抑圧・反動形成ver.1.10(2006/03/06)


 ・抑圧(repression)

  自我(心)を脅かすような、受け入れ難い観念や記憶・それに伴う情動や衝動を無意識に追いやってしまうことによって、心の安定を維持するメカニズムを、S.フロイトは抑圧と定義づけた。厳密には「嫌なモノを無意識に放り投げる機能」と「一度無意識に放り投げたモノが意識に戻ってくるのを防ぐ機能」の二つに分類されるが、ここでは詳細は割愛する。「忘れる」という出来事も、一部は抑圧に含めてしまうこともあるため、ある意味誰もが常に発動しっぱなしの機制と捉える事も出来る。

 抑圧の例としては、何か凄く嫌な印象を受けたエピソードがあって、普段はそれを忘れていても(=嫌な記憶を無意識に放り出していても)、そのエピソードに類似した人や場所や時間をなんとなく避けるようになっている、などが挙げられる。ちなみに抑圧されたものは無意識のうちには残っているので、症状や行動のなかに微かに見受けられたり、夢のなかで出てきたりするといわれている。しかし、その侵襲的なエピソードを回想ばかりしていては心が保たないような出来事を、完全とまではいかないにしても日常から遠ざけてくれる抑圧の役割は非常に大きいと捉えられる。

 ちなみに、この抑圧という防衛機制(とその他の防衛機制の連合)をもってしても葛藤が食い止めきれず、防衛機制をオーバーランさせざるを得なくなってくると神経症症状をきたすという事になるが、実地のオタク達をみる限り、彼らがやたらめったら神経症症状をきたしているという事はない。仮に彼らの葛藤が強いとしても、抑圧以外の防衛機制がきっちりと協同することもあって、神経症症状には至らない者が殆どであり、殆どのオタク達は精神科や心療内科とは全く縁の無い生活を営んでいる。少なくともオタクであるという事が最大の原因になって精神科を受診するオタクなんてものは殆ど存在しないし、存在されてもこちらは困ってしまうだろう。

 では、本人の意識にすら上らないという抑圧の痕跡はどこにも残っていないものだろうか?例えば…幼児期に変質者の悪戯で心に深手を受けた女の子が、その記憶本体を忘れてはいても当時関連していたファクターに強い拒否感を示すような痕跡が…。しかし、精神分析を正式にやっているわけでない相手に「それはあんたの過去の嫌な記憶が抑圧されているからだよ」と言い放つのはいくらなんでも暴挙に過ぎないので、やはり本当のところは分からないとしか言いようが無い※1

 だが、オタク達の多くが(彼らの生活とは直接の関係がないのに)不思議と嫌うものや叩くもの追いかけていくと、抑圧された具体的対象までは分からなくても、「何か分からないが、この件に絡んで何かが抑圧されているっぽいなぁ?」と疑うところまでは出来るかもしれない。オタク達のオレンジレンジへの嫌悪あたりは疑いたくなるが、もちろん実際のところまでは分からない。他の防衛機制以上に、抑圧は発見が難しく、見つけたとしても抑圧の具体的対象に至るのは至難である。よって、抑圧という防衛機制をオタクにみたとて、何が抑圧の対象となっているものなのかを指摘する事は諦めさせて頂く。

  なお、「抑圧」と似た言葉の「抑制(inhibition)」は似て非なるものなので注意。「抑圧」は我慢すべき不快な感情や観念を、自分でも気づかないうちに無意識へと追いやってしまう(意識に上らせない)ものを指す。「抑制」は意識しちゃっている不快を随意的に意識の外(前意識)に押し込めようとするものを指す。定義上からも、「抑圧」された内容は随意的に意識に登らせる事が出来ないし、本人は意識下では気づき得ない。対して、抑制」された内容は元々随意的に意識の外に押し込めようとしたものだけあって、必要な時にはいつでも意識化する事が可能である。

 「抑制」は、皆さんもご存知の通り、誰もがオタク/非オタクを問わずに日常生活の中で随意的に用いているが、これは随意的な作業なので、必要な時にはいつでも思い出す事が出来るし、常に自覚的である。






 ・反動形成(reaction formation)

 自我(心)の中に許し難い衝動・情動とその派生物が生じてくるとき、その正反対の意識・態度が生起する事によって生の衝動や情動と距離を取るような防衛機制を、反動形成と呼んでいる。精神医学/心理学系列の本にたびたび掲載されていて特に有名な例は、対象に対する攻撃性が反動形成によって防衛された、「慇懃無礼な態度」である。丁寧でひどく従順な印象を与えながら、結果的に相手に不快を残すところがミソで、この不快感の中に防衛しきれなかった攻撃性をみてとる事が出来る(例:このテキストの私の問いかけメールなんかにもみられますよね!)

 なお、病的云々を抜きにしてみられがちな反動形成の例としては、「過度なプラトニック(凄まじい性的願望の防衛)」「過度の道徳性(凄まじい背徳性の防衛)」「過度の愛情表明(凄まじい憎しみの防衛)」「過度の高慢さ(どうしようもない自信の無さ)」などが挙げられる。こうした耐え切れないほどの衝動・情動が存在する時、しばしば反動形成によってもうちょっとコントロールしやすい状態に転換される。

 いずれの例も、観察者に不自然さや変な緊張感を気づかれやすいのが特徴で、反動形成によって防衛されているとはいえ、漏れ出てくる違和感はよほど上手に隠さない限りはピンと来られてしまう。防衛機制は100%完全に葛藤をブロックしてしまうわけではなく、衝動・情動との葛藤が少なく安定した形態に変えてくれるだけなので、程度の差はあれど幾らか漏れ出てくるのは避けられない。いや、だからこそ気づき得るわけですが。

 オタク界隈において認められる反動形成には、例えば過度の潔癖&純愛志向が挙げられる。とりわけ若いオタクに多いこの志向者は、キャラクターに対する純愛志向やプラトニック志向を強く主張し、18禁ゲームやエロ同人消費者を強い口調で弾劾する。また、自分がプラトニックな萌えの対象にしているキャラをエロ妄想の対象にしているような相手には容赦せず、ひどい場合には知らない相手に力一杯噛み付くこともある。しかし、彼らの不自然なまでの純潔・純愛・プラトニック志向は、強烈な背徳性や性的願望に対する反動形成の可能性が高いとみられる。事実、こうしたプラトニック志向の若いオタクを散々誘惑して“堕天”に成功すると、見ていて気の毒になるほどドロドロな萌えに没入することが多い。もし、身の回りにこうした若い潔癖オタクさんがいて、プラトニック志向を口にしながらも萌えグッズにまみれた生活をしているなら、うまいこと誘惑してみるのもいいかもしれない。それらのプラトニック志向が所詮は反動形成に過ぎず、“堕天一発”である事を彼は証明してくれるだろう。

 もう一つの例としては、特別に対人コンプレックスを持ったオタク(というよりオタクか否かはここではあまり問われないか)が、2chでは激しい怒りを女性・成熟した男性に向けているにも関わらず、リアルで女性や成熟した男性に遭遇した時にはいかにもな慇懃無礼を呈する人などが挙げられる。これなどは最早オタクか否かという区切りで語るべき事ではないが、侮蔑されがちなオタクのなかにこうした慇懃無礼を呈するケースが混じっている事には注目されたい。こうしたケースは、いかにもな慇懃無礼の発見を端緒として対象の葛藤を推論していくと、色んな事に気づくヒントが得られることがある。





 【※1分からないとしか言いようが無い】

 防衛機制という視点による“気づき”に関して。

 何かが防衛・抑圧されている、という痕跡に気づく事は、あり得る。それこそ精神科医でなくったって、視る側が敏感であればあるほど、視られる側の防衛が強ければ強いほど、あり得る。

 だが個々のオタク事例に関して、抑圧によってマスクされている無意識下の葛藤の「内容を具体的に明らかにする」のは寝椅子に寝て貰わない限り無理だろう。もっと言えば、寝椅子に寝て貰って出てきたものが本当にビンゴなのかも実際の所は分からない。非常に確からしい、或いはビンゴだったとしても、それを完全な形では証明できないのだから(間接的には可能な場合もある)。精神医学・臨床心理学のなかでも、精神分析及びその関連手法に関しては、ここに大きな限界点がある点には注意しなければならない。

 また、その時セラピストや精神科医(やその他誰であっても)が何を視たのか、何を感じたのかは、対象がどうであるかだけでなく、視る側がどうであったかの強い影響を受けるという問題を無視する事も許されない。このため、臨床界隈では、対象に何を視たかという問題と平行して、観察者がどうであるかが常に重大な問題として取り扱われる。…勿論、このテキストを書く私が萌えオタ達に何を視たか、という問題は、視る側たる私がどうであるか、という問題と平行して考えていかなければならない。よって、このテキスト群をご覧になる方は、ここら辺の事情に十分留意して、注意深くシロクマなる人間を観察しておく必要がある。色々とご高覧頂いたうえで、“ははーん、こういう観測者が、こういう記事を書いてるんだな”とセットで考えて頂くのがベストだろう。観測者の心的な立ち位置と、被観測者の立ち位置との相対的な位置関係の把握は、こうした作業においては必須である。

 故に、これら一連の視点を厳密に批評するにあたっては、私の精神的立ち位置を理解することが役に立つと思われる。このサイトには、私の精神的立ち位置を示唆するテキストが沢山転がっている。いじめてみたい人は、どうぞご覧になってビシバシ指摘してやってください(特に同業者の方)