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PBM覚え書き

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6月7日(月)

 そんなこんなで馬場→今野の連携や、規郎くんのものすげえフリーキックに浮かれ騒いで後半何それ? な神戸戦から二夜明けてこんばんは。

 ついカッとなって書いた。今野と闘莉王には申し訳ないと思っている。
 ついでに言えば闘莉王はトゥーリよりもリオの方が良かったような気がしている。

 あと歴史的オウンゴールをぶちかました柏レイソルの南雄太選手ですが、、、

日刊スポーツより)
小学生時代はFW。東京Vジュニアユース受験の際に、競争率が低そうという理由でGKを希望した。
 GKを始めた理由が僕と全く同じだということを初めて知りました。なんとなく「柏のユータ」も応援してしまいそうです。

 先月29日には新ユニフォームに替わっても僕は相変わらずのフットサル大会でしたが惜しくも3位で賞品なし。4試合で2点しか取られてないんだけどな。1試合に2点取られたりもしてないんだけどな。むぅ。
 昨日はGK用のパンツを購入してしまったので、どんどん格好から入っていきます。えいやー。



6月8日(火)

 八房さんの宵闇幻燈草紙もようやく4巻まで揃えたんですが、虎蔵さんが天狗だってことが判明して少しドキドキ。
 ジャック&ジュネもそうでしたが、宵闇も結構RPGチックで、物語の形として今考えている天狗PBMのイメージに近いものがあります。主人公が多い分、ジャック&ジュネよりも宵闇の方がPBMに近いですね。それぞれのキャラクターがそれぞれの思惑に従って行動して、それらが絡み合ってどうこう、みたいな。特に三巻四巻はそんな感じです。
 んで、4巻の「掻き散る事」から「破れ六法」までの戦闘シーンもカッチョイイです。こんなのを文章で表現できたら面白そうですなあ。こんな戦闘があるような物語にすればいいのか。殺伐と。
 あとがきにも結構面白いことが書いてあります。あー、そういう開き直り考え方もありますね。成る程成る程。そのスタンス良いですのう。参考にしたいです。

 →次の天狗



6月11日(金)

 ええと、上遠野浩平さんの「しずるさんと偏屈な死者たち」(富士見ミステリ文庫)より。

「ねえ、よーちゃん。人が人を殺すときというのは、その段階で既に失敗をしているということなのよ。だってそうでしょう? 殺したら、法律とか道徳とか常識とか、そしてあるとすれば良心とか、世界は犯人を糾弾し彼の行為を否定するものばかりになる。そんな可能性を招くことは、やらないに越したことはない。それでもやってしまうという、その時点で既に彼は失敗している。その前にやっておかなくてはならなかったことを怠っていたから、そんな人殺しなんていう無理のあることをしなければならなくなった。……つまり殺人というのは、基本的には失敗の埋め合わせであり、自分の怠惰をごまかそうっていう姑息なものなのよ」
 権力や地位で殺人すらも揉み消せた時代なら兎も角、今の日本においては、論理的な考え方ができるなら全くもってしずるさんのおっしゃる通りで、「殺したいと思ったことはあっても殺そうと思ったことはない」というのが正常なんじゃないかと思いますけど。
 けれどもそういう「人を殺すことに対するリスク」を計算できない人間が増えれば、統計的にそういう犯罪は増えていくんじゃないかなあとか。今回はそれがたまたま小学生であったから注目されているだけで。

 殺人という行為が忌み嫌われる一方で、一般的な娯楽として認識されている。娯楽というのはすなわちミステリーやホラーといったフィクションの世界であるけれど、リアルの殺人というのが大人たちによって綺麗に目隠し(もしくはフィルターされてフィクショナイズ)されているから、相対的なリアルが存在せず、フィクションが現実味を帯びてきてしまう。フィクションが存在するのが問題なんじゃなくて、相対的なリアルが存在しないことの方が問題なんじゃないかと。

 とりあえずこれも天狗の話ってことにしておこう。別に児童ポルノ法案の話でもいいですけど。

 →次の天狗


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文責:並丼