお手伝いをしていたのを覚えています。

◇ そんな頃のときだったと思う。かって高等小学校のクラスで一緒だった福井明久君が『また学校へ 行かないか?』と訪ねてくれました。彼が元気で復員していたことは全く知りませんでしたので、そのと きは凄く驚きました。同時にとても懐かしく飛び上がるほど嬉しかった。彼はクラス一の秀才で、私な ぞにはなにも告げず、陸軍少年航空兵を志願し、九州の太刀洗で赤トンボと呼ばれていた複葉の練習機 で飛行訓練を受けているということまでは文通もあり知っていたが、戦時下のことでもあり、その後、 彼が何処へ移動したのかは知る由もなしでした。

◇ その福井君ですが、彼はあの有名な加藤隼戦闘隊の愛機と同じ「隼」に乗って、台湾沖で戦っていたと いうのです。これには聞いてまたまたびっくり仰天。『零戦には近づくな!! 出会ったならすぐに退避せ よ』と、アメリカのパイロットは教わっていたのを知っていたので、そのゼロ戦と殆ど同じ飛行性能の 隼戦闘機の福井君はパイロットだったのです。

◇ 戦いを終えて基地に帰ってきたときは、心身共に疲労困ぱいで、整備兵に機体から引きずり出しても らっていたという。その活躍ぶりには凄く驚いたが、戦局不利な戦時下にあって、よくぞ元気で居てくれ たと、実に嬉しかった。まことにご苦労様でした。元気な帰国、何度も「おめでとう」と言いました。そ んな素晴らしい学友の誘いだけに、私は二つ返事で学校をやり直すことに同意しました。

◇ 戦時中、工場で働いていて知ったことだが、学歴が少しでも上だと、会社の待遇は大きく異る。だか ら学校をやり直すからには、出来れば大学までと考えた。最高学府の卒業証書さえ手にすれば、少しは うだつがあがる人生を送れるのではないかと考えたのです。『また学校?』と、母は驚いたが、昭和21年 (1946年)4月から福井君と一緒に京都二中の門をくぐる。学校は東寺から西へ歩いて3分ほどのところ。 市電は東山線経由で九条西大路まで行き、そこからは東寺の南門の前を西に向かって歩いて通学した。

◇ 終戦前後の一時期、両親をはじめ私や姉たちが住んでいた高台寺の家、すなわち沢野家の別荘は、 昭和24年(1949年)に大阪の南、宗右衛門町で料亭を営む「大和屋」に買い取られ、「料亭、京大和」として出 発することになる。売買価額は当時の金で 2億5千万円と父から聞いた。大和屋は早速料亭に模様替えす るための増改築を始められました。その普請を引き受けた大工の棟梁は、神戸の西、確か須磨の人では なかったかと記憶するが、網干さんという小柄で人柄のよさそうな大工さんでした。

◇ 大和屋のご主人は当時は歳が60台の後半ではなかったかと思う。気分のいいときは、冬の真っ最中で も皮の手袋をしたまま息子の名(すけぞう)を大声で叫びながら、バケツに手を突っ込んで陣頭指揮よろし く入り口の大門の扉の雑巾がけをしたりしておられました。そばで見とれている私に「40,50は洟垂れ小僧」 と、えらい馬力でした。商売が暇なときは増改築のチャンスなんだと言って、京大和では増改築の工事が止 むことは殆どありませんでした。

◇ 大和屋は、高台寺の店、京大和に加えて伏見の辺りにも広大な土地を買占め、そこでも店を構える構想 を練っておられました。そこの番頭役に私を据える考えを大和屋のご主人が持っておられることを父から聞 いたことがありましたが、私がまだ京工大の学生の時のことです。大阪の大和屋と富田屋と言えば、大阪で は飛ぶ鳥を落とす勢いがあるという評判の席貸し屋さん。余力があって梅田の北新地にもキャバレーを開く 普請も進めておられました。

◇ そんな時のことでしたが、1950年(昭和25年)6月25日の午前4時(韓国時間)に、宣戦布告なしで突如として 10万の北朝鮮軍が38度線を越え、韓国領に侵入してきたのです。また韓国の東海岸ではゲリラが工作船団に分 乗し、後方に上陸し、韓国軍を分断する作戦に出ました。このことを知った西側諸国は大きな衝撃を受ける。 思いもしなかった攻撃に韓国では何もかもが後手になる。北朝鮮はソ連から借りた最新のT-34戦車を中核にし た攻撃を仕掛けてきたのです。したがって韓国軍はこれには歯が立たず、各所で敗退する。

◇ 日本に居た連合国軍総司令官マッカーサーは、25日の午前5時数分過ぎにこのことを知るが、米国のトル ーマン大統領はミズーリー州にいてこのことを知る。直ちに国連安全保障理事会の開会措置をとるよう命じ てワシントンに帰った。当時はマッカーサーは日本の占領統治を、トルーマンは冷戦の最前線であったヨーロ ッパのことで頭が一杯で、朝鮮半島の緊迫した情勢にはいずれもがしっかりと把握はしていなかった。

◇ 1950年6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定し、軍事行動の停止と撤退を求めたが、ソ連 はこの安保理の会議に欠席した。ソ連のこうした行動には解せないことが多いが、このような対応ぶりはよく 覚えておくべきだと思う。ところで軍事的なバランスで差があった韓国軍は、悲しいかな絶望的な戦いを続ける。 ソウルでは市民に多くの犠牲者が出た。また避難民が逃れるために渡ろうとする唯一の橋を誤って韓国軍が爆破 するなどの失態を演じていた。

◇ 総崩れする韓国軍には重火器はなかった。戦車もなかった。マッカーサーは当時70才の高齢。日本駐留 の米軍は 4個師団。その内の2個師団の投入をトルーマンに進言したが、トルーマンからは 1個師団の派兵が 許可されただけだった。ほどよい返事が得られなかったマッカーサーは、独自の判断でボーイングB-29やB-50 の大型爆撃機を日本の基地から発進させた。

◇ 1950年の7月7日にはアメリカ軍25万人を中心に、日本占領のために駐留していたイギリスやオーストラリ ア、それにニュージランドなどのイギリス連邦占領軍と、タイ、コロンビア、ベルギーなどが加わった国連軍 が結成される。ところが準備不測の国連軍は各地で敗退また敗退を続ける。アメリカ軍が大田の戦いで大敗を 喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。このとき、韓国軍は北寄りの「保導連名員 や労働党員など、共産党関係の政治犯など20万人以上を殺害した。

◇ 国連軍は釜山まで後退するが、ここで徹底抗戦して、北の進撃を止めることができた。一方、北朝鮮軍と 左翼勢力は、大韓青年団、区長、警察官、地主やその家族など民間人数十万人を虐殺した。アメリカ兵の捕虜 も皆殺しにするという虐殺をした。

◇ マッカーサーは9月15日、アメリカ第一海兵師団および第7歩兵師団と韓国軍7万人をソウル近郊の仁川に上 陸させる。それからは国連軍の大規模な反攻が開始され、9月28日にはソウルを奪還し、10月1日には38度線を 突破した。この事態にあわてた北朝鮮は、中華人民軍の参戦を要請する。「38度線が突破されたそのときには 中国は参戦してやる」と言っていた周恩来首相は、その言葉どうりに戦線に加わったのです。

◇ 国連軍はトルーマンの意に反して国連軍を北進させ、10月20日には北の首都を制圧し、一部の軍は鴨緑江 にまで達した。参戦することになった中国は100万人の義勇兵を募り、11月にはこれを戦線に送り込んだ。これ に対し国連軍は補給線が延び、加えて武器弾薬・防寒具の不足から、人海戦力による中国の義勇軍に押され、 38度線まで後退を余儀なくされる。中国軍は空からの攻撃を避けるため、山間部に煙幕を張って進撃した。

◇ 空の戦いでは、戦闘に投入されたミコヤンMig-15が、当初は国連軍のノースアメリカンP-51といったレシ プロ戦闘機を圧倒する。Mig-15は旧式化していたF-84やF-80に対しては有利に戦い、ボーイングB29やB50爆撃 機をバタバタと撃墜した。戦局挽回でアメリカもすぐさま最新鋭のジェット機、ノースアメリカンF-86Aを投入 した。するとF-86に圧倒されたMig-15も改良を加え、互角の戦いをし始める。しかし次々と投入されるアメリカ のF-86EやF-86Fが最終的には優位を保ち、撃墜率ではアメリカが7対1で勝利する。

◇ 戦闘が続く朝鮮戦争を見て、マッカーサーは満州爆撃と原爆使用を大統領トルーマンに具申したが、これ が聞き入れられず、逆にマッカーサーは1951年4月11日に更迭され、軍務を解かれることになった。「老兵は 死なず、ただ立ち去るのみ(Old soldiers never die, they just fade away.)」という有名なセリフを残し て、マッカーサーは4月16日、専用機「パターン号」で日本を去り、故郷に帰る。後はリッジウエイ中将が引 き受けることになる。

◇ マッカーサーが軍務を解かれた後の1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を 提案した。このことによって停戦が模索され、1953年7月27日に、板門店で北朝鮮軍と中国軍の両軍と国連軍 の間で休戦協定が結ばれた。3年間続いた戦争はこれで一時の終結をすることになる。中国人民志願兵が北朝 鮮から完全に撤退したのはそれから5年後の1958年10月26日。この戦いで命を落とした中国兵士は「烈士」と 呼ばれた。その数は18万人というかなりの数です。参戦した中国は北朝鮮のため、とてつもない大きな犠牲 を払った。

◇ 犠牲は中国側の志願兵にとどまらず、国連側にもあった。そのことを最近(2012年)の報道で知りました。 それは北朝鮮が衛星を打ち上げると声明を発表したのに対し、西側陣営からは反対の表明がもたられた。この 反対が表明されるまでは38度線以北の土地で亡くなった5,000人前後の米兵の骨を拾う作業が行われていたの です。ところがこれが中止になったというニュースを聞いたのです。激しかった戦場ゆえに多くの死者が出た ことはわかるが、5,000人にも及ぶ多くの米兵が戦って亡くなっていたという事実の報道を知って、その戦争 の悲惨さショック、どうして戦争をするのかと悔やまれる。

◇ 朝鮮半島で国連軍と共産軍が激しい死闘を展開していたとき、私は新制高校の生徒として旧二中に通学中 でした。朝鮮半島で激しい戦いが展開されていたことは新聞や巷の報道で薄っすらと知ってはいたが、所詮他 国での戦争と、当時の私は詳しいことを知ろうともせず、淡々と学生の日々を過ごしていました。

◇ 大和屋のご主人は、隣国でのドンパチを見て、我が国へも戦火が及ぶのを憂え、最悪の事態である核攻撃 から身を守るための地下壕、いわゆる核シェルターを造ることを決断される。庭の斜面に横穴掘って、広さ20 畳程だったと思うが、壁の厚さはコンクリートで1mはありました。入り口には銀行の大金庫を思わせる厚さ 50cmほどもある重厚で頑丈な扉が取り付けられました。

◇ シェルター工事が始まった頃、両親と姉たちは五条の元の家に戻っていましたが、私は南隣の津田家に移り 住むことになる。津田家も敷地面積が3,000坪と広いお屋敷でしたが、広すぎのがあだとなり、年の暮れになる と必ずといっていいほど泥棒に入られそうになる。泥棒が鋭い刃物を使って雨戸を破ろうとした痕跡を見せて もらったときはちょっと驚き、首を傾げましたが、高校生の私が住みついたからといって、泥棒が忍び込むの を思いとどまるとは思いませんでした。だが、津田家としては私が居るほうが安心とお考えだったのでしょう。 真向かいの家、沢野の別邸に住んでいた私のことだから、一応信用されて頼りにされたのだと思う。

◇ 津田家の一員として過ごしていたとき、私は大学受験の時期を迎えていた。試験の滑り止めに立命館大学 の願書と、受験手続書を投函するのに津田家の表門を通り抜け、横丁の郵便ポストまで出かけたことをなぜか 昨日のことのように克明かつ鮮やかに覚えている。大学受験で神経がヒ〜ンと緊張していたからかも知れない。 その数日後、ラッキーなことに京工大から合格通知が届いた。競争率は11倍でした。大学受験に失敗していて は人生は真っ暗闇と思っていたので、高校時代は寸暇を惜しんで道を歩きながらでも手から本をはずさず、読 み、暗記するなど努力を重ね、受験に備えた。その甲斐あってのこの合格で、私の人生はこの後は順調に栄光 の道を歩みはじめる。

◇ 私が大学生になったのは1951年(昭和26年)でしたが、米国は早い機会に日本を独立させ、自由主義陣営の 一員とすることを考えたのだと思う。米国は第2次世界大戦の講和会議をサンフランシスコで開くことを考え た。講和会議の議長を務めたアチソンとこれを補佐したダレス米国務長官は、会議の成否を握る大役を担う。 中国を会議に出席させようとしたソ連の主張は、にべもなく退けられたままで、サン・フランシスコ講和条約が成立する。この会議のため文字どおり奔走されたダレス元 米国務長官の尽力なくして、今日のわが国は存在しなかったのではないかと強く思った。

◇ 米国の強力な力添えで独立国となった我が国は、米国に示唆されるまゝに警察予備隊なるものを組織した。 これが後に保安隊となり、1954年には自衛隊となる。

◇ 津田家も私たちが住んでいた澤野の屋敷と同じで、東山の麓を大きく取り込んだ広大な屋敷。津田家の庭 は高低差のはっきりとした上段、中段、下段の三つの庭からなっていた。屋敷は木造三階建。鳳凰が羽を広げ たような造り。一階には立派なお部屋がいくつもありました。広い御殿の間からは廊下伝いで行ける優雅な造り の茶室もありました。風呂の浴槽は総檜造りの広い浴室。御殿の間の前栽は、丸く刈り込まれた皐月の植え込 みが庭一面を埋め尽くす。三菱財閥の創始、岩崎男爵が芦ノ湖畔に建てられた「山のホテル」で見られる「さ つきの刈り込み」ととてもよく似ていた。

◇ 上段の庭には大公秀吉が枕にしてうたた寝をしたと聞く、すごく太い幹の五葉の松の木があった。幹の太さ は50cm程あった。だから樹齢は数百年、いや千年ぐらいかと思う巨木。地表すれすれのところをあたかも大蛇 が這うようにうねっている。その姿は実に壮観です。世間広しと言えども他所ではまずは見られない眺め。中段 の庭からは京都市内が俯瞰できる。下段にかけて落差10mぐらいの滝がありましたが、ここには豪雨でもない限り 滝の水が落下することはなかった。

◇ 左に掲げた写真で私と写っているのは津田家の御曹司、俊信さん。当時は小学二年生ではなかったかと思う。 『燃えている火に水をかけると、ジュ〜ンと音がするのはなぜか?』と問われたことがある。なにかにつけて疑問 に思ったことをすぐ問う賢い子でした。血統がいいのか、弟の栄ちゃん(栄三さん)と兄弟揃って父親と同じ京大 の門をくぐる。後年、埼玉大学の理事(副学長)まで上り詰めてたが、2007年に定年退職する。次男の栄ちゃんは 新明和に入社し、重役か取締役あたりになってその後は自前の会社を創り、頑張っているとのこと。みんな賢い 子でした。京大を敬遠したのは私だけか。

◇ 近くの横丁に画家で有名な栖鳳さんの邸宅がありました。高台寺の境内の南西の角と対面するお屋敷です。 父とどんな用件でお邪魔したのかは思い出せないが、庭の片隅にアメリカ製の丸い円筒形の洗濯器が置いてあ ったのを見て覚えている。庶民には高値の華でもあった米国製の洗濯器。回転部が三枚羽根で三本脚の洗濯器です。 それともうひとつ考えさせられたことがありました。屋外にいた私の耳にまで聞こえてきた英語のラジオ放送。 駐留軍向けのFEN(Far East Network)だったと思うが、著名な画家となると、英語放送も聞いてお分かりになるの かと、学生時代で語学に専念していた私には刺激になることでした。

◇ 大学への通学路は、高台寺の家から京風情たっぷりの石塀小路を通り抜け、下河原の街並から坂道を西に 下って安井神社の前に出る。そこで市電をキャッチし、あとは東山線で北大路まで京大の前を素通りしての通学 でした。

◇ 大学の二回生になってからは、奨学資金で買った自転車で通学した。高台寺から祇園に通じる粋な石塀小路 を通り抜け、東大谷(寺)の門前、中村楼に突き当たったところで左折し、東大路に出る。そこから祇園の朱塗り の山門までは目と鼻の先。四条通りを西へ、一力の前を通って四条川端で右折。疎水沿いの川端通りを一路北上 する。丸太町からは下鴨神社を横目に見て高野川沿いを北上して大学の門をくぐる。

◇ 私が大学3年になる前だったと記憶するが、津田家も「土井」という料亭に屋敷を譲渡されることになった。 私の憶測だが、これには多分戦後の税制改革が大きく影響したのではなかったかと思う。広大な屋敷の持ち主は、 それはそれなりの規模の事業でも手掛けていないと、資産税が重くて広い屋敷の維持は難かしかったのではなか ったか。優雅な生活をさせてもらった津田家の屋敷は料亭・高台寺、土井という京都東山界隈では、向いの「京大和」と 並び、京都で屈指の高級料亭となった。

◇ 大学では、工学部だったので繊維機械の自動制御に使う電子機器を学ぶ講義があった。4時間つづく授業でし たので大変でした。講義は難しくてサッパリ分かりませんでした。学校からの帰り道、丸太町の古本屋でいろんな 参考書を買い漁っていた自分を思い出す。そんなときでした。弟とその友人の篠川君が興じていた鉱石ラジオに目 が留まる。彼らが持っていたNHKの技術解説書を読んでみると、これはよく理解できた。そんなことから鉱石ラジ オに続いて、三球ラジオ、五球スーパヘテロダイン、高周波二段、テープレコーダと、ラジオなどの組み立てには 寝る時間も惜しんで夢中になる。

◇ 丁度そんな頃のことでした。大学3年の物理の受講の合間に物理の工作教室を覗くと、NHKが始めたばかりのテ レビの試験電波を受信するテレビが組み立てられつつあった。これを見て、私もと早速「ラジオ無線技術」の本を 購入し、テレビの組み立てに挑戦した。寝食を忘れて熱中し、組み立てたテレビのブラウン管に初めて写し出され た映像は「江戸の花道」という映画でした。歌の番組や力道山のプロレス放送のときは、ご近所の方々で我が家は 小劇場のようになる。初めて見るプロレスは刺激がきつすぎて、心臓が止まりはしないかと心配しながら見ていた。 力道山がアメリカの大男を空手チョップという手刀で倒すのを見るときは愉快だったが、身震いしながらの観戦で した。

◇ テレビの部品は寺町の中川無線で買った。当時の金で3万円余り。そのとき頂いた商品券30数枚で京都市内上空 を遊覧できるセスナ機に乗ることが出来ました。生まれて初めての飛行機でしたが、浜大津から離陸し、京都市内 上空を10分ほどでしたが遊覧飛行しました。二条城や御所を上空から見て、愛用のオリンパスカメラでシヤッター を切る。低空を飛ぶセスナ機から市街地を俯瞰する眺めはさながら小人の町を見るようで格別でした。町並みのきれ いなこと。まさに玩具の国か、おとぎの国でも見ているようでした。

◇ 大学3年生のときのこと(昭和29年3月18日)、福竜丸事件というのが起きた。アメリカが南太平洋のビキニ環礁で 水爆実験をおこなったため、その近海で操業をしていた日本の漁船福竜丸の乗組員が被爆した事件です。被爆すると ガンを患って死ぬらしい。何がどうなるのか、はじめはよくわからなかったが、最近になって次のようなことが分か ってきた。被爆によって体内にとり込まれたプルトニュームが細胞内でピカピカと放射能を放ち続けるため、細胞内 の染色体が破壊され、破壊された染色体の破片がやがてはガン組織を構成する。米国に次いでフランスも太平洋上の ポリネシヤ島で、ソ連はカザフスタンで原爆実験をつづけていたので、その周辺に住む住民の多くがガンにかかった。 今もノーモア・ヒバクシャと叫ぶカザフスタンからの絶叫が聞こえてくるようだ。

◇ 終戦後、学友の福井君の誘いがあって学校をやり直した私は、クラスメイトとは年齢が3〜4 歳上でした。したが って大学を卒業した1955(昭和30)年の春には、私は満27才になっていた。戦後の復興に大いに役立った朝鮮戦争の特 需は1953年7月の停戦で下火となり、就職事情もそれまでと比べて厳しくなる。入社試験の面接で、私の齢を知り『入 社後はすぐに結婚ですか?』と問われたことを思い出す。また、アルバイトのし過ぎが禍して、入社試験では出された 力学問題が解けず面食らったことがあった。そんな失態を演じていたので私の就職は早期に思うようには決まらなか った。

◇ 専攻科目の機織科には教授が二人おられた。一人は中原虎男先生。もう一人は菊池先生でした。菊池先生はドイ ツ留学から帰国された後、ガラス繊維の研究を一人でしておられた。機械でガラス繊維を織っておられたのを見ては いたが、どんなものになるのか想像もつかず、その研究の重要性や将来性については私は盲目同然でした。

◇ そんなある日のこと、大学の廊下で目に留まったのが一枚の求人ポスター。そこには航空機と無線機の絵が描か れていた。無線機を扱うのは何にも増して好きな唯一の趣味でしたので、詳しいことはわからなかったが、先生方に は合格したらお知らせするとして、黙ってその試験を受けてみることにした。

◇ 一次試験は大阪の高津高校であった。戦災の被害は全くと言っていいほど受けなかった京都市しか知らない私に は戦災都市、大阪はとても刺激的でした。どこで市電に乗ったのかも思い出せないが、市電の窓越しに見る復興しつ つあった街並を見て目を見張った。初めて訪れる試験場に着けるかと心配していたが、幸い試験場の教室に着席でき てホットした。

◇ 身体検査は何故か米軍が管理する伊丹飛行場(基地)の中にあった米軍病院で行われた。中耳炎の後遺症で難聴気 味だった私は聴力検査で不合格になりはしないかとびくびくしていた。ところが私の検査があと5人ほどというとき、 聴力検査器が故障した。どうなることかと他人の検査表と聴力の検査結果が記されている欄を見比べると、同じ記号 だ。ということは、耳の検査はOKということ。機器の故障がなかったら、身体検査はどうだったろうか。不合格だっ たかもしれない。

◇ そんなことでしたが人事院から一次試験合格の通知が届く。そのことを中原教授に話したところ、教授曰く 『専攻した織織科関係の会社に進むのであれば、将来は工場長とか重役というポストが約束されているのだが』 とのこと。『でも、君がそれでもと言うなら、それもよかろう』と、航空局の受験を許された。中原寅雄教授の 言葉に少しは戸惑ったが、私はとにかくこの試験の二次試験を受けることにした。

◇ 二次試験は東京都千代田区大手門にあった航空局の本庁舎で行なわれる。英語が特に重要視されることを 担任の宇野稔助教授に話すと、先生が一案を講じられ、昼休みの時間に英会話の特訓をしてくださることになる。

◇ そうしているうちにいよいよ試験で東京へ行くことになる。関西の人間が初めて東京行きとなると大丈夫かと 心配だ。だが私は一年ほど前、級友の福井明久君と一度東京へ行ったことがある。左に掲げた写真は東京へ行く 途中、浜名湖の近くに住んでいらっしゃった福井君の親戚を尋ね、浜名湖に船を浮かべて水遊びしたとき撮った ものです。高校時代の級友、池内君が東京の叔父さんが経営されるパッキング工場で働いていましたので、その 彼を訪ねがてらの東京見物でした。したがって余り神経を痛めることもなく東京見物ができました。

◇ さて、そんな東京での二次試験です。心配していた試験官との一対一の英語のヒヤーリングテストは、宇野 先生ご指導の会話要領とよく似たものでした。続いて広い階段教室での聴力試験がありました。テープに録音され ている話が再生された。それを聞いて話の内容を書かかされたのです。神経を集中して聴いていると、アメリカが イギリスと戦った独立戦争の話。テープの内容を忠実に理解できていなくても、独立戦争にまつわる話はよく知 っていたので、答案の作成には左程困りはしなかった。これはラッキーということかも知れない。果たせるかな、 試験に合格の通知が届く。

◇ 就職試験で先生方にはいろいろお世話になりましたが、結局、競争率20倍の上級職(甲)の試験に合格という ことになりました。英会話の特訓をしてくださった宇野先生には早速報告し、喜んでもらいました。東大で航空 機のプロペラを専攻されていた先生は、航空関係に進もうとしている生徒を見て、少しでも支援してやろうと考 えてくださったのかも知れない。ありがたいことです。そのお陰で私は大きな大きな幸運を掴むことになる。先 生との触れ合いが私の人生を大きく決定づけたのです。

◇ ところで、試験に合格するのはしたが、出頭せよという通知が4月になっても届かない。仕方なく就職の面 倒をみていてくださっていた中原寅男教授の部屋で、なにをするということもなく日々を過していた。そんなこと なので松ヶ崎にあった先生のお宅へは碁を打ちによくお邪魔しました。同期の山崎弥太郎君といつも一緒に先 生と碁を打って遊んでいた。長居して、奥様のビーフン料理を頂くことが何回かありました。その美味しかったこ と。数年後のことですが、東京で単身赴任中、ビーフン料理に何度か挑戦しましたが、なぜか美味しくは出来な かった。美味しい料理を作るには、いろいろと研究をしないとダメらしい。

◇ アメリカの映画俳優ジェームス・ディーンが主演する「エデンの東」という映画を京極(京都の歓楽街)の松竹 映画館で観て帰ってくると、母が出頭通知が届いる旨知らせて喜んでくれました。見てきたばかりの「エデンの 東」という映画のタイトルが、妙に心に引っかかった。私のエデンの園は東の方にあると諭されているようにも思 えたからです。観てきた映画のタイトルから不思議と運命的なものを感じた。

◇ 早急に東京での下宿を探さねばならない。だが、京都しか知らない者にとって、それは雲を攫むような話。 東京には姉(喜代)の夫(義雄さん)の弟さん(光男さん)が住んではおられましたが、下宿を依頼するには無理が あるように思えた。光男さんは東芝に勤めておられて、男の子二人の子持ち。航空局の二次試験のときは、こ こで一泊させてもらいましたが、下宿を頼むのには少し無理があるように思った。そんなことで思案していると き、中原教授から声が掛かる。大岡山の駅から歩いて10分ばかりのところにある伊能家を紹介してくださったの です。教授は東京工大の先生でしたので、東京工大で事務をしていたことがある女性に連絡し、彼女の家を下宿 先とする話をまとめてくださったのです。こればかりは大助かりで、心の底から助かったと感謝感激でした。

◇ やがて一人で東京へ出発することなる。心の中は嬉しさと不安で興奮状態。先ずは茶色のふとん袋に身の回 り品一切を詰め込んで東山郵便局から下宿先に発送した。次は単身での下宿先の訪問です。東京駅から山手線の 目黒駅で下車し、初めての東横線に乗り換える。通過する駅々の眺めに胸がときめく。目的の大岡山駅に着いてか らは地図を頼りに歩く。10分ばかりのところでしたが尋ね尋ねしてやっと辿り着く。表札を確かめ門のベルを押す と、感じのよさそうな若い綺麗な女性(澄子さん)が洋間の小窓をあけて笑顔で会釈し、迎えに出てくれました。 その頃は葉書一枚書くのにも苦労する私、教授にどんな礼状を差し上げたのか、健在でいらっしゃるならお会いし て、このときの喜びのお礼をもう一度申し上げたい気持ちでいっぱいです。

◇ 航空局は、入局早々におめでとうと、早速羽田でDC-3型の飛行機に乗せてくれました。東京湾上空での旋回 や急降下と、いろんな飛び方をしてくれました。初めは大丈夫かと心配していたが、何事も無く一応経験飛行が済 む。航空機で飛ぶということの意味を十二分に味あわせ、教えてくれたようです。そのときの管制課の課長は、泉 靖二さん。 課長曰く『お前達全員に小型機の操縦免許ぐらいは取らさせてやる』と。同僚の柴田君は、海軍の予 科練生であったことから、課長の世話でいつの間にか全日空のパイロットとなり、ジャンボ機B747のパイロットま でになりました。凄いことです。うれしいことを言ってくれた課長は、約束を果たす前になぜか残念ですが若くし てあの世に旅立ってしまわれた。

◇ 下宿を許してくださった伊能家は、公務員だったご主人が亡くなられて奥様と娘さん二人の三人家庭でした。 お姉様の鮎美さんは日本女子大の講師。妹さんは東京工大でかって事務をしておられたらしい。小柄でチャーミ ングな顔立ちで、好きな女性でした。休日の日には勤め先だった東京工大の構内や近くの洗足公園などに案内して もらったりしていた。桜のときは銀座や新宿御苑にも案内してもらいました。銀座の銀馬車を訪れ、コヒーを飲み ながらロンドンベリーの唄で疲れを癒した日のことは忘れられないなつかしい思い出です。帰り道、家の近くで カレーうどんをご馳走になったことも嬉しい思い出です。

◇ 下宿をしていて困ったのは、交通費と食事に意外と生活費が嵩むこと。同僚から宿舎の話を聞くと、公務員 官舎は宿舎費がゼロという。伊能家から離れるのは好まなかったが、思案の末、私も公務員宿舎に入ることにし た。場所は宮城のお堀の内側。竹橋を渡ってすぐのところ。建物はお城の建物同然で、凄く重厚で立派な建物でし た。途端にお公家さんにでもなったような気分になる。でも、広々とした部屋に同僚がフトンを並べて寝る有様で す。勤め先の航空局までは、電車に乗ることもない。徒歩で竹橋を渡ってお堀端に沿って少し歩くだけ。航空局の 建物は当時は大手町にあったので、交通費と下宿代がゼロになり、以後私は生活費で困ることが無くなった。

◇ 戦後のわが国は米国によって航空部門の活動を禁止されていた。ところが昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、 これで米国がどのように考えたのか、昭和27年にはわが国の航空事業の再開を認可した。ところで航空の世界は まさに日進月歩の世界。戦後7年して再出発することになった日本の航空界は殆んどの分野でゼロからの出発で した。私が所属する課は航空管制の業務が仕事。それは米国で生まれた新しい業務でした。それゆえに所属する 管制課にも、航空局の局内にも、業務の内容がわかった人がいなかった。

◇ 航空局といいながらも近代的な最新の航空行政については全くの暗中模索の状態で、なにもかも米国の空軍 から教わらないと分からない状態でした。そんなことでしたので、東大出などの優秀?な新人3名ほどは入局して間 もなく職場に見切りをつけたのか、去っていきました。米国で教育を受けている先輩3名が帰ってくるまでは、一 年前に入局した先輩から航空機力学を、気象庁の杉田様から気象学の講義を受ける。半年ほどして新人に必要とさ れるオリエンテイションの課程だけは終了した。

◇ 後になってわかったのだが、入局して受けたオリエンテイションの課程は、米国大使館で受けるナイン(9)パー ツと称する英語による航空に関する9 科目の学科試験に合格させるためのものでした。この試験に合格したもので ないと、駐留軍が管理する米空軍基地で業務の実務を習うことが許されなかったのです。

◇ ナインパーツの試験が済んで、私は九州の北端、遠賀川の畔にある芦屋米空軍基地に派遣されることに決まっ た。朝鮮戦争の時はとても重要な働きをしていた空軍基地でした。ここを基地としていた米空軍の飛行中隊名は、 1231ST AACS { AACS ; AIRWAYS AND AIR COMMUNICATIONS SERVICE } Squadron, Military Air Transport Service APO 75 San Francisco, California.

◇ この基地の米兵4〜5人で編成されている管制グループに、われわれ航空局の派遣職員一名が配属されて米兵と 一緒に仕事をするのです。だから右を向いても左を見ても米兵ばかり。日本語は通じない。幸い初めのしばらくは 一年前に配属された先輩(優秀な広川章氏)が付いてくれたので本当に助かりまし。日本語を話すと、一語につき10 円の罰金と冗談半分に米兵に脅かされていたのです。訓練の成績がよくないとエリミネイト(eliminate)と称して、 部隊から訓練を拒否されるのです。「こんな奴の面倒は見られない」と、航空局の本省に報告されたら一大事です。 そんなことになれば、こちらとしては出世の致命傷になる。そこで、いつもぴりぴりしていました。

◇ ところが、人の出世とはわからぬもの。派遣されたところでエリミネイトされた人間でも、本省が別の配属先を 見つけるのに困って、やむなく本省のデスクワークに就かせる。そして月日が流れる。すると派遣先で頑張ってい た職員よりも、本省で仕事をしていた人間の方が事務が出来るということになる。エリミネイトされた者の方が出世 街道を驀進するのです。

◇ 芦屋の実弾射撃場へは空の薬きょう(真鍮)を拾いに金網を潜り抜け無断で入る地元の人がいた。弾に当たって 亡くなった人もいたと聞く。朝鮮戦線で戦死した米兵の死体はひとまずこの空軍基地に空輸される。それを更に米 本国に空輸するための処理、死体を綺麗に整えるアルバイトがあった。ドライアイスなどを詰め死体の腐乱を防ぐ 手立てをするのです。一体につきアルバイト代が1 万円と聞いた。当時の私の月給は9,000円でしたので、いいアル バイトだなあと、ちょっとうらやましく思っていた。

◇ 米兵との会話は、ジェスチャーも使えるので幾分助かりましたが、管制業務をする管制塔にかかってくる電話に は全くのお手上げでした。なにを言われているのか理解できない。学校で学んだ英語はなんだったのかと思いました。 主として目で学んだ英語は会話には殆ど役に立たなかった。適当に電話コードを繋いで会話を傍聴する。会話の調 子がおかしいときは、すぐ文句の電話がかかってくる。そこで電話コードを違うジャックのところに挿す。会話が弾ん でいるときは、交換機の操作がOK だったということです。全く無茶苦茶なことをしていたのです。

◇ 役に立つ英語の習得は、幼児が母親から言葉を教わるのと同じように、とにかく米兵と触れ合う機会を多く持ち、 耳でゼロから学ぶことでした。文法など基礎的な学問は学校で勉強してきているので、それはそれなりに役には立ち ました。しばらくすると跳び跳びではあるが会話の中で使われている言葉や単語が聞き取れるようになる。一年も経 つと大体のことがわかるようになる。3 年も米兵と一緒に仕事をしていた同僚は会話能力が歴然として上達していま した。言葉がわからないと何も出来ないので、懸命に努力したが、英会話の能力は、私の欠陥である難聴が禍してか、 未だにお粗末で恥ずかしい。

◇ 兵士の言葉は出身地によって発音は一様でなかった。私が経験したことだが、テキサス出身の兵士で発音が凄く 陳腐なのがいた。確かソーントン(Thornton)という名の兵士でしたが、彼のなまりはひどかった。米兵同士でも相手 の発声の異常さを取り上げ笑い種にする。またスラング混じりの汚い? 英語を耳にするのは日常の茶飯事でした。言 葉と言葉の繋ぎに必ず人を罵倒する下品な言葉を面白がって挟むのです。そして一人で意気揚々としている。そんな 下士官や兵士が多かった。世の中が正常な今時なら、そんな言葉を不用意に口にでもすると、場合によっては裁判沙 汰にもなり兼ねない。その点、将校の英語は上品で綺麗でした。さすが教養のあるお方の英語は違うと感心していま した。

◇ 米兵は小遣いがなくなるとカメラを貸りに来る。質屋に行って小遣いをひねり出すのです。仕事の些細なこ とで口喧嘩をしたりしていたが、当時のことを振り返ると一緒に仕事をした時の兵士のことがとてもなつかしい。 アメリカ人はみんな気さくでこせこせしたところはなかった。一緒に仕事をしたアメリカの若者たちが、今どこ で何をしているのかを無性に知りたく思うときがある。

◇ 芦屋の米空軍基地は朝鮮戦争のとき主として武器弾薬などの輸送基地として使用されていた。ジェット戦闘 機もいたが、それは数機で、空港で翼を休めていた大半の航空機はP-39?という双胴の輸送機でした。常に100程 駐機していた。戦闘に加わるジェット機は隣の板付空港、今の福岡空港を基地としていた。

◇ 世界の何処かで相変わらず続けられる戦争ごっこを見ていて思うのだが、第2次世界大戦でわが国に勝った 国がアメリカだったから、よかったものの、もしも、ソ連などに大敗していたなら、どんなことになっていたか とも思う。だが、本当のところはわからない。イラクに進攻した米兵がイラクでしていることをテレビで見ている とそんな気がする。市民に銃を向け、無抵抗の赤ん坊まで殺害する米兵がいるのには驚きと恐ろしさで怒りがこみ 上げてくる。時と場所が異なると、アメリカの兵隊もなにをするか、信用できない。

◇ どこの国の兵隊も戦場では教養に欠けるお粗末なことをする。ところが日本の兵隊はどうだったのか。聞くと ころによると中国では米兵以上の残忍なことをしていたようである。捕虜を拳銃で刺したり、無抵抗の支那人を機 関銃で射殺したりしていたらしい。恐ろしいことだ。帰還した日本兵は家庭では「知らぬ存ぜぬ」で、黙っている から本当のことはわからない。人間は国や人種の如何にかかわらず、戦争となるとみんな同じように残酷なことを 平気?でする動物になり下がる。悲しいことだが、地球上ではこんなことがいつまで続くのか?

◇ スターリンが率いたソ連軍に本土を占領されていたならどうだっただろうか。これはまた米兵以上に信用ならな い。想像もつかない酷い目にあわされたかも。スターリンは側近の者をも含め、気にいらなくなると、ありもしない 屁理屈を擦り付けて、挙句の果てに秘密警察のベリヤに命じて抹殺してしまうのだ。実に恐ろしい人間だ。自国民で さえも数万人も処刑したというではありませんか。とても考えられない地獄の鬼以上に恐ろしい人間。人間の皮をか ぶった悪魔とはスターリンのことか。

◇ 側近の命もスターリンの意のままだったらしい。側近といえども様々な方法で試された。1943年 娘のベストラー ナが恋に陥ると、恋人を逮捕してシベリヤへ送るという無謀ぶり。娘のベストラーナに向かって親族をどうしても庇う なら、お前を牢屋に入れるか、と脅したという。そんなことから 娘のベストラーナは「父は、我が家の元凶」といっ て世をはかなみ、短銃で自殺してしまいました。嘘のような本当の話。まことに気の毒なことです。

◇ スターリンにとって1912年来の友人であるモロトフ外相は、妻がユダヤ人であることから妻との離婚を強いられ た。シベリヤへ送られる妻とモロトフは会うことが出来なかった。ニキタ・フルシチョフ曰く、「踊れ、といわれた ら、踊るのが正しい」と。こんなことから側近のもの、ベリヤ、モロトフ、フルシチョフ、それに息子のワシーリな どからもスターリンは命を狙われていたという説がある。事実、スターリンは毒を盛られ、吐血の挙句、医者も呼ん でもらえず謎めいた死に方をした。

◇ 政治家や軍が戦争を始めると国民はとてつもない代償を払わされる。その上、実に悲惨な目にあう。ところが、 そんな軍部のはしりがわが国では警察予備隊として発足し、今や自衛隊と称して世界第4位の軍備を保有するまで になった。最近では海外にまで出かけるようにもなった。その変わりように唖然とするが、2007年には防衛庁の庁 が省に格上げされ、やがては憲法を変えそうな勢いだが、さて、どうなりますか?

◇ 戦争を知らない世代の人間が多くなると、戦争の恐ろしさに鈍感で、わが国もこれからどのような世の中にな るのかわからない。大砲や機関銃を持った軍人に国会の議員が予算取りで勝てる筈がない。軍事費はいずれそのう ちに増大し、挙句の果てに戦争を始め兼ねないことになるのではないか。シビリアン・コントロールなんて、どこ まで信用できるのかわからない。最近では大臣の指示に従うのを嫌って文句をいう次官がいるらしい。今後、この 問題がどの様になるのか? 国民は気をつけて監視している必要がある。でないと、いつの日にか昔のように軍隊が 羽振りをきかせ、国民の生命財産をないがしろに弄ぶのではないかと危惧する。

◇ かっての戦時下では、わが国は何かにつけて「神の国だから負けるはずがない」と安心させられていた。神様 直系のご子孫である「天皇陛下がいらっしやる国」、また「なにもかもが兵隊さんのお陰です」と唱えさせられ、命 を賭してお国のために奉仕することを強いられた。それを若者の本分とするよう洗脳されていたのです。国民のた めに国があるのでなく、国のために国民がいるのだ。独裁国家で今問題を起こしつつある北朝鮮とかってのわが国 も国情はよく似たもんだったといって過言でない。

◇ 現在の大阪国際空港は終戦直後は米軍のB26軽爆撃機の基地でした。米空軍のエアーベース(air base)だ ったのです。伊丹と同様に日本のかっての主要空港は、すべて米空軍が管轄し使用する基地になっていました。 日本政府は早い機会にこのような状態から脱するため、空港管理と運営を日本人の手で行なえるようにしょうと、 東京、福岡、千歳、伊丹といった米空軍基地には、航空局の職員を派遣していた。その中で伊丹は日本職員の努 力が米軍にいち早く認められ、昭和32年10月1日で航空管制業務だけは日本人の手にゆだねられることにな った。伊丹に駐在していた私達航空管制官にとって、これは誠に名誉なことでした。

◇ 伊丹空港の自主運営の日取りが決まって間もないとき、山口君という一年先輩の管制官が米兵の自動車に撥 ねられて急死した。また日本人の主席管制官であった藤本利幸さんが渡米することになり、伊丹では二名の欠員 が生じた。その要員充足で急遽、私と同僚の高橋喜義君が九州の芦屋空軍基地から伊丹へ移動することになった。

◇ いよいよ空港の返還日が迫った9月30日のこと。日本航空の雲仙号(DC-4)が南に向かって離陸したが、エンジ ンのキャブレターの故障で庄内の田圃に不時着した。不時着の寸前に高圧線に触れたことが幸いし、雲仙号は地面 への激突を免れた。その結果、一人の死者も出さずにすんだ。だがこの事故のため、米軍からの航空管制業務の引 継はやむなく先送りになる。少しばかり遅れはしたが管制業務の引継ぎに続いて、昭和33年には伊丹の空軍基地そ のものが日本政府に返還された。そして、空港の名称も伊丹空港、または大阪空港と呼称されるようになる。

◇ 九州の芦屋空港では離発着機の99%が米空軍機でしたが、私が赴任した当時の大阪空港では、離発着機は軍民 半々でした。空港が全面的に日本政府に返還された昭和33年以後は日に日に民間機の常駐と発着が増え、益々民間 の空港らしく変貌していった。全日空が大阪空港を母港として使用するようになってからは、夕刻時に帰港する全 日空機の混雑で管制業務は凄く忙しかった。一時間に34機の到着機を誘導し、着陸させた憶えがあるが、この時間 帯の忙しさはとにかく凄かった。後日労働組合の指導で危険を冒してまでサービスするのは間違いとされ、今では 1 時間に34 機も着陸させることはなくなっているはず。

◇ パイロットも管制官も天候のよい時は平常心でおられるが、天候がよくない時は緊張する。パイロットが緊 張するのはわかるとしても、地上にいる管制官も業務の多忙さで緊張するのです。だから安全第一と考えるので あれば、天候の悪いときは航空機に乗ることは止した方が賢明のように思う。

◇ 空の安全を支えるために毎日神経をすり減らし仕事に熱中しているうちに年齢も30才を過ぎた。徐々にでは あるが収入も増え、家庭を持てそうになってはいた。だが、公務員の給与は安いので結婚はどうしても先になる。 ところがそれでも結婚適齢期になっていたので、職場の同僚 T.Mochida氏やMorimoto 氏には心配していただき、 ありがたいことだったと未だにそのときの事を思い出しては感謝しています。何回か見合いもしたが、決断が簡 単には下せない。結局は、父の知人の紹介でとある女性と結婚することになる。そんなことなので結婚に関して は全くの両親のお陰と感謝しています。

◇ 一番最初の結婚話は、父が探してくれた娘さんとのことで、壬生寺の前の饅頭屋さんの娘さんでした。次は 市役所の文化財保護委員会の娘さん。話がまとまらなかったその次は、京大の研究所で助手をしていた娘さん。 もう少しで結婚するところだったが、これもなぜか駄目になる。でも、男も年頃だと次から次えと結婚の話がも たらされる。

◇ 母は母なりに心配してくれました。親戚の娘さんで、母親同士では結婚を話し合っていた娘さんがいました。 でもそれはそれまで。母の里のご近所の娘さんや、大阪にいる遠い親戚の娘さんなどとのことも考えていてくれ ましたが、いざ結婚の話となると、なかなか決心がつかない。欲なことを考えていたから話が纏まらない。

◇ 結婚相手が決まってからは、結婚の式場は二人で相談し、平安神宮と決めました。二人で平安神宮の社務所 を訪ね、挙式の手続きを済ます。結婚式の日は幸い晴天に恵まれました。披露宴は近くの青蓮院で行いました。 それからは二人と見送ってくれるお方と京都駅に直行し、紀州半島一周の新婚旅行に出かけた。旅行から帰って きて落ち着いた所は大阪空港の中にあった航空局の官舎。ところで官舎とは名ばかりで、その建物は大阪空港内 に残っていた米軍将校の宿舎を公務員宿舎用として少しだけ改造したものでした。

◇ マイホームを獲得するだけの力がないので仕方なくその宿舎に落ち着く。それから1〜2年ほどして、新築の 鉄筋コンクリートの宿舎ができたので、そこに移ることになりました。ところが一年ほどして、コンクリートの 建屋は家内の健康維持に適さないということになり、空港内に残っていた元米兵用の二階建ての木造宿舎に移り ました。そんな移動を繰り返しているうちに、子宝には恵まれ、一男三女を得る。子供が一般家庭の倍?になった ので、休日など暇なときマージャンしたり魚釣りに出かけるなどする余裕はない。弟の紹介でサンヨー電機の協 力会社を紹介してもらい、そこでトランジスタラジオの修理をするなどしていた。

◇ 仕事の話ですが、誘導する航空機の数が多くなると、記憶していなければならない情報も当然増える。航空 機のコールサイン、型式、飛行高度、飛行速度といった情報がその主たるものであるが、これらを間違うと空中 衝突の元を作ることになる。一人で管制する機数は、通常は神様が下さった手の指の数が限界だと思うが、とき にはそれ以上の機数を一人で誘導して威張る輩が現れる。指示を間違えたり油断して空中衝突にでもなればそれ はそれは大変です。多くの人命が奪われるのは勿論のこと、己の人生も破局を迎えることになる。因果な仕事に ついたものと思うことがあったが、転職する勇気はなかった。

◇ 最終進入経路上の航空機をレーダで誘導するときは、GCA というレーダを用いるのだが、管制官が5 秒間以 上黙ると航空機は着陸を断念して、進入をやり直す約束になっている。使用言語は英語である。やり直しを繰り 返していると航空機はいつまでたっても着陸出来ない。燃料がななれば不時着か墜落です。したがってパイロッ トも管制官も視界不良でGCAの誘導時は互いに真剣そのものである。乗客の安全は本来は考えるべき最重要項目で あるが、レーダ誘導しているときはそこまで考える余裕はない。耳目に神経を集中し、レーダ画面上で動く小さ な機影を追ふのみでした。

◇ 私は大阪空港在職中、大阪城の上空から空港に向かって真っ直ぐに進入するジェット機をGCAという施設を 使って約1,000機ほど誘導・着陸させました。誘導のやり直しをしたことはない。すべて安全に着陸させた。ジ ェット機の誘導は、プロペラ機の場合と違なり飛行速度が早いので、進入方位と進入高度を正しく維持させて誘 導するのはとても難しい。とても神経を使う仕事でした。

◇ ところが時代が変わり、最近は便利な機器や計器類が開発され、パイロットが操縦席の計器の針の振れの みを見て独自に安全に着陸できるようになった。今後またと経験することのないGCA誘導という得がたい経験を させていただいたことは貴重な経験で、財産だと思っている。

◇ 私の趣味は大学3年生の時始めたラジオ技術。そんなことでトランジスタラジオの修理は凄く順調に捗った。 一台の修理に要する時間は平均して20分程度でした。だから毎日20台ほど修理していました。腕時計と間違える ような小さなトランジスタラジオの修理も沢山しました。この場合は家に持ち帰り、一晩でやはり20個ほど修理 をしていた。毎晩深夜の2時過ぎまで頑張っていた。稼いだ金でマイカーを獲得すると、会社からは車を持って いるので、いろんな他の仕事を持って帰ってするように勧められた。同僚の奥方やご近所の方達にも協力しても らい、多いときは手伝ってくれる人の数が50人近くになっていた。

◇ 三洋電機の仕事が細ったときは、ナショナルの下請け会社を尋ね、マイクロモーターの組み立てをしていま した。いい仕事をすると会社に信頼され、依頼される仕事の種類も量も多くなる。積み込んだ部品の重さでマイ カーの車軸が折れはしないかと心配して走っていた。遂に公務員を辞めて電機関係の仕事で独立するよう勧めら れた。これにはどうするかちょっと戸惑いました。仕事が終生あればよいが、こればかりは誰にもわからない。 そこでそこまでする自信がなかったので、結局は公務員の仕事を続けることにした。

◇ アルバイトで稼いだ資金は株にも投資したが、7%の金利で定期貯金するのと結果は同じだった。マイカー1台 ではときどき家内と取り合いになる。そこでブルーバードを2台持つことにした。子供が運転免許を持つように なってからは更にバイオレットも購入した。それに加えて譲ってもらったバイオレットもあり、一時は計4台のマ イカーを所有していた。家内もよく働いてくれました。家内は得意とする呉服の仕事に加えて、私の仕事も手伝 ってくれました。二刀流で走り回ってくれたから、家内も365日我が家には休日というものはなかった。目が覚め たら仕事々々で毎日がとても忙しかった。

◇ そんなときに京都にいる父が肝硬変で入院した。手術を要するということだったが、父はそれを嫌って家で 療養する方法を選んだ。病だけは親子の間柄であっても直接手を出して治したり助けることは出来ない。宝塚の 近くにある清荒神へ病の治癒を願って子供達を連れて家族全員でよくお参りをした。私が41歳のときでした。男 の厄年ではなかったか? 体調の異常に気づいてから3年程して父は77才でこの世を去った。

◇ 義父(家内の父)の協力と勧めもあって昭和45年には最初のマイホームを獲得した。それから2年ほどたった 昭和47年(1972)に搭乗訓練でサンフランシスコまで飛ぶことになった。国内便のジャンプシートはいろいろと経 験ずみだが国際線として海外の空を飛ぶDC-8型機のジャンプシートは初めてなので少々興奮気味でした。日付変 更線を飛び越えたときのスチュアデスの機内放送を聞いたときは感動しました。何もかもが新しいことで気分の 高揚度はまさに最高。よくぞ航空局の職員になったものと頼もしく思った。

◇ ロングフライトの後、米国の西海岸に近づくと、コクピット(操縦席)の窓越しに遥か前方を横切って飛ぶ小 型機の機影が一機二機と視界に飛び込んでくる。日本の空では見られない光景だ。緊張する一瞬だったが、間も なくサンフランシスコ空港に無事着陸する。その後は、調査したかった管制機器のことなどがあったので、早速、 管制塔を尋ねることにした。またサンフランシスコ湾の真向かいに位置するオークランド空港の管制施設にも足 を運んだ。

◇ サンフランシスコでは、空港にある日本航空の事務所のスタッフ、山口さんには自動車で街中をいろいろ案 内してもらいました。観光の名所と言えるところは殆どといっていいほど案内していただいた。ゴールデンゲイ トブリッジを渡ってサウサリートというところにも案内していただいた。そこには太平洋を一人で渡った堀江青 年のヨットが展示されていた。初めて見るアメリカの風景は何もかもが新鮮で夢の中を歩いているような心地で した。

◇ 帰りのフライトは、羽田空港への直行を止めて、ハワイで一泊することにした。ワイキキの浜辺ではフラダ ンス・ショウを見たときは、もう夢心地。目に入るものすべてが新鮮で、天国とはハワイのことかとも思った。 そんなフライトを経験した翌年の昭和48年(1973年)でした、羽田空港への転勤の話が出た。この話は途中で移動 先が三鷹にある運輸省電子航法研究所となる。私が45才のときのことでした。

◇ 大阪ではすでに15年間勤務していたので転勤は断れなかった。受け入れ先の研究所では調布に官舎を確保し てくれていたが、我が家は家族が6人と多く、家具類も多いので、事と次第によっては大阪のマイホームを売って 東京にマイホームを獲得する必要があるのでは考えた。家内と二人で急遽東京で家探しをしたことがある。八王 子、立川、国立などを見て回った。八王子ではこれはと思う家もあったが、肝心のものが不足で断念せざるを得 なかった。さて、どうするかと考えているうちに赴任の日が迫まる。仕方なくマイカーに寝具と鍋釜を積み込ん で早朝に東京に向かって一人で出発する。

◇ 先ずは一走りし、京都を過ぎて大津で小休止。ここから先は初めて走る未知の世界。気を引き締めてハンド ルを握る。米原を過ぎる頃になると家族のことが脳裏から薄らぎ始め、代わりに脳裏を占拠するのは訪れる先の 東京のこと。東名高速はトラックに囲まれて走ることが多いので危険極まりない。大型トラックと併走して走っ ていると吸い寄せられるような感覚に捉われる。2 時間以上走り続けるのは注意力が散漫になり安全上よくない と言われてたのでい、頃合をみて適当にサービスエリアで休憩する。

◇ 名古屋を過ぎるとすぐに浜名湖だ。浜名湖はかって訪れたことがある。大学(2年)のとき(1952年)のことでし た。学友の福井君と東京にいる高校の友達、池内君を訪ねる旅の途中に、福井君の親戚が浜名湖のそばにあった ので、そこのお宅で小休止。浜名湖でご家族と一緒に海水浴などして遊んだ。そんなことを思い出してひたすら 走っていると、三ケ日の手前で警官たちが道路封鎖をしている。何事かと見ると事故が発生していたのです。仕 方なく高速から一旦地道に出る。当然スピードはぐ〜んと落ちる。心配なのは慣れない道を迷いながら走ってい て目的地に着く時間が遅くなりはしないかということでした。

◇ 海老名のサービスエリヤを過ぎていよいよ東京都内に入ったかと、車を止めて地図で調べると聞き覚えのあ る地名は、世田谷でした。そこは正に東京だ。関西とどことなく家の佇まいが違う。空気も違うよう。時刻は深 夜の1時を回っている。調布はまだ先だ。初めて訪ねる土地だから地名に細心の注意を払って車をさらに西へと 走らせる。調布の官舎はどこかと道に迷って訪ねようとするが、深夜で人影がない。結局、地図と電柱や家の表 札に記してある地名番地を頼りに終着点の官舎に辿り着いた。

◇ 東京では慣れない一人暮らしが始まる。母と家内の食事は喉を通るが、外食はほとんど経験がないの で凄く苦労した。外食食堂で母や妻の料理を思い浮かべながら、サンマと大根おろしと味噌汁を涙を堪えて 食事をしていた。外食も大変だったが、官舎に帰ると全くの一人ぼっち。大阪に置いてきた家族のことがと ても心配だった。だからといって大阪に電話をすると料金が嵩む。公務員の安月給で二重生活だから、何か につけて大変でした。

◇ 外食で好きな食事ばかりしていると体調がおかしくなってくる。心臓の鼓動を感じるようになるのです。 でも、八百屋や魚屋の店先に立つのが恥ずかしくて、一度買った店には二度と立ち寄らなかった。マイカー があるのであちこち他の店を探して走っていたが、それも長くは続かなかった。

◇ 研究所での仕事は航空管制の研究でした。運輸技官からそれまで聞いたこともなかった研究技官という 職を拝命し、その上、初代の航空管制研究室長を命じられた。それだから、最初しばらくは面食らった感じ。 加えて私の研究室は、研究所の研究者全員が使用する大型コンピュータの管理もしなければならなかった。 年間のレンタル料がなんと6,000万円という大型コンピュータでした。管理をする責任上、コンピュータの扱 い方も理解する必要がある。

◇ 研究所に赴任するまで、コンピュータには触れたこともありませんでした。でも研究所に赴任してから は、研究所の大型コンピュータの維持管理をしなければならない研究室の室長となったので、大変でしたね。 コンピュータ室に備え付けの解説書や本屋で買ったコンピュータの本を読み漁ったが、理解はてんと進まな かった。なんとか分かるようになったのは、東大工学部数理統計学の教授、森口繁一著のJIS FORTRAN入門 という本に巡り合ってからのことでした。

◇ 航空局にいたときも耳が遠いことで人一倍人知れず苦労していたが、研究所でも同じことで、毎週開か れる研究所の会議では、言葉が十分に聞き取れなくて会議内容の聞き取りに支障をきたしていた。藤井所長 の計らいで、耳がよくないことを関係者に了承してもらい、可能な限り話者の近くに席を取れるようにして もらっていた。聴力がよくないのは右の耳で、片方だけが悪いと思っていたが、研究所の聴力検査で両方と も悪いといわれたときはショックでした。後日国際会議に出かける必要が生じてきたときは、周波数特性を 調節出来るドイツのシーメンス社製の高価な補聴器やリヨンの補聴器を購入したが、私の耳には合わないよ うで、しばらくして使うのを止めました。

◇ 本来の研究もままならないのにコンピュータの勉強もしなければならないので重圧を感じる日々でした が、そんなとき京都に置いてきた母が胃癌で手術をするという。これには参りました。手術の無事を願って 母校の京工大の先生を訪ねもしました。執刀にあたる京都府立大の先生の知り合いと聞いていたからです。 手土産にウイスキーのボトルを持って訪ねました。執刀にあたる医者は日本一の技術を持つお方ということ だったが、手術の結果はよくなかった。結局、母は京都府立大の先生に体よく殺されたのだと思っている。

◇ 肝臓から出る胆汁を小腸に送り込む管を十二指腸のところで結合するのに失敗されたのです。結合部か ら滲み出る胆汁が母自身の体組織を溶かし始めたのです。これが原因で高熱が出た。再手術しないと命も危 ないという。失敗されても文句は言いませんと実印を押して再手術。術後は集中管理室での看病となる。と ころでこれがまた大変。一ヶ月の集中治療室代が当時の金で30万円。蓄えがなかったら家計は破産です。「 地獄の沙汰も金次第」というが、アルバイトで稼いだ蓄えがあったから凌げたのでした。

◇ 母を見舞うため、事情が許す限り機会を作って帰阪した。初めはマイカーで帰阪していたが、新幹線を 使ってみて新幹線のありがたさが身に沁みる。母がもう助からないとなると患者の好きなように家に帰って 養生してもよいことなる。そこでしばらく弟夫婦が世話してくれていたが、母も死期が近いと悟るとり、実子 である長女のところへ行くことを望んだ。そんなことで伊勢の津にいた姉が引き取って世話をしてくれたが、 母の命もそれまでだった。父が亡くなって5 年後に、父と同じ77才で天国?に召された。

◇ 神仏の存在を信じ、とても信心深い母だったが、その母の死でこの世には神も仏も在るものかと悔しかっ た。京都の家で葬儀をするため、弟が借りてきたバン型車に母の亡骸を乗せ、弟の運転で夜中に津から京都 まで走った。両親に亡くなられると弟や姉妹がいても長男ゆえに天蓋孤独の感が強かった。私の姉も母の死 後20 数年後に膵臓の手術を南丹病院で受けたが、手術のあと意識が戻ることもなくこの世を去った。

◇ 親の不幸が続いたが、大阪にいる子供達はぐんぐん大きくなる。親は無くても子は育つというが、その 言葉どうりです。そしてもっと部屋数の多い大きな家が欲しくなる。帰阪する度に家内と周旋屋さんを訪れ ては、その案内で中古の家で大きいのを探して回った。しかし、こちらの思いに適うのがなかなか見つから ない。そこで奮発して池田銀行で目いっぱいの借金(\10,000,000)をすることにした。そんな決断でまあ何と か納得のいく家を新築することができました。左に掲げた家の写真がその家の写真です。

◇ 二回目のマイホームの獲得もきりが付き、元気を出して仕事に集中する。はじめは無理かと思っていた 研究の仕事も、「何事も石の上に3年」で、少しずつではあったが格好がつくようになる。研究所での仕事 には国境はない。勿論学歴も関係ない。実力だけが問われる世界である。研究のレベルは世界的な水準に置 いて、未解明の問題を探し出し、その研究で得たものを論文の形にして発表する。ハガキ一枚も録に書けな かった私に、これは酷すぎた。だからと言って逃げ出すことも出来ず、実に厳しい日々が続く。

◇ ある日、多摩川に近い西調布の官舎でテレビを見ていると、ノーベル賞を受賞された京工繊大の福井学 長がテレビ対談をしていらっしゃった。ところが映っているその場所、その部屋は、私が学生の時、お世話 になっていた津田家で使っていた私の部屋、9 畳の間でした。テレビの放映がなされていたときは料亭土井 の座敷になっていましたが、その部屋にバイバイしてから20年近い年月が経ち、世の中と己の変わり様に一 瞬目が醒める想で、しばし感無量でした。

◇ 仕事に専念していると研究の成果もそれなりについてくるが、毎年訪れる研究発表会で発表したくな るほどの研究は、そんなに簡単に出来るものではない。本人の意思とは関係なく研究職を命じられた者に とって、これは誠に至難の業でした。研究者としての自信がなかったからでもあるが、研究者という仕事は できればご免蒙りたかった。しかし、そんな泣き言を言うだけの力を持ち合わせていなかった。

◇ ところでここで特筆したいことがあります。研究のリーダー格で上司でもあった先輩の武藤忠雄氏 の存在です。記憶力抜群の稀にみる非凡な才能の持ち主のことです。この上司にめぐり会えたことで私 の人生は悔いのないものになったと心底思っている。

◇ データ収集で協力を是非ともお願いしたい航空会社などには、私の紹介と合わせて私が最も苦手と する協力依頼の労を「率先して」取ってくださった。英会話の巧みさは、運輸省と科学技術庁を合わせ てナンバーワンというお墨付きの俊才。その才能ゆえにフルブライトで渡米され、世界に先駆けた米国 のコンピュータシステムなどを学び、帰国後、わが国の管制システムにコンピュータシステムを導入する 予算獲得などで尽力された。この先輩のこの努力がなかったら日本の航空管制システムへのコンピュー タシステムの導入はどれほど遅れたことか。

◇ 研究所では研究の成果が上がらず、壁に突き当たり自殺する人がいる。それが50人に一人出る程度 なら研究所としては何も驚くほどのことではないとゆう話を聞いた。『世の中にはいろんな職場があるが、 研究所ほど厳しい職場はないのですよ』と藤井弥平所長から直接耳打ちされたことがある。そんな厳しい 職場に何も知らずに来たのだから万事窮すの態だった。

◇ まことに厳しい職場でしたが、私は優れた先輩と気立てのよい若者が傍にいてくれたので救われまし た。ところが何もかもがうまくはいかなかった。一緒に研究していた若者で東京工大卒後、東大の修士課 程にも合格していた優秀な青年が幻覚症状が災いして四谷のとあるビルの一室で自殺した。更にもう一人、 東大大学院卒の若者がうつ病にかかった。どうしてなったのかわからないが、研究職とは聞いた話の通り 真に厳しい職のようだ。休職したりしていたが、私が退職した後に聞いた話では、結局、職場を去って行 ってしまったという。英語の論文を見たことがあるが、がっちりとした文体で感心した。だが、その若者 がそんな結果になってしまってことは今も残念に思うことのひとつである。

◇ カナダ・モントリオールで隔年開催される管制間隔概念の再検討会議(RGCSP : the Review of the General Concept of Separation Pannel)には、上司武藤忠雄氏の計らいで後を継ぎ出席することになる。 会議が必要とした航空機の航法精度の資料作りでは、日本無線の押尾忠さんと五島さんにお願いして製作 してもらった世界に類のない測高レーダが大活躍をしてくれることになる。

◇ この測高レーダは、舶用レーダのアンテナを航空機のプロペラのように水平軸の周りに回転させるもの。 航空機で反射されたレーダ信号を受信処理して航空機の飛行高度を推測する。主要航空路の直下に設置し、 無人でもデータ収集が可能でしたので、諸外国に先んじて万単位の多量のデータを収集できた。その解析結 果は国際会議で高く評価され、会議の事務局から外務省を通じて、データ収集継続依頼の書簡が届くことも あった。実に名誉なことである。開発した測高レーダは仕組みの独自性ゆえに会議は勿論のこと、海外の 学会でも評価され、東大に論文掲出した研究者長岡栄君には工学博士の号も授与された。また英国の大百科 事典Encyclopaedia Britannicaにも解説の記事が掲載されることになった。

◇ 先見の明がある先輩は、米国連邦航空局やその付属研究所への訪問もOKでした。新しいアンテナの 開発に際しては、米国の研究所を訪ねて技術者から直接貴重な話を承ることも出来ました。今日我が国の すべての空港に採用され、航空交通の安全に日夜貢献している高性能オープンアレイ型SSRアンテナの開発に私たち が成功できたのは、この先輩の指導の賜物である。

◇ このアンテナの試作は、T社の技術陣に依頼したのであるが、出来上がったアンテナの性能評価試験 では、思わしい結果がなかなかえられなかった。一時的に研究業務も暗礁に乗り上げた。このデッド ロック(deadlock:行き詰まり)ともいえる状態の打破に私が提案したアンテナの性能評価の方法が大きく 役立つた。その評価方法でT 社の試作関係者に実は性能のよいアンテナが出来ていたことを気づかせた のです。

◇ ここで紹介したい発明王エジソンの言葉がある。「天才/偉業とは、99%のパースピレイション(persp iration:発汗/努力)と1% のインスピレーション(inspiration:霊感/閃き)によってできる」という言葉 です。私に閃いたあのときのあの評価方法のアイデアがこの1% のインスピレーションにあたる。そして、 99% がT社の努力であったと思う。どのような仕事、事業でも、方法論や見方を変えた考え方ひとつで、 すばらしい結果を生むことを実感した。

◇ 試作したオープンアレイ型SSRアンテナを用いると従来のアンテナでは不可能な「綺麗な信号の受信」 が可能になった。乱れのない整然とした受信信号を処理するコンピュータは信頼に値する位置情報を出力 してくれます。それゆえにレーダ指示器上には正確な位置情報が得られ、航空管制官が航空機を誤って認 識したり誤誘導することが、まずはなくなる。すなわち安全運行の確保が可能になるのである。

◇ 日本の空港に離発着するすべての航空機が現在安全に誘導されているのはこのSSRアンテナの性能が齎 す成果の結果です。従来のアンテナでは虚像が発生するので、乗客の安全性を保障することができなか った。新型SSRアンテナの開発によってこの問題が解決され、これに優るものが開発されない限り、新型SSR アンテナは航空交通の安全に未来永劫に亘って貢献してくれるのである。現在のこの瞬間に於いてでもであ る。なんというすばらしいことよ!!

◇ このアンテナの開発に関与出来たことは、最高の幸せあり、私が関わった研究の中でもそれは最も価 値のあるものとなった。この世に生を受けた恩返しの働きが出来たとも私は思っている。研究所の発表会で は胸の高鳴りを抑えて発表をすることもできました。

◇ 国際会議となると日本語は使えない。世界第ニの経済大国でありながらこれはどうしたことか? 日本政 府の奮起を促したい。会議では、私が話す英語が数人の同時通訳人によって国際会議の公用語に同時通訳さ れる。このことを考えると、ど心臓なくしてはマイクに向かってスピーチできない。テーブルに備え付けの マイクボタンを押すのには相当の勇気と決断が要る。今となって思えば、それも実に得難い経験でした。

◇ 会議合間のコヒーブレイクのとき、ロシアの通訳から「エル(L)とアール(R)の発音が同じだが?」と問わ れたことがあった。それを区別して発音出来ればよいのだが、日本人である私にはそれはとても難しいこと、 と伝えて了承?してもらった。米国の研究者で討論で返す言葉に窮すると、こちらが理解困難と思える言い回 しでこちらの口封じをする人がいる。Mr. Bush である。会議での討論で優位を保とうとするのだろう。そん な時、助け舟を出してくれたのがドイツのMr. Bridenbachである。ドイツとは米英との戦いで助け合った仲。 そんなことがあったからだと思うが、欧州や米国に出掛けたとき、総じてドイツ人は日本人にとても親切に 接してくれる。実にありがたいことである。

◇ 大阪の我が家にいた中学生3年になったばかりの息子が第11中学校の学級の組み分け方に反発して東京に いる私のところへ来ることになった。官舎での二人の生活の始まりです。転校の手続きなど初めて経験する ことが次から次えと起こる。話相手が出来てよさそうだが、歳が違いすぎて会話らしいものは殆どなかった。 ところで食事のことは毎日のことなので気合を入れて動かないと格好がつかない。一人暮らしの時よりも少 しばかり早起きして、味噌汁作って朝の食事作りです。息子は昼の弁当が必要というので、魔法瓶方式の上 等の弁当箱を二つ買ってきて、私も弁当持って出勤することにした。毎日の副食品の買い物で結構頭を使う。

◇ 転校した時期が春の学校が始まって1ヶ月するかしないかという時期だったので、しばらくは教科書なし の日々が続く。どうしてやればいいのか戸惑いましたが、やがてバスケットクラブ入りしてからは友達もで きて学校生活にもなじんでくれた。日曜日には、二人で鎌倉の大仏や八幡宮などを訪れたことがあります。 鎌電に乗って鎌倉五山など鎌倉の有名なお寺を次々と訪ねたことが昨日のことのように思い出される。

◇ 鎌倉五山の「五山」とは、禅宗で最高の格づけをされた五つのお寺のこと。鎌倉時代に中国の五山制度 にならって、わが国でも鎌倉の禅寺に五山が設けられた。京都にも南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺 といった五山がある。鎌倉の五山で第一位の寺が建長寺、第二位が円覚寺、第三位が寿福寺、第四位は浄智寺、 第五位が浄妙寺です。この五山めぐりを題材にした息子の作文に少しばかり加筆してやったのが功を奏してか、 学校の文集に掲載された。

◇ 中学3年になってすぐに大阪から東京の学校に転校してきた息子は一年経って高校を選ぶことになったと き、意見を聞いたところ、大阪の高校に行きたいと言う。そこで息子は大阪の家に戻ることになったが、その 代わりというわけではないが、今度は長女が大学再受験のため駿台予備校で勉強することになり、私のところ にやって来た。御茶ノ水にある駿台予備校の生徒は殆どが東大を目指す。そんな生徒の頭のよさに娘は驚いて いました。

◇ 子供たちがそれぞれ大学受験の頃になると、本人は勿論のことですが、家中が引き締まった雰囲気に包ま れる。四人各様に大学へ進学してくれましたが、試験の合否発表の日は実に肝を冷やしました。福岡に出張し たときは学問の神様、菅原道真公をお祭りした大宰府神社まで脚を伸ばして合格の神頼みです。その甲斐あっ てか、長女は同志社大の英文科、次女は大阪教育大、三女は聖和短大、長男は大阪のどこだったか覚えていな い。みんなが健康でまずはと思える大学に進学してもらうのは大変なこと。もうこんなことで神経をすり減ら すのは御免蒙りたいと、つくづく思った。ところで「合格」のお礼参りはまだしていない。チャンスがあればし たいと思っていますが、福岡を訪れるそんなチャンスに恵まれるかが問題。遅くなって、道真様、ごめんなさ い。

◇ 国際会議では、初めの慣れないうちは言葉で表現できないくらい緊張するが「何事も習うよりは慣れろ」で ある。出席を繰り返しているうちに顔見知りも増え、幾分気楽に話せるようになる。国際会議に繰り返し出席 しているうちに、こちらの存在も知られることになり、欧州の航空交通を一元的に管理するユーロコントロール センターから、その25周年記念講演会に出席して講演するよう要請された。会場はユーロコントロールのルクセ ンブルグ研究所。欧州へ出向くのは初めてのことなので、東京にあるルクセンブルグ領事館を訪ね、会場となる 研究所のことなど、領事からお話を承った。領事は女性でしたが、親切に対応してくださいました。

◇ 講演会場は西欧諸国からの出席者で溢れていた。そこで、会場に入りきれない研究所の人達のために会場 とは別にビデオの部屋が用意された。メイン会場を来客用に譲った研究所のスタッフ達は、別室に用意された ビデオ室で会議の成り行きを見ていただくことになった。

◇ 研究所長の前置き(Introductory Presentations)で講演の幕が切って下ろされた。トップバッターは英国 の紳士、R.D.Hunter氏。題目は「The challenge facing Air Traffic Management in 2.000 ad」。(adは西暦)、 英語はお手の物だから、講演は立て板に水の調子。会場は静まりかえっていた。二番目は米国連邦航空局(FAA) のR.E.Machol氏。テーマは「Prospective views for the year 2000 and beyond」。聴衆の反応には無関心で ひとりでしゃべっている感じ。

◇ 三番目は私です。その次はソビエトのMrs. T Anodina。30分の私の講演は「日本の航空管制システムの改善 策(The concepts to improve the present ATS in Japan)」。 題目が題目であるだけに講演の内容については、 あらかじめ航空局の検閲を得て発表は承諾ずみである。講演に続いて質疑応答となる。直ちに司会担当のフラ ンス研究所部長 J.M. Garot氏が私に問いかけた。ICAO(International Civil Aviation Organization)/国際民 間航空機構が近い将来導入を考えているACAS(Airborne Collision Avoidance System)/空中衝突防止システムの 導入についての意見を求める質問でした。

◇ 少しばかり専門的な話になるが、ACAS(エイキャス)とは、トランスポンダーというパルス電波の送受信が 可能な無線機のことです。これを搭載する航空機は管制官からの指示を待たずにACASからの信号で自主的な衝 突回避が可能となる。そんなことであるからACAS自体は衝突防止上よく考えられたものであるが、管制官の介 入を全く要しないシステムの導入は管制官の仕事を奪うことになる。よって管制官はそうしたシステムの導入 には賛成しないと思われる。ACAS の導入には管制官の同意を得るのは難しいのです。

◇ 「ACASの導入よりも、GPS(Groval Positioning System)と衛星通信の組み合わせで可能と考える洋上航空機 の位置表示システムの導入が先ではないか? このシステムの開発は現在の技術で可能であり、導入に際しても管 制官の反対意見はないものと考える」と述べたところ、会場が割れんばかりの大拍手に包まれた。会場にいた200 名あまりの白人の出席者すべてが拍手をしてくれたようでした。関西空港の建設や運輸衛星の打ち上げについて の話も受けたかも知れないが、このときの大拍手はとにかく凄かった。会場が割れんばかりの大拍手には驚き、 私はとても感動しました。会場にはACASの導入でICAOでの貢献が顕著なことから、英国政府からナイトの称号を 授けられた紳士もいたが、果たして彼も拍手をしてくれたでしょうか? 

◇ 私以外の聴衆はすべて白人。そんなことから私は少し遠慮して、会場の最後列に席を取っていた。ところが、 私の講演が済んだところで、新聞記者のカメラ撮影のこともあるので最前列の中央に移動するよう要請され、私は もてもての状態。講演が小休止に入ると、各国の出席者に囲まれ、集中的な名詞交換となった。講演会の後で開か れた宴席ではテーブルのセンターに置いてあるメニューの用紙を取りあげ、その裏に多くの方々が記念にとサイン をしてくれました。そしてそれを記念に持ち帰るようにと促された。私の人生でかってなかった最高の名誉な瞬間 です。

◇ 講演終了後の帰国スケジュールは、会議後ルクセンブルグで一泊してパリに飛び、パリでも便待ちで一泊する ことにしていた。ところが、会場で知り合ったフランス航空局の部長と課長の勧めで、結果的に私はパリで2泊でき ることになる。私に近づいてきたお二人は、可能ならば日本の空港を見学したいという考えを持っていた。私がお 二人の要望に応えて、日本での主要空港見学と管制機関訪問のスケジュール案を考えて示したところ、とても喜んで 、そのお返しとして、彼らも私に何かと心を砕き、親切に接してくれました。

◇ 会議が終了した日の夜はルクセンブルグのホテルで一泊する予約をしていましたが、課長が会場からホテルに 電話して、手っ取り早く宿泊のキヤンセルをしてくれました。こんなキャンセルの電話を私がホテルにすることは 到底無理なことです。会議最終日は会議終了後、直ちに彼らの知り合いであるフランス研究所部長 J.M. Garot氏 の車、ベンツでその日のうちにパリのホテルまで送ってもらうことになる。パリまでの航空券、「そんなものは誰 かにくれてやれ」という。貰ってくれる人も見つからないので、仕方なく勿体ないが役立たずでボツにしました。

◇ こんなことがあったお陰で私は最初の予定より一日早くパリに到着し、パリで2泊できることになった。おかげ で、一日は丸まるパリの観光でセーヌ河の遊覧ボートやルーブル美術館、更には短時間の観光バスの利用も可能と なる。

◇ 欧州ではタクシーもマイカーも時速140kmで走る。道路環境がいいからかも知れないが、乗ったベンツのエンジ ンが壊れそうな音を出している。だが、彼らはそんなことには無頓着で平気。機械を大事に扱うという考えは持ち 合わせていないようだ。安全を考えて、もっとゆっくり走ってくれと頼んでも、彼らはきかない。ルクセンブルグ からパリまで300kmあったが、この間も連続140kmのスピードでびゅんびゅん走る。パリに入るまでは見渡す限りな だらかな丘陵の連続。すべてがぶどう畑か農耕地のようでした。日本のように工場や住宅街が次から次へと続く光景 とは違う。見渡す限りの田園地帯を見て、フランスは工業国ではなくて農業国なんだと考えを改めました。

◇ 旅装を解いたノボテル・ホテルのフロントのカウンターには女性の係員がいつも3,4 人いました。ただし、英語 ができる係員はその内の一人だけでした。フロント嬢にルーブルへ行く道順を聞くと、「Rue de la Tuileries」 とか、「Rue de Rivoli」を目当てに行くようにと促がされた。ルーブルの近くまでは地下鉄を利用したが、下車する とき、あわてました。停車駅でドアーが開いてくれないのです。どうしたことかと困っていると、これを見ていた乗 客から、ドアーは自動でなく、手動であるとアドバイスしてくれました。流行の最先端をゆくパリの地下鉄が、こん な状態でしたので、これには驚きで納得がいきませんでした。

◇ 地下鉄を降りて地上に出るとルーブル美術館はもうすぐ目の前。館内で最初に見たのがミロのビーナス。続 いて見たのがタペストリーに絵柄を織り込んだ多くの緞帳。矢張り絵画が最も多く、その数は6,000点とか。美術 品の総計はなんと25万点に及ぶという。エジプトから運び込んだ大理石の彫刻もかなり沢山あった。全館を隈な く得心ゆくまで見るとなると3日でどうだろうか。

◇ ちょっと落胆したのはモナリザの絵。悪戯されないようにこの絵だけはガラスの箱で囲んであった。また縦、 横の寸法が1mもない小さな絵だったのには落胆した。嬉しかったのは大階段の踊り場にあった「勝利の女神像」。 これは、エーゲ海のサモトラケ島?で発掘されたというもの。これにめぐり遇えたのは格別に嬉しかった。閲覧途 中でコヒーショップがあるのに気がついたので、そこで小休止した。同じテーブルに居合わせたオランダの若い 男女との歓談に花が咲く。

◇ ルーブル美術館を再び訪れる日があるだろうかと考えながら去りがたい思いでカメラ撮影していたとき、一緒 になったドイツ女性にカメラのシャッターを依頼した。そのとき彼女が語りかけた話だが『フランスで仕事をした くて探している』とのことでした。フランスの航空局の部長と課長にその話をしてあげようかとも考えたが、それ は心の中での一瞬のひらめき。撮影し合った写真だけは後日交換することを約束して彼女とはAu Rovoir!!。

◇ 所要時間3時間の観光バスにも乗りました。オペラ座にはじまり、パリ万国博(1889年)を記念して建設された エッフェル塔、高さ50mで世界最大の凱旋門、芸術家の集合地モンマルトルの丘、この丘に聳える白亜の殿堂サク レクール寺院、キャバレーやナイトクラブが集まるパリの歓楽街、他にもノートルダム大寺院など走る観光バスの 中からでしたが懸命にカメラのシャッターをきる。観光バスには6ヶ国語で案内してくれるヘッドセットが各座席 に備えつけられていた。機器の管理が行き届いていたので予想に反して音声が良好。綺麗な日本語の説明を聞き、 さすが世界一の観光地パリと配慮のよさに感心した。

◇ この欧州への講演旅行を最後に、1988年3月31日、私は国家公務員を定年退職することになった。単身赴任が 15年の長きに及んだが、遣り甲斐のあった研究成果を置き土産に、家族が待つ大阪に元気で帰ることができた。 しかし単身赴任は子育ての点ではよくなかった。東京に転勤するとき小学校4年生だった長女は大学卒業と同時に 結婚し、もう豊中の家には居なかった。子供は何かにつけて母親とは相談するが、余程のことでもない限り私には 相談しない。子供達の大切な成長期に一緒にいなかったからでしょう。相談できる親のようには思われてないのか も知れない。

◇ 定年後の職場探しは専ら航空局の斡旋を待つしか手はなかった。上司を通じ最初あった話は警備保障会社。 これは私の性格からして向かないように思えた。その次の上司を通じての斡旋も気が向かない。でも上司の紹介 を重ねて断る決心がなかなかできない。同僚の門井正弘氏のアドバイスを頂き、やっと断ることができた。その 後やゝあって、今度は航空局の職員管理室長だった中田紀元氏(1年後輩)から直接呼び出しの電話があり、本省 に赴く。彼から『大阪の堂島にある三菱電機関西支社は如何ですかと』と問われた。『堂島』と聴いて私は「よ ろしく、お願いします」と直ちに承諾の返答をした。大阪の家からだと1時間ぐらいの通勤距離です。それに会社 も三菱ときたからにはもう文句はなかった。娘が大阪駅前にある新阪急ビル(クラレ)に勤めていたので、この話 を伝えると三菱電機関西支社が入っている近鉄堂島ビルを下見し「すごく立派で、いい感じのビルです」と教え てくれた。それを聴いてホット安心し、これからの生活がどのように展開されるか絵が描けるように思えた。

◇ 新しい職場は営業企画部門。私の性格からして営業は不向きな仕事です。後輩に頭を下げて情報を得るという のは嫌でした。嫌な仕事の繰り返しだったが、ひとつだけ楽しいことがあった。営業部門にいる者にとって会得す るに越したことのない遊び、ゴルフです。会社の向かいには毎日新聞社のビルがありました。その屋上に「ゴルフ の打ち放し」があったのです。昼の休憩時間にはいつもそこでボールを叩いていました。とても楽しい昼休みでし た。ゴルフは上達するのにかなりの努力がいるらしいが、下手でもやり始めると面白くてやめられない。庭に実弾 を叩く場所を造り、天気と気分のいい日にはボールを叩いて楽しんでいます。

◇ そんな毎日を過ごしているときルクセンブルグで知り合ったフランス航空局の部長と課長が日本の航空システ ム視察で1988年6/17〜6/20の予定で日本を訪問する連絡を受けた。東京発の光号の列車名を電話で受け、京都駅の フラットホームで出迎えた。宿泊はホテルでなくて日本旅館を希望していたので、京都駅前の日本旅館(村上屋)を 紹介した。いろんな所作の違いに戸惑ったのではないかと思う。彼らが一泊し、京都観光バスを利用した後、改め て祇園、先斗町、四条河原町などを案内した。慣れないことで気をもんだが、こちらの親切伝わっただろうか。昼 食は箕面にある料亭で、また、夕食は嵐山にある家内の親の家で、すき焼きパーティをして接待した。帰国後、感 謝のしるしにとワインを送ってきてくれました。

◇ 数年前から体調をくずしておられた陛下が、病状の悪化で吐血と下血と闘うようになられ、1989年(昭和64年) 1月7日に無念なるかな力尽きてご崩御された。ご健在の時は、世界第二次大戦を経験されるなど、わが国がかって 経験したことのない動乱の時期をご経験され、誠に大変なことだったと思う。A 級戦犯の靖国神社合祀がもとで合 祀後は靖国神社への参拝を断念なされたご英断には、ご立派なご判断と感心する。

◇ 私はM社で関西空港建設プロジェクト支援のための営業活動で頭を捻る毎日でしたが、そんなとき、ウシオ電 機社長の親族から話があり、次女の結婚話がまとまる。挙式は新郎家のお膳立てで大阪造幣局に近い大公園で行う ことになった。

◇ 第二次世界大戦の終結後は世界制覇をめぐって米ソが対立し、世界を二分する冷戦時代を迎えた。軍拡に力を 入れすぎたソ連はそのしわ寄せで財政的に破綻し、連邦諸国はバラバラに分離した。そんなことから元ソ連の広大 な空域が世界の航空交通に開放されることになった。ロシア航空局のスタッフ20名と日米独から5名づつの協力で 設立された国際コンソーシアム/国際協会(GATSS:Global Air Transportation Systems and Services)が設立され、 ロシア空域の有効利用の方策案を立案することになる。

◇ 日本からは伊藤忠が日本興行銀行、東芝のスタッフ1名づつを連れてこの国際コンソーシアム(GATSS)に参画して いたが、少し遅れて三菱電機もスタッフを1名送ることになった。私がこれに選ばれたのは、これまでの国際会議で の活躍をみてでしょう。そんなことで1991年5月から私はGATSSで働くことになり、渡米することになる。

◇ GATSS の部長職を務める伊藤忠商事の太川正明部長の計らいで、ワシントンD.C.に一泊、また 到着後は、車で 一時間ばかり北上したメリーランド州リンチカムにあるホテルに居を構えることになった。日本とちがってどちら を向いても山などは見えない。大平原のど真ん中にいることをつくづく実感した。地平線の彼方に真っ赤な夕日が沈 む光景をホテルの窓越しに眺めていると、なぜか胸にじーんとくるものがありました。

◇ ホテルの前方にはウエスチングハウスの工場群が広がる。仕事をするコンソーシアムはホテルから徒歩で30分、 車なら5,6分のところにあった。ボルチモアはそこからまた車で15分ぐらいのところ。休日はボルチモアの日本料理 店で日本食をいただき、生き返った。ミルウォーキーの高校で日本語を教える講師をしていた長女とは、簡単に電話 で話すことが出来たのは、思ってもいなかったことで助かりました。

◇ GATSS での慣れない仕事で初めは戸惑ったが、徐々に周囲の人たちとも会話ができるようになる。コンソーシ アムでの仕事は、「ソ連の航空近代化計画に資する計画案の作成」です。ソ連航空局からもスタッフが20人ほど派 遣されていた。みんなが親睦を図る目的で、休日はボルチモアの繁華街へ出掛けたり、チェサピークベイにクルー ザーを浮かべて歓談できるように計らってくれました。そんなお陰でドイツ人やロシア人とも仲良く話し合えるよ うになる。

◇ ワシントンの近くにベセスダ・ゴルフ場がある。プロゴルファの岡本綾子さんがプレイされるのを知ったので、 休日に綾子さんのゴルフを見に行くことにした。ホテルからバスでアムトラック駅に着いたが列車は時刻どおりに は来ない。困っている私を見て、駅員がワシントンまで行く知人に声をかけ、私がその知人の車に同乗できるよう に話してくれました。ワシントンからは地下鉄でベセスダに着く。ゴルフコース入場料は20ドルでした。

◇ ゴルフ場では、試合に先立ってパターの練習をしている岡本綾子さんを見つけた。練習を終えて、コースに向 かう綾子さんにお願いして帽子にサインしてもらった。握手だけは気力のようなものを吸い取られるように思うの で、それだけはご免くださいと言われた。ゴルフコースでの彼女のプレーぶりは眼前に見ることができました。「 綾子さん、がんばって!!」と声を掛けたい思いでいっぱいの瞬間があったが、それは迷惑なことかと思い留まった。 ゴルフの結果はメグ・マロン嬢が優勝で、綾子さんは残念ながら2 位でした。

◇ コンソーシアムでの仕事は、初めは会議室でスライドプロジェクタを使っての会議でしたが、やがて、めいめ いがどの様な仕事をするのか役割分担が決められた。その具体的な仕事が始まろうとしたとき、着任して3ヶ月後 の8月でしたがソ連でクーデターが突発した。ゴルバチョフ書記長を政権の座から引き摺り下ろそうとする事件でし た。GATSS の作業はソ連航空局との共同作業なので、この動乱で仕事は暗礁に乗り上げてしまった。しばらく事態 の成り行きを見定めるため、私は一時帰国することになる。帰国して1年間は東京本社の顧問として過ごしたが、事 態の進展が見込めないこと、また私はすでに65才の高齢になっていることから1993年3月で三菱電機を退職すること になった。

◇ 「働かざる者、食うべからず」という諺がありますが、やはり何もしないで日々を過ごすことには罪悪感のよ うなものを感じる。なんとか打開策をと考えたが、高齢だからどうにもならない。とにかく失職の悩みを解消する ため、過去の仕事が役立つような職場はないかと市の職業斡旋所を訪ねたが、世間はそれに応えてくれる程甘くは なかった。その様子を見兼ねて義父曰く「もう少し身分を落とせませんか?」と。確かにその通りだが、それとて も高齢で職を探すことは殆ど不可能の状態でした。仕事の内容で贅沢なことを考えていてはとても仕事なんぞ見つ かるものでない。

◇ 庭周りの植木いじりが好きなので、その世話で時間をつぶしていた1994年の秋でした。ご近所のご老人から声が かかった。詩吟の会への誘いです。人前で歌など歌ったことがなかった私は、何度もお断りしたが繰り返し勧誘され たので、それではと詩吟の会に入会した。参加してみると、結構楽しかった。私の声は大きくて通りやすい方だった ので、次はカラオケのグループから勧誘の声がかかった。二つの会に参加するようになってからは、一週間が飛ぶよ うに過ぎていく。ご近所にご婦人の知り合いが増えるのは楽しい事のひとつでもありました。

◇ そんなことをして過ごしていた1995年の1月17日の早朝大きな揺れの地震です。早朝の5 時46分でしたが、激震で目が覚めました。 天井から吊るされた電灯のコードが水平になるぐらいまで大きく揺れていた。初めて経験するすごい揺れです。この まま寝ていてもいいのかと考えているうちに激震は治まった。すぐに被害はどうかと各部屋を見て回ったが、家内も 無事。各部屋とも特にダメッジはなかった。被害は強いて言えば本棚のビデオテープが2,3 個 落下したぐらい。また テレビが少しにじったぐらいでした。食器戸棚の中の食器類は、ガラス戸が閉まっていたので、すべてセーフ。家の 外回りを調べると、南北方向の揺れが酷かったのか、東西の壁面にクラックが走り、一部壁面が落下していた。

◇ 地震の結果、尼崎から東灘にかけ ての被害は凄かった。木造建築には瓦屋根がいけないらしい。スレート屋根の家で倒壊しているのは見かけなかった。 また、壁土の家は倒壊すると土の山となる。豊中も被害地として新聞などで報じられたので、東京に住んでいる知人 などから見舞いの電話や書簡を頂き、有り難かった。豊中でも、私たちが住んでいるところは地盤がしっかりしてい るらしく、大した被害を出さずにすんだが、我が家から少し離れたところに住んでおられた詩吟の先生のお宅は、青 池という池の傍で地盤が軟弱だったのか、ブロック塀が倒れるなどして大変とお聞きした。豊中では庄内のあたりが 被害が多かったようだが、我が家は、水道が一日止まったぐらいのことで大きな被害は被らなかった。

◇ 地震があった当日は近所の明田さんの紹介で近くの凄くご立派な邸宅、木内様宅に水を頂に行きました。水道は 2日目には元どおりになったので助かりました。後日知ることになるのであるが、国道2号線沿いの芦屋から灘にかけ ての被害は見るも無残。瓦葺に加えて壁土を使った家が倒壊すると土の山で、下敷きにでもなれば、窒息死は免れな い。ここで特筆したいのは、屋根瓦にスレート状のものを用いたお宅は倒壊を免れていたことである。

◇ 芦屋のマンションに住んでおられた新日本証券の丸岡さん、もしもお困りのようなら部屋を提供してもよいと考 えていたが、倒壊は免れたとのことで、そこまでする必要はなかった。ボランティア活動のことも考えたが、それと て簡単なことではなく、かなり積極的な行動派でないと、ボランティアも簡単に参加出来ることではないことを知る。

◇ 家の外壁で傷んだところは自分で修理し、気持ちが落ち着いたところで考えるのは職探しのこと。そこで「自分 に出来そうな仕事なら、何でもいいからしてみよう」と、池田市のハローワークを訪ねた。行ってみると職種で贅沢 なことを言わなければ、仕事はいろいろありました。ところがハローワークの紹介で求人先に電話すると、年齢を聞 かれたとたんに話は壊れた。それでもめげずに探していると、2月上旬のことでしたが、ステンレス加工会社で求人し ているのがありました。家から10分ばかりのところでしたので、早速訪問したところ、即日採用が決定した。ほとん どの会社は年齢制限の上限が65才でしたが、その会社だけは70才までOKということでした。探せばあるもんだと思っ た。

◇ 2001年9月11日の夜、10時前のことでした。NHKの美人アナウンサー、森田美由紀さんのニュース解説を聞いて いた時のことでした。テレビ画面が突然ニューヨークの世界貿易センタービルの映像に変わった。何事かと思ったが、 背の高い世界貿易センタービルに大型機が激突する映像でした。驚きましたね、これはどうゆうことかとその光景を 眺めていました。ビルの高いところが炎上する光景には度肝を抜かれました。すると、隣接する隣のビルにもジャン ボ機が突入するではありませんか。これには全くの驚きで唖然とし、こんなことが世の中にあっていいことかと我れ を疑う状態でした。操縦を誤っての激突ではなさそうである。誰かが故意に決行した激突ではないかと思った。たま たまその航空機に乗り合わせた乗客はたまったものではない。この自爆テロで木っ端微塵になったのかと思うと、恐 ろしさで身がすくむ思いでした。夢想だにしなかった突然の惨劇映像、ドラマや夢ではなく、テレビ見たものは現実 の出来事だったのです。

◇ テロ行為といっても、こんな恐ろしいことがあっていいものかと凄く驚いた。そのあと、テロリスト退治と言っ て、すぐにアフガニスタンに派兵した米国のやり方にも驚きました。ところが驚きはそれだけではすまなかった。 2003年3月20日にはイラクにも米軍を進めた米国のやり方です。イラクが大量破壊兵器などを隠し持つということで したが国連や西欧諸国の意見を無視してのイラクへの進攻には私は大反対でした。一国の大統領たるものが、なんと も思慮のない勝手極まる決断。こんな浅薄な考えにアメリカ人も賛成してついて行くのだからアメリカという国は始 末におえないと思った。イラクに9万から13万人、アフガンにも同じような数の軍隊を送り込み、世界最長の9年に及 ぶ戦争をしている。米兵の死者はすでに4,000千人を超えたらしいがまだ増え続けている。

◇ 私は「傘寿」の年も既に通りすぎた。長生きしたようだが、宇宙の年齢137億年や地球の年齢46億年を考えると、 線香花火の一瞬の瞬きにもならない。そんな不思議な人生だが、特に病もせず今日まで来られたことは、実にラッキ ーなことである。孫も 9人いる。その半数は外国生まれ。アメリカ生まれが 2人、ドイツ生まれが 3人。ドイツ生ま れの菜央ちゃんは日本舞踊を踊っているところをドイツの新聞に大きく写真入で紹介された。また、毎年のピアノ演 奏会でも菜央ち」ゃんは立派に演奏をこなしている。大阪生まれの幹朗君は箕面市の広報誌の表紙を飾ったことがあ る。勉強の方もしっかりしているらしい。みんな将来が楽しみな孫ばかりで、とても嬉しく頼もしく幸せに思ってい る。

◇ 生活環境の進歩・改善で日本人の寿命は男性は83才で世界一となる。私は頭髪の老化を除けばバリラックス鏡と オムロンとニコンの補聴器で今も昔と変わらず元気にしています。歯医者にはお世話になったことがありますが、病 気知らずで薬と名のつくもの飲んだことがない。77才で他界した両親や姉よりも既に7年も長生きしている。ところ で長生きしているが、日々の生活は年金が頼りの生活。これでは生きているというだけで、パットとしない。

◇ 後日になって気づくのだが、ハローワークを尋ねたときは、阪神大震災(1995,1,17)から半月ほどした時だった のです。世間は震災後の復興工事で猫の手も借りたい状態になっていたのです。そんなこととは知らずにハローワー クを訪ねたのです。それでも運がよかったということでしょうか、会社での仕事は、近畿地区の上下水処理場に必要 なステンレス資材の設計・製作・据付でした。地震のあとの復興工事に目安が付くまでの4〜5年の間は、神戸市の浄 水場の仕事でとても忙しい毎日でした。震災で大きな被害を受けた阪神高速道沿いの被害を横目に見ながら、渋滞す る国道2号線を複雑な思いで毎日トラックのハンドルを握って走ってました。そんなことをしているうちに10年とい う年月があっという間に通り過ぎ、その間に息子も結婚し、我が家は夫婦二人きりになる。

◇ 東京での単身赴任の生活が長かったので、家族のいる大阪に帰ってくると話し合う同年輩の相手が居ない。毎 日がつんぼ桟敷に置かれたような感じ。そんなことから、これまで欠席続きだった大学の同期会に顔を出すように した。数十年の長きにわたって会うことがなかった大学時代の同期生に会ってみると、親しみはまた格別で話に花 が咲く。同期の桜というものは、実に有り難いものとしみじみ思う。

  ◇ 私の人生を省みると、17歳までは明けても暮れてもお国は戦争々々の毎日でした。でも、京都生まれでしたので 戦火の被害を被ることはなかった。戦後やり直した学校のお陰で後半の人生に特に悔いはない。学士の資格を得て国 家公務員上級職(甲)の職に就けた。国家の行政を預かる運輸省航空局の技官となって18年、続いて運輸省の研究所の 研究技官となって15年間、その後は三菱電機の営業畑で1988〜1993年までの5年間、この後は2年間遊んだが、協栄工 業で1995〜2007年までの12年間を働いた。

◇ 協栄工業での仕事は、ステンレス資材の切断と溶接が主な仕事。ステンレスは綺麗で手先は汚れず扱いやすかっ たが、鉄より硬く、熱を加えると歪んで変形するという難点があった。そんなことから加工には少なからず苦労する。 しかし、その難しさを克服するところに仕事のノウハウと遣り甲斐というものがあった。主として神戸、それに大阪、 稀に京都市や奈良までトラックのハンドルを握って、毎日走って走って走り回りました。阪神間で走らなかった大通 りはないと言っても過言でない。

◇ 2005年に二番目の娘が最初のマイホームを手離し、今宮から少しばかり東に行った小野原に二回目のマイホーム を建設することになる。手伝うことがあればと、玄関の階段周りの手摺を造ってやることにした。どのような資材 を使って、どのようなデザインにするかで何回も設計図を書き直した。でも、その甲斐あって、出来上がった玄関周 りと階段の手摺の出来栄えには我ながら満点の出来栄えと思っている。孫たちもみんなが喜んでくれた様子。玄関周 りが上手く出来たので、裏口の門も造って欲しいという。これもまた満足のいくものに仕上がった。いずれもステン レス製なので綺麗で朽ちることがない。ある意味で子供や孫たちに残した掛け替えのない私の形見の作品でもある。

◇ 1989年のバブルがはじけた後は銀行の利息が殆どゼロの状態になった。これには納得がいかず、預金はすべてを 下ろして株に投資した。1999年の10月1日ではなかったか、インターネットの株取引なら手数料が格安になることを 知る。早速、近くのマツヤ電器でWindows 98 Second Edition というIBM パソコンを買ってきました。

◇ パソコンの購入代金はインターネットによる株取引で取り戻せると考えた。この考えは正解でした。しかしパソ コンによる株の売買は、自由にパソコンが扱えないとお話にならない。それからというもの、パソコンの本を次から 次へと買ってきて勉強々々また勉強の日が続く。そうこうしているうちに性能のよいパソコンが現れる。2台目のパ ソコンはIBM のMillennium(Me)。 それから2,3 年経つとまた買い替えだ。2002年には XP Home Edition というデ スクトップ型パソコンを買った。その後もいろいろのタイプのパソコンを買っている。

◇ 左に掲げた写真は、孫たちと京都動物園に行ったときのもの。近くにある南禅寺で撮った記念の写真です。南 禅寺の界隈は京都でも屈指の別荘境。山紫水明の地ゆえに早くからこの地には有名人や資産家が別荘を構えた。

◇ この別荘群に目を付けたのが終戦当時の米進駐軍。米軍は別荘群の多くを軍用に接収し、内装は彼らの生活様式 に合わせて模様替えした。返還されてからはその殆どが元の状態に復帰され、昔の佇まいを取り戻す。東山の地形を 巧みに取り込み、それを生かし琵琶湖の水を庭の滝や池に導く。錦鯉が遊ぶ池の奥に高さ30mの滝が今も轟音を轟かせ ている何有荘(かゆうそう)は、古くから華やかな社交の間として使用され、政財界の大物から海外の文明人がここの 美観を求めて訪れた。近衛文麿、渋沢栄一、武者小路実篤、イブ・モンタン、ピエール・カルダン、ヘレンケラー、 ヒッチコップ、チャップリンなど、訪問者としてその名を残している。

◇ 何することも無く漫然と日々を過ごしていたある日、老人会の会長である長田様からパソコン教室の立ち上げで声 がかかった。その結果、2008年4月4日からパソコン教室の先生をすることになる。手持ちのパソコンも時代にマッチ したものをと考え、新しいパソコンで、Windows Vista のInspiron 1720 Home Premium という、ちょっとよさそうな ノート型のパソコンを購入したが、Vista は使い勝手がよくないため、XPのパソコンを購入して教えることにした。

◇ 教室も忙しいが株の方もゆるがせには出来ない。ところで、野村のホームトレードは手数料が他の証券会社と比 べて割高です。少しでも手数料の安いところと一時は大和証券に株券の移管換えをしたが、さらに手数料の安い岩井 証券へと鞍替えした。また松井、SBIイ・トレイド、カブドットコムなどにも口座を開く。これはそうした証券会社か ら参考になる情報が得られるからである。

◇ 株で一儲けと考えるが、やってみるとこれはなかなかむずかしい。平凡な方法では稼げない。欲がないと稼げな いが、欲があり過ぎてもだめ。ではどうすればいいのか。「一芸に秀でるということの難しさ」はどこの世界でも同 じことで嫌というほどその難しさを味わっています。ところで「投資」ということで耳を傾けるに値する人の話があ る。その人とは世界で最も有名な投資家のひとりであるウォーレンバフェット氏(81)。一代で 3兆円の資産を築き、 自身が率いる投資会社の運用資産を過去46年間に5,000倍近くにまで膨らませたという。米国一の資産家、ビルゲイツ 氏に次いで米国では2位の資産家。バフェット氏は「株は長期にわたって保有するものと説く。ただし株式を持つだけ で幸せを感じる株を買いなさい」と。また曰く「日本には長期的な競争力を持つ企業が多く、東日本大震災の後も日 本への投資魅力は失われていない」と説く。

◇ 株の話はその程度にして、さて、自分が望む本当の人生のあり方とはどんなものか。自分にはよく分からないが、 とにかくなんでもいいから他人の下で働くのでなく、自分のために働くようにしたいと思っている。好きな時に好き なことを好きなだけする。そんな生き方をこれからはしてみたい。日々の過ごし方にも鋭意頭を使わなくてはならな いが、それだけに充実した日々も送れる。合わせて満足感も得られるのではないかと思う。今私に出来ることはパソ コンだけ。キーの叩きようで、生活の糧が得られるとも思っているが、何事もそうは簡単にはいかない。

◇ 世の中には会社を興し、立派なビルや工場を建設されたお方が大勢いらっしゃる。その仲間入りをしないかと、 43才のとき問わたことがある。電機部品の製作で独立する決断を迫られたことがあったのです。そのときは考えま した。真っ先に不況のときのことです。それに自分にまつわる運勢、度胸、才覚、資産も考えました。その結果、 副業としていた当時の仕事、テレビ部品の製作・組み立てですが、それを続けながら無難な公務員生活を続けるこ とにしました。所詮「蛙の子は蛙」だ。かくして私は定年を迎えるまで東京での単身赴任を15年間続けることになる。 その後も会社の使用人として78才まで働き続けた。

◇ 三鷹にある運輸省の研究所で過ごした15年間は、世の為人の為に持てる力を惜しみなく尽くして頑張った時期 だった。それだけに研究所での苦闘の日々は強烈に脳裏に焼きついている。そこでの活躍ぶりに悔いはない。初 代所長の安積健次郎さん、二代目の藤井弥平さん、三代目の米本恭二さん、何かとお世話になりました。ありがと うございました。だが、どうしたことか、いずれのお方も早々とあの世に旅立ってしまわれた。これはどうゆうこ とかと首をひねっている。

◇ 私は航空機の安全に欠かせない新型のレーダアンテナの開発をした。かなりのことはしたと考えているが、ま だ長生きしているということは、働きが足りないというのだろうか。そんなこんなで2008年4月からはわが町の公 民館でパソコン教室の先生を務めている。そこでは、人様になにかを教えるということのむずかしさ、でも自分自 身の大変な勉強にもなるので、ありがたいことと思って続けている。

◇ 2008年には米国のサブプライムローンの焦げ付きとかいった問題が世界経済の屋台骨を揺さぶり始めた。営々 としてこれまでに築いてきた手持ちの資金が、あれよあれよという間に半減してしまった。夫婦で日本海沿いに点 在する温泉めぐりにでも出掛けようかと考えていた夢は当分はお預けです。友とノルウェーのフィヨールド観光に 出かける資金作りも約束もお預けです。何もかもがすっ飛んでしまって夢も希望も霧散した感じ。せめて想い出の 多い東京には時々訪れ、かっての住まいがあった調布の佇まいに触れてみたい。また秋葉原にも脚を伸ばして、脚 光を浴びているかわい子ちゃんのオタク姿などでも拝見し、気持ちだけでも若返ってみたいと思っている。

◇ 2008年の年の暮れ、東京地方裁判所から妻に一通の大きな封書が届く。中には「地下鉄の霞ヶ関駅で下車して すぐそこ」という案内図が入っていた。東京の地方裁判所がどこにあるのかは私はよく知っているので、ご親切な ことと思った。東京にいたとき運輸省の本省には仕事の関係でよく訪れた。そんなとき私は必ず地下鉄の霞ヶ関駅 で下車する。地表に出たとき道路を隔てて古風だがすごく立派なレンガ造りの建物があるのに気づく。それが東京 地方裁判所だったのです。そこからの封書である。まあなんということかと思ったが、2009年の5月から始まる裁 判に来てくださいという通知でしょう。大阪に住んでいるのにどうして遠い東京までなのかと思ったが、そんな理 由は問答無用でわからない。

◇ 桜が満開で綺麗に咲き誇る2009年4月9日の昼下がり、京都東山の土井料亭、旧津田家の豪邸で津田家の御曹司、 俊信さんと半世紀ぶりに再会した。会った瞬間に俊信さんとわかったが、小学生の時の面影とはすっかり変わって それはそれは立派な紳士になっていた。渋くてクールなマスクは美人だった母親の真紀さんの面影を偲ばせる。京 大在学中の話だが、ノーベル賞を受賞された湯川博士の講義に出て、「優」の成績をもらっていたという。稀に見 る賢い子と思っていたが、私の目に狂いはなかった。湯川さんと一緒の記念撮影写真を頂いて、もう返す言葉がな いくらい驚き感心・感動しました。

◇ 2010年8月5日、チリ鉱山の落盤事故が突発した。地下700mに閉じ込められた33人の生命は絶望かと思われたが、 ピニェラ大統領が指揮する「不死鳥作戦」がお見事、功を奏す。10月13日、69日ぶりで全員が救出されました。直 径70cm の穴を経由しての地上への脱出である。

◇ 一番最初に地上に戻ったフロレンシオ・アバロスさん(31)を見たときはとても嬉しくて感動した。明るい光線 を遮る黒いサングラスを掛けたアバロスさんはハンサムそのものの青年で、とても好感が持てました。

◇ 二番目に地上に現れたマリオ・セプルベダさん(39)は表情が爆発的に豊かなお方。脱出口の周りを飛び回って 喜ばれる姿はとても感動的で圧巻でした。地下から持ってきた金の鉱石を救助隊員や大統領などにもプレゼントし、 皆さんと篤いハグを繰り返しておられた光景は、凄く見ごたえがありました。救出に使われた救出器「FENIX」と 同じものが上海万博場でも展示されることになる。

◇ 2011年3月11日は大変だ。日本国民すべてが肝に銘ずべき大震災の日となった。午後2時46分、東北地方から 関東北東部が突如としてマグニチュード(M) 9.0というかって日本が経験したことのない巨大地震に見舞われた。 三陸の沿岸部では場所により地形の関係で高さが30数mにも達するという想像を絶する巨大な津波に襲われた。今 回の地震は世界でも4番目の巨大地震という。1995年1月17日に起こった阪神大地震での揺れはたったの15秒間でし たが、今回の地震は揺れがなんと5分間も続いたという。東京タワーの尖塔も「く」の字に曲がってしまいました。

◇ この地震で驚いたのは津波の破壊力の凄さである。太平洋岸の町々のすべてが根こそぎ破壊され跡形もなくす べてが押し流されて消えてしまいました。大きな漁船や家屋や車輌、それらのすべてがごちゃ混ぜになって押し流 される光景は、まさにこの世のものとは思えない恐ろしい地獄絵巻。波に浚われて亡くなった人の数はなんと2万人 を超えるという。それにも増して心を痛めるのが東電の福島第1,原子力発電所の事故である。原発は安全だと豪語 していた学者や経済産業省に科学技術省の高官たち、ひれ伏して詫びてもらいたい。

◇ 原発建屋は水素爆発で次々と爆発でふっ飛び、無残な姿をさらし続けている。下手をすると放射能で東日本が 全滅しはしないかと危惧した。幸いなことは、献身的というか責任感旺盛で放射能被爆の危険性があるにも拘わら ず、原発の修復作業に没頭してくださる作業員が多数いらっしゃることだ。大事に至らず、なんとか治まりそうな のでやれやれですが、この事態の推移には、どうなることかと日々とても心配だ。

◇ 悲惨な事態に東北地方が陥っているのに、総理の采配はなんだと菅直人総理への批判の声が渦巻く。原発被害 のシミュレーションでは、最悪事は放射能被害の範囲が半径200km,または300kmの地域に及び、国会や首相官邸も 東京からの避難が必要とのことだった。避難する人の数も1,000〜2,000万人ということで、20万人程度の避難とは 比較にならず、これでは国が機能しなくなると恐れられた。

◇ 「総理はこの期に及んで何をどんなスピートで為すべきかが分かっていないのではないか?」と、野党党首か ら「貴方の即時辞職が、日本のためになる」と迫らる。「菅さんは総理の椅子にしがみついているのでは?」と、 真に嘆かわしく思われていたが、実際はどうだったのか?

◇ 東電から「放射線量が高すぎて第一原発の現場での作業は無理です。そこからのスタッフの撤退、逃避をした い」との要請が出ている旨の情報が総理のもとに舞い込む。そこで菅総理は東電本社に乗り込んで、社員らを前に なりふりかまわず怒鳴った。「最悪の事態になれば、日本がつぶれることも想定しなければならない」。官僚や原 子力保安委員会の面々は責任を恐れてか黙り込んで助けにならない。結局、菅さんの決断が、東日本の廃墟、ひい ては日本国の崩壊にもなり兼ねない事態になることが想定された。総理という立場で菅総理はとてつもない大きな 決断を迫られる。

◇ やがて「炉心溶融、メルトダウン」という最も恐れられていた事故が現実のものとなる。それでも米国やフラ ンスをはじめとするIAEAなどから支援があり、なんとか最悪の重大事故には至らず、日本国の崩壊は避けられるよ うであるが、まだそうだとは決まっていない。

◇ 2011年7月24日にはNHK念願のテレビのデジタル放送が始まった。我が家には10台のテレビがあるので対応が大 変だ。チューナを買って来て地デジ対応のテレビ台数を増やすが、すべてのテレビが地デジ対応とはなっていない。 パソコンも好きなので、あれこれ好きなのを買っているうちに10数台持つことになった。パソコンの先生をしてい るので、それらはそれなりにパソコン教室で役立ててはいるが、ちょっとたくさん持ちすぎか。

◇ 例年8月16日になると京都の夜空は伝統の五山の送り火で彩られる。この日の夕刻は送り火を少しでも見届けた いとする人の波で京の街中は夜遅くまで賑わう。祇園祭とともに京都の夏を代表するあまりにも有名な風物詩の一つ である。ところで今年(2011年)の送り火は例年とは異る。陸前高田の被災松で拵えた護摩の木を薪として使用してい ただきたいという考えがあったからである。

◇ それには「待った」が掛かり、計画は二転三転した。福島の原発事故で飛散した放射性セシウムで被爆した松ノ 木を薪としたのでは、京都の町中にも放射能を撒き散らすことになりはしないか、という心配があったからです。

◇ 送り火を担当する自治会は検討の結果、陸前高田の松の使用はしないことになった。ところがそれには反対意見 が多数殺到し、再度の検討結果、松が含むセシウム量を計測することになる。検査結果は、1kグラム当たり1,130デシ ベルというセシウムが検出された。そこで止むなく陸前高田の松は送り返されることになる。ただし、新しく作った 護摩の木に遺族の思いを書き写し、それを送り火の薪とすることになった。お盆にお迎えした精霊を冥府へと送る幻 想の炎、供養の炎の薪にと考えた遺族の願いは残念だが断念されることになる。その年の送り火には一抹の悲哀を感ぜ ずにはいられない。被災松で作った護摩木は、いい考えと思ったが、まことに残念なことと悔やまれる。

◇ 2011年10月28日、平安神宮から南禅寺に向って歩くこと2,3分のところにある白河院で大学の同期会があった。 天候にも恵まれ、しばし楽しい歓談の時が流れた。ところで少しばかり気になったことがある。それは出席者数が とうとう10名を割ったことである。全員健在で出席ということなら27名だが、すでになくなった方が5名、体の自由 がきかない方が6名、あとの16名のうち8名が所要で欠席で、出席率は50%ということでした。事務局と相談して、今 後の出席率アップの方策を案ずる必要があるのではと考えている。

◇ 米国の投資家ウォーレン・バフェット氏は2011年11月21日、福島県岩城氏の超硬工具メーカ、タンガロイの新 工場完成式に出席し、復興に向けた日本の取り組みを賞賛する。バフェット氏が会見で強調したのは「持続的な成長、 30年、50年後も成長し続ける企業を探している」ということでした。また「欧州金融機関に投資する予定はない」と。 「欧州は各国が個別通貨を持っていないことが解決の妨げ」で、リーマン・ショックより危機が根深いことを示唆さ れた。「信認は一瞬で失われるが、ゆっくりとしか回復しない」とも述べる。バフェット氏の言葉は肝に銘じて今後 の株式投資に生かしたい。

◇ 東日本を襲った巨大地震と津波で、2万人近い死者と行方不明者が出た。2012年3月11日はその震災のあった日から 数えてちょうど1年目の日にあたる。そこで地震が発生した午後2時46分には東北地方の岩手、宮城、福島の3県を中心に 日本の各地で慰霊や追悼の催しが行われた。 政府が主催する追悼式典は千代田区の国立劇場で挙行された。天皇陛下は 心臓動脈パイパス手術後22日という療養の身でありながら出席され哀悼のお言葉を述べられました。ニューヨークやパリ のエッフェル塔前でも花束を捧げる追悼式が行われた。ブータンではワンチュク国王が明かりに火を灯し、被災者が道を 間違えないようにと祈ってくださった。「涙を超えて強くなるしかない」との犠牲者遺族の代表の悲痛な言葉には涙を そそる。地震や津波被害に加えて福島第一原発事故で非難生活を続ける被災者の数はなんと34万人を超えるとのことだ。

◇ 福島第一原発の事故は事後処理になんと40年を要するという。だが、40年経てば万事がOKというそんな簡単な事で はない。核燃料棒がメルトダウンしているので、原子炉の炉心がどのような傷み方をしているのか、未だにわからない。 そんな状態なので今後どんなことになるのか世界が注目している。この原子炉を福島の原発に輸出した米国は勿論のこと、 世界の各国で原発には反対のデモが起こっている。原発事故の発生で生じた危険区域に住んでいた福島の人々は、住み 慣れた家屋や生活の場から離れざるを得ないことになったのです。何とも痛ましいことです。帰りたくても帰れないと 嘆く人々のつぶやきは悲痛を極める。絆、絆というだけの政府の施策の頼りなさには空しいものを感ずる。

◇ 2012年3月20日 今日は菜央ちゃんのめでたい13参りの日。天気は快晴でいうことなし。家内は菜央ちゃんの着 付けのことがあると言って一足先に家を出た。私は前もって考えていた予定の午前9時15分に家を出る。小路でモノレ ールに乗って、南茨木で梅田発京都行きに乗り換えです。ところでこれまで阪急南茨木駅の改札を入るとき、聞いた こともなかった目的駅までの所要時間を尋ねた。改札に居た駅員はこころよく会釈してちょっと置いて約40分と教えて くれました。腕時計に目をやると10時10分前。この調子だと約束の法輪寺11時集合には半時間ばかりの余裕をもって 到着することが出来そうなので、安心した。

◇ ホームに下りてしばらくすると京都四条河原町行きの準急電車がやってきた。高槻駅で特急待ちとなったので、少 しでも早く着くに越したことがないと考え、立ち席は覚悟で後から来た特急に乗り換えた。阪急電車に乗って大阪-京都 間を数え切れないほど乗っているが、嵐山へ行くために桂の駅で電車を乗り換えたのは片手の指を折って数える程度 しかない。家内の親が松尾に居宅を建ててからは桂駅から松尾駅まで2〜3回は利用したことがありますが、ただそれだけ。

◇ 電車が松尾の駅に近づくと電車と平行して走っている道路が家並みの間隙を通してよく見える。その道は今は亡き 家内の両親が健在なとき、両親を訪ねるためによく走った道です。子供たち家族を乗せてその道を走ったときのことが 思い出されて懐かしくて懐かしくて胸が熱くなる。そんな思いを巡らしているうちに嵐山駅に着いた。

◇ 何十年ぶりかの法輪寺訪問です。詳しい道案内はすっかり忘れていますので、道で行き交う人に尋ね、尋ねして 法輪寺に着きました。菜央ちゃんの祖父母さんがいらっしゃるのはすぐ分かりましたが、菜央ちゃんも家内もまだの様子。 予定の11時を20分ばかり過ぎた頃になってやっと全員が出揃いました。菜央ちゃんは受付で渡された紙切れに「絆」と いう文字を書きました。その紙をお寺の案内係りのお坊さんに渡し、家族全員も法輪寺の本道に上がる。

◇ お坊さんの話を聞いていて気づいたことだが、13参りは、13才という年は厄年なので、その厄を払ってもらうと同時に 大人の仲間入りをするので、それに必要な知恵を授かるお参りということでした。孝太も瑠美も小さい手を合せて、そばで 黙って拝んでいました。お参りが済んで13参りの記念撮影をしました。この後は桂川沿いにある弁慶という料亭でお食事 を頂きました。桂川が真正面に見える明るいお部屋で大変結構なことで、美智子夫婦にはありがたいことと感謝しています。

◇ 1988年に私が定年退職した運輸省の電子航法研究所は、2000年に実施された行政改革で独立行政法人となりました。 法人となった後も研究所の業務は従前の業務と同様で、研究発表の時期になると研究発表会のプログラムを必ず郵送して くれる。その発表会のプログラムにはいろいろ思考を巡らせながら目を通すが、プログラム(パンフレット)の裏面に「交 通案内」というのがある。JRの三鷹駅、または吉祥寺駅から研究所までの道案内とバス路線の案内図の掲示てす。私はこ の「ご案内図」を見ていると、研究所在職中のことを思い出し、当時のことがとても懐かしく思い出される。三鷹市役所 の職員食堂、毎月の家族への送金でお世話になった三鷹郵便局、研究所出入りで頻繁に使用した三鷹農協前バス停など。

◇ 2012/5/21 は、金環日食の日。日本の太平洋岸ベルト地帯で見られるというので各地では観察ヒーバーが起こる。平 安時代以来、932年ぶりの観測チャンスの到来です。私も朝7時38分には間に合うよう早起きする。お天気が気になってい たが幸い切れ切れのうす雲を通して、太陽が月を北東に向けて追い越していくのが見られた。その際に生ずる金環日食も デジカメに収めることができました。溶接に使う光線防御ガラスがあったので、それとデジカメで撮影を試みた。撮影で きたビクチァを左に示しておきます。

◇ 2012/5/22 は東京に出来た高さ634mの世界一のタワーの公開日。10時から開所式があり、12時に公開が始まる。タワ ーの名前は一般から募集されて「東京スカイツリー」と決定した。そんなこんなで、東京スカイツリーの周辺では観察ヒ ーバーが起こっている。

◇ この書き物、すなわち「追憶」の上下は、私が家族兄弟や孫たちに「私がどんな人生を経験してきたのか」を知って おいて貰いたいと思い、ここに書き記したものです。家族や孫以外のお方で、読んでくださった方がいらっしゃったので したら、そのお方には深甚の謝意を表したい。ありがとうございます。ありがとうございました。     以上
健康/Health I can say "Good" No serious troubles and diseases at all, but except sciatica from which I suffered much at that time. Nowadays, as healthy as ever. ヤクルトを一日一個で健康維持とガン予防/ A small bottle of Yakult a day may keep me healthy and might keep cancer off too. Physical constitution ;170cm tall, 70kg weight, chest 98cm, waist 103cm.
血液型/Blood typeI don't know exactly what type it has been.
職歴/Occupation @日本国際航空工業(株), 工員 : Japan International Aviation Industry Company/Factory Worker.
A運輸省航空局運輸技官, 航空交通管制官 ; Ministry of Transport, Aviation Bureau/Air Traffic Controller. B運輸省電子航法研究所, 研究技官 : Ministry of Transport, ENRI(Electronic Navigation Research Institute)/Research Specialist.
C三菱電機(株), 顧問 : Mitsubishi Electric Company/Consultant on Kansai Int'l A/P project,
D国際コンソーシアム, 職員 : GATSS(Global Air Transportation Systems and Services)/Staff to design modern USSR airways and nav-systems,
E協栄工業(株), 工場長 : Kyoei Industry Company/Factory Worker.
住居変遷/
Home change


東京竹橋
◇§幼児 〜 中学時代§京都/Kyoto/Gojoh/五条
◇§高校 〜 大学〃〃§京都/Kyoto/Kohdaiji/高台寺
◇§運輸省航空局 〃 §東京/Tokyo/Ohokayama/大岡山 & 竹橋
◇§〃〃〃〃〃〃〃 §福岡/Fukuoka/Ashiya/芦屋
◇§〃〃〃〃〃〃〃 §大阪/Osaka/Airport-base/空港内
◇§運輸省電子研〃 §東京/Tokyo/Chofu/調布
◇§三菱電機(株)〃〃§大阪/Osaka/Toyonaka/東豊中
◇§国際 コンソーシアム 〃§アメリカ/Baltimore,Maryland,USA
◇§パソコン 教師〃〃§大阪/Osaka/Toyonaka/東豊中

◇国家公務員としては、この程度の移動は少ない方かもしれない。
I might be lucky boy as a public servant of the Government because I could have run through my life with only such a few moves as mentioned above.
星座/Constellation 私の星座は魚座。これにいいのは山羊座の女性。 しかし、妻の星座は私と同じ魚座でした。
My constellation is the Pisces[pisi:z]/the Fish. The best affinity to my constellation is the Goat/the Capricorn(山羊座), but my wife's is as same as mine.
趣味/Hobby@エレクトロニクス/Electronics, Aパソコン/PC, B 園芸/Gardening, C ゴルフ/Golf.
最近の読物/
Books read recently
@[蛇にピアス](芥川賞)金原ひとみ著 Pierce on a snake(Akutagawa-Prize) 発行所:集英社
A[蹴りたい背中](芥川賞)綿矢りさ著 The back I want to give a kick on(Akutagawa-Prize) 発行所:河出書房
B[帝国アメリカ-ブッシュが世界秩序を破壊する/The Bush assault on the World Order] ; by John Newhouse.
C[もうひとつの「冬のソナタ」]、 キム・ウニ & ユン・ウンギョン 著 ; 翻訳_うらかわひろこ 発行所; ワニブック
D[パソコンで月30万]、 小林智子 著/ホームページの新ビジネス・アフィリエイト体験記 発行所: 祥伝社
E[人はみな「ビジネスの天才」として生まれる]、翻訳_福沢善文・福沢良美/Everyone is born a "Business Genius ; by Alan Gregerman; interpreted by Mr. Yoshibumi and Mrs. Yoshimi Fukuzawa 発行所:小学館
F[株、オートマ売買]、山本有花・長谷川雅一著/Stock, automatic buying and selling by Ms. Yuhka Yamamoto and Mr. Masakazu Hasegawa, 発行所:廣済堂
G[風に舞いあがるビニールシート](直木賞受賞)、森 絵都 著/Vinyl sheet flying up in the wind (A winner of Naoki-Prize) ; by Ms. Eto Mori 発行所:文芸春秋(株)
H[栄光なき凱旋]、真保 裕 著/Triumphal return without glory;by Mr. Hiroshi Maho 発行:小学館
I[鴨川ホルモー]、万城目 学著/第4回ボルドエッグズ新人受賞。発行所:株式会社産業編集センター
J[僕はマゼランと旅した]、スチュアート・ダイベック著/I Sailed with Magellan. 柴田元幸 訳 発行所:白水社
K[あやし うらめし あな かなし]、浅田次郎著 発行所:双葉社
L[半年で1億円 デイトレ 株でどかんと大儲け!] HANABI著 発行所:主婦と生活社
M[株なら今すぐ デイトレ&スイング で儲けなさい] 高見澤道大著 発行所:ぱる出版
N[株のしくみ] 杉村富生著 発行所:日本実業出版社
O[33歳で資産3億円をつくった私の方法] 午堂登紀雄著 発行所:三笠書房
P[五分足チャート」活用「実験教室」小山 哲著 発行所: すばる舎
Q[株 《安全・簡単デイトレ》で、1日1%以上を稼ぐ 私の方法] 友成正治 発行所:アスカ
R[できる Windows Vista] 法林岳之・一ヶ谷兼乃・清水史著  発行所: 潟Cンプレスジャパン
S[今すぐ使える かんたんWindows 7 ] 阿久津良和著 発行所: 技術評論社
功績/The merits


空港用オープンアレイ型
二次監視レーダーアンテナ




勲四等級
瑞宝章

@ 新航空路の開発 : 航空機の航法精度を知ることが出来れば、航空路間隔の縮小について検討が可能となる。 そこで先ず航空機の航法精度を測定するレーダを試作し、続いて多数のデーターを収集解析し、国際民間航空 機構会議で解析結果を発表した。このことから日本とアンカレッジ間を結ぶ北太平洋路線(NOPACルート)の経済 高度に新しい間隔(複合間隔)を適用した新航空路の設定が可能という結論に達した。よってこのルートを飛ぶ航 空機は燃料消費削減と待ち時間のより少ない飛行で未来永劫にわたり経済的な恩恵に浴することが可能となる。

A 新方式SSRアンテナの開発 : レーダー情報をコンピュータで処理できれば、航空機の誘導に有効かつ斬新な 情報が得られる。このことが米国での研究で実証された。そこで、わが国もこの種の技術の導入を急ぐことにし た。ところが米国と異なり、わが国の空港レーダでは、空港周辺に近接して存在する建造物や山岳による反射電 波でコンピュータ処理に適する良質のレーダー信号が得られないことが分かった。粗悪な信号を処理しても信頼 できる情報は得られない。上司曰く; Garbage in, garbage out。そこで、レーダー信号の質を劣化させる反射 電波の発生を極力抑圧できる低仰角シャープ・カットオフ・パターンのアンテナ開発を急ぐことにした。試作研 究を始めて3年後の1979年、幸い所期の目的を達成できるオープンアレイ型の高性能なSSRアンテナの開発に成功することがで きた。そこで直ちにわが国の空港監視レーダーにこの方式のアンテナが採用装備され、レーダーとコンピュータ を結合して得られる念願のレーダ情報処理システムの稼動を見るに至る。この成果によつて航空管制官が誤って 航空機を空中衝突させることのない安全かつ効率のよい管制業務を期待できることになった。

B1999.4.29/平成11年4月29日 陛下より勲四等級瑞宝章 受賞。

◇ @とAは上司先輩の指導の賜物。『人生は出会いで決まる』と言うが、正にその通り。折に触れ思い出し感謝して います。


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