Episode-26【過ちを犯すアスカ】
レストランバー『蒸気船』の店内は今日も繁盛していた。
特に一階は、喧噪という言葉が実によく似合うほどの繁盛ぶりで、
務め帰りのOL達の弾けるような笑い声や、週末のディナーに
興じる若いカップル達の幸せそうな姿で満たされていた。
厨房からは時折、コックの威勢のいい声も聞こえてくる。
一方、それとは対照的な二階席は、サロン音楽を流した文化的な
ショットバーになっており、一癖二癖のありそうな男女達が、
深海魚のように遊弋している。
しかし、その日は少し様子が違っていて、どこか店内がざわついていた。
市街地を見おろす窓際のテーブルに腰掛けた一人の女性客が、
先ほどから周囲の男達の視線を釘付けにしていたのだ。
薄暗い照明の中に、一人の美貌の少女――いや、もう少女というには
あまりにも美しい――の姿が浮かび上がっている。
主張しすぎないものの丁寧にまとめられたファッション、ツヤのある
栗色の髪、水色の宝石のイヤリングと赤いヘッドセット‥‥。
その少女は、一人静かに飲んでいた。
『ねぇあれって、いつだったか聞いた新東大の惣流さんじゃないの?
ナオミの友達の?』
『確かそうよ!オリーブに載ってたの、前に見たことあるでしょ?彼女よ!』
『初めてみるぜ、凄いなぁ噂以上じゃん。俺は好みだな、ああいうの』
『でもねー、ひとりの男を溺愛していて誰の相手もしないって噂よ、あの人』
背中ごしに囁かれる彼らの噂話も、今のアスカの耳には届かない。
ただ‥‥心の平穏。
それだけを彼女が欲していたからだろう。
何かを考えることも誰かと話すことも嫌だった。
全てを頭の中から追い出したかった。
今は何を考えても苦痛だという事を、嫌というほど彼女は知っていた。
「えっと‥‥生ハムのサンドイッチをお願い。お酒は‥‥そうね、
また後でお願いするわ」
少し不慣れなアルバイトの店員にオーダーを告げると、傷心の少女は
小皿の上に乗っていたフライドポテトの最後の一個を口に運んだ。
目の前のタンブラーに手を伸ばし、僅かに残っていたカクテルを飲み干す。
“やっと体が火照ってきたかな‥‥”
黒壇でつくられたの大きくがっしりしたテーブルの上には、既に空の
グラスが二つ並んでいる。
アスカは別段酔いやすいほうではなかったが、二杯のウォッカトニックは
彼女を適度な酩酊状態にするには十分であった。
“ここのお酒って、こんなにまずかったかな?‥‥”
“みんな楽しそう。馬鹿みたい”
“あーあ、もうおなかいっぱい。”
『‥お待たせ致しました。生ハムのサンドイッチと、
ロングアイランドアイスドティです』
「何よ、その長い名前?私、そんなもの頼んでないわよ」
アルバイターの店員をキッと睨みつけるアスカ。
アスカの目の前には今、できたばかりのサンドイッチと共に、
身に覚えのない、茶色い液体の入ったゴブレットが並べられている。
『あちらのお客様から‥‥』
うろたえ気味の店員に促されたアスカは、店の奥の方を向く。
と、一人客らしき若い男がアスカに会釈を返しながらグラスを手にして
彼女の方に近づいてくるのが目に入った。
年の頃三十近くだろうか、鯱ぶったスーツ姿の細身の男だった。
「もう‥うざったいわね‥‥」
『では、失礼します』
「ち、ちょっと!!待ちなさいよ!」
「はじめまして」
店員がいなくなった代わりにというわけではないのだろうが、
見知らぬその男は、慣れた仕草でアスカの隣の席に滑り込んできた。
アスカはふと、男の足を力いっぱい蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、
流石にそれは心の中だけの事にして、“消えてよ、すぐに”と
口に出すだけで我慢する。
「‥‥‥‥」
「挨拶もなしとは、つれないね」
「私を口説きたくてウズウズしているならおあいにく様よ。
さっさとどっか行ってよどぶねずみ野郎!
私のこの綺麗な顔見れただけでもう充分でしょ」
「‥。」
「‥‥‥消えてよ、私、機嫌悪いんだから」
「‥‥。」
「‥‥失せろっていってんのよ!このっ!」
「辛いことがあったって、顔に書いてあるからさ。」
「適当な事言わないでよ、キザな奴!!あんた何様のつもり?」
「当たりか‥」
「‥‥なによ‥‥他人の癖に‥‥」
改めて男の顔を覗き込むアスカ。
“ああ、やっとこっちを向いてくれた”と囁いたその男の顔を見て、
アスカは遠い昔に憧れていた男性の顔を思い出していた。
「‥‥‥」
「綺麗だけど、えらく悲しそうな顔をしていて気になったんだ」
ようやく一言、“キザな上にイヤな奴”と切り返し、
アスカは自分が頼んだわけではないカクテルに口をつけた。
「ふぅーん」
ロングアイランド・アイスド・ティと呼ばれるその茶色い液体は、
その名にふさわしく、甘い紅茶のような味がした。
少しアルコール度数が強いかなと思いながらも、アスカはそれをぐっと
喉の奥に押し込んだ。
「悪くないわね‥‥これ」
「‥‥‥」
「捨てられただけよ。」
「そうか‥‥」
「ねぇあんた、どうせわたしの体が欲しいんでしょ。私の」
突如、そう言い放ち、天井の暗い明かりを見上げながら
アスカは再びカクテルを飲み始めた。
煽るようにロングアイランドアイスドティーを呷る彼女の横顔を、
男はただ黙って見つめ続けていた。
「いいわよ。」
「あんた、私を幸せな気分にしてくれる?」
グラスの音をカランと響かせると、男は
「ほんの一時だけなら、もしかしたら。」と答えた。
天井のライトから決して視線を逸らそうとしない
青い瞳が、次第に輝きを増し始める事に男は気づいていた。
キラキラとライトの光を反射しているそれは、サファイアのように美しい。
アスカはその事に気づかぬまま、アルコール度数のとても高い、茶色の
カクテルをを飲み続けた。
ゴブレットの中身を全て飲み終わり、熱い息を漏らす。
そして、“あんた持ちよ”と一言呟くと、側を通りかかった店員を
どこか抑揚のない声で呼び止めた。
「あの‥‥‥ロングアイランド・アイスド・ティー、ください」