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行動基準

「おなか減ったなー」
 野之原キキは、その外見よりは幾分幼い口調で呟いた。と同時に腹の虫が鳴き、恥ずかしそうにうつむいた。だがすれ違う人々は彼女に──というより自分以外の全てに無関心で、誰も聞いてはいないようだった。それでも彼女は人並みの羞恥心を抱えながら人の流れを垂直に横切り、店頭のウィンドウに辿り着いた。
「わぁ」
 そこで彼女の目に入ったのは、プラスチックで作られた料理の見本だった。上半身を軽く反らして看板を仰ぐと、『愛's』とある。『愛's』のことはキキも知っている。最近できたらしいファミリーレストランだ。なんでもとびきり可愛いウェイトレスがいるとか。だがキキの恋愛観はいたってノーマルであるし、いずれにせよ今は花より団子だ。
「でも、お金無いなぁ……」
 キキは左右のポケットに手を突っ込んでみたが、お金もお金になりそうな物も入ってはいなかった。当然だ、何も入れていないのだから。これで何か入っていたらキキはドラえもんになれる。いや違う、ドラえもんだって最初に道具を入れたからこそポケットから道具を取り出せるのだ。
 お金が無いという事実を再確認したせいか、腹の虫はますます五月蠅くなり、眼前のメニューはますます美味しそうに見えた。よっぽど無銭飲食──いわゆる「食い逃げ」をしてでも食べたいという誘惑に駆られたが、ジャケットの内ポケットに入っている、エムブレムの入った手帳を思い出し、なんとか堪えた。自分はプロなのだ。責任ある立場なのだ。などとプライドと問答をしなければならないほど、キキにとって食欲は重要な要素だった。
 家に帰れば買い置きのラーメンがある。しかしいまだ視線はメニューに釘付けになっている。飯は食いたし立ち去りがたしで悶々としている彼女の視界が、ふと暗くなった。雲でも出てきたかなと振り向くと、そこには入道雲……ではなく、見上げるほどに巨大な鎧。
「ふえぇ……」
 どこぞの博物館かお化け屋敷から抜け出してきたかと思えるような西洋風の全身鎧。身の丈は二メートルほどだろうか。
「ふむ、ここが『愛's』か」
 全身鎧は男の声で呟いた。満足げにうなずくと、ウィンドウに並ぶメニューを睥睨した。その途中、キキに目を留める。
「オマエは、この店に食事をしに来たのか?」
 全身鎧はキキに問いかけた。キキは最初驚きはしたものの、全身鎧が言葉の通じる相手とわかって、すでに警戒を解いていた。道行く人々は遠巻きに全身鎧を眺めながら、関わり合いにならないよう早足で去っていく。
「うーん、そうしたいんだけど、お金無いから。あなたは?」
「オレは、この店でウェイトレスになりに来たのだ」
「へ?」
「この店ではウェイトレスが不足していると聞いたので、手伝ってやろうと思ってな」
 表情は読めないが、男の声は真面目そのものだった。威風堂々と仁王立ちする様は頼もしくもあったが、しかしウェイトレスの器ではない。むしろそんな器など片手で叩き潰してしまいそうだ。
「えっと、あなたには難しいんじゃないかなぁ」
「なんと、オレじゃウェイトレスになれないってか!?」
 相変わらず表情は読めないが、しかし明らかに動揺しているらしかった。キキの顔を覗き込むように中腰になり、鎧の継ぎ目がガチャガチャと軋む音を立てる。
「うん、ウェイトレスは女の子しかなれないんだよ」
「おお……なるほど……残念だ。うむ、記憶しておく。有難う」
  金属鎧はすぐに立ち直り、キキに軽く会釈した。
「どういたしまして」
 キキは金属鎧に微笑み返した。
「そういやオマエ……」
「?」
 言いかけてやめた金属鎧に、キキは首を傾げた。
「いや、なんでもない。兎に角オレはこの店に入るんだが、オマエはどうする?」
「キキは帰るよ」
「そうか。じゃあ達者でな」
「うん。バイバイ」
 キキは全身鎧がのしのしと『愛's』に入っていくのを見届けてから、メニューたちにも手を振った。
「君たちもバイバイ。いつか全部食べに来るからね」
 そう言って回れ右をして、いまだ鳴き続ける腹の虫たちを誤魔化しながら家路を急いだ。


文責:並丼