Oさんの幼少期の状況
 
 発育が遅かったので保育園や幼稚園には入れず、隣町の幼児訓練施設に通っていました。電車やバスで通っている時の風景や卒園式で泣いていた時の風景は今でも覚えています。家庭はごく普通で両親はたまにファミコンやPCエンジンで遊んでいました。僕自身も『ボンバーマン』や『イース』といった簡単な操作なゲームをやっていました。幼少期ということでキャラクターへの『萌え』はさすがにありませんでした。


 Oさんの小学校低学年の状況

 地元の通常の小学校への入学は認められたが、全く落ち着きがなく、週一日午後には別の訓練施設に通っていました。施設への行き帰りには必ず母と一緒で、梅雨のある雨の日の帰りには雨が上がり、空に架かる綺麗な虹、太陽に綺麗に反射する濡れた道などに感動しました。 訓練施設の秋には毎年、日光移動教室があり、児童ひとりにつき担当の方が付きっきりでした。日光東照宮、戦場ヶ原、いろは坂・・・あの時の日光の観光はいい思い出になりました。一方、小学校は訓練施設通いのためか落ち着きがなく、少しのトラブルで自分の座席を吹っ飛ばして暴走してしまい、クラスとはあまり仲が良くなく、当時PTAの間では評判が悪かった2年生の女性の担任からは見捨てられ、母との面談では転校の話まで持ちかけられ問題児にされていました。3年生の男性の担任は2年の時とは違い、トラブルによる暴走はあっても温かく励ましてくれました。トラブルに耐え切れず自殺しようとしたときの厳しくも温かい励ましはとても、感動しました・・・。この頃にやっと、親友mさんができ、訓練施設へ行く回数が減りました。一方、家庭には父がセガサターンや初代プレステを買って来て自分もそれなりに『セガラリー』、『チョロQ』シリーズ、『ランナバウト』、『リッジレーサー』シリーズなどを普通に遊んでいました。中でも『チョロQ』シリーズは最新作がリリースされると母に泣きながらおねだりして『お手伝い5回で買ってあげる』などの条件をクリアーしてでも手に入れていた好きなシリーズでその影響で玩具のチョロQも集めていました。親友mさんもチョロQやゲームも好きで『ランナバウト』などをよく遊びました。mさんとはゲームだけではなく公園で遊んだり、木登りしたり、段ボールの秘密基地を作ったり、とても楽しかったです。mさんが『ゲームばっかりじゃなく外でも遊ぼう』、『勉強も頑張らないと後で後悔する』と僕に友情を込めてアドバイスをくれたときには感動しました。 mさんは別のクラスでしたが、先生がよかったので自分のクラスの人とは多少ギクシャクしながらも一体感はありました。
 
 Oさんの小学校高学年の状況

 高学年は男性の普通の担任で、6年までずっとこの方にお世話になります。大好きだった3年の担任は別の学校に転勤して、僕は寂しかったです。 mさんとは遊んでいましたが、mさんは健康上の問題から半年あたり、健康学園に行くことになりました。クラスとは相変わらずうまくいかず、ほぼ孤独になり、家庭は借金問題になり取り立て業者が家に出れないこともあり、嫌でも引きこもりになりました。 mさんが通常の生活に戻って来てもこの状態では意味もなく、家でただゲーム三昧でした。 借金問題が解決して通常の生活に戻っても自分はなかなかクラスに溶け込めず、ゲームの事しか頭になく、服も2、3日取り替えず、風呂も3・4日入らずクラスメートに菌扱いを受けていました。クラスのいじめのターゲットにされ、やらせでクラスの女子に好きと告白しろ、と命令され、フラれてクラスにいじめられ、女子の誘いごとに入り、わざと『あいつにはここに入る資格はない』と言われたりして捨てられたり、苦手な球技に対しても悪口を言われたり、さらにストレスだらけで食欲もなくやせすぎの身体に対しても悪口を言われました。 こうして学校で溜めたストレスを自分の思い通りにいくゲームの世界で発散する生活リズムが完成しました。 さすがに僕の不衛生さにmさんや先生も注意してくれましたが、ゲームの事しか頭にない僕にはあまり気になりませんでした。 学校のクラブ活動ではマンガクラブでもう一人友達ができ、その友達は僕に普通に話してくれることと、周りもあまり気にしないことからクラブ活動は好きでした。 中学は地元の学校に進学はできました。


 シロクマ注:ここまでの履歴をみる限りにおいて、Oさんがスタート時点において抱えていたハンディなり何なりが少なからぬものであったことが伺えます。幼少期〜小学校低学年の幾つかの挿話(訓練施設に通っていたこと、全く落ち着きが無かったこと、発育の遅れ)を参考にする限り、Oさんに関しては、これまでの脱オタ症例検討のものとは明らかに文脈の異なる、biologicalなハンディが幼少期に存在した可能性が考えられます。小学生のクラスメートに、Oさんに対しての「コミュニケーション上の配慮」を求めたところで、まだ幼いクラスメート達にはなかなか難しかったことでしょう。幾ら先生が注意・指導したところで、子どもという生き物は、コミュニケーションや理解が困難と思った時には、嫌悪することをまずやめないものですから(注意や指導によって、そういった図式が改まる、というのは、僕は大人達の思い上がった思い込みか、すがりつきたい願望か、幼少期の記憶に対する忘却のどれかだと思っています)。子ども社会、とりわけ容赦のない中学生までの子ども社会はOさんには辛いものだったに違いありません。

 さて、Oさんは幼少期からゲームというものにすっかり傾倒しています。このことが、入浴や着替えの妨げになっていたという点では、ゲームはOさんの適応とコミュニケーションに阻害的だった、ということになるかもしれません。一方で、Oさんにとって数少ない慰安の手段となり、困難な現実では体験することのできない、ある種のコントロール感や自己実現感を体験できる手段としても機能していた点には留意しておかなければなりません。多分ですが、当時のOさんが心的ホメオスタシスを保つには、ゲームは必要だったのでしょう。


 Oさんの中学校時代

 なんとか中学校には入れましたがクラスには馴染めませんでした。 mさんは別の中学校で、自分自身の孤独感はかなり高かったです。 いわゆる『ゲーム脳』の僕(シロクマ注:←この表現は、原文ママです)は現実の学校はつまらなく制服も私服も汚れても着れればいいと思っていました。風呂には毎日入ってはいましたが、服装が不潔で結局菌扱いで女子にはキモいと言われていました。トラブルの度に男子の注意はエスカレートし、次第に首を掴み脅されました。 ゲームの方は『リッジレーサー』シリーズに加えて『トゥームレイダー』シリーズにも手を出し、その主人公ララ・クロフトに萌えてしまい現実の女子に嫌われていることもあり、恋愛感覚は完全に麻痺してしまいました。この時期、性欲が芽生える時期もあり、女子3人に囲まれ、性欲の事を聞かせる為に拷問され、でもララとは絶対言えずに女子に完全に嫌われ、『女』が敵と確定した時期でした・・・。 さらに男女ともに嫌われ、もう頭が馬鹿になって、夜中に外に出歩き、警察に質問を受け、でも何も言えずにそのまま警察署に補導され、母が警察署に来てそのまま、家に帰れたがもう、精神がズタボロです。 学校で唯一の楽しみは選択授業の美術で紙で架空の街の模型を作ることでした。一人黙々と作っていたこの作品は学習机4つ分も大きいものでした。ただこの作品は当時、大嫌いなA区なんか無くなればいい、そのかわりの自分だけの『理想の街』、すなわちクラスメート達への『恨み』を形にしたものでした。(イトーヨーカ堂、ダイソー、のほか、ゲームネタであるマリオカートのコースも完全再現。) ゲームは次第にエスカレートし、両親に心配されましたが自分はゲームしかなく、成績は最低ラインに落ちました。 高校には行きたくは無く、先生や両親に言われるままに高校進学を奨められ、自転車片道7キロのK区の最低偏差値の高校へ進学しました。地元の高校へ行くよりはいくらかは楽でした。 ・・・いつのまにかMさんのことばを忘れて自分で気付かぬうちににゲーム廃人になっていったんですね。涙が溢れてきます。
 
 中学校には父が借りて来たアニメ『頭文字D』をみていました。クルマはあまり知らないですが、かなり興奮していました。『頭文字D ThirdStage』には小学校以来の懐かしの日光・いろは坂が登場していることもあり、夢中になっていました。
 
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 ※本報告は、oさんのご厚意により、掲載させて頂きました。今後、Nさんの御意向によっては、予告なく変更・削除される場合があります。ご了承下さい。