Episode-08【病院の外は】


 僕は今日、ようやく病院を退院する。


 アスカが退院してから約一ヶ月強。
 アスカが僕の病室に来なくなってから随分寂しくなったけど、
 僕はそれをバネにリハビリに励んだ。

 そのお陰か、複雑骨折していた右足も今では自由に使える。
 痛みもないし、怪我する前とほとんど同じように動かせる。

 でも、病室を出ていく僕に、河田先生が何度も言っていた事が気になる。
 まるで僕が全然治っていないかのような、ちょっと気になる説明だった。

 “君はあの時に、ものすごい負担を心臓にうけていて、今も軽い心臓病に
  かかってるんだ。そしてこれは、完全に治るようなものじゃないんだ。
  だから、特に激しい運動はしないようにね。そして‥もし、いつかこの心臓病で
  困ったことがあったら、必ず私を捜して連絡しなさい。病気のことだったら、
  私が何でも相談に乗るから。”

 「はい、わかりました」
  それでも僕は元気良く病院を離れる事ができた。
  先生、ありがとうございました。


     *         *         *


 青葉さんの車で病院から約1時間。
 アスカも住んでいるという、御殿場市内の4階建てアパートに僕たちは到着した。
 アスカが301号室で、僕が101号室、だったよね。
 広い駐車場に青葉さんが車を止め、とりあえず僕たちは入り口の守衛室に向かった。
 ガラスごしに、眼鏡をかけた白髪のおばあさんの姿が見える。


 「碇君だね。お待ちしていました。ここは中学から大学の子ばかりだから、
  気兼ねなくね。はい、これが部屋のキーカード。スペアもね。」

 そう言って部屋の鍵を渡してくれた守衛のおばあさんが、このヤマダハイツの
 管理人さんだ。しわくちゃだけど、とても人の良さそうなおばあさんで、
 アスカの話では実際とても面倒見のいい人らしい。
 想像していた通りの管理人さんに出会ったことで、僕は小さな安堵感を得る
 ことができた。


 それから数分後、青葉さんに連れられて、自分がこれから暮らす部屋に到着。
 そこは、(当たり前と言えば当たり前なんだけど)あのミサトさんの家より
 ずっと小さなワンルームマンションだった。

 まだ新しい建物独特の匂いが、ちょっと嫌だった。
 そういえば、ミサトさんの家に初めて入ったときもそうだったかな?


 「じゃ、さっそくとりかかろうか、シンジ君。」
 僕は、青葉さんと一緒に引っ越しの作業を始めた。


      *        *        *


 引っ越す作業の最中、新しい家具の搬入をしながら青葉さんが
 時々話しかけてくる。

「あのさ、シンジ君て、どこのファンなの?野球。」
「あ、実は巨人だったりします‥‥」
「そうか〜。今は弱いけどな。オレがガキだった頃、そう、セカンドインパクトの
 直前くらいまではすげ〜人気だったんだぜ〜。」
「ええ、そう聞いてます。青葉さんは?」
「オレは阪神タイガースさ、当然よ。」

 言葉の潤滑油をまぶしながら、話し上手の青葉さんはテキパキと作業を
 進めていく。僕よりずっと手慣れたその手つきに、実は青葉さんは
 引っ越し慣れしてるんじゃないかな、と僕は思った。

 「そうそう、そういえば、シンジ君は料理とか洗濯とかは確か得意だったよな。」

 「はい」と答えながら、僕は新品の掃除機とアイロンをを押入に片づけた。
 掃除機やアイロンだけじゃないない。届いてる家具や電気製品も殆どが新品だ。

 「じゃあ、充分ひとりでやっていけるよな。アスカも見習って欲しいよ。」

「えっ?どういう事ですか?」
 さすがにこの時は気になって、僕は手を休めた。

 「シンジ君も知ってるだろ?アスカ、最近は料理もろくにしてないみたいだぞ。
  10日前にマヤがアスカの新しい印鑑を届けに行ったとき、彼女の冷蔵庫、
  ほとんど空っぽに近かったみたいだし。」


 そんな事、聞いたことがなかったな。

 こないだアスカから電話を貰ったときには、ちゃんと料理を作っている
 ようなことを言っていたと思う。
 どうしたんだろう?

 でも、僕はその場は「彼女らしいです」とだけ答えて、再び家具の整頓を始めた。

 青葉さんも、「そうか、確かにそうだな」と短く答えただけだった。

 要は、後でじかに会って聞けばいいんだし。


    *        *        *


 四時頃には仕事は終わり、青葉さんは帰っていった。

 さてっと。
 どうしようかな。

 一人になった部屋の真ん中で大の字になり、天井を見上げる。
 見慣れない蛍光灯を眺めながら、僕はこれからのこととかを考えてみた。

 学校のこととか、これからの生活についてとか、アスカのこととか。

 明日から大丈夫かな?
 アスカはどうしてるんだろ?
 トウジたち‥‥元気かな。
 夕食、作らないと。

 そっか、こうしちゃいられないや。
 夕食の事を思うと買い出しにいかなきゃいけない気持ちになる。
 この辺りは、僕はあの頃とあんまり変わっていないらしい。
 早速、買い物をするために僕は家を出た。






             :
            :
 「はい、ありがとね!!坊や、オマケしとくよ!!」
 「あ、ど、どうも。」

 やたらと元気のいい親父さんに内心びくびくしながら、
 「スーパー矢野」を出る。

 いかにも地元の八百屋って感じの店だったけど、置いてある物は新鮮なもの
 ばかりで、値段もかなり安かった。
 ああ、こんな事に喜んでしまう僕って、やっぱり主夫向きなのかなぁ……。

 全然しらない土地だったけど、大きな商店街がすぐ近くにあったので、
 あれこれ買った割には短時間で僕の買い物は終わった。

 食べ物だけじゃなくて、何故かまだ買ってなかったシャンプーとかハブラシも。
 それからフォークとスプーンに常備薬、台所用のゴミ箱なんかも買って、一応
 生活に必要そうなものは殆ど全部揃えることができたと思う。

 青葉さんは、結構水まわりのことや料理が苦手なんだろうなとか、
 いろいろ考えながらの帰り道、 初めて歩く商店街。
 色褪せた電灯、古いコカコーラの看板、乳母車を押して歩くお年寄りの姿。
 ちょっとひなびてるかもしれないけど、この街は悪い感じはしない。
 何となくホッとする雰囲気が、孤独な筈の僕を不思議と安心させた。


 ん?
 あれは?

 栗色の長い髪。
 見知らぬ白い制服。

 もしかして?


 頭の赤いヘッドセット。
 とってもきれいな顔。

 間違いない。
 アスカだ!!


 誰が見間違うものか。

 「おーい、アスカ!アスカだろ?」

 僕は買い物袋をシャンシャンとならしながら彼女の方に走っていった。

 アスカも僕に気づいたようだ。
 ゆっくりとこっちを振り向くアスカ。

 ‥ああ、アスカ‥


 でも、僕の喜びはそこまでだった。

 彼女の顔に一瞬すごく悲しそうな表情が浮かんだ。
 これまで一度も見たことのない表情だった。

 そして、僕を振りきるように、すごい勢いで
 アスカは家の方向に走り去っていった。

 あまりにも予想外の反応。
 僕は、彼女を追いかけることが、できなかった。







 “さてっと、食べるか‥”

 僕の目の前、一人分だけの食卓に、30分で作った夕食が寂しく並んでいる。

 久しぶりに自分で作った夕食の出来は、
 病院の食事と同じくらい、パッとしない。

 なめこの味噌汁も、鰯の丸焼きも、ホウレンソウの卵綴じも、ちゃんと
 昔と同じにできた筈なのに。



 ‥‥‥やっぱり気になるって事だよな。

 絶対様子がおかしかったよ。

 僕は片面だけ食べ残した鰯の丸焼きを、箸で何度もひっくり返しながら
 あの時のアスカの事を考え続けていた。


 ひょっとして。
 アスカ、また一人で何かに苦しんでいるんじゃないのかな?


 もしそうだとしたら、今度こそ僕に何かできるはずだ。
 大人達に振り回されていた、あの頃とは違うんだ。

 きっと僕も手伝ってあげられることだと思いたい。
 僕もあの時以来、強くなったと信じてるし。


 ……もちろん、それって勘違いかもしれないけど。
 だからといって、見ているだけで何もしないのが一番いけないよね。
 それじゃ、昔の僕とおんなじだから。


 失敗するかもしれないけど、出来ることをしてあげたい。

 これからはまた一緒なのだし、それに、
 この街にはアスカの親友の委員長もいないんだし。

 そうでしょ?加持さん、ミサトさん。
 これでいいんだよね。



 新しい携帯電話を取り出し、電話帳からアスカの名前を選択する。
 いざ電話帳を開いて、何気ない電話番号を見てみると、固く決心した
 筈なのにやっぱり心臓が高鳴るし、強いためらいを覚える。


 困ったな。

 思えばアスカに僕の方から電話なんて、今まで一度もしたことないんだな。

 何考えてるんだろ、僕は。
 今は、それどころじゃないのに。


 受話器をとっては置き、とっては置きを繰り返す、ダメな僕。

 何やってるんだ!こんな事もできないなんて!!
 かけろ。かけるんだ!


 十分ほど悩み悩んで‥。

 僕は勢いをつけて、思いっきり通話ボタンを押した。


 プルルルル プルルルル・・・

 やがてコール音は聞こえなくなり、かわりに自分の心臓の音ばかりが
 やたらと聞こえてくるようになった。汗が、出てくる。


 プッ
 『はい。惣流です。』


 僕の緊張が極度に高まる。
 なんでだろう、“遂にかけちゃった”という感じがした。


 えっと、何か話さないと。

「あ、あの、碇だけど」

 返事がない。

「き、今日、どうしたの?なんか様子が変だったけど?」
『……』

「あ、あのさ、なんかあったの?僕も明日からアスカの学校に行くんだけどさ。」

 電話の向こうのアスカがどんな気持ちで聞いているのか、
 顔が見えない以上、全く判らなかった。

 沈黙が、彼女から伝わってくる唯一の情報。

 とても、僕は喋るのが怖かった。

 僕は、どうすればいいのかな。


 でも、喋るしかないよね。


「よ、よかったらさ、い、一緒に明日から学校に行かない?
 こんな僕でもいいなら、だけど。」

 精一杯勇気を出して僕はそれを言った。


 『‥‥‥』

 返事がない。
 やっぱり、こんな事言わなければよかったかな。


 「あ、あの、やっぱり僕じゃダメだよね、うん、余計な事言って‥‥」
 『‥バカ。』

 「え?」
 『あんたなんか、だいっきらい!!学校で声かけてきたら、絶対殺すわよ!
  あんたと私はもう他人同士だからね!!覚えておきなさいよ!!』

 アスカの泣き声は今までに一度も聞いたこともないけど。

 電話の向こうから聞こえてきたその声は、およそアスカらしくない、
 どう考えても涙で潤んだ女の子の声だった。


 「アスカ!!どうしたの?アスカ!」
 『絶対よ!!約束破ったら、殺すわよ!』

 「あのっ!!アスカ!」

 プーッ プーツ プーッ プーッ

 絶叫にも似たアスカの声を最後に、電話は向こうからプツリと切れた。

 「どうしたんだ‥‥」


 僕は、携帯を持ったまましばらくその場に立ちつくしていたと思う。


 本当に何がなんだか全くわからなかった。

 ただ、怒っている時も顔はいつも笑っていた、あの病院にいたときの
 アスカの声でなかったことだけはわかる。
 どちらかというと、だんだん思い詰めて自分の部屋に籠もりっきりに
 なっていった頃のアスカに近いような、何だか余裕のない、張りつめた
 空気を電話越しに感じた。

 不安だ。
 アスカに会いに行こうか。

 でも、時計を見たらもう9時近くになっていたので、僕は諦めた。

 電話をもう一回かける勇気も、なかった。


 そういえば、まだ夕食を全部食べていなかったっけ。
 僕は早速残ったものを食べ始めた。
 冷たくなった鰯の焼き物も、なめこのみそ汁も、とてもまずかった。


 次の日。
 僕は真相を知った。

 あのアスカが‥信じられないことだけど――アスカは苛められていたのだ。

to be continued



 後書き代わり:

 まずは、ここまで見捨てないで読んで下さった方、本当にありがとう
 ございました。

 やっと中学校の半分くらいまで来たかな??

 (あう!つまんないって石を投げないで下さい!!!
  はうっ!!缶も瓶もやめてください‥‥(T^T))


 この物語の主人公はやっぱりアスカなんだなと実感しながら、今書いてます。
 シンちゃん、ちょっと事件で強くしすぎたかなぁ。でも、あれだけいろいろ
 非道い目に遭えば‥‥って事で。(^^;;;;

 アスカ、お前はどうしてそうなんだ。本っ当に手間がかかるな〜。
 強がってるけど、相変わらず弱くて脆いのぉ。

 でも、彼女が少しづつ大人になっていく過程を描きたいから
 (そんな事俺にできるの?)無理もないか‥‥。

 やっと起承転結の起部から承部に移りかけてる感じです。

 どうか、どうか御見捨てせずに呼んでやって下さい‥‥。m(__)mペコペコ

 何だか起伏の少ない退屈な物語ですいません。
 小生の力では、これ以上はどうにもならない‥(T-T)


 2004年注:ハハハ、石を投げてやろう!このクズ!
 缶も瓶も投げてやろうなじゃないか!このどぶネズミ!
 ケッ!もっと上手くかきやがれボンクラ野郎!
 しかし、ここの注釈にもある通り、この物語の主人公がアスカで、彼女の心理的
 成長過程の描写に力が注がれているだけあって、シンジ君の成長についての
 描写が乏しいですね。なんか、いきなり強くしすぎてるかも。
 でも、こればっかりは仕方ないような気がする。主眼があくまでアスカの成長に
 置かれているのなら、他のキャラクターの心理的過程についての説明が弱く
 なるのはむしろ仕方ないところでしょうか。欲張ってあれもこれもかけるほど、
 能力の高い書き手はそういませんから。





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