【引きこもりと適応】2002.12/26

  引きこもりは確かに困った状態であり、社会的に見れば一つの
 不適応状態と考えたくなる。家から出ないでゲームやパソコンを
 いじる程度の生活を続けるうえに、本人も家族も、何とかしたい
 けれども最早何ともならないと思っているケースも多い。
  外来にも結構相談がある。家族は引きこもりを何とかしたいと
 思っているが、本人の心情は色々である。今が居心地が良いから
 出たくないという人、或いは「家族のお荷物感覚」があるから非常に
 居心地が悪くて家庭内暴力を働く人(もちろんすごい内弁慶)、など
 など。精神的な苦悩が極端に重い人の場合、強迫神経症そっくりの
 症状やら幻聴やらを伴っている事すらある(精神病でないのに!)。

  詳しい事例や学問的治療法については、斉藤環先生の「社会的
 引きこもり」ほかを参照にという事で省略する。それらを読めば、非常
 に難しい生態で、日本にはいっぱいいっぱいいるという事がよく
 理解できる事と思う。何より、このサイトほどいい加減ではない。
  それよりもここでは、このサイトこの管理人が書きそうな事を書く
 ことにしよう。彼ら引きこもる人達の大多数に共通するもの。
 私なりに、ヒッキーを相手にしていて痛感する事、それは、


 引きこもっていたほうが、本人にとって利得や利得見込みがあって、
 損失や損失見込みが少ないと(本人には)判断されている
 ことである。

  つまり、引きこもっていたほうが、たとい辛いにしても、本人にとっては
 その方がまだちょっとはマシだと思っているか感じているから引きこもる、
 という事なのだ (表現が迂遠でごめんなさい)。
 ただし、

 “引きこもっていたほうがホントのホントに適応的か否かは、この限りでは
 ない。あくまで当人がマシだと思っているか否かが大切”

 “判断が乏しかったり、すっかり追いつめられてしまった人なら、先の事よりも
  今その場で適応的であれば、そうしてしまいがち”

 という条件付きではある。
 つまり、実際にそうする事が適応的かどうかよりも、本人がどう感じているかが
 問題、という事である。ああ、なんだか神経症の疾病利得みたいだ。
 実際は、引きこもらずに社会に出てしまえば案外適応できてしまう人も
 いるのかもしれない。が、少なくとも当人がそう判断していないならば、
 その人は引きこもる、という当たり前の事に着目したいわけだ。

  もちろん、本人が「引きこもったほうがマシ」と判断する原因は様々だろう。
 容姿へのコンプレックス・口べた・友達が出来ない・いじめられた等、
 パーソナリティと能力と過去の経験をかけ算した結果がどうであるかによって
 決まる場合が多いとは思う。だが、統合失調症のような、認知機能のもっと
 根元的な問題を抱えているがゆえに引きこもっている例外も少数いるだろう。


 ともかく、引きこもっている当人は、精神の力学的には

 引きこもっている事による利益と不利益の収支見込み
              ∨
 引きこもりをやめた事による利益と不利益の収支見込み

 という状況にあると言える。こういう状況下では、引きこもりを周りが
 やめるよう説得しても、やめる筈がない。いや、俺なら絶対やめない。
 俺は、“ひきこもっていたほうがいいと思うから、引きこもる!”とはっきりと
 家族に宣言する事だろう。(←でも、宣言出来るようなら引きこもらないか)

  逆に、引きこもりの人が実際に引きこもりをさっさとやめる場合や、
 そもそも引きこもっていない普通の人達の場合、

 引きこもっている事による利益と不利益の収支見込み
              ∧
 引きこもりをやめた事による利益と不利益の収支見込み

 という不等式が成立している。
 もちろん、あくまでこれは「見込み」なので、もしも引きこもりをやめた
 人が、実際には引きこもっているよりも辛い思いを何度も繰り返して
 しまって不利益超過になってしまえば、式はひっくり返って再び
 引きこもるだろう。いや、普通の人だって、この不等式がひっくり返る事が
 あるならば速やかに引きこもる。俺も、そうする。
 そして、患者さんの中には、この不等式が頻繁にひっくり返りまくって、
 激しい引きこもりと激しい対人行動を繰り返すタイプも結構いたりする。

  このように考えると、引きこもりの治療に際しては、この不等式を
 ひっくり返す必要があり、社会によく馴染みきるまでは式の形勢を維持
 したほうがいい、という視点が得られる。まあこんな視点があっても、
 具体的に式の形勢をひっくり返す具体策が無ければ、建設的な提案は
 難しいとは思う。だけど、このドグマに逆らいまくって治療が上手くいくか
 というと、それはすごく難しい事のように思える。短期間だけなら、周囲の
 支援を受けてさえいれば持ちこたえるとは思うが、もしも、長期間この
 不等式が引きこもり優勢に傾いているとしたら、すごく難しそうだ。

  引きこもりの治療、というものは千差万別であり、また引きこもっている
 当人の個性の問題もあって経過もさまざまであるが、上記のようなドグマ
 に逆らって成功するというのはあまり考えにくいと俺は考えている。
 これはあくまで一つの視点(ものさし)に過ぎないわけだが、他の視点と
 組み合わせて、実戦で見積もり手段として投入する分には、悪くないと
 想像している。

 ‥‥だけど、そもそも、引きこもりってどこまで精神科で相談受けるもの
 なのか、時々分からなくなる事がある。勿論、来た患者さんを断るような
 事は無いのだけれども、心の中では引っかかる事は結構ある。
  例えば、重い精神疾患を合併しているケースは精神科の助けを借りる
 のがベストだとは思う。あれは、薬も専門家もなしに取り扱うのは無理だ。
 が、そうでない引きこもりは、どうなんだろう?
 今の日本は不況だが、インドとかアメリカとかに比べれば、親のすねを
 かじれば生きていける家庭なんて幾らだってあるわけだ。そんな社会では、
 引きこもりという選択を積極的に行うような適応の仕方を取る人間が
 増えるのは、自然且つ合理的な生き方選びと言える(少し先の見える人は、
 親の遺産とかも計算に入れて判断し、そしてそれでもなお引きこもりを
 選んだほうが利得が高いかどうか計算しながらやるだろう)。果たして、
 そのようなヒッキーが親に連れられて精神科に来たとき、私はどう判断
 すればいいんだろうか?自分よりも年少で思慮が浅いと突っぱねて、親の
 望むような方針で面接を進めていけばいいのだろうか?

  外来診療では、実際色んなケースに遭遇する事もある。
 そして、そういう時は迷う。考える。相談する。
 少なくとも、ヒッキー本人や家族の価値観や判断や人生観を、石臼に
 かけて粉砕するような莫迦な短絡に走るのは避けたい。出来るなら。
 慎重に、そして、必死に考える事だけが武器だが、この武器はまだまだ
 強化が足りない。しかも、万能となる事は無い。



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