次の日、シンジのいる病室に私が着いたのは
 日も暮れかかった午後6時頃の事だった。

 学校のゼミでへとへとになった体を引きずって、
 人影の少ない病院の正門をくぐり、まずはロビーでひと休み。
 晩御飯代わりに、カフェオレとカロリーメイトを買った。

 久しぶりの学校の後だからか、長椅子に座っていても疲労感が
 ずっしりと肩に掛かる。

 これからの病院通いは大変ね、これだと。

 でも、いい。
 私、これでいいと思う。
 昔とは違うもの‥。



 その10分後、私がオレンジ色に染まる病室のドアを開けると‥‥

 入ってくる私にも気づかないって感じで、ベッドの中でシンジが俯いていた。

 遠い昔にはよく見たような、どこか虚ろな顔だった。

 何が起こったのか、私は咄嗟に予感していた。


 病気のこと、ファーストのこと、きっと全部聞いたに違いない。

 声をかけるのが少しためらわれる、けど‥‥それでも私はベッドサイドに
 歩み寄った。

 胸に、小さな決意を抱いて。
 そうよ。こんな時に力になれなかったら、絶対嘘よ。


 ちらりと机の上に目が逸れた。

 そこに置いてあった茶色い封筒。

 「碇 シンジ君へ  綾波 レイ」
 と書いてあるのが、私の目に留まった。



 Episode-31【負けないで】


 「シンジ、どうしてしょげてるの?」

 「‥‥‥」

 理由を知っているくせに、そんな事を聞くのは変だったかもしれない。
 ただ、会話の起点が欲しいかったんだと思う。

 今は、話して、話して、それしかないんじゃないかな?
 最悪、せめて彼の気持ちを受け止めるくらいの事は、私にだってできる筈よ。

「‥‥」

 「ねえ、何か言ってよ。」

 「‥‥‥一人にして欲しい。」

 私と目線をあわせることをシンジは嫌がった。
 私が顔を覗き込むと、シンジは本当に嫌そうに横を向く。
 少しカチンと来たけど、“ううん、仕方ないわよ”と
 自分に言い聞かせ、シンジの手を握った。

 「ファーストのことでしょ。」

 「!!」

 瞬間、シンジはびくっと体を震わせた。

 ひょっとしたら、いきなりはまずかったかもしれない。
 もう言っちゃったんだから、後には引けないけど‥。

 「私も、河田先生から話は聞いたわ、全部。全部聞かせて貰ったの。
  流石に驚いたわ。」

 「‥僕は‥‥」

 「何?」

 「‥‥‥僕は‥バカだ。」

 「どうしてそんなことを言うの?」


 「‥冬月さんから色々と聞いたんだ。僕が今日まで生きて来れた理由を。」
 「自分が生きているのは、当たり前の事だと思っていたけど
  そうじゃなかったって事をね。」
 「思えば、綾波だけじゃないんだよね‥‥」
 「ミサトさんも、ダメになってた僕を――人間以下だった僕を助けるために、
  死んでいったんだ。」
 「加持さんだって、父さんだって。」
 「それだけじゃないよ、今生きてる人達――アスカやみんなのお陰って
  いうのもあるし。」
 「自分一人の命じゃない事も忘れて、僕はいつも、一生懸命にもならずに
  ただ時間を過ごしていた。それを、思い知ったよ。
  で、何一つ残さないで僕は、もうじき死んで行くんだって事も。
  心臓、見つかるなんて思えないし、見つかったとしても‥」

 「‥‥‥」


 私に話しかけているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか‥‥
 シンジは天井に視線を彷徨わせながら、言葉を続ける。

 「綾波がさ、僕のことが好きだったみたいなんだ。
  遺書にはそんなこと一言も書いてない。けど、何故か、すぐに解った。
  昔の僕だったら、きっと気づけなかったと思うけどね。」

 「好きだって言ってくれる人に命を助けて貰ってたっていうのに、僕は‥‥」

 「そんなことないわよ、シンジは私を大事にしてくれたじゃない。
  それにさ、例えば、吹奏楽やってた時のシンジは、一生懸命だったじゃない。
  あの時のシンジってそごく生き生きしてたと思うし、私のためにいろんな事を
  してくれた‥‥何より、優しくしてくれたの、私は嬉しかった‥‥」

 思わずシンジの独白に割って入ってしまった。
 やっぱり聞いていられなかった。

 生真面目なシンジのことだから、きっとこうなると判っていた。
 私なんかよりずっと立派なシンジだから、きっと悩むって判ってた。

 このシンジを何とかしてあげたい。
 今日まで、シンジにはずっと助けられっぱなしで、
 ずっと甘えっぱなしだったもんね。
 だから、今日こそ、今度こそは助けてあげたい。
 力になりたい。

 こんなアスカだけど――ダメで、卑怯な私だけど――
 シンジを好きな気持ちだけは、間違いないと思うから。


 「‥‥だから、そんなの、気にしないでよ」

 「僕は‥‥アスカが好きだよ。一昨日に言ったとおり、その気持ちに嘘はない。」
 「でもね、純粋にアスカが好きってわけじゃないんだ、きっと」

 「え?どういう事?わからない。」

 「あの時、アスカが僕に優しくしてくれなかったら、こんな風に
  ならなかったと思うんだ。
  忘れないよ、あの時、いじめられてたアスカが僕を庇ってくれた事。
  嬉しかった、だから、助けたいって心から思えた。」

 「助けたのは、たぶん、どこかであの頃からシンジの事が好きだったからよ。
  ほら、私を守ってくれたじゃない、殺されかけてた時。
  あれがおっきいのかもしれないわね。だからきっかけは私も同じなのよ、シンジ。
  優しい人には優しくなりたいって、普通だと思うし、
  それでその人を好きになるって、何が悪いのよ。」


 「そうなんだよ。僕はアスカが大事にしてくれるから好きなんだよ、きっと。」
 「一緒にいて、笑ってくれるから、泣いてくれるから好きなんだよ。」
 「全てを赦してくれる、そんなアスカだから好きなんだよ。」
 「そんな、卑怯な人間なんだ。思い通りにならないなら、きっと好きじゃないんだ」

 「そ、それでいいじゃん!何が不満なのよ。」


 シンジが何を考えているのか、少し判ったような気がしてきた。
 もし、昔の私がシンジの立場だったら、きっと同じ事を言うだろうから。

 だから、私、シンジのやろうとしてる事、わかってると思う。
 でも、それは絶対にイヤ。

 そして、それはマイナスばかりで誰の為にもならないと思う。


 「どこが卑怯なのよ?おとといも同じ事言ってたじゃない!
  シンジ自身、それでも私が好きって気持ちに嘘は無いって。
  それに、私だって、シンジが昔みたく、本当に自分本位な奴だったら、
  きっと好きになれなかったって、わかるでしょ!?」

 「アスカを抱いた事だって、本当にアスカじゃなきゃいけなかったからか、
  今でも自信がないよ。アスカが側にいてくれるから、大事にしてくれるから‥」

 「当たり前じゃない!私だって、シンジが私に優しかったからよ。」

 「ずっと前だけど、アスカをオカズにしたことだってあったんだ。
  ホントはそういう男なんだよ!!僕は!!」

 「‥‥!」

 一瞬、体に炎が駆けめぐるような感覚に襲われた。
 確かに私はその刹那、シンジを憎んでしまっていたと思う。

 ‥昔の私だったら‥‥絶対赦せなかっただろう。

 でも、ここで怒鳴ったり怒りにまかせて出ていったりしたら‥‥全て終わり。

 シンジだって男の子だし、それ以前に、どうしてここでこんな酷い事を言うのか、
 それを考えて。

 ‥私がもっともっと酷い事をやったって事、忘れないで。

 その辺、わかってるわよね、アスカ。


 「いつも自分の事しか考えていない僕なんだ。」
 「卑怯な僕に、僕は背を向けて、それでもアスカを好きになるフリばかりしてた。」
 「本当は、体が目当てかもしれないし、優しくしてくれるなら
  誰でもいいのかもしれない。そんな我侭な人間なんだ。本当は。」

 「だから、こんな僕なんか。
  どうせ、長くないんだし。
  一人で死んでしまったほうが、いいよ。」



 シンジは一気にそこまで話すと、静かに目を閉じた。

 話している間じゅう、一度も私に視線を合わせようとしなかった事が、
 とても印象的だった。


 パイプ椅子に座ったままの私。
 シンジの言葉を数々を反芻しながら、複雑に絡まった思考の糸を解きほぐす。

 昔、私がどうして心を閉ざしたのか。
 どうして自分がシンジに惹かれて、付き合い始めたのか。

 一昨日と殆ど変わらない事実を、
 シンジが酷い形で私に繰り返しているのはどうしてなのか。

 ファーストの気持ちは?
 シンジの気持ちは?


 私の、私自身の気持ちは?


 次第にそれらが融合し、頭の中で大きな答えを形作っていく。


 うん。
 今の私、間違ってないわよね。
 ううん、たとえ誰かに間違っているって言われても、そんなの関係ない。

 それでも、私の今の気持ちに偽りはないんだから。

 そしてそれは‥‥シンジの胸の中にどんな思いがあったにしろ、
 シンジが私を大事にしてくれたという事実が無かったら、
 決してたどり着くことの出来なかったモノなんだから。


 そうよ。
 誰に何と言われても、私は、やっぱり『バカシンジ』が好きだもん!



 「バカ!!シンジのバカ!!」

 そう言って、私はシンジのベッドに飛び乗った。

 声を高めて、意識的に自分の感情を高ぶらせる。

 「どうしてそうなのよ!!」

 「そんなんで、シンジのこと、嫌いになれるならなってるわよ!このバカ!」

 「好きって、苦しいもん。辛いもん。でも、どうにもならないのよ!!」

 「そんな事言われたって、シンジを嫌いになんて、なれないもん!!」


 やがて、頭の中からシンジが病床の身だという認識が消えていき‥‥


 私はシンジの上に馬乗りになって、無理矢理彼の顔を左手でこっちに向かせた。


 それから平手一閃。
 もう一回。

 力いっぱいぶってやった。


 思いっきりびっくりしたのか、シンジは大きく見開いてこっちを見返す。


 アスカ、出番よ。


 自分の気持ちを信じて。
 シンジの優しさを信じて。

 シンジ、私にいつも優しかったもん。いつも私、シンジが好きだったもん。
 そして、たった今この瞬間も、それは変わりないんだって、その事を忘れないで。

 ‥だから。
 きっと、大丈夫。

 勇気出して。
 負けないで、アスカ。
 負けないで、シンジ。




 [2nd part]



 「それがどうしたってのよ!!」

 「そんなこと言ったら、私なんてそれ以下よ!!」

 「上辺さえシンジに優しくする事もできなくなった最近の私なんて、それ以下よ!」

「優しくしてもらう事ばっかりで、シンジにもまわりの人達にも甘えてばかりで!」

 「シンジは気づいていたかもしれないけど、友達まで困らせていた。
  ケンスケやナオミを、私が悩ませていたなんて。」

 「思えばこの3年間、シンジにも甘えることしかできなかった、
  ただ、自分が寂しくなることだけ恐れて、いつも、そればっかり考えてた。
  だから、たくさん迷惑かけた。」

 「それだけじゃない。シンジが病院に運び込まれた日、私、捨てられたと
  思って自棄起こして‥‥知らないの男と寝そうになってた‥‥。
  酔いが醒めて、シンジが私を捨てた訳じゃないって知ったときには、後悔したわ。
  でもね、自棄起こしたのは事実よ。そうよ、資格がどうのって言うなら、
  あんたみたいな優しい人を好きになる資格なんて、どこにもないわよ!!
  シンジを裏切らないって言ってた私が!私が!!」

 「そんな私なのよ、ダメな私なのよ。でもね、だからどうなのよ!!」

 「そんな私でも、みんなが好きなの!
  それでね、シンジが一番好きなの!!」


 「私はこんな女よ、だけど、それでも一緒にいたいの!離れたくないの!!
  そう思う気持ちに嘘はないもん!!どうしようもないもん!」

 「だからさ、シンジもつべこべ言わずに助けてって言ってよ!!
  もし、こんな私なんかでも構わないんなら、少しでもいいから頼りにしてよ!」

 「死にたくないって言ってよ!生きたいって言ってよ!」

 「私のこと、好きって言ってよ!!私でいいなら、もっと我侭言ってよ!」


 「‥アスカに今ここで嫌われてもいいんだ、僕は。
  ううん、嫌われたほうが。
  だって、僕は、どうせもうだめなんだよ。
  このままなら5年生存が10%って、先生は言ってた。
  殆ど死ぬようなもんだよ、もう、ダメなんだから。
  もし助かっても、アスカに頼って、迷惑かけて、重荷になって、そんなのイヤだ」

 「‥‥‥」

 「僕が惨めに死んで行くところは見せたくない。
  僕なんかのことで、こんな僕なんかのことでアスカを
  悲しませたくないんだ。
  病人に縛られて欲しくないんだ、アスカには幸せになって欲しいんだ。
  悔しいけど、最近の僕はいつも思ってたんだ。
  だから、新しい人を見つけて、幸せなカップルになって‥‥」

 「‥!!!」

 バチン


 思わず、またシンジに手を出してしまう。

 シンジが考えていることが手に取るように解る。
 私も前はそうだったから。
 ここが頑張りどころだと、声が聞こえる。


 がんばって。
 シンジのこと、好きなんでしょ?


「バカ!!‥‥‥まだそんな事言ってるの!?」

「本気なのよ!」

「私、本気なのよ!」

「一生懸命な私の気持ちと、シンジの好きって気持ちを裏切るなんて、
 何言われてもできないわよ!!」

「ええ、ここでシンジから離れなかったら苦労するかもしれないし、
 いつか悔やむ時が来るかもしれない。
 それに間違いはないわ。
 だけどね、今のこの気持ちが、今の本当の私なのよ、今の全てなのよ!」

「後悔を避けて人生を送る、それもいいかもしんない。
 でもね、私、後悔してもいい、後で泣いて、騒いでもいい!!
 だから、一生懸命な、今の自分を、シンジしか見えない私を、私は信じるの!
 ううん、信じたいの!!」


「‥‥それに、ファーストの気持ちも考えてあげてよ!」

「なんでファーストはあんたに心臓をあげたの?」

「あんたが好きだったからでしょ?
 死にかけてたあんたが、それでも好きだったからでしょ?」

「私はね、ファーストほど立派な女じゃない。
 同じ立場でも、そんなことできない。
 正直、そんな綺麗すぎるファーストに嫉妬してるくらいよ。」

「シンジは、どういう気持ちで冬月さんからファーストの話を聞いたか知らないけど。」
「どんな事考えて悲しい顔してたのかしらないけど。」

「でもね、あの娘の『好き』って気持ちを大事にしたいなら、諦めないで!」

「ファーストがあんたに生きろって言って心臓くれたんじゃない。
 私だけじゃないのよ、たくさんの人があんたに生きて欲しいのよ!
 だから、もっと自分を大事にしてよ!」

「『僕はダメだ』とか何とか言ったり、私に嫌われようとしたりさ。
 それこそ、ダメよ、後ろ向きよ!あんたの言うとおり、
 シンジは一人で生きてたんじゃないわ。
 だったら、周りの私達や死んでいった人達のために、
 何より自分自身のためにあがきなさいよ!」


「みんな、ダメでもバカでもいいから、
 あんたに生きていて欲しいって願ってるのよ!」

「だから、そんな寂しいこと、絶対言わないでよ!」

「ダメな自分を責めないで。
 私もダメだけから、言えた口じゃないかもしれないけど‥‥
 でも‥‥責めないでよ!あんたみたいな内罰的でバカ正直な
 お人好しの事、誰も嫌いになんかなりたくないんだから…」


 そこまで話したとき‥‥

 「なにしてるんですか!」という怒鳴り声に、私達は二人きりの世界から
  追い出された。

 振り向くと、太った中年の看護婦さんが恐い顔をしてドアの側に立っている。

 彼女はベッド脇に歩いてきて素早く私の腕を掴み‥‥
 たちまち私はベッドから無理矢理引きずりおろされた。

「あのですね、この人は今、手術が終わって間がなくて、
 とっても大事な時期なんですよ、この人の事を思うなら、そういうのは
 やめて下さい。」

「はい‥‥すいませんでした。」
「あの‥看護婦さん、アスカは‥」

「さ、碇君も、もっと寝ないと。早く退院するためにもね。
 はい、面会時間、過ぎてるんだから、ほら、行って行って!!」

「アスカ、あの‥‥」

 無情にドアは閉じられる。


 何の言質も与えられぬまま、私は無理矢理部屋の外につまみ出された。

 最後の『アスカ、あの‥‥』という、何かいいたげな言葉が耳に残って、
 それが何度も木霊している。


 続きが聞きたいけど、あの看護婦さんがいるから、今日はもう無理みたいね。
 面会時間も過ぎてるし。

 仕方ない、今日は帰ろう‥‥。


 紅に染まる病院の廊下を、一人、歩き始めた。





 僕は、死ぬかもしれない。
 というより、先生の言うことが正しいなら、ドナーの心臓が
 見つからない限り5年以内に90%の確率で死ぬんだろう。

 それでも、アスカは僕に生きろと言う。
 みんなも一緒にいて欲しがる筈だとも言う。

 僕だって生きたい。
 みんなと一緒にいたい。

 その気持ちに、嘘はないよ。


 可能性がある限り、諦めてはいけないという事を今日、
 アスカは思い出させてくれたと思う。

 そうだね。
 よく考えたら、あの頃からアスカは、生きることにはいつも一生懸命だったね。

 間違いをやったり落ち込んだり‥周りに迷惑をかけたり‥不器用だった。
 けれど、それでもアスカはいつも一生懸命だった、何に対しても。

 そして僕は‥そうじゃなかったかもしれない。

 だから、綾波の事を聞いて以来、自分の4年間に対して
 こんなに後ろめたいものを感じるのかもしれない。



 僕は、死ぬかもしれない。

 死ぬのは恐い。

 でも、助かる可能性もあるのなら。

 もし、助かったら。

 もし元気にまたみんなと暮らせるようになったら、
 その時は僕はもっと一生懸命になろう。

 僕は、ずるくて、卑怯で臆病で。弱虫で。
 いつも、他人が喜ぶこと――言い換えれば、他人に嫌われないこと――
 を気にしていた。

 アスカの事だって、アスカの人格が好きとかどうとかっていうんじゃないと思う。
 一緒にいてくれるから好き、大事にしてくれるから、頼りにしてくれるから
 好きなだけなのかもしれない。


 でも、アスカの言うとおり、確かにそんなの関係ないんだよね。
 みんなと一緒にいたい、あの娘だけは悲しませたくないって気持ち、
 嘘じゃないんだから。

 みんなと一緒にいたとき、アスカと一緒にいたとき、自分が一番幸せなのも、
 間違いないから。


 そうだよね、綾波も、ミサトさんも、加持さんも、これでいいと思うよね。

 あの時の誓いと同じだけど。
 みんなの事、みんなが僕にしてくれた事は、忘れない。

 だけど、僕は‥‥もし手術が無事に終わったら僕は‥‥‥自分の幸せのために、
 もっと一生懸命になります。

 それが、みんなの願いだから。
 そして、僕の願いだから。


 あ、そういえば、アスカ、僕以外の男と寝そうだって言ってたな。

 やっぱり僕、怒っている。

 でもアスカのことだから、僕にああやって打ち明けてくれたんだから、
 きっと、悩んで、後悔したんだとは思う。
 だから、なるべく忘れてあげなきゃならない。
 一度くらいはひっぱたくかもしれないけど、それで済ませよう。

 あのアスカが、二度とそんな事しないって、僕は信じているから‥。





[3rd part]


 次の日、私は学校に行った後、また病院に向かった。


 正面玄関で、ナオミを見かけた。
 運が悪いと感じる。

 会いたくない。
 言葉を交わすのが、恐い。

 でも、ここで逃げたら明日も後悔する事を、今日の私は知っていた。

 ‥‥もっとも、逃げなかったからと言って、必ず後悔しなくて済むって
 保証もないのだけれども。


 それでも、彼女がエレベーターに乗ろうとするのを柱の影から見たとき、
 私は勇気を出してそれに飛び乗った。

 どうしてもナオミと仲直りしたかったし、これからもナオミと一緒にいたかったから。


 ドアが閉まりきった時に初めて、ナオミは私が飛び乗ってきたことに
 気づいたようだ。

 私のほうをちらりと見て、素早く視線を逸らし、それから8のボタンを
 押す彼女の顔に翳っていた。
 それが、よりにもよって、この私が原因なんだから‥‥何とかしてあげたい。



 「あの‥‥この前は、ごめんなさい」


 二人きりのエレベーターの中、私が最初に口にしたのは、
 シンプルな謝罪の言葉。

 「いじけて、謝るナオミを無視したこと、後悔してる。」
 「ひどい事したって。赦してって言うのは、私の方よ。」



 ナオミの反応を待った。

 彼女からは言葉が返ってこない。


 「あつかましいかもしれないけど、私を‥このアスカを赦して」


 やがて、シンジのいる8階にエレベーターが着いたとき、
 彼女もようやく私のほうを向いてくれた。


 そして、一言、二言。


 「ごめんね、アスカ」

 「こんな私とも、友達でいてくれる?」



 返ってきたそれは、私が心から待っていた言葉だった。

 もしそう言ってくれるなら、きっと私は救われると思っていた一言。

 嬉しい。
 嬉しかった。

 だから、私はナオミの手を取って、心から言うことができた。

「ありがとう」と。


 「私を赦してくれて、嬉しいし、友達でいて欲しいけど‥‥。
  でもね、私、それでもナオミの言うとおり、やっぱり勝手な所、あると思うんだ。
  けど‥それでも、ナオミ、赦してくれるの?」

 「うん。
  っていうよりも、私だって人のこといえないって、思い知ったから。
  あの時アスカを責めたこと、本当に後悔してる。
  思い返すと、あんな風に言うのって、残酷すぎると思うもん。」

 「それに‥‥ひどいこといっぱい言っちゃったけど‥シンジと一緒にいるときの
  あんたを見てさ‥‥色々考えたんだ。
  私がもしアスカの立場だったらって思ってね。」

 「もう、いいのよ、私は。
  ね、だからさ、それより早くもとのナオミに戻ってよ。」


 「うん。じゃあ、全部忘れてなんて勝手なことは言えないけど‥
  お願い、また、仲良くしてやってね。」

 「うん。私からも。仲直り。」

 「じゃ、とりあえずさ、シンジの所、一緒に行かない?」
 「うん。」

 そうして私達は、エレベーターホールから病室の方へと歩き始めた。


 歩きながら、何度もナオミの方を見た。
 まだまだ元気とは言えないわね、でも、、いい加減そうないつもの表情に
 少し近づいたかもしれない。
 そして今は、その下に隠されたとても真面目で優しい心も、
 ちらちらと見え隠れしているような気がする。
 私の気づかなかった、新しいナオミ。


 うん、私って、幸運な人間だと思う。
 もしナオミが私の気持ちを色々考えてくれる人じゃなかったら‥‥
 きっと、私を憎んだままでお終いだったはずなんだから。

 逆に謝るなんて、なんてナオミっていい娘なんだろうとも思う。
 まだまだ私、ナオミみたいじゃないから、きっと、これからも
 迷惑かけるんだろうな‥‥怒らせちゃうんだろうな‥‥。

 でも、この人はきっと赦してくれる。
 怒っても、必ず赦してくれると思うことにしよう。

 この私が、ちゃんとした私でいる限り。


 「さてと‥‥じゃ、はいろうかな‥」

 と、その時。

 突然病室のドアが開いて、ブレザー姿の若い男が部屋から飛び出してきた。

 なんだろう、と思ったその時、私はその不機嫌そうな人物が誰なのかを知った。


 「‥鈴原じゃない‥‥」

 「あ、惣流、それから流城も。」

 「ひっさしぶりね!トウジ!」

 病院の廊下で、かつての高校の仲間三人の話が始まった。

 紺のブレザーとスラックス、それに縦縞の青いストライプの白シャツを着た
 トウジは、ジャージ姿の中学・高校の頃からは考えられないくらい
 あか抜けていて‥‥さまになっていた。

 びっくり。
 ヒカリったら‥‥美男子の先物買いの才能でもあったのかしら。

 それとも、鈴原も、ダサいジャージさえなければ格好よく見えちゃうのかな‥‥。


 「もしかして京都から?お見舞い?」

 「ああ、そうや。」

 「久しぶりね、トウジ。どうだった?今日のシンジ?」

 「殴ってやった。」

 「「は?」」

 思わず私とナオミで声がそろってしまう。

 「な、なんでシンジを!?」

 「なんか、頼りない事ゆうとったからな、カッとなって、殴ってしもうた。
  悪い事したって、反省しとる。」

 「そっか‥‥」


 「惣流の事でな、あいつ、うじうじした事ゆうとってな。
  気合い入れてやったっつう意味では、よかったんやろけど、
  手加減できなんだ。」

 「私のこと?」

 「そや。よう自信ないゆうことぬかしおったで、ホンマ。
  危ないからどうたら理屈こねおったから、手が出てしもうた。」

 「シンジらしいといえばシンジらしいけど、アスカの事にしては
  珍しいわね。アスカ、シンジって、いつもそうなの?」

 「え、ああ、最近はちょっとね。」

 私も最近理屈っぽかったから‥‥あんまり人のことは言えないけど、
 二人にはそのことは内緒にして、とりあえず相槌をうっておいた。

 ちょっと、ずるいかな?


 「ああ。わしも、らしくないと思った。死んでも何でも
  できる限りの事はできる奴やとおもっとるからな。
  お、そろそろ時間や、じゃ、またな。」

 「え?もう帰っちゃうの?」

 「ああ。午後の3時からテストでな、語学の。
  どうしてもサボれんから、今日はここまで。
  昨日と今日は、ま、一時帰省ってところやな。」

 ナオミが“最後にヒカリに会ってくのよ!”と突っ込むと、
 間髪いれずに「駅で待っとる」とトウジは答えた。

 きっと、ヒカリとは今でもすっごく仲がいいんだろう。

“また夏休みな、夏休みはゆっくり帰るからな”と言い残して、
 背を向けて歩いて行く彼は、きっと、これからもシンジのいい友達で
 いてくれると思う。


 「ああ、トウジ、行っちゃったわね」
 「もっとゆっくりしてけばいいのにね〜。」

 「そうそう、鈴原の奴、やっぱり昨日の夜はヒカリの家に泊まったのかなぁ」
 「えっ?そうじゃないの? 他には考えられないわよ!」

 「『遠距離恋愛が生み出した、ラブラブチャンス!!』ってね!」
 「相変わらずね〜、ナオミったら!!あ、そういえば、お見舞いしなきゃ」

 「あ、そうだった」


 うう‥二人でバカ話をする為に来たんじゃないわよね‥‥

 ま、完全にナオミと仲直りできたような気がするから、いっか‥。


 さあ、行かなきゃ。





 [4th part]



 コンコン

 「おじゃましま〜す」
 「シンジ〜、ちゃんと元気してる?」


 「あ、アスカ、流城も!」

 あ〜あ、また派手に殴られたわね〜。
 左側の頬が、まっ青じゃない。

 トウジの奴、殴るのはいいけど、力加減ってものを知らないのかしら!?


 「ほっぺた、痛くない?」

 「ああ、これ?トウジに殴られたんだ、今。」

 「知ってるわよ、さっき廊下で会ったもん。
  あんたねー、『愛しのアスカしゃま』の事でぐちぐちぐちぐち言ってるから
  そんな目に会うのよ、まったくぅ!まぁ、私でも蹴りくれてるかも。」

 「こ、こら!!」

 「ハハハ、流城らしいや。でも、これでみんなの気持ちはわかったよ。
  もう、安心して。僕は、がんばるから。色々と、できる範囲でね。」

 「うんうん。それでいいのよ」

 「僕、諦めない。まだ、死ぬって決まったわけじゃないんだ。
  移植さえできれば、5年生存率も80%以上になるって、先生が
  言ってたから、とにかくこれからは少しでも生き残る確率をあげるために、
  頑張ろうと思うんだ。そして、もし退院できたら‥‥」

 「必ず退院するのよ!!」

 「あ、アスカの言うとおりだね。必ず退院して、みんなと騒ぎたい。
  楽器やったり、学校行ったり‥‥とにかく、頑張りたいよ。」

 「アスカの事はどうすんのよ、シンジ?」
 「ナオミったら!!」

 ナオミの鋭い突っ込みにも動じることなく、その時シンジは‥‥‥

 「できれば、また一緒に暮らそうと思ってる。
  信大も第二東大も近いんだから、全然無理じゃないし。
  僕はもう、アスカの事で迷ったり悩んだりすることはないと思う。」
 と答えてくれた。

 「流城の前でノロけて悪いけどさ、やっぱり好きみたいなんだ。
  大変だってわかってるけど、一緒に暮らしてみたいんだ。」


‘はぁ〜’とナオミが溜息をついている。


 え?私?
 私は‥‥真っ赤になってるかもしれないわね。

 人前でシンジが好きって言う事には慣れてるけど、
 人前でアスカが好きって言われる事には慣れてなかったから‥。


 「妬けるね‥‥やっぱり二人、仲がいいんだね。
  でも良かったわね、アスカ。シンジが元気になって。」

 「う、うん」

 嬉しさと恥ずかしさのブレンド。
 それとほんの少し、ナオミに対する後ろめたさ。


 私、幸福だと思わなきゃ罰があたるわね。

 こんなシンジと、こんなナオミがいるだけでも、私は
 すごく運のいい人間だと思う。

 他にも、沢山の人が、私を見てくれている。


 ありがと、シンジ。
 元気になってくれて。

 ありがと、ナオミ。
 私のこと、赦してくれて。


 ここまで頑張ってきた私自身にも。

 ありがと、私。
 今日まで生きていてくれて。



 シンジのお見舞い、これからもなるべく来よう。
 そうよ、いつシンジが気弱になるかわかんないからね‥‥って、
 半分口実ね、これって。

 シンジはきっと大丈夫、うん、もう落ち込んだりしないと思う。
 心配なのは、むしろ私自身のほうなんだから。

 あ、もう一時間も経ってる。
 そろそろかえらなきゃ‥‥


 「ナオミ、そろそろ帰ろうよ、あんまりいるとシンジに負担がかかるからさ」
 「あ、僕なら寝てれば大丈夫だから‥‥」

 「アスカって、お利口さんになったわねぇ〜。」
 「な、何よ」

 私のジト目を無視して、ナオミは“じゃ、シンジ、ちゃんとたくさん寝るのよ”
 と明るくシンジに答え、私の腕を引っ張ってそのまま病室を出た。



 女二人で廊下を歩きながら、思ったこと。

 それは‥‥

“そうね、これからはなるべくナオミの来そうにない時間を狙おうっと。
 だって‥‥ナオミがいたら‥‥二人っきりになれないもんね‥。”


 ああ、私って‥‥本当に好きなんだね、シンジのことが。


                   to be continued


ここまで読んで下さった方、どうもありがとうございました。

 御陰様をもちまして、シンジもアスカも、
 ようやく一番の心理的なハードルは一応抜けました。

 あとは、物理的問題――壊れかけたレイの心臓―だけですね。

 なお、ここまでの心理描写については、人によって色々と感じる事でしょうが、
 さしあたり、自分がエヴァを見て感じた事は、多かれ少なかれ、
 盛り込めたと思っています。

 ただ‥‥制作上の問題:文章創作技術:によって、
 結果としてどの程度他人様から見て解読可能AND共感可能なものになったか、
 それだけが心配です。
 レイにまつわるエピソードも、少し割愛ぎみになっていますし。


 今の私の人生経験・エヴァ観・文章制作能力から言って、
 たぶんこれ以上のものは、1997年12/4現在、絶対書けません。

 他人から見てつまんないか否かとかはおいといて、
 いまの私にしては、頑張ったと思っています。

 今日、この良き日、(匿名希望)アスカを(シンジも多少ね)
 自分の考えうる極限のレベルまで心を強くしてあげられたと思います。

 もっと心の強いアスカを書きたいですが、今の私の人格を考えると、
 これ以上は無理です。


 この先のエピソードは、「成長物語」としては、
 半分エピローグと言ってもいいかもしれません。

 彼らが進んだ道‥(匿名希望)ワールドの流れを、
 深く考えずにボーッとみてやって下さい。

 私は、このSSのこれからの部分を書くためにネルフ組に侵入しました。


 2004年注:このSS(FF)のうち第31話〜40話は、1997年12/1頃〜12/4までのごく
 僅かの期間に、アスカへの捧げものとして書かれました。当時の技術力や
 執筆速度などを考えると、驚異的なことであり、現在でも到底なしえるものでは
 ありません。様々に未熟なところや、坊や的恋愛観などあってイタいと思う所は
 あるにせよ、この頃のアスカへの思い入れや自分自身の人生観・恋愛観が
 非常によく伝わってきて不覚にも胸が熱くなってきました。
  あれから7年経った今の自分の価値観の根底にも、まだこのアスカや
 ナオミやシンジが残っているようです。







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