平行線

「ねえ、美味しい?」
 毛皮をまとった少女の肩で、紫色の小妖精が訊いた。少女は右手で豚の脚を焼いたのを齧り、左手で半ばずり落ちた帽子──のようにも見えるが、身体を覆う毛皮と一つながりになった狼の頭の部分──を押し上げた。その拍子に、糸のように細い目が覗いて、ちらと小妖精──リトゥエを見る。
「うん、美味しいれす。今までいろいろなもん食べたれすが、これが一番だったのれす」
 少女──リクは軟骨まで愛おしそうに齧り取ってから、すっかり綺麗になった骨を、市場の中を流れる水路に放り投げた。ポチャリと吸い込まれて間もなく、にわかに水面がざわめく。数刻後には、水路に巣くう有象無象が投げ込まれた骨を跡形もなく食い尽くすことだろう。
 リクはその物騒な争奪戦を楽しそうに眺めていたが、リトゥエはどこを見るでもなく項垂れている。小妖精の異状に気付いたリクが訊いた。
「リトゥエちん、どうしたれすか? おなか空いたれすか? キャベツかニンジンでももらってくるれすか?」
 眉をひそめ、しゃがみ込んで視線を合わせようとする。しかしリトゥエはリクの肩に乗っているので、結果的には二人の視線は平行を保ったまま低い場所へと移動しただけだった。リクは片膝を地面について、そのリクとリトゥエの周りを大勢の人々が通り過ぎていった。通り過ぎる誰もが二人に全く注意を払わなかった。この世界にはとても沢山の人がいるのに、だのに二人は二人きりだった。
「……ううん、なんでもないわ」リトゥエはかぶりを振った。それに合わせて、背中の羽が静かに揺れた。
「ありがとう、リク」
 そう言って、リトゥエはリクの頬に口付けた。汗と、埃と、濃いめの調味料が混じった訳の分からない味がした。
「ひあ」
 唐突な接吻にリクは目を丸くして、頬に手をあてた。リトゥエは羽をはためかせて宙に舞い、驚く少女を見下ろした。
「なんだか、くすぐったいのれす」
 そう言いながら、リクは立ち上がった。二人の視線の角度が緩やかになって、やがて水平に並んだ。
「……にひ」「……あは」
 二人の口から同時に笑みが漏れだし、
「にひひひひひ」「あははははは」
 往来の中、大声で笑った。誰もいない雑踏、ごった返す静寂。何故笑い出したのか忘れてしまうくらい長い間、二人はひたすら笑っていた。
「……あにやってんのさ。とうとうネジ飛んだ?」
 割り込むように投げつけられた言葉は、赤い小妖精。
「ま、もともと飛ばすネジなんかなさそうだけどさ。ケララ」
 ピスケスは羽ばたきながら器用に肩を揺らし、口に手をあてて嘲笑した。
「余計なお世話よ」
 笑いすぎて目元に浮いた涙を拭いながら、リトゥエが言い返した。口調こそつっけんどんだが、表情はまだ笑ったままだ。
「ねえ、リク、こいつにキャベツでもニンジンでもあてがってよ。そうすりゃしばらくの間この生意気な口が大人しくなるからさ」
「あい、了解なのれす」
 リクも笑いすぎた涙目を毛皮の腕当てでごしごしとこすり、どこで覚えたのか敬礼のようなポーズをして、くるりときびすを返して市場の屋台群に紛れた。その後ろ姿を、二匹の小妖精が見送った。
「アンタにしちゃ、珍しい提案じゃない、クスス」
 ピスケスがからかうように言う。ピスケスの半歩前で飛びながら振っていたリトゥエの右手の動きが次第にゆっくりになり、やがて力無く垂れた。
「? どうしたっていう……」
 訊ねるよりも先に、リトゥエはピスケスに背を向けたまま身を翻し、リクが歩いていったのと反対方向へと飛んでいこうとする。
「ちょっ……待てコラ!」
 背後から怒鳴りつけられて、リトゥエはぴたりと止まった。羽だけをはためかせたまま、その場にふわふわと浮かんでいる。
「どこに行くのさ。あのフーテンを放っておくつもり?」
「そこにいたきゃ、いくらでもいなさいよ」リトゥエは振り返らずに言った。「どんなに待ったって、リクは帰ってこないけど」
 ピスケスは、たっぷり時間をおいてから訊いた。
「…………アンタ、泣いてるの?」
「違うわッ」激昂しながら振り向いたリトゥエは、大粒の涙を振り払った。「これはッ、さっきッ、笑いすぎたッ、からッ……」
 顔をくしゃくしゃにして、肩を震わせて、それでもリトゥエは強情に言い張った。そんなリトゥエを、ピスケスは無言で眺めていた。ピスケスの複眼が、無数のリトゥエを映し出す。
「だってッ、しょうがないッ、でしょぉッ。私にはッ、リクをッ、止めることなんかッ、できないしッ、つなぎ止めることもッ、できないッ。私にできるのはッ、この世界をッ、案内することッ、だけなんだからッ」
 しゃくり上げながら、リトゥエは両手で顔を覆った。瞳を閉じると、今しがたすぐそこで笑っていた少女が、頬に手をあててきょとんとしていた少女が、ふさぎ込んでいた自分を心配してくれた少女が、大好物の豚足を幸せそうに齧っていた少女がまだいるような気がして。
 でもそれは幻覚だ幻想だ夢だ幻だ。知覚者たる自分には悔しいくらいによく解る。改めて思うと、束の間止まっていた涙がまた溢れる。
「……………………フン」
 ピスケスは腕組みをしたままそっぽを向いた。それでも彼女の複眼は泣きじゃくるリトゥエを捉えていた。

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