・侮蔑されるようなオタクが発生する原因
   ――オタクは何故、侮蔑され得るようなオタクになるのか――


  ここでは、侮蔑されるようなオタク達がわざわざそういうオタクになっちゃった
 原因(つまり侮蔑されやすそうなオタクへと成長し始めてしまった原因)について
 考察してみる。この原因についての考察は「オタクがオタクであり続ける原因」
 と厳密に分離して考えるのが難しいと思われ、事実、内容に一部重複がある。
 そこをご了承の上お読み頂きたい。

  オタクのファッションが冴えないままである理由の所でも書いたが、思春期に
 突入する前の児童期には、ファッションや話術・感情表出も含めたコミュニ
 ケーションスキルには未だ大きな個人差はみられないと推測される。幾らか
 個人差は存在するし、早くも小学時代からいじめや差別を受けるような
 気の毒な例外もあるだろうが、多くの場合はクラスメート同士の交流において
 致命的なまでのコミュニケーションスキルの格差はみられない。※1

  だが思春期以後は時間が経つにつれてコミュニケーション能力の優劣の
 差は次第に大きくなり、より明確なものとなっていくように見受けられる。
 コミュニケーションスキルが割と伸びていく子と、ゆっくりとしか伸びない
 子がいるように思えるのだ。特に、相対的に多くの男子と、相対的に少数の
 女子において。

  とはいえ、それが全てアニメだのマンガだのゲームだのといったオタクホビーに
 よって引き起こされるものだとは断定できない。思春期に入っても小学生時から
 引き続いてゲームやアニメが好きな男子など幾らでも存在するし、大人だって
 アニメやマンガを見る時代だ。そのうえ、あまりアニメやマンガに傾倒していない
 子でも引きこもりのように強いコミュニケーション障害を呈する者もいるわけで、
 オタク趣味だけを原因としてコミュニケーションスキルの差が生じるとは考え難い。
 実際のところは、「差別されるような大人のオタク」へと派生していく割合は
 少数派で、むしろ多数の男子はゲームやアニメ(ゲームセンターやプレステ2の
 ゲームであったり、まずまず人気のあるアニメであったり)を幾らか楽しみつつも、
 スポーツや音楽などの他趣味にも手を伸ばし、そしてそれらをも媒体としつつ、
 さらに様々なポジションの同性や異性と交流していくように見える。また、
 極めて少数の若者においては、オタク趣味の有無と関わりなくコミュニ
 ケーション障害を惹起して引きこもりに至っているようにも見える。

  では、ゲームやマンガなどが好きな男子生徒のなかで、クラスの女子とは
 もちろん同性の友達も少ないオタクになっていく子や、自分の趣味世界の話
 しか話せないオタクになっていく子は、何故多数派の生き方からはずれて
 狭いコミュニケーションの世界へと誘われていったのだろうか?
 どうしてオタク趣味を楽しむにしても、わざわざ他人から侮蔑されやすく
 コミュニケーションスキルの低いポジションへと定着してしまったのだろうか?
 どうして、多くの同性達がそうであるように、そこそこマンガやゲームを
 楽しみつつも中庸というべき位置を志向しなかったのだろうか?


  抽象的だが原理的な結論をまず呈示してみたいと思う。
 結局のところ、彼らは思春期から徐々に差が開き始める(=競争が激化する)
 コミュニケーションスキル獲得に努めなかった(don't)か、努めることが
 できなかった(cannot)ような何らかの理由があったということだろう
 それらのdon'tの理由やcannotの理由は様々だろうが、とにかく何か
 コミュニケーションスキル獲得の方向に努力しないか努力出来ないような
 要因があったからこそ、コミュニケーションスキルが停滞・退化するような
 事態が起こったと考えることはできる。

  思春期前期あたりのスタート地点で、もし何らかの原因によって
 (原因については後述)コミュニケーションスキル獲得競争について
 いけなかった個人・そもそも競争の存在に気づかなかった個人・
 そんな競争などどうでもいいと思っていた個人は、時間が経てば
 経つほど先達者との差が大きくなり、スキル格差に追いつくことは
 困難となるだろう。いったん“ムサいオタク”のレッテルでも貼られようものなら、
 負け犬気分を噛みしめながら“軍拡競争”に再参加するのはかなり抵抗が
 あるだろうし、それよりはコミュニケーションスキルの獲得から目を逸らして
 オタク趣味だけに邁進するほうがずっと気楽で選択しやすかろう
 児童期後期〜思春期初期あたりでコミュニケーションスキルの大きな遅れを
 とってしまった人は、余程の反骨精神を持っていなければスキルの挽回に
 チャレンジし続ける(当然、恥もかくし痛い思いや屈辱を味わうわけだ)のは
 難しいのではないだろうか?
 だからこそ、この“コミュニケーション軍拡競争”の初期の躓きを問う事は、
 侮蔑されるようなオタクが発生する原因を考える上でかなり重要だと
 私は思うのだ。

  以下に、オタクが少年(少女)時代にコミュニケーションスキルを磨くことが
 できなかったか、する必要がなかった個々の原因について個別に列挙し、
 それぞれがどのような影響を与えうるのか考えてみる。
 なお、以下の項目は、今後増加したり修正される可能性がある。



 A親の教育方針や経済的理由から、コミュニケーションスキル育成が阻害された

  多くの人は、中学生ぐらいになるとファッションを意識するようになったり、
 流行の歌手やグループを気に入ったり、街に友達同士で遊びに行って
 少々楽しいことをあれこれしたり――まあどこの学生もしたくなるような
 諸々の事を――したくなる。少なくとも、多数派を占めるような中坊の類型とは
 現在でもこのようなものに近いと私は考えている。

  これらのレクレーションは、硬直した一部の親の目から見れば非行の源に
 見えるかもしれない一方、視点を変えると、今後同世代同士の人間関係を
 作る基礎的なスキルや話題・知識を獲得する貴重な社交のチャンスとも
 言える。単にコミュニケーションスキルを向上させる機能を持つだけでなく、
 世代特有の言い回しの獲得や、世代特有の感覚、世代特有の常識を
 身につけるうえでも重要な機会となっていることは想像に難くない。
 例えば、この年代に流行した歌・習慣などは将来二十代三十代と齢を重ねて
 いったとしても、同年代同士の付き合いでは必ず話題に上ってきて※2
 一生つきまとう可能性がある。知らないよりは知っておいたほうが便利だ。

  さらに、思春期のこの時期にあれこれ失敗したり恥をかいたりする経験は、
 大人になった頃に同じ過ちを繰り返さない為にも非常に貴重だったりする
 (反省・学習という機能が欠落している阿呆の場合、貴重ではないが)
 この時期の社会的無知や間違いに対して大人は比較的寛容だし、本人の負う
 恥の度合いも少なくて済む。中学生が喫茶店のオーダーシステムがわからずに
 店員さんに質問するのと、大学生が同じような質問をすることには、恥の
 度合いに雲泥の差があるし、例えば万引きなどの過ちに対する社会的制裁にも
 大きな差がある。心理学的な意味も含めた様々な意味で、この時期の集団
 レクレーションは大人になって生きていくための知恵・知識・コミュニケーション
 スキルを身につける絶好の機会であり、“厨房的遊び”にも重要な意義があると
 解すべき、と私は考える。※3
 もちろん大方の子供は難しく考えたりしないで、とにかく楽しいからとか
 友達がみんなやっているからという動機で行動しているだけだろうが、
 それが結果として同世代とのコミュニケーション上の共通知識・共通意識
 獲得にも役立っていると推測している。

  だが、不幸にも本人の意志に反してこのような“思春期の普通の楽しみ・
 普通の付き合い・普通の失敗”が得られない子供達も存在する。ひとつは、
 経済力、それも親の経済力の問題で十分な交友費(まあお小遣いと言って
 良いだろう)が得られない場合だ。最近の子供は余程の田舎を除けば
 それなりにいい服を着ている事が多く、しかもおよそ流行と名のつく遊びは
 金を幾らかは消費する。これらを欲しながら、親の事情で提供されない
 不幸な子供が実際に存在する。

  服装だけなら、特に若いうちはまあいいだろう。
 さらに深刻なのは、交友費を古風な(或いは貧乏な)親に制限された場合だ。
 友人はみんなカラオケなどに行っているのに、自分一人どこにも行けないという
 悲惨な事態を招くこととなる(そして親はそれでいいと思っている事さえある)
 そのうえテレビ等を見る時間すら削られると、流行遅れは際だったものとなって
 子供同士の話題獲得や共通認識獲得に大きなハンディとなってしまう。
 勉強の話と学校行事の話だけで中高生の日常会話が成り立つなんていうのは
 あり得ないわけで、この時期に様々な共通話題や共通認識を同世代と
 持てないこと自体、一つのリスクファクターと数えて良いのではないかと思う。
 もちろん、仲間と喜びや悲しみや怒りを共有する体験を持つ機会も減るだろう、
 何もデバイスとなり得る共通話題がないとするならば。

  このファクターは、侮蔑されるようなコミュニケーション拙劣オタクへと
 向かっていく決定的ファクターとは成り得ないものの、自分の世代にとっての
 社交パーティー・サロンとなりうる時間を共有できないというのは、コミュニ
 ケーションスキル獲得には不利なのは間違いなかろう。また、共通話題を
 獲得することが出来ないという状況は、コミュニケーションスキルの発展が
 十分でないこの時期には、友人知人と会話をする上で非常に厳しいものがある。

  さらに、その持て余した時間を親に隠れてこっそり一人でも楽しめるメディア
 ――アニメやゲーム――に費やすようになってしまった場合などは‥‥推して
 知るべしである。とはいえ、このような形でオタクメディアをこっそり貪る子供は、
 親からの圧力によってオタクとして十分な知識を獲得するのも難しく、そのうえ
 コミュニケーションでハンディを背負っているため、オタクからも非オタクから
 もつまはじきされるような運命すら考えられなくもない。
 なかには親に反抗して珍走団や古典的不良に至る子供も存在するだろうが、
 オタク趣味に入っていく子供に比べるとその数は少数だろうし、おそらくは
 オタク趣味に入っていく子供達とは違った文化・個性を持った子供達だと
 思われる。

  また、金銭的な問題に限らず、養育方針が原因でオタク趣味を楽しむ、
 否、楽しまざるをえない状況下でも、コミュニケーションスキルの発展させる
 機会が制限されるかもしれない。その間も他の同級生達は(異性も含めた)
 友人達と遊びながら、無理なく同世代との付き合いのルールや技術、世代内の
 コンセンサスを学んでいくが、養育方針による交遊制限などに縛りがある子は
 この点で大幅なハンディを背負ってコミュニケーション獲得を試みざるを得ない
 そして親の気付かないうちに、オタク趣味しか許容されない子と、オタク趣味
 以外の遊びも広範に遊んでいる子とのコミュニケーションスキルやコミュニ
 ケーションソースには、着実に格差が生じていく※4のではないだろうか?
  しかし、ここで問題にするような親は頑固か貧乏か極端かガサツか、これら
 全てに該当するので方針の変更など望みようがなく、そういう親に限って
 コミュニケーションスキル欠乏が深刻化している事よりも学業成績の上下に
 一喜一憂しがちである※5
  そうこうしている間、もし子供がオタク趣味をむさぼる以外に逃げ道が無いなら
 その子供はもうコミュニケーション下手のオタクに成長していくしか道は無い。
 高い素養のある子で無い限り、周りの子とのコミュニケーションスキルの格差を
 埋めることは難しいだろう。さらに、思春期前期という大切な時期に「みんなと
 同じ遊びが出来ず、流行遅れのままである事」というのは、(全てではないにせよ)
 ある種の性格の子供に劣等感を植え付けるには適しており、この劣等感が
 「侮蔑されるようなオタクが治りにくい」性格特性獲得の遠因となりうるかも
 しれない。

  昭和30〜40年代のいわゆる「街の博士くん」や、最も古い世代のオタク
 (現在四十代以上の世代)はどうだったか知らないが、現在の、アニメ・マンガ・
 ゲームだけしか解らないような多くのオタクの場合、クラスの中でそれなりの
 アイデンティティや一定の地位を獲得できる余地はない
 「あいつはアニメと漫画以外は駄目」で一刀両断、カースト最下層である。
 後は、同好の士と肩を寄せ合って、日陰のキノコのように生きていくしかない。

  いずれにせよ、親の不適切な介入があった場合、子供のコミュニケーション
 スキル獲得にマイナスに働き、結果としてコミュニケーションスキルが劣勢に
 傾きやすい事と、比較的ローコストでしかもこっそり一人遊びが可能なオタク
 趣味に傾きやすい事をここでは強調したかったわけである。
 侮蔑されるオタクになっていく促進的ファクターはこれ一つではないので、親の
 やり方というものが駄目オタクへの決定的な方向付けをするわけではない。
 しかし、コミュニケーションスキル獲得のチャンスを減少させ、一人遊びばかり
 しがちな趣味へと走らせてしまいがちであったり、親の方針撤回次第では
 回避可能な自信の無さをその子に植え付けてしまうという点には、留意
 すべきではないかと思う。

  付け加えておくが、こういう文章を読んで、コミュニケーションスキル獲得に
 必死になった事もないくせに全ての原因を親に押しつけて自分は悪くないと
 考えるような、そういう困ったパーソナリティや短絡的思考を持ったオタクも
 少数存在する。そういう人に言っておくが、それは間違いだ。あくまでこれは
 多岐にわたる原因の一要素であり、全ての原因ではない。責任転嫁は
 出来ても自分の責任や問題・反省を行う事の出来ない人の場合、おそらく
 親の養育以前に、もっと重大な問題があると推測したくなる。そもそもそういう
 他罰的な人も、親を攻める暇があったらこれから先の未来の事や現実に
 ついて知恵を絞るのが建設的と思う。砂時計の砂は、こぼれた事を
 悔やんでも決して元には戻らない。


B本人の習慣:特に思春期前期の身だしなみや服装に対する態度に関して


  次にとりあげたいのは、子供の頃の身だしなみについての習慣である。
 思春期のスタートラインにおいてどれだけ早く身だしなみや服装を
 整えはじめたかに、私は幾らか注目する。

  ここで服飾の整備に関して遅れをとると、服飾の取り扱いが他人の目を
 意識したものを志向しにくくなるのではないかと想像する。結果として、
 外から見られることにとても無頓着な子と、逆にある程度のレベルを保つ
 子の2タイプに(むしろ若干非連続的に)大きく分かれるのではないか
 とさえ思うのだ。そして、最も多感だが思慮に欠けるこの時期にファッションや
 流行と無縁である事は、周囲とのコミュニケーションに少なからぬ影響を与える
 だろう。多感で思慮に欠ける集団は、流行や見た目によるバイアスの影響を
 比較的受けやすいものだから。

  身の回りに無頓着な育てられ方をした子供は、単純にこの点で不利である。
 元々服装を整えるようにしつけられた子供は、ファッションに興味を持つか
 どうかはともかくとして、とりあえず最低限の身なりを整える事が出来る。
 さらに小さい頃から服飾に興味を持つような環境に育てられた子や、テレビ
 タレントの服装などに興味を持って育った子は、より積極的に服飾を選択・
 購入するようになっていくだろうし、その為のスキル獲得も早い。

  逆に、だらしない子供はいざ身なりを整えようとしてもだらしない習慣が
 続きがちなので、思春期前期にこの分野で遅れを取りやすく、学校に寝癖の
 ままで登校するような愚をおかしやすい。
 思春期の初め頃という自制心のない存在は、勉強ほど親が口うるさくない
 面倒な習慣を身につけようとしたりするよりも、そんな面倒は避けて楽な
 ほうを選びがちである(例えばマンガやゲーム、朝寝坊を選びがちである)
 またファッションというのはコミュニケーションスキルの一分野に過ぎないが、
 集団全体の思慮が浅く第一印象が有効である場面においてほど強い威力を
 発揮する――つまり、思春期前期においてはかなり強い威力を発揮するので、
 この時期に幾らかでも身なりに気をつけていた人と、全く無頓着でバケモノ
 みたいな格好をしていた人では、クラスメートの対応の仕方が全然違ってくる。
 もちろん、女の子達は身だしなみが酷すぎる子供に対しては非常に冷淡だ。
 加えて、女性男性に限らず、異なる趣味集団との交流も幾らか阻害される。

  大人も年齢が進んでくれば、ファッションがコミュニケーションに占める
 割合は低下してくる(男性は特に)ものの、思春期とりわけ中学生〜大学生の
 頃は、ファッションはかなりのバイアスをコミュニケーションシーンに提供
 することができる。服飾や身なりによって、他者の評価が大きく揺れやすい。
 ゆえに、この時期の服飾バイアスがどの程度優れているか・劣っているかは
 思春期におけるコミュニケーションスキル成長に少なからぬ影響を与えると
 私は推測するし、さらには劣等感が生まれるか否かにも関与するだろう。

  このような憶測から、思春期前期の身だしなみに関する習慣は、(単に
 その時の外面だけではなく長期的に残る心理構造すら含めて)その子供の
 コミュニケーションスキルの成長プロセスや対人関係におけるコーピングに
 様々な影響を与えると私は考える。これは、大人になってからではなく
 思春期前期だからこそ惹起される問題であろうことを、付け加えておく。



 C思春期当時の本人の性格について

  次に、思春期前期〜中期を迎えた時の性格の影響について考える。
 これからコミュニケーションスキルがどんどん伸びて大人の付き合いに近く
 なっていく時期、どんな性格だったかによって、スキル獲得の様々な
 アクションを経験できるか出来ないかに大きな差が生まれるであろう事は
 想像に難くない。全く同じ環境にいる二人の小学生でも、一方は好奇心旺盛で
 友達と色んな事をやるのが好きな子で、もう一方は内気であまり多くの友達を
 持たず、一人静かに想像する事を好む子であったらどうなるか?
 十年後にどちらの子がより高確率に対人コミュニケーションスキルを
 発展させているか想像して貰いたい。確率的には答えは明らかだろう。

  この事から、思春期の特に始め頃の性格がコミュニケーションスキル獲得に
 向いていたか否かというのも大切な要素と推測できる。もし、思春期前期で
 遅れをとった子が、その後に性格傾向が変化して慌ててコミュニケーション
 スキル獲得に乗り出しにかかろうと思っても、継続的なスキル獲得を怠って
 いた子の場合はスタートダッシュですっかり差をつけられたマラソン選手の
 ような心境になるのがおちであり、このマラソンは初期につけられた差が
 非常にモノをいうと思われる。

  まず、歳をとればとるほど、世間で恥をかいてコミュニケーションスキルを
 取り直すのは大変になっていく。中学生なら解らなくても構わない事を大の
 大人が解らない時、それを恥をかきながら獲得していくのはかなり大変だ。

  さらに、前のほうの集団についていけなかった不幸なランナーというものは、
 周囲に目標とするランナーもなく(同じような落ちこぼれランナーは沢山いる
 だろう)前の集団に追いつこうとする気持ちがきっと削がれることだろう。
 秋葉原を闊歩する、侮蔑されやすいタイプのオタクがコミュニケーションスキルに
 対して持っている感覚というものは、このような溜息吐息の心境ではなかろうか?
 そして、ディスプレイの中のメイドロボはともかく、世間の女性達(と男性達)は
 そんな落ちこぼれに対して徹底的に冷淡で現実的である。どんな事情や後悔
 があるにせよ、コミュニケーションスキルの低い者は損をしやすい。

  そんなこんなで、思春期前期にどれぐらいコミュニケーションスキル獲得を
 志向した性格だったかは、その後の性格の変遷を加味して考えてもやはり
 重要と考える。性格が18歳ぐらいで外向的に変わっていったとしても、それ
 以前が極めて内向的で在った場合・引っ込み思案であった場合、その人は
 コミュニケーションスキルを向上させる為には人並み以上の苦労と工夫が
 必要かもしれない。

  この事に関連して、やはり先のA/B項の存在の大きさが再び強調される。
 A/B両項目で取り上げた、思春期前期における表面的コミュニケーション
 スキルの高低は、このマラソンレース初期において先頭集団に属するか
 落ちこぼれ集団に属するかに少なからぬ影響を与えうる。そして、その帰趨に
 よって最も多感な時期の人格形成も大きな影響を受けるのは自明である。
 A/B両項目がこのC項に極めて重要な影響を与える事は忘れてはならない。
 これら三つの項目は分類的には別個のものとして取り扱えるが、しかし
 現実的には地続きの問題である。

 ☆なお、他html『侮蔑されるオタクがどうしてもやめられない理由は?』
 では、いったん侮蔑されやすいオタクになってしまった後で、そこから
 脱出する事を阻む性格というものがどういうものかについても考察する予定です。


 →つづき(D項以降)を読む

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 【スキルの格差は見られない※1】

  とはいえ、現在の小学生にこれが当てはまるかどうか?
 この文章は、あくまで私や妹が小学生だった頃(S.五十年代後半〜平成の
 頭ぐらい)を念頭に書いている。時代の流れを考慮していない為、平成16年
 現在の小学校世界がどうであるかを捉えきっていない点は差し引いて欲しい。
 とはいえ、年齢的な制限から全般に経験が浅い分、子供同士のスキル格差は
 大人達のスキル格差よりは理論上小さいはずとは言い切れそうだ。




 【必ず話題に上ってきて※2】

  2004年現在に二十代後半を迎えている男性オタクの間では、北斗の拳・
 ガンダム・ドラゴンボール等にまつわるネタが会話の中でしばしば登場する。
 これらはオタクなら誰でも知っている知識としてのコンセンサスを得ており、
 オタク身内だけで通用する常識語の如く流通している。ちゆ12歳は、
 このようなオタク内共通ボキャブラリーを非常に効果的に用いることで
 成功した好例のひとつである(他にも色々な要因がちゆの成功を支えたのだが)
 この方法は、仲間意識や共通認識を盛り立てるのに有効な手段となる為、
 コミュニケーションにおいて重宝する。

  上記の例はオタクに共通するネタであるが、世代に比較的共通する語彙も
 存在し、様々な集団とのコミュニケーションではこちらの方が汎用性が高い
 世代に共通する語彙とは、例えば男性の場合、70年代後半生まれにとっての
 おにゃん子やチェッカーズであり、昭和一桁にとっての美空ひばりであり、
 平成生まれにとってのモー娘。などであろう。
 知らなくても、まあ生きてはいける。
 だが、知っておいたほうが、会話に際して何かと便利なのも事実だ。
 なお、一部アニメのネタ(ドラゴンボールなど)も最近では含まれるが、あくまで
 一部であり、ナデシコ・ちょビッツ・Airクラスは共通話題とはなり得ない。




【と私は考える。※3】

  不勉強を意識しながら、蛇に面倒な足をつけたしてみよう。
 読みにくいので、余程の物好きさん以外は読み飛ばして欲しい。


  中学校・高校時代に他者との現実的関わりを持つことは、同世代および
 自己の個性に適した価値観を再構成し、後の時期にアイデンティティを確立する
 プロセスにおいて重要な触媒となるようである(byエリクソン的視点、ただし私の
 勉強不足だったらゴメン)。エリクソン的視点では、この時期のアイデンティティ
 上の発達課題は、『“社会的実験”とも言うべきものを通して自らの内的・外的
 変化を統合し、しかも社会的に一貫性のある自分だけのパーソナリティを形成する
 こと』なんだそうだ。この課題を通して、親の価値観に依存した個性から脱却し、
 同世代や同時代と調和した個性を再構成していくことができるといわれている。
 (実際、この時期の子供達が親の価値観とは違った何か――それがチープで
 あろうと洗練であろうと――を獲得しようとする事は皆さんも知っているだろう)

  もちろん、ここでこの課題に取り組んで挫折した場合は、精神科的な問題を
 生じたり、そこまでいかなくても何かいびつな心理学的特徴を呈することに
 なってしまうわけだ。或いはこの問題を無視して通り過ぎた場合も、やはり
 きちんとした大人になりきったとは言い難い、独自の心理学的特徴を
 呈することになるだろう。

  ここまでは、成書『精神分析セミナー5・発達とライフサイクルの観点』
 (岩崎学術出版社、1985)を参考に書いたただの粗悪な引用だ。

  さて、『親の価値観に依存した個性から脱却し、同世代や同時代と調和した
 個性を再構成する』という作業中に、どういう同世代・同時代と調和したのかは
 再構成されて形成されるその子のアイデンティティや個性に強烈な刻印を
 残すことだろうと私は推測している。
 もし、イスラム原理主義下でこの再構成が起こったら?
 もし、仲間とシンナーを吸うような環境でこの再構成が起こったら?
 もし、オタク仲間とオタク趣味に耽るだけの生活でこの再構成が起こったら?

  私はオタク仲間とオタク趣味に耽るだけの生活でこの再構成を経験した
 ようだし、私の個性にはその頃の焼き印がしっかりと残っている。そして、
 私と同じく中学〜高校時代をオタク趣味に捧げた多くのオタク達の個性にも、
 やはり何らかの焼き印が押されていることだろう。そして、それゆえに
 オタクはオタク同士、同族を直感的に感じ取ることができるのだろう。




 【着実に格差は生じていく※4】

  ある種の熱心な両親の中には、勉強や習い事にうるさく、夜遅くまで子供が
 遊び回っている事を危惧してやたらと勉強部屋に閉じこめておきたがる両親
 というカテゴリーが存在する。このような両親は大体、学業成績や通知簿を
 見て子供の生育状況がどうなっているかを一次元的に判断しがちで、
 コミュニケーションスキルの獲得状況にはあまり目を向けない傾向にある。
 より多軸的・総括的な成長に注意を払わない自称教育者が多すぎる
  そして金銭的or/and時間的にも子供を縛るものだから、子供は勉強部屋で親に
 隠れて可能な遊びを覚えていくほかない(か、そもそも自発的に遊ぶ事を
 知らなという、かなり致命的なパーソナリティ上の障害を抱えていく)
 そして対人交流の成長が阻害されることにより、コミュニケーションスキルは
 着実に低劣化していき、よほど出来る子や特殊な進学校でもない限りは
 “取り柄がなくてつまんない奴・冴えない奴”というあまり嬉しくないレッテルを
 貼り付けられていく。劣等感を醸成するにもなかなか好都合だ。

  ただし、近年塾通いが当たり前となっている世代・特に都会の子供達の場合は、
 塾などで何らかのコミュニケーションが行われる余地が存在するかもしれない。
 塾ではどのようなコミュニケーションが存在するのか?或いは成立するのか?
 ここは私の知らないところであり、調査したい項目である。
 また、この考察・観察は、私や妹が高校時代を過ごした頃(1993年〜2001年程度)
 を見聞きした上で書いたものである。二十一世紀の子供達のコミュニケーション
 シーンとの間にいささかのズレが存在する可能性は否定できない。




 【一喜一憂しがちである。※5】
  そのくせ、子供のコミュニケーションスキルが底辺まで落ちて実際に何も
 出来なくなったり人格障害にでもなって手の着けられない人間になった時、
 この手の親は自分達を責めるよりもあくまで子供を責めるケースが多い。
 そして、子供の落ちきったコミュニケーションスキルを立て直す効果的な
 方法論を展開する事もまず出来ない。というか、出来なくなるまで気付かない。
 学力は塾に連れていかなければ向上しないと発想するのに、コミュニケーション
 スキルはどこにも連れて行かなくても自然に向上すると思っているのだろうか
 学力なんざ無くても生きていけるが、コミュニケーションが出来なければ生きて
 いく事そのものが障害されるというのに。

  そして親に似てなのか、このような症例の子供の大半は、自分の責任に
 ついては殆ど云々しないで全ての原因を親の選択のせいにする事が多い
 このため家族療法・家族相談の場では親子の冷たい対立に直面することも多い。