世界に知られていた南京事件
  
事件当時の報道      
                                      2006.2.2 first
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                                                     2006.2.9   reviced

 

戦禍が南京におよんだ12月12日、多くの記者はパネー号に乗って南京を脱出した。南京に残った記者は次の5人である。
 N・Yタイムズのダーディン、AP通信のマクダニエル、シカゴ・デイリーニュースのアーチボールドスチール、ロイター通信とブリティッシュニュース・エージェンシーのスミス、パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン。
 このほかに、ロンドン・タイムズのマクドナルド記者は、パネー号が沈没したため一旦収容され、17日上海に戻るが、その途中、15日南京にまた舞い戻って取材している。

ロイター通信社のスミス記者
A・T・スティール
T・ダーディン
ニューヨーク・タイムズ・アベント
サウスチャイナ・モーニング・ポスト
ワシントン・ポスト
マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー
「出版警察報」(1)(2)


ロイター通信社のスミス記者

『ドイツ外交官の見た南京事件』P44〜P50

資料13

添付書類
一九三八年ー月六日付駐華ドイツ大使館報告代十一号に添付
一九三八年一月一日ドイツ通信社(漢口)より入手
文書番号二七二二/一一〇六/三八


内容−一九三七年一二月九日から一二月一五日にかけて南京で起こった戦闘中のできごとに関するスミス(ロイター通信)氏による講演の抜粋

                   
 一二月九日、初めて遠くに砲声が聞こえ、南京周辺でかなり大きな軍隊の動きがあった。

 一二月一〇日、中国軍の移動は大規模になった。城内でも軍隊が動き始めた。砲声は時間とともに激しくなった。

 一二月一一日、日本軍の最初の榴弾が城内に撃ち込まれた。おびただしい榴弾だが、的が定まらず広範囲に分散し、さほど甚大な被害は出なかった。外国の軍艦が川の上流へ航行したため、南京に残っていた外国人は軍艦との接触を断たれた。夕方には給水が停止した。

 南京は一日中、日本軍機の攻撃にさらされ、爆撃を受けた。当初はまだ空襲警報が鳴っていたが、後に攻撃の頻度が増したため、警報は無意味になった。爆弾で小さな火災がいくつも発生したが、重大な被害は出なかった。日本軍機の主な任務は偵察とみうけられた。

 一二月一二日朝、砲声ははぼ止んだ。そのため、日本軍は駆逐されたとの憶測がなされたが、正午ごろ、日本軍砲兵隊の南京砲撃が再開され、その憶測は偽りであると判明した。電灯がつかなくなった。

 紫金山の上に中国軍が見えた。かれらは二個の係留気球〔からの指示〕による日本軍の砲火に見舞われていた。斜面下方への無数の爆撃と、そこで日本軍が引き起こした火災が、中国軍を山の上方へ追いたてた。

 南京城内でも、中国軍の一師があわてて中山路を北上した。それは潰走中のようであった。突然、数発の銃声が鳴り響いた。第八八師の一部が一斉砲撃で逃走経路を遮断し、同師はひき返さなければならくなくなった。

 午後遅く、城内南部から大方の軍が退却を始めた。規律正しい師団で、整然と北方へ向かって退却した。わずかに約一千名の兵士が、まだ城内南部にとどまっているとのことであった。かれらは勇敢に市街戦を戦ったが、真夜中までに全滅した。

 退却中の部隊は、閉ざされた北門前で(脇門の一つだけがまだ開いており、その他の門には砂袋と有刺鉄線を巻きつけた柵でバリケードが築かれていた)動きがとれなくなり、城壁を越えて逃げのびるために縄梯子とロープを掴んだ。部隊のパニック状態は、北門の近くに日本軍の榴弾が打ち込まれたことでいっそう高まった。

 交通部は一二月一二日夕方、赤々とした炎に包まれた。中国軍が放った炎は、中庭に積み重ねられていた備蓄弾薬に燃え移った。この爆発で、中山路を退却中の部隊の行く手が阻まれた。
                    、                                                                      
 翌朝、われわれは、通りに沿って、逃げた中国兵が投げ捨てた大量の兵器類を見つけた。かれらの逃走経路は、毛布の束、調理器具、弾薬箱などで一目瞭然だった。北門前で起きたパニックの結末は、約一メートルの高さに層をなして積み上がった兵士と市民の死体である。私の見積りでは、約一千名がここで命を失った。

 一二月一三日の朝になっても城内にはまだ日本軍の姿はまったく見られなかった。城内南部は依然として中国軍の手中にあった。中華門の付近で夜中に激戦がおこなわれ、一千名以上の中国人が戦死した。

一二月一二日から一三日にかけての夜、中国兵や民間人が略奪を始めた。食料品店がまっ先に略奪され、民家から食料品を持った中国兵が出てくる姿も見られた。しかし、中国軍が組織的な略奪を企図したと主張するのは誤りである。

この間の事情をよく説明しているのは、城内南部の中国人衣料品店の前で繰り広げられた次の光景である.何百人もの兵士が店の前に押し寄せ、あらゆる種類の平服が「飛ぶように」売れていった。兵士たちは有り金をはたいて平服を手に入れ、路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民に紛れて立ち去ったのである。こうした何百人もの民間人はその後、軍官学校や国際クラブに集まった。

 〔一三日〕正午近くになって、マクダニエル氏は城内南部で最初の日本軍の警邏隊を見かけた。かれらは、六人から一二人の集団をつくり、大通りを注意深く進んだ。散発的に銃声が聞こえたが、道端にはあちこちに―日本軍が言うには―逃走中に撃たれた市民が倒れていた。

 それでも、日本兵の出現で、中国市民の間にはある種の安堵感が生まれたようである。もし日本兵が人間的なふるまいをしてくれれば、かれらを受け入れる心づもりはできていたのである。

 いわゆる安全区では流れ弾と榴弾によって約百人の中国人が死亡し、さらにもう百人ほどが負傷した。

 一二月一三日午後、日本軍戦車隊が先遣部隊を従えて入城した。部隊は疲労困憊の様子をしていた。中山門と光華門の付近での戦闘はもはやなかった。中山門に損傷はなく、光華門も軽微な損傷ですんだ。この二つの門近くに死者はいなかった。

 夜になると、日本軍が安全区にも入ってきた。安全区の管理下には、約七千人の武装解除された中国兵がいた。かれらは軍官学校やその他の建物に収容されていた。城内南部から数百人の中国人警官が逃げてきたため、安全区の警察は増員されていた。

 一二月一四日朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。だが正午ごろになり、六人から一〇人ぐらいの日本兵の小グループがあちこちで組織された。かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。

 私が南京を去る一二月一五日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が日本兵に略奪しつされた。屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。

 まだ南京に残っていた外国の車も押収され、国旗はもぎとられた。日本兵は安全区国際委員会の車二台とトラック数台を押収した。私は、キースリンク&バーダーの店頭でラーベ氏に会った。かれは、ドイツ国旗を下ろして店を略奪しようとしていた日本兵を、店の支配人と力をあわせて追い払っているところだった。

 国際赤十字の旗がはためく外交部には約六百人の中国人負傷者が収容されていた。伝道団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、負傷者に食料品を送ることも許されなかった。外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していた。かれらは日本軍に連れ出され、射殺された。鼓楼病院で働いていた看護婦たちは整列させられ、所持品検査がおこなわれた。そして、腕時計、万年筆、所持金などが没収された。

 日本軍は四、五百名の中国人を縛り、下関へ連行した。下関まで追跡しようとしたヨーロッパ人の試みは日本軍に強硬に阻止された。

 一二月一五日、略奪が続けられた。安全区では約五千人の中国人難民が整列させられ、およそ一八〇ドルが奪われた。こうしたふるまいを上位機関に訴えて止めさせることは不可能だった。なぜなら、苦情を申し入れるべき日本軍上級将校は、日本兵の主張によれば、まだ南京にいなかったからだ。

 大勢の若い中国人女性と少女たちが自宅から連れ去られた。その後、彼女たちを見かけた人はいないので、彼女たちの身に何が起こったかはわからない。

 結局、城内での戦闘による被害は少なかった。ドイツ人の家屋は、外見上はほとんどがもとのままだが、大半は略奪にあったようである。

 明の孝陵と中山陵はとくに報告すべき損害を受けなかった。

 メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、その後日本兵によって根こそぎ略奪された。

 米国領事館の前では中国人市民が四名、長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名が日本兵に射殺された。

 福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆弾が落ち、それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。シュペアリンク氏は、榴弾の破片で手に軽傷を負った。

 一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。

 出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。


 スミス氏は、南京に残留したドイツ人の活躍に賛辞をおくっている。ラーベ、クレーガー、シュペアリンクの行為は、隣人愛と中国人難民にたいする気遣いに満ちているとのことである。かれらが身の危険を顧みず、多くの人命を救ったことをスミス氏は高く評価しているのだ。

 へンペルに関しては、スミス氏は会っていないので言及できない。いずれにせよ、スミス氏が南京を離れた時点でドイツ人全員が無事とのことである。
 


A・T・スティール
●シカゴ・デイリー・ニューズ   1937年12月8日 A・T・スティール  
南京12月8日発
〜中略〜
連日の砲撃の激しさとその広がりに恐れを抱いて、いわゆる安全区に流入する市民はどんどん増えている。これはアメリカ人が中心となって設立したもので、うち14名がこの危機の間も踏み留まる予定である。この地区の道路、とりわけアメリカ大使館付近には中国人難民が雲集している。市内には、少なくとも20万の市民が留まるであろうと見られている。
(アメリカ資料編P459)

●シカゴ・デイリー・ニューズ  1937年12月10日 A・T・スティール
 
南京12月10日発。
南京試練の時は来たれり、城壁内に閉じ込められた私たちの唯一の望みはできるだけ早く、かつ苦痛なく片付けて欲しいということである。
〜中略〜
○「安全区」への殺到
○調停案提出される
○食物供給のため炊事場運営中

すでに10万人近くが、ここは残留住民の多くに地獄の苦しみを与える砲撃や耳をつんざく弾丸の音から逃れられる天国だと全く信頼して、 安全区に入った。戦災を逃れた多くの者は中国人の家に避難所を見いだしたが、また教会施設に収容された者もおり、また防空壕に居心地のよい家を造りあげて、不法占拠の権利を主張している者もいる。何百という筵の住宅がアメリカ大使館近くの道路に並んでいる。
中国当局からの金銭と食料の提供によって、安全区に入ってくる大勢の欠乏者に無料食堂が開かれている。
(アメリカ資料編P461)




●シカゴ・デイリー・ニューズ  1937年12月15日 A・T・スティール

南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、”地獄の四日間”ということになるだろう。
 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。
 首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。


・同情の機会を失う
 中国人のとの友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
 中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。
 罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。



・米公使宅襲撃さる
 日本軍の略奪はすざまじく、それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
 アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
 以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。


シカゴ・デイリーニューズ   1937年12月17日 A・T・スティール

 日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、その傍らで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている

●シカゴ・デイリー・ニューズ   1937年12月18日 A・T・スティール
上海、12月18日発。
南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人の勇気ある活動が無かったなら、状況は限りなく恐ろしいものになっていたであろう。これらの外国人は、この攻撃下の町の10万の市民の福祉のためにのみ働き、ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。
(アメリカ資料編P471)




 数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろともどりはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。30分以内に中国軍の志気は瓦解し、全軍が潰走することになった。
 もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(悒江門)に向かって群をなして街路を通 り抜けていった。(中略)

 午後4時半頃、崩壊がやってきた。始めは、比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(当時の日没は午後5時ごろ)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ出した。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

笠原十九司『南京事件』P130〜131


●シカゴ・デイリ−ニューズ    1938年2月3日 A・T・スティール(2)

 兵士らが、退却主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通 部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫に達したとき、恐ろしい爆発音が夜空を貫いた。
 銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、川岸にいたる道路をうろうろする群衆のパニックと混乱をいっそう高めた。燃えさかる庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、いっぽう、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。

 兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、無駄であった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。今や各人がバラバラとなった。燃える障害を迂回してなんとか下関門(ゆう江門)に達することが出来た者は、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。
 それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのであった。

笠原十九司『南京事件』P135〜136



●シカゴ・デイリ−ニューズ    1938年2月4日 A・T・スティール

 (アメリカ)西部でジャックラビット(プレーリーに住む耳の長いウサギ)狩りを見た事がある。それは、ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かって狭められ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景は全く同じで、そこでは人間が餌食なのだ。逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くはすでに武器を放棄していた。
 日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区(難民区)になだれ込んだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。
 まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町はあちこちで兵士が軍服を投げ捨てて、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩きまわる者もいた。
 小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路に廃棄された軍服や武器、弾薬、装備などが散乱した。平時であれば、一般住民――まだ約10万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、今や軍服と銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。

 日本側の捜索網が狭められるに連れて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向へ突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服をひきはがそうとするところであった。
 ある兵士は騎馬してあてもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けてはなっていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼らは兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎ取り、横っ面 を殴った。兵士は呻き声も出さずにこれを受けた。

 パニックになった兵士たちは、走行中の私の車に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差しだし、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ人宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りにでもなると信じて、入れてくれるように懇願した。
 とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を堀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集められ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった。

笠原十九司『南京事件』P145〜146

 


T・ダーディン

ニューヨーク・タイムズ    1937年12月18日 T・ダーディン

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁面 を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本軍は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を撃ち込んだ。
 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。

ニューヨーク・タイムズ    1937年12月19日 T・ダーディン
「砲撃や爆撃、また無軌道な兵士によりしばしば生命を脅かされながらも、日本軍に包囲された城壁内に踏みとどまり、怪我人や多くの難民の世話をして、人道的かつ政治的にも重要な役割を担った外国人の小グループがあった。アメリカ人が大勢を占める安全区委員会のメンバーたちである。この委員全の主な目的は、非戦闘員が市街戦に巻きこまれることがないように、非武装地区を維持・管理することであった。これ以外の外国人の仕事はいっそう急を要するもので、怪我人の手当や、数千人に及ぷ戦争難民を救済することであった。」
 「安全区をひっきりなしに通過する砲弾の恐怖にもかかわらず、日本軍の市内入城までは、同区内の一〇万人以上の非戦闘員は比較的安全に過すことができた。

 それ弾、損害を与える

 日本軍の砲弾が新街口(南京の繁華街一引用者)に近い一角に落ち、一〇〇人以上が死傷した。それ弾が落ちると、どこもおよそ一〇〇人くらいの死傷者を出した。いっぽう、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、とくに市の南部では数百人の死者がでた。」
 「外国の砲艦が土曜日(十二月十一日)に川上に発ってから、危険と不安はいっそう大きくなった。同時に漢口への無線と電語は通じなくなり、世界からの報道が途絶えた。パナイ号爆撃は、事件の二日後の火曜日(十二月十四日)、下関で日本の軍艦から知らされるまで、南京の外国人たちにはわからなかった。

 外国人たちがかすり傷以外は怪我もなく包囲戦を生き延びたことは、ほとんど奇跡といってよい。」





ニューヨーク・タイムズ     1938年1月9日 ダーディン(1)

 月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)

 無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略)

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。時には縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般 的な処刑方法は、小銃での射殺であった。
 年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。

笠原十九司『南京事件』P152



ニューヨーク・タイムズ   1938年1月9日 ダーディン(2)

 日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通 りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
 軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(ゆう江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量 であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ゴミ捨て場のようになっていた。

笠原十九司『南京事件』P139〜140


ニューヨークタイムズ 1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
一九三八年一月九日

中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為            

F・ティルマン・ダーディン

南京侵略軍、二万人を処刑

日本軍の大量殺害 ― 中国人死者、一般市民を含む三万三千人

征服者の狼籍

暴行、根深い憎悪を浸透さす ― 中国軍による放火、甚大な被害をもたらす

              
              
 上海十二月二十二日発
 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。

 近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の破滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。

 攻防戦は、全体としておおむね封建的、中世的なものであった。城壁内において中国軍は、市の中心から数マイルに広がる村落、住宅地、繁華な商業地区を大規模に焼き払って防戦し、占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、すべてがまるではるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。

 南京を失ったことは、中国軍にとり、首都を失っただけだというわけにはいかなかった。中国軍は尊い兵士の士気と多くの命を失ったのである。上海から長江流域を下流にかけ、絶えず日本軍と戦ってきた中国軍は壊滅的打撃を受けた。中国軍が再起して日本軍の兵器と対抗できるような効果的攻撃ができるとは思えない。

 日本軍にとり、南京占領は軍事的・政治的に最も重要であった。しかし、野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった。そればかりか、日本陸軍や日本国民の名声を汚すことになるだろう。


 地理的に不利な南京

 南京が防衛上不利な地点にあることを理解するには、それまで北に流れていた長江が、東に曲がる地点に南京が位置していることを銘記する必要がある。これから容易に分かることは、城内とその周辺のみを占拠する防衛軍は、攻撃軍が南京の上流・下流双方の右岸を入手した場合、三方から包囲されることになる。

 日本軍の兵力集結は分かっていたことから、中国軍の指揮官はこのことを理解すべきであった。事実、日本軍は蕪湖を攻略し、蕪湖−南京間をまる三日で走破して首都の城内に入ったのである。日本軍はまず南京上流の右岸を進み、蕪湖を攻略した後、長江河岸を除くあらゆる地点から中心の南京に向かい半円形を描くようにして進入することができた。

 中国軍は、場合によっては河岸に逃れ、長江を渡ることも可能ではなかったかという人がいるかもしれない。河岸に入るのには下関地区に行き下関門が出口となるが、長江を出口とするのは賢明ではない。というのは、陸軍の攻撃にあたり、日本の軍艦が下関沖に対峙し―下流においてブームがその通行をいささか妨げたにしても―、中国軍が対岸に退却するのを阻むはずである。


 考慮になかった退却

 中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河し撤退できようとは考えていなかったことは明白である。南京攻撃戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも明らかである。

 事実、当然の帰結ではあるが、防衛軍司令長官唐生智と配下の師団司令官が攻撃前に語っていた、中国軍は撤退を一切考慮していない、という言葉は、中国軍司令部の偽りのない真意を述べたものであった。

 換言するならば、防衛軍司令長官部は彼らが城壁で囲われた南京に完全に包囲されることを十分承知していた。ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振舞いながら、日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことは疑いない。

 この事柄の不名誉な部分はといえば、防衛軍司令長官部が、先に披露した明白な意図を遂行する勇気に欠けていたことである。日本の部隊が南西の城壁破壊に成功した時、下関の出口はまだ閉門されてなく、日本軍の快進撃と日本軍艦の接近に怖じ気づいた唐将軍とごく少数の側近は、配下の指揮官と指揮官のいない部隊を絶望的な状能のなすがままに残して、逃走した。この逃走については、おそらく部下たちに何の説明もなかったことだろう。


 放置された将校たち

 唐生智は、十二月十二日の日曜日午後八時に逃走した。長江左岸にポートで渡ったことは間違いない。彼の参謀本部の将校の多くは、彼の意図を知らされていなかった。記者は一人の大尉と知り合った。司令長官が退却したことを夜半近くに知った彼は、逃走しようとしたが、そのときにはすでに日本軍が西の方面から城壁の周辺を掃討し、下関地区を掌握しつつあった。

 この大尉は降伏して安全を求めようと、先に中国兵が城壁を内側からよじ登るのに使った、軍服で作ったロープを利用して、再び市内に戻った。

 しかし、南京防衛に努めようとする中国軍の戦略位置は絶望的であり、とりわけ市の攻撃や、占領についての状況に最もよく示されている。

 日本軍は江陰の砲台を占領し、常州を落としてから、呉興の北から長江にわたる長江流域前線を劇的な速度で進み、数日のうちに南は広徳を落とし、北の鎮江を包囲した。そして丹陽を占領すると、句容付近でいわゆる南京城外囲防衛線を攻撃しつつあった。

 句容防衛線は、南京から八方に広がる他の七ヵ所の防衛線と同様に、互いに二、三マイルの間隔を保ちながら城壁を中心に同心円を描くように配置され、守りは十分堅固であると数ヵ月まえから言明されていた。実際は、南京からおよそ二五マイルの句容を通過する永久的な防衛線とは、保塁を視察した中立国の外国人が確認したかぎりでは、臨時に仮設されたトーチカだけの他愛ないものであった。

 他の防備といっても、ベッドのフレイムを軸にして、砂嚢やおどろくほど雑多ながらくたや砂を積み上げただけの急拵えのバリケードがある。さらには機関銃の砲座を設置し、中国軍が撤退する時、道路や橋を爆破していった。


 兵力を割かれた広東軍

 日本軍が南京に向かって押し寄せてきたとき、防戦にあたったのは広東人の師団が多く、広西軍の部隊と若干の湖南部隊、それに市内にかぎると、第三六師団、第八八師団、その他いわゆる南京師団とよばれるものであった。広東軍の部隊は、上海付近からずっと日本軍の追跡を受け、数週間続いた爆撃で兵力は衰えていた。

 第三六および第八八師団は、もと蒋介石総統の精鋭部隊であったが、上海付近で手ひどい打撃を被った。ともに南京に撤退し、訓練を受けていない新兵を補充した。蘇州−句容間の前線で日本軍の進撃に抗戦してきた四川部隊は、大部分が蕪湖方面に撤退し、そこで長江を渡河したので、首都攻防戦には加わらなかった。

 南京市内外の中国軍の戦力をずばり言うことは難しい。首都攻防戦を闘ったのは一六の師団であろうと推定するものがいるが、この数字は本当のところであろう。中国軍の一個師団は、平時でも、平均わずか五千人の兵力である。被害を被りなおかつ南京の防衛にあたった師団は、一個師団がおそらく少なくも二千ないし三千の兵力構成であったと思われる。

 南京防衛にあたり「袋のねずみとなった」 のは、およそ五万人の部隊であったと言っても言い過ぎにはならないだろう。

 句容は十二月六日の月曜日夜に日本軍の手に落ちた。そこから日本軍は南京城壁を目ざし、三方向から進撃を開始した。句容からは、孟塘を通過し、北方に配備された一縦隊が東流鎮を攻撃し、深水からは、別の一縦隊が秣陵関を攻撃、また天王寺からの主力縦隊は淳化鏡へと進撃した。


 中国軍、焼き払いの狂宴

 日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。

 中国の 「ウエスト・ポイント」 である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである。中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。

 中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

 中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

 中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけぐちであったようだ。中国軍が失い、日本軍が利用するかもしれないと思われるものは、ことごとく破壊したいという欲望の結果であり、極端な「焦土」政策は、日本軍に占領される中国軍の地域は、役にたたない焼け跡だけにしておきたいということである。

 ともかくも、中立的立場の者の間では、中国軍の焼き払いは軍事的意義がほとんどないという見方で一致している。多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残り、火災を免れた建物と同様に、機関銃兵にとり格好の遮蔽物となった。

 十二月六日月曜日、七日火曜日、日本軍は東流鎮、淳化鎮、秣陵関へと侵攻を押し進め、鎮江を占領して左側面を固めた。中国軍は鎮江から退却する時、ここでも焼き払いの狂宴に熱中した。一方、日本軍の右側面は、広徳付近で中国軍を撃破し、一気に蕪湖に押し寄せ、木曜日、金曜日にはここを占領した。

 水曜日夜明け、蒋総統と夫人、それに側近は、総統専用の二機の飛行機で南京を離れ、湖南省、長沙の近くの衡山に向かった。総司令官の脱出は、南京攻撃が開始されたことを事実上認めることであった。総統の脱出と同時に、少数の政府高官と、防衛軍に直接関わりのない軍の指導者も自動車で南京を去った。水曜日以後は、唐生智将軍が南京の最高権力者となった。

 水曜日、日本軍機が淳化鎮の小さな村にある中国陣地に爆弾の雨を降らせ、その夜目本軍部隊の占領するところとなった。淳化鎮は南京からわずか六マイルしか離れていない。

 中国軍は、句容、深水方面から進撃した日本軍と激しく闘ったことは間違いない。しかし、防戦は不十分で、中国軍の装備では防衛は無理であった。日本軍機は中国部隊を見つけると、思う存分爆撃し、中国軍の位置を野戦砲隊に知らせることができた。戦車と装甲車が日本軍の進撃を先導し、これに村抗する中国軍の機関銃やモーゼル銃では歯がたたなかった。


 効果のあがらない砲兵隊

 砲手が敵の位置を確認できなかったため、中国軍の所有する大砲はほとんど役に立たなかった。中国軍機は、日本軍が南京攻撃をかける数日前から、すでに南京戦から姿を消していた。その結果、中国陸軍には観測兵がおらず、「盲滅法」の戦闘を闘い、敵の部隊に実際に遭遇するまで侵入軍の位置を知らずにいたのである。

 日本軍の位置について報告がなされなかったため、下関付近の獅子山、紫金山、南門の外側、大鮪R付近の丘に設置された高価な要塞砲のほとんどが、防衛軍の役にたたなかった。いったん大砲を放てば、たちまち日本軍の爆撃を受けて沈黙させられた。

 木曜日、日本軍が淳化鎮から城壁めざして侵攻を開始したため、南京は恐怖に陥った。城壁の周囲、あらゆる地点で燃え盛る火の手からたちこめる煙の内側には、難民ですし詰めの安全区、兵隊でごったがえす道路があり、安全区以外の地域すべてを支配する鉄の前線規律、戒厳令がしかれ、日本軍機は終日周辺地域を爆撃攻撃し、ずたずたに傷ついた負傷者が市内になだれこんできた。南京は実に恐ろしい、驚愕する様相を呈していた。

 中国当局から事態の悪化を告げられた残留外国人外交官 ― アメリカ大使館先任二等書記官ジョージ・アチソン・ジュニア、二等書記官J・ホール・パクストン、武官補佐官フランク・ロバーツ大尉らを含む ― は、木曜日夜、河岸に脱出し、下関からボートに乗り難を逃れた。アメリカ人はアメリカ砲艦パナイ号に乗船した。


 日本軍、スパイが援助

 木曜日夜、淳化鎮の日本軍は突然市の城壁に達した。大校場軍事飛行場で守備兵の交代があることをスパイから教えられ、日本軍は飛行場を急襲して占領し、夜半前には周辺の兵舎も掌握した。日本軍は飛行場を外側にひかえる光華門の入口をまさに脅かさんばかりであったが、中国軍は勢いをもりかえし、反撃に転じた。

 その後、中国の便衣兵が大校場の兵舎に火を放つと、日本軍は炎の中で猛反撃に遭った。しかし、日本軍は進撃がはばまれるまでにはいたらず、金曜日昼前には、光華門を脅かしただけでなく、近くの通済門、さらには離れた南門の、南京では最大の中華門をも射程距離に入れ、先遣隊を送り出すまでに至った。

 金曜日、砲兵隊を繰り出し、城門を猛撃する一方で、爆撃機もこの巨大な建造物とそこに群がる中国軍をめがけて爆弾を落とした。

 同日、外国人外交官らがしばらくの間岸辺に上陸していたが、中国軍当局から新たな警告を受けて、午後三時それぞれの船に帰還した。それからまもなく、長江左岸の浦口を空襲していた爆撃機が、パナイ号からわずか二〇〇ヤードしか離れていない水中に爆弾を投下した。J・J・ヒューズ少佐はそれからすぐに、艦を一マイル上流の三?河に移動した。

 パナイ号は金曜日から土曜日の午後まで三?河に留まり、河岸に建つ英国アジア石油会社の電話を通じて城内に残留しているアメリカ人と連絡をとっていたが、近くにある中国軍陣地を狙う日本軍の長距離砲撃により、土曜日の午後には三?河停泊は難しくなった。外交官と難民を乗せたパナイ号は南京を離れ、戻ることはなかった。

 艦は、その翌日、日本軍の攻撃を受け、事の顛末が世界をかけ巡った。

 一方、金曜日には日本軍は南京の古城壁を包囲したと断言できる。


 中国軍もちこたえる

 金曜日と土曜日は、中国軍部隊の多数が城壁から東部および南東部の数マイルにかけて依然もちこたえていた。ときに丘の上に包囲され、日本軍が掃討作戦を行おうと丘をよじ登ると、中国兵は敵に大揖害を与えて息絶えた。中山陵地域は激しい銃撃戦の舞台となった。しかし、ほとんどの中国軍兵力は、金曜日夜更けまでには城内へ撤退した。

 包囲攻撃の一週間前には、中国軍は城門すべてにバリケードを完全に張り巡らせ、重要な門にのみ通り抜けができるよう狭い通路を残し、他は完璧に閉門した。門は内側から砂嚢を二〇フィートの高さに積み上げ、コンクリートで固められた。

 包囲攻撃が始まってからは、記者は日本軍に爆撃された城門すべてを検証する機会は持てなかったが、中山門と南門には日本軍の砲撃による破壊の跡は見られず、中国軍のバリケードは威力を十分に示していた。

 日本軍が初めて南京の城内に入ったのは、いずれの門を通過したわけでもなく、攻城ばしごを用いて城壁を乗り越えたのである。

 日本軍が城壁に到達した木曜日の夜、城壁内は至る所が戦場と化した。中国軍は急いで市内の道路にバリケードを築き、ほとんどの交差点に鉄条網を張った。一方、日本軍の占拠が未だなっていない郊外地域、とくに下関では焼き払いが続いていた。

 土曜日、日本軍はじっくりと集中攻撃を行った。重砲を用いて、城内への砲撃を開始した。

 爆弾は安全区内の多くの地点に落下した。中山路にある福中飯店の前と後ろに落ちた砲弾により、大勢の民間人が死亡した。ほかにもアメリカ伝道団の金陵神学院に近い五台山にも砲撃があった。しかし、安全区に撃ち込まれた砲弾は、故意のものとも、一貫したものとも思われず、おそらくは、大砲を新たな場所に設置した時、射程距離を計るために落下したものと思われる。


 熾烈な機関銃撃戦

 土曜日は激しい闘いとなった。両軍とも城壁の周辺一帯で、猛烈な機関銃撃戦を展開した。中国軍は城壁の上から発砲を続け、多くが城壁のすぐ外側の日本軍に依然として抵抗していた。日本軍は砲撃を強め、南門のすぐ内側に集結している中国軍部隊と市内の丘に陣取る砲台をことさら攻撃した。

 日本軍はまた、瑠散弾の使用を強化し、中国軍が持ち堪えている地域にひきもきらない攻撃を浴びせ、飛行機も中国軍のいる地点の空襲を続けた。

 日本軍部隊はしだいに城壁周辺に押し寄せ、土曜日夕方には西門である漢西門を攻撃し、北の主要門である和平門を脅かすに至った。

 中国防衛軍の間には、一種のヒステリー感情が支配するようになってきた。多数の者が包囲されて死は免れないことを自覚しだしたのである。記者が気づいた小さな分隊は、ちょうど交差点のバリケードを仕上げたところだった。彼らは難しい表情をして半円をつくり、死ぬまで部署を守り抜こうと誓いをたてていた。

 土曜日には、中国軍による市内の商店略奪も珍しくなくなった。それでも、住宅への侵入はなく、建物破壊も、侵入に必要な部分にとどまっていた。略奪の対象は、食料と補給物資であることは、明白であった。安全区を除き、店主が不在となった南京の商店には、食料の在庫はまだ十分残っていた。

 日本軍の集中砲撃は、日曜日の午前中も続き、西門から南門にかけて、城壁内側周辺は弾幕砲撃にさらされた。中国軍の防衛の衰えは顕著であった。外国人と接触した将校たちは、不安がつのってきていることを認め、士気の低下は明らかであった。

 日曜日正午すぎ、日本軍は堀に仮橋を渡し、はじめて城壁を乗り越えてきた。大砲による援護射撃をうけて、漢西門に近い壁をはしごを使いよじのぼった。

 付近にいた中国軍は逃走し、奔流のように市内を疾走し、安全区を駆け抜けて行った。第八八師団の部隊がこれを阻止しようとしたが、できなかった。

 まもなく下関門に向け総退却となった。退却は、しばらくは秩序あるものだった。一部分遣隊が城壁のところで戦闘を続け、月曜日朝までは、日本軍の占領を、市内のかなりの範囲でかろうじて食い止めていた。

 午後おそくには、下関門の狭い通路を大勢の中国兵が通り抜けようとして、大混乱となった。兵隊は争って門を通り抜けようとしたため、パニックとなった。兵隊は軍服をつなぎ合わせて壁をよじのぼるロープを作った。午後八時、唐将軍が密かに市を脱出し、他の高位の指揮官も同様に脱出した。

 夕方には、退却の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。指揮官もなく、どうなっているのかさっぱり分からなかった中国軍は、戦闘が終わって、生き延びなければならないことだけは分かった。

 中国軍の崩壊により、袋のねずみとなった兵隊があらゆる犯罪を犯すのではないか、と市内の外国人たちは恐れたが、火災が少し発生しただけであった。中国軍は哀れなまでにおとなしかった。


 武装を解く

 日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。

 軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨場のようになっていた。真夜中、市内でいちばん立派な、建築費二〇万ドルの建物に火が付けられ、内部に保管されていた弾薬が何時間も爆発しつづけ、それは壮絶な光景であった。

 外にあった廃物の山にも引火して、翌日遅くまで燃え続けた。大砲を乗せたワゴン車を牽く馬も炎に包まれ、その悲鳴が状況をいっそう悲惨なものにした。下関門に通ずる幹線道路である中山路は、大火災による被害が大きく、通りぬけることができず、脇道の混雑を助長した。

 いくらかの中国部隊は下関にたどりつき、数少ないジャンク船を使い、バンドから長江を渡河したことは間違いない。しかし、多くの者が川岸でパニック状況のなかで溺死した。

 しかし、月曜日のいつごろだったか、日本軍が下関地域を占領し、城壁による囲い込みを完全なものにした。城内に取り残された中国軍は、完全に閉じ込められてしまった。下関地域で捕まった部隊は、破滅された。


 中国兵の大量投降

 月曜日いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国軍部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を手渡した。委貞会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外になかった。たくさんの中国軍の集団が個々の外国人に身を委ね、子供のように庇護を求めた。

 日本軍は散発する小競り合いの後、月曜日遅くには、市の南部、南東部、および西部を掌握した。火曜日昼には、武装して抵抗を続ける中国兵はすべて排除され、日本軍は南京市を完全に支配するに至った。

 南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

 無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に連行された。

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいをする場合もあった。

 南京掃討を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。

 この数字は、南京に取り残された中国軍の正確な兵力を示唆している。日本軍のいう二万五千人という数は、誇張が過ぎるかもしれないが、およそ二万人の中国兵の処刑はありそうなことだ。

 年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように日にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。
 
 日本軍の占領の主要な犯罪は大規模な略奪であった。いったん地域が日本軍の完全支配下に入ると、そこの住宅はどこも日本兵の略奪がほしいままになされた。なにより先に食料が求められたようだが、高価な物はなんでも、ことに持ち運びの簡単な物を、勝手気ままに持ち去った。住宅に人がいる場合は強奪し、抵抗する者は射殺された。


 外国人財産も略奪される

 難民キャンプも侵入を受け、多くの場合、不運な難民はわずかな金を奪われた。防柵をめぐらした住宅も侵入され、そして外国人の建物も例外ではなかった。日本兵は、アメリカ伝道団の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、望みの品を持ち出した。

 アメリカ伝道団の大学病院も捜索を受け、看護婦の宿舎から所持品が持ち去られた。建物に翻っていた外国国旗は引き裂かれ、少なくも三台の外国人の自動車がなくなった。駐華アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン氏宅にも五人の日本兵が侵入したが、略奪を働く前に追い払われたため、被害は懐中電灯一個であった。

 日本兵は中国婦人を好きなだけもてあそび、アメリカ人宣教師が個人的に知るだけでも、難民キャンプから大勢が連れ出されて暴行されている。

 日本軍部隊には、訓練され統制がとれているものもあり、また将校のなかには、寛容と同情の心をもって権力を和らげる者もいたと言うべきであろう。しかし、全体として南京の日本陸軍の振舞いは、国家の評判を汚すものであった。南京陥落後数日して当地を訪れた責任ある高位の日本軍将校および外交官は、外国人が見開して報告したあらゆる狼籍を事実と認めている。彼の説明によると、陸軍のなかの一部が手におえなくなり、上海の司令部の知らぬ間に虐殺が行われていたという。

 南京に中国軍最後の崩壊がおとずれた時、人々の間の安堵の気持は非常に大きく、また、南京市政府および防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。事実、日本軍の縦隊が南門、西門から入城行進をしてくると、人々は集まって実際に歓声をあげて迎えていた。

 しかし、日本軍の蛮行が始まると、この安堵と歓迎の気持はたちまち恐怖へと変わっていった。日本軍は広く南京市民の支持と信頼をかち得ることができたかもしれなかったのに、逆に、日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付け、中国の人々の「協力」をとりつけるために闘っているのだと言いながら、その「協力」を得る機会をはるか先のほうに後退させてしまった。

 安全区と市内に留まった外国人たちの役割を述べないことには、南京攻撃の全貌を語ったことにはならないだろう。

 安全区は完全に成功したとまではいえなくても、それでも何千人という市民の命を救う機関とはなった。外国人推進者の目的は、攻撃の期間中、安全区は完全に非武装化し、中立的立場を尊重することであった。徹底した非武装化は達成できなかったし、戦闘の終盤では、防衛軍兵士がこの地域に雪崩れ込んだ。日本軍が市内に入ってきた時、彼らも自由に安全区に出入りした。

 しかし、日本軍は安全区を狙って集中砲撃や空襲をしたことはなかったので、そこに避難した市民は、比較的に安全だったといえる。市の西部地区に三、四マイル四方を占める安全区に避難した市民は一〇万人いたものと思われる。

 安全区委貞会の責任者ラーベ氏は、南京で彼を知るだれからも尊敬される白髪のドイツ人である。局長は蘇州のジョージ・フィッチ。彼は中国生まれのアメリカ人で、非常に危険な緊張した時期に、目覚ましく活躍した。仕事は、洪水や他の災害が起きているアメリカの小さな都市を指揮することが要求されるほど、責任のあるものであった。

 委員会書記は金陵大学社会学教授のルイス・C・スマイス博士で、気迫と主導カに富む人である。安全区設立の交渉において、とくに尽力したのは、同大学歴史学教授のM・シール・ペイツ博士である。彼はまた、南京の休戦をかちとる活動の中心となって努力した。休戦期間中、中国軍部隊に撤退してもらい、日本軍に平和のうちに市を掌握してもらおうと計画したのである。

 南京攻撃中、市に留まったのは、アメリカ人特派員二人、ニュース・カメラマン一人のほかに、一五人のアメリカ人であった。他にドイツ人六人、イギリス人一人、ロシア人二人が残留外国人集団を構成していた。

 十二月十一日土曜日、パナイ号が立ち去ってからは、十二月十四日火曜日に日本の軍艦と連絡がとれるまで、この小さな外国人グループは外部との接触をもたず、南京の城内に閉じ込められた中国軍のように、袋のねずみとなった。市の水道は止まり、電気も電話もなく、主要食品の多くは入手できなくなった。

 市内の外国人は、報道関係者を除いて全員が、安全区ないしは救済の仕事に参加した。安全区の運営には、区の非武装を維持する以上の仕事があった。大勢の文無しの難民には、食事を与え住むところを手配しなければならなかった。そのうえ、警備の仕事もしなければならなかった。医療施設の設置もある。おまけに、かりそめにも銀行業務も必要であった。

 聖公会伝道団のジョン・マギー師は、外国委員会の先頭にたって、包囲攻撃中、大勢の中国人負傷兵に医療を施すという英雄的努力をした。

 中国軍の負傷兵施療設備はきわめて貧弱であった。病院はあるものの、医師、看護婦の数はどうしようもないほど少なく、病院の多くは利用制限があり、特定の師団の兵隊に限られていた。

 マギー師の委員会は、包囲攻撃中、既存のいくつかの病院への医薬品の分配と、これら病院への負傷者の運搬に尽力した。それでも膨大な数の負傷者をさばくことができず、路上いたるところで目につく中国人の負傷者は、全体の悲劇的光景のなかでも、さらにおぞましいものであった。びっこをひきながら歩き回る怪我人、脇道には身を引きずるようにしてかろうじて歩いている人、大通りには何百人と死体が転がっていた。

 アメリカ伝道団の大学病院は戦闘中も開業し、一般市民の負傷者のために病院が利用できるよう努力がなされていた。しかし、若干の兵隊も入院していた。二人のアメリカ人医師(フランク・ウィルソン(訳注 正しくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカ人看護婦二人(グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかの数の中国人の助けをえて、昼夜を分かたず、二〇〇人近い患者の世話をした。

 日本軍が市を占領するや、戦傷者救済委員会は国際赤十字の支部として組織され、外交部の建物内にあった中国陸軍の主要な病院を引き継いだ。配備可能な輸送手段は、町の全域にくりだして負傷兵を運び込んだ。市にまだ残っていた医師や看護婦を集め、この病院で仕事についてもらった。

 日本軍は当初、この病院を自由に活動させてくれたが、十二月十四日火曜日の朝、この場所へ外国人が立ち入ることを禁止し、中にいる五〇〇人の中国兵の運命に関与させないようにした。

 安全区委員会が努力してきた休戦の斡旋は、何の実も結ぶことはなかった。蒋介石総統は委員会の休戦提案に対し、おざなりな返答をしたにすぎず、日本軍はなしのつぶてであった。唐将軍の代理が来て、将軍は休戦を切望していることを明らかにし、そして、中国軍の形勢が不利になってきていたので、調停を望む彼らの態度は、ほとんど殺気だっていた。ところが、中国軍の撤退が日本軍への屈伏を意味する条文づくりまでに交渉が発展しないうちに、中国軍の瓦解がおこった。

 ともかくも無線設備を備えたパナイ号が去ってからは、日本軍との連絡手段はまったくなくなってしまった。前線でも訪れればそれもできようが、そうするには途方もない危険がともなった。

 南京側は唐将軍宛の日本軍の最後通牒については実際なにも知らず、中国軍の司令官は返事をしていなかったようだ。


 両軍の死傷者多数

 南京戦における死傷者は、両軍ともにかなりの数に達したことは間違いない。ことに中国軍の被害は甚大であった。包囲攻撃における日本軍の死傷者は、おそらく総計千人を数え、中国軍は三千から五千人、もしくはそれより多いかもしれない。

 市の南部および南西部から避難できなかった大勢の市民は殺害され、総計ではおそらく戦闘員の死亡総計と同数くらいにのぼるであろう。記者は日本軍が地域を掌握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた。

 南京の防衛が中国軍にとって、このような惨敗に帰した責任を、いったいどこにもっていったらよいのか、難しいところである。

 中国軍のドイツ人軍事顧問の熱心な勧告に反して、南京の防衛は挙行された。蒋総統の参謀長である白崇禧将軍は首都防衛に強く反対した。蒋総統自身は、市の防衛強化に莫大なドルをつぎこんでいること、それに、首都攻防のためにたとえ一戦なりとも交えたいことを指摘して、当初は南京での防衛に賛成であったと言われていた。

 蒋総統は、次のような観点からこうした意見を持つようになったと言われている。つまり、唐生智将軍および陸軍指導者の多くがそのような路線を主張したこと、彼らは軍隊とともに市にたてこもることを申し出たため、首都防衛戦が闘われたのだ、と南京を最もよく知る人の多くが述べている。

 確かに、蒋総統はあのような失策を犯すのを許すべきではなかった。確かに、唐将軍も犠牲を強いる路線をとったことでは強く責められるべきである。完遂もできず、せいぜいへまをやらかしたのである。

 日曜日に、唐は、日本軍が市内深くに侵入するのを阻止するため、小さな部隊を防戦にあたらせながら、総退却の配置をして、状況を救う何らかの努力ができたはずである。が、そのようことがなされた気配はない。ともかくも、状況は改善されず、唐の逃亡を彼の参謀たちにさえ知らせず、指揮官のいない軍隊を置き去りにしたことは、完全な瓦解の合図となった。

 南京攻防戦においては、双方の軍ともに、栄光はなきに等しかった。
 

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P428〜P441)
 


ニューヨーク・タイムズ

ニューヨークタイムズ   1937年12月11日(上海発)ハレット・アベンド
南京の安全区委員会は金曜日に日中双方に向け、委員会が30万の市民に避難所を設け、かつ安全区内からの中国軍側軍事物資の完全撤去を行う為に3日間の停戦を求める、哀れなほど空しい提案を行った。知られる限り、中国側からも日本側からも、またラジオで提案を送った蒋介石総統からも返答はない。〜略〜
(アメリカ資料編P403)


『 ニューヨーク・タイムズ』 1937年12月15日(無署名記事)
 南京の沈黙に上海は戦慄
《ニュヨーク・タイムズ》特電
12月15日、水曜日、上海発。日本軍側によれば南京の完全占領からすでに二日近く経ったのにもかかわらず、不思議なことに日本陸海軍、大使館報道官は何れも南京の状況に関する情報が全くないと称している。
 提供されて唯一の情報は、昨日飛行機から、市内の大部分が燃えているが戦闘は停止した旨報告してきた、というものである。諸報道官は、南京在留外国人の運命、大使館財産の状況、一般人の殺戮、捕虜の数、そして財産破壊の程度に関するいかなる情報も提供できない、と語った。
 この占領した首都からの情報がない理由の説明を強く求められて、報道官は上海・南京地区の日本軍司令官松井岩根大将の司令部が上海からかなり遠くに移動したため、伝達が遅れているのだ、と述べた。
 月曜日には日本軍艦数隻がすでに南京に到着したはずだが、と指摘されると、海軍報道官は、軍艦からは当地停泊の旗艦出雲になんら電報を送ってきていない、と主張した。
 このように日本は大勝利にもかかわらず不思議にも詳しい情報を封鎖しており、南京の30万市民は包囲攻撃で恐るべき惨禍を被ったのではないかという上海での疑いを強めている。(「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」p412)

ニューヨークタイムズ   1937年12月17日 ハレット・アベンド(上海発)
屍体の散乱する南京
12月16日南京発(米艦オアフ号より無電、AP)。かつてその繁栄を謳われた中国の古都は、いまや町が被った砲爆撃と激戦により殺された防衛軍兵士および一般人の屍体が散乱するありさまだ。町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が平服に着替え、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。
〜中略〜
日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないように努めてきた。
10万人以上の中国人が地区内に避難した。
(アメリカ資料編P416)

●ニューヨークタイムズ  1937年12月19日 ハレット・アベンド

 日本軍上層部は、南京入城を国家の不名誉にした略奪、暴行、殺戮を速やかに終息させるため、遅ればせながら厳しい懲戒手段を取り始めた。たけり狂った部下が、数百人の非武装の捕虜、民間人、婦女子をでたらめに殺害するという衝撃的な不行跡が、中支方面軍司令官松井岩根大将にはいっさい知られないようにするために、必死の努力が為されているものと思われる。ところが、この狡猾な老武将は、下級将校の中にはもみ消し工作に関与しているものがいることを、すでにうすうす気付いている模様である。
 指揮の手腕を心からほめたたえられるはずの正当な南京入城は、パナイ号攻撃で台なしになってしまい、さらには、中国の元の首都に到着するや、包囲が完了してからの出来事を知ったとき、落胆はパナイ号を凌ぎ、恐怖と恥辱の色を濃くした。日本の国も国民も、武勇と義侠の誉れ高い陸軍を長く誇りにしてきた。が、中国の大略奪集団が町を襲うときよりひどい日本兵のふるまいが発覚したいまや、国家の誇りは地に墜ちてしまった。
 

外国人の証言

 この衡撃的な事実を隠蔽しようとしても無駄である、と日本当局は沈痛に受け止めている。偏見やヒステリーに充ちた中国人の言うことには、日本兵の蛮行を告発する根拠は見出せなくとも、忌まわしい事件の間じゅう、市内にとどまり、今なおそこにいて、絶え間なく続く暴行を書きとめている、信頼のおけるアメリカ人、ドイツ人の日記や覚え書によって、日本兵の蛮行は告発されるであろう。

 南京にいた記者全員がパナイ号の生存者を運ぷ上海行の船に乗りこんだあと、市内の情況は明らかにいっそう悪くなった。かれらが火曜日に南京を去ったので、あらゆる残虐行為は、火曜日夜、水曜日と次第に報道されなくなった。軍紀の立て直しは木曜日に開始された。

 日本陸軍は、いかなる外国人にも長期にわたって南京に入ってもらいたくなかったし、今後も許可は与えないだろう。だが、すでに内にいる外国人が外部となんらかの接触手段を見つけるでろう。つまり、南京占領という輝かしい戦いは、日本軍の戦史に栄光の記録として付け加えられるのではなく、日本軍がその極悪非道を必ず後悔するような歴史の一ページをしてつけ加えられるのではなく日本軍がその極悪非道を必ず後悔するような歴史の一ぺーヅを書き記すことになろう。

 日本の政府機関のあらゆる部門に働く、信頼できる、心ある役人たちは、起こったことを過小評価しようとはしていない。それどころか、かれらは多くの点において情況が世間一般に知られている以上に悪くなってきていることに狼狽している。

日本の将来に打撃は明らか

 日本の中国に対する希望や計画の多くは、南京での出来事により、頓挫するであろう。つまり日本軍の行状が内陸にも伝われば、いかなる中国政府といえども和平交渉を開始することは以前より難しくほとんど不可能に近くなるだろう。南京占領の恐怖は、日本の傀儡政権に協力しょうと考えている占領地域の上層階級の中国人にも脅威を与え、新政権離れを招くものと思われる。そのときは、必然的に日本は評判も性格も好ましからざる者と交渉をもたざるをえなくなろう。

 残虐行為の多くは、南京市を北に通過した部隊によってのみなされた、と当地ではみている。秩序回復のため、これらの一団を南京近辺から遠ざけ孤立させるよう、現在努力が傾注されているが、情況はここ数日間好転の兆しがなく、この状態が週末まで続くものと思われる。

 今後は、短期滞在の部隊も南京に入ることは許されないだろう。かわって、市には選り抜きの部隊が長期に駐屯し、法と秩序の回復・維持につとめるものと思われる。また彼らは、中国人民の信頼を回復するという困難で報われない仕事に従事するにちがいない。今後何年間も友好はかなわないとわかっていても、模範となるふるまいで協力を勝ちとらなければならないことをかれらは痛感させられるであろう。


●ニューヨークタイムズ  1938年1月25日   ハレット・アベンド
 南京の無法状態
《ニューヨーク・タイムズ》特電
1月24日、上海発。軍事的必要その他の日本軍側の口実を全て剥ぎ取ってみるに、日本軍の中国前首都攻撃から一月と十日経った南京の現状は、日本当局が外交官以外のいかなる外国人の南京訪問をも許可できないほど無法で蛮虐であるという赤裸々な事実が残る。
12月26日、上海の日本側高官達は南京で掠奪、暴行が続いていることを残念ながら認めると言い、記者に対し、軍紀劣悪、命令不服従の部隊は小部隊ずつ長江北岸に移動されているところであり、その守備地域は精選された軍紀厳正、行動良好の部隊によって替わられる、と約束した。

 さらに1月7日にも日本当局は記者に、遺憾ながら南京はまだ嘆かわしい状況であると認め、統制を逸し、日々に何百という婦人や少女へ暴行を働いている軍の師団は2、3日中に南京から退去される見込みだ、と保証した。
 
 無法の支配続く
 
 だが1月20日に遅きに至っても無法の支配は何ら抑制されることなく続いている。もし約束通りに部隊の交代が行われたのならば、新来の部隊も旧来本市に駐屯して法と秩序の擁護者を持って任じてきた部隊と同様無規律であるということになろう。

 先週金曜日夜、上海の日本当局は率直に、この状況に関する電信報告は検閲を通過しないと通告し、事実上、日本軍の声威力を傷つける恐れのある「悪意有る」報告の海外打電を禁止する旨を宣言した。

 包囲、攻撃の間ずっと生命をかけて難民キャンプの運営に当たってきた宣教師や福祉活動家が上海に宛てた南京概況報告や、現在南京駐在の領事当該高官の報告が、全て悪意あるものとはとうてい考えられない。これらの報告は何れも一致し、日本軍の残虐行為と無統制の放縦についての目撃者の証言を含んでいるのである。

 これらの報告は、その主要部分は印刷不可能であるが、当地ではきわめて厳重な憶測を呼んでいる。南京地区の軍隊の中には事実上の反乱状態が存在するのではないか、蛮行を重ねる部隊は市外への撤去、北進して徐州方面へ進撃中の日本軍に合流せよとの命令服従を拒んでいるのではないか、と観察する者もいる。

 また、いまや無規律は長江デルタ地帯の日本軍全師団に広がったのか、松井岩根大将など指揮官はこれを制御できないほど無力なのだろうか、と考える者もいる。

 上海の外国人特派員は日本の検閲により、上海諸新聞の外国人所有者の編集コメントの海外打電を禁じられた。それは南京地区の現状は日本軍の軍?

 


サウスチャイナ・モーニング・ポスト

●サウスチャイナ・モーニング・ポスト  1938年3月16日

(フィッチの談話)
 12月14日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げ込んだ六千の元中国兵――彼の情報ではそうなっている――の身分と居場所を教えるように要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国の制服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。
 安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(12月13日に日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は1300人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の河岸で処刑された。

 


ワシントン・ポスト

ワシントン・ポスト 1937年12月17日
日本、南京入城式典を

中国人男子を大量処刑
蒋、抗戦継続を訴え
<略>
大量処刑を執行
少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑されたと、メンケンは言った。

南京事件調査研究会「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」青木書店より
 


マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー 
●マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー 一九三八年二月十一日

 日本軍は十二月十三日南京に入城し、その翌日には五万人の日本兵が中国人難民のひしめく市内に解き放された。日本兵は傍若無人に市内を徘徊し、中国人からお金、食料、衣料を奪い、家に押し入り、女性を襲い、要求を拒む者は構わず負傷させ、殺害した。多くの難民は外国人宣教師の保護下にある金陵大学の建物に集中避難した。このうち幾棟かはアメリカ国旗を掲げていたが、何ら防衛効果を上げていない。日本兵は門を壊すか壁をよじ登り安全区に押し入り、国旗を引き裂き、銃剣で外国人を威嚇する。安全区国際委員会や大学当局は日本大使館に繰り返し抗議したが、無益であった。大使館員は軍と外国人居留民との緩衝役として、南京に十二月十五日に到着していた。日本大使館はしばらく抗議内容を信じまいとしていたが、通りは死骸で溢れ、大使館から見えるところで強姦が行われ、もはや無実を装うことは不可能となり、大使館は自ら無力を認めざるをえなくなった。当初、五万人の兵士を統制するのに、南京市全域で憲兵は一七人に過ぎなかった。十二月二十一日になって、安全区委員会のメンバーが車で市内を数マイル走ったところ、一人の憲兵にも出逢わなかった。
 以下は外国人の目撃談であるが、南京市全域で何が起こっているのかを示す、重要な証言である。
 十二月十五日 日本兵が大学図書館に三たび侵入した。この建物内で、女性四名を強姦し、連れ去った女性のうち、強姦後に解放された者が二名、戻ってこなかった者が三名ある。この建物には千五百名の難民が避難していた。
 十二月十六日 農業経済系構内で、三〇名あまりの女性が、ひきもきらずにやって来る大勢の日本兵に強姦される。同夜、日本兵が図書館に再び侵入し、銃剣を突き付けて、お金、時計、女性を要求した。女性数人が構内で強姦され、兵士に少女を差し出さなかった門番が殴打された。
 十二月十七日 日本兵数名が大学付属中学校に侵入。恐怖のあまり騒ぎ出した子供一人が銃剣で刺殺され、もう一人が重傷を負った。女性八名が強姦にあう。日本兵は昼夜を分かたず、この建物を乗り越えて侵入するので、難民はヒステリー症状を起こし、三晩不眠状態となった。
(中略)
 これらは膨大なリストから引用したほんの僅かの例である。
(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」 南京事件調査研究会・編訳 青木書店より)




●「出版警察報」(1)

(1938年/第一一一・一一ニ号/内務省警保局)
郵便および輸入の過程で日本国内配布禁止になった新聞(記事)

・1937.12.18 The Times
「南京ノテロ」と題する記事

・1938.1.23 The Times Weekly Edition
「南京ノ恐怖」と題する記事

・1937.12.23 The Shanghai Evening Post & Mercury
「南京ニ於ケル暴虐、司令部ヲ驚愕セシム、軍隊無統制」と題する記事

・1937.12.24 The Shanghai Evening Post & Mercury
「タイムス紙ノ暴虐」と題する記事

・1937.12.25 「天光報」
「国人如何ニシテコノ血塗レノ帳簿ヲ清算スルカ、敵ハ首都ニ於テ大屠殺」と題する記事

・1937.12.25 The Shanghai Evening Post & Mercury
「南京ニアル日本軍ノ暴虐ハ事実ナリト目撃者曰ク」と題する記事

・1937.12.25 The North China News
「首都攻略直後強姦略奪行ハル」と題する記事

・1937.12.25 The China Press
「日本軍ノ野蛮行為確証サル 」と題する記事

・1937.12.25 South China Morning Post
「南京陥落ノテロ」と題する記事

・1937.12.25 「工商晩報」
「敵南京ヲ陥落セシメタル後屠殺ヲ恣ニシ、装丁5万人ヲ惨殺ス」と題する記事

・1937.12.25 「越華報」
「米国記者、敵ノ南京ニ於ケル姦淫、略奪、蹂躙ノ惨状ヲ発表セリ」と題する記事

・1937.12.25 「工商日報」
「敵軍南京ニテ大惨殺ヲ恣ニス」と題する記事

・1937.12.25 The New York Times
「捕虜ハ全テ斬リ殺ス」と題する記事
返信


●「出版警察報」(2)


・1937.12.25 New York Herald Tribune
「南京陥落後ノ恐怖状態ヲ告発スル書」と題する記事

・1937.12.26 「星洲日報時刊」
「日寇野獣性ヲ発揮シ南京ニテ屠殺ヲ尽ス」と題する記事

・1937.12.26 「国華報」
「敵南京ニ於テ姦淫、掠奪、大屠殺ヲ行フ」と題する記事

・1937.12.26 The Peoples Tribune
「南京ニ於ル日本ノ文化的使命」と題する記事

・1937.12.27 「新報」
「南京ニ於ル日本軍ノ暴行」と題する記事

・1937.12.27 「循環日報」
「南京ヨリ来港ノ西洋人、日軍ノ南京蹂躙情況ヲ憤慨シテ語ル」と題する記事

・1937.12.29 The North China Herald
「首都占領時ニ於ル強姦略奪」と題する記事

・1937.12.30 The China Critic
「南京ノ強姦」と題する記事

・1937.12.31 Reking & Tientsin
「首都占領後ノ強姦略奪」と題する記事

・1938.1.10 Life
「南京攻略ニ関スル記事並ニ写真」と題する記事

・1938.1.23 「中山日報」
「獣性狂ヲ発シ敵南京ヲ屠ル」と題する記事

・1938.1.29 The Natal Mercury
「南京ニ於ル残忍ナ色欲ノ乱舞」と題する記事

・1938.2.7 The Manchester Guardian
「南京ノテロリズム」と題する記事

・1938.2.11 The Manchester Guardian Weekly
「南京ニ於ケル暴虐」と題する記事

・1938.2.11 「華字日報」
「南京ヲ脱出シ、漢口ニ来タレル者ノ談話」と題する記事

http://higeta.blog2.fc2.com/blog-entry-43.html
内閣情報部一二・一八 情報第一一号  アジア歴史資料センター:A03023964300(以下同じ)

―A・P南京日本兵の行動を誣ゆ―
 同盟来電―不発表

ニューヨーク十七日(A・P)
A・P南京特派員マクダニエル氏は南京陥落直後の状況を日誌の形で左の如く報じてゐる

△十二月十四日
 入城した日本軍が全市に亘つて掠奪を行ふのを見た、一日本兵は安全地帯に避難してゐた住民に銃剣を擬して三千弗をせしめたのを目撃した

△十二月十五日
米国大使館の傭女と共に彼女の母親を探しに出かけた処母親は溝の中で無惨な死体となつて発見された、午后余自身も武装解除を手伝つた支那兵数名が屋外に引摺り出され銃殺に処せられた上溝の中に蹴こまれた、夜一般民及び武装解除された支那兵五百名以上は日本兵により安全地帯から何処ともなく連れ去られた、勿論一人も帰つて来たものはなかつた
支那住民は軒に日章旗を掲げ帽子に日の丸をつけていても続々逮捕され引張られて行く


内閣情報部一二・一八 情報第五号  A03023964600

上海ロイテル支局発放送電報(十六日)
 上海(XHU)発

一、上海十六日発
(イ)米国軍艦オアフ号は英国軍艦レーデイ・バート号に労はられつゝ日本掃海艇に先導され日本艦の護送を受けて本日払暁上海に向け下航し始めたこれに続いて過去四ケ月間江上に封鎖されていた英国船、曳船艀の類が行列をなして金曜日午後には上海に到着する筈だ
オアフ、レーデイ・バード両艦を護送する日本軍艦の中には鵲があつたがそれには南京籠城組の新聞記者五名―即ちシカゴ・デーリー・ニユースのA・Tスチール、A・Pのイエーツ・マクダニエル、ニユーヨーク・タイムスのチルマン・ダーダン、ロイテルのレスリー・スミス、パラマウントニユース映画班アーサー・メンケン―が乗つてゐる
(中略)
(ホ)日本大使館は本日南京より同地にあつた外人二十七名全部無事なりとの報告を受理した
外人内訳は
英人一名、ロシア人二名、ドイツ人六名、米人十七名であるが外国外交官は一人も南京にゐない、安全地帯には約十五万の支那人が居り南京の日本大使館も焼却されてはゐないが自動車が無くなつてゐると


内閣情報部一二・一八 情報第一四号  A03023965000

―ニユーヨーク・タイムス「日本軍の蛮行」を誣ふ―
―同盟来電―不発表
ニユーヨーク十八日発

ニユーヨーク・タイムス紙南京特派員テイルマン・ダーデイン氏は十八日南京から上海に帰還したが、南京の市内に於ける日本兵の行動につき、左の如く報じている
「南京占領に当つて日本兵は残虐と蛮行の限りを尽した、日本兵は上官の面前で金銭と言はず、貴品と言はず、欲しいものは何でも掠奪して憚らない有様だ、多数支那人住民が第三国人に語る所によると、日本兵は支那人の既婚、未婚の婦人を誘拐、強姦していると言ふ話で、捕虜は勿論一人前の男はすべて容赦なく虐殺されていると言はれる」


外務省情報部「『パネー』号及英艦砲撃事件に対する各国の反響(四)』1937.12.20  A03023967700 4画像目

(A)米国紙
(中略)
(ハ)市俄古(十七日)
一、「デーリー・ニユース」紙ノ「ステイル」特派員ハ南京陥落ニ関スル電報ヲ「南京ニ於ケル日本軍ノ鬼畜ノ如キ虐殺」ナル見出シテ掲載シ、支那軍ノ無秩序ナル野蛮行為カ日本軍ニ依リテモ行ハレタルカ如キ印象ヲ読者ニ与ヘ、「パネー」号事件ニ関スル米国民ノ興奮ヲ一層煽リ立ツテ居ル。


外務省情報部「支那事変に関する各国新聞論調概要(七十五)」1937.12.23 A03023967900 5画像目

A 米国紙
(中略)
△反日思想ノ除去ハ疑問
南京ニ入城シタ日本軍ノ行動ハ実ニ数百年モ昔ノ様ナ話テアル。斯様ニ支那人ヲ野蛮ニ取扱ツテ、支那カラ反日的思想ヲ除去スルコトカ如何ニシテ望マレヨウカ。「パネー」号事件モ日本ノ主張スル様ニ単ナル誤認ト認メルコトハ出来ナクナツタ。明カニ此ノ事件ハ最初考ヘタヨリ重大ナ米国権利ノ侵害行為テ、国務省ノ執ツタ手厳シイ処置ハ当ヲ得タモノテアル。(十九日 ニユーヨーク・タイムス紙)


外務省情報部「『パネー』号及英艦砲撃事件に対する各国の反響(五)』1937.12.23 A03023968000 2画像目

概説
(一)米国紙ハ…二十九日(引用者注―十九日の誤り)、上海発「アベント」「タイムス」ノ特電カ日本軍ノ軍紀紊乱、暴行等ニ就テ「センセーシヨナル」ニ報道シ…


内閣情報部一二・二七 情報第八号  A03023968100

哈府支那語放送(二十六日)      (熊本逓信局聴取)
(中略)
六、南京カラ帰国シタ外人ハ戦区デ日本人ノ為メ脅迫サレ日本兵ハ□半ノ居民ヲ殴打シ日本兵士ノ多クハ支那ノ婦女子ヲ辱シメタ

 


http://higeta.blog2.fc2.com/blog-entry-44.html
南京事件と報道 1938.1
内閣情報部一・二 情報第三号  アジア歴史資料センター:A03023972900(以下同じ)

 哈府支那語放送      (熊本逓信局聴取)
(中略)
三、ニューヨーク時報ノ消息ニ依レバ日本人ハ南京ヲ襲撃シ、南京ヲ占領後、二日目カラ城内デ殺戮ヲ拡大シ婦女ヲ強姦シ、略奪シタ、通信員ノ通信ニ依レバ、南京変乱ノ際街道上デ婦女老若ヲ撃殺シ、避難民区ニ日本ノ大兵ハ封鎖ヲ実行シ、貴重品ヲ強奪シ去リ、日大兵ハ米国ノ医院ヲ強奪シタ

内閣情報部一・九 情報第一号  A03023974400
 長沙支那語放送(八日)    (熊本逓信局聴取)
(中略)
四、常熟七日電
敵ハ南京、杭州間ノ各線デ随意ニ騒擾シ兵ハ皆殺戮シ婦女ヲ姦淫シ物ヲ見レバ
掠奪シ家ヲ見レバ破壊シ幾十里人煙ナク惨状ヲ呈シテ居ル


内閣情報部一・一〇 情報第七号  A03023976200
―哈府支那語放送(九日)―    (熊本逓信局聴取)

一、支那関係ニユース
(中略)
(リ)日本軍ハ支那人ノ家庭ヲ焼キ財産ヲ掠奪婦女ヲ姦淫、抵抗スル者ハ虐殺サレテ居ル


内閣情報部一・一五 情報第五号   A03023979200

 駐支大使館日本に再抗議
―同盟来電―不発表―

ワシントン十四日発

米国々務省は十四日日本兵の在南京米国人所有財産の掠奪が依然熄まないのに鑑み駐支米国大使は再び日本側に抗議した旨発表した。駐支大使館は日本兵が依然無断で米人の所有家屋に不法闖入し家財を持出し主として支那人の雇傭者を追ひ出して居ると報告して居る


外務省情報部「支那事変に関する各国新聞論調概要(87)」1938.1.28 
△南京ニ於ケル日本軍ノ行動  A03024001200

支那ノ日本軍占領地帯カラ来ル通信ヲ検閲シヤウトスル日本当局ノ努力ニモ拘ラス、上海ノ本社通信員ハ、南京ニ於ケル日本兵ノ不遑行動ト無法状態カ外聞ヲ憚カル程悪イノテ、日本軍当局ハ外交官以外ノ外国人カ南京ニ入ルコトヲ拒絶シテ居ルト報道シテ居ル。英米両国及九国会議カ日本ノ侵略的行動ニ対シテ抗議ヲ提出シタ時、日本ハ極東平和及秩序維持ノ為、又西洋文明ヲ共産主義カラ救フ為ニ軍事行動ヲ起シテ居ルノタト声明シタカ、今戦勝気分ニ酔ツタ日本兵ハ、南京ノ無力ナ支那人ヲ掠奪シテ楽ンテ居ル。之テモ日本ハ支那ノ平和ト秩序ヲ維持シテ居ル積リタラウカ(二十六日ニユーヨーク・タイムス紙)


外務省情報部「支那事変に関する各国新聞論調概要(88)」1938.1.31 A03024002600 

(中略)
B米国紙
(中略)
△米国ハ日本ノ保障ニ権威ヲ認メス   A03024003300

日本軍ハ「バネー」号事件当時ノ約束ヲ無視シ、南京其ノ他各地ニ於テ引続キ米国人ノ財産ヲ掠奪シテイルカ、在支日本軍人カ上官ノ命令ヲ蔑視スル傾向ハ益々顕著トナツタラシイ。最近米国政府ハ前記事態ニ関シ更ニ日本政府ニ抗議シタノニ対シ、日本政府ハ例ノ如ク将来ヲ保障シタカ、米国政府ハ日本政府ノ保障ニ対シ、最近何等ノ権威ヲ認メテ居ラヌ。日本政府ハ新聞ノ検閲ヲ厳ニシ、国民ニ外国ノ事情ヲ知ラサス。英国ハ反日的テアルカ米国ハ好意的ナ様ナ印象ヲ日本国民ニ与ヘルコトニ努力シテ居ルカ、国民ハ何日カハ真相ヲ知ルタラウ(二十六日シカゴ・デイリー・ニユース紙)


(中略)
C英国紙
(中略)
△南京ニ於ケル日本軍ノ暴行詳報   A03024004100

二十八日各紙ハ一斉ニ在支日本軍ノ暴行振ヲ詳報シタカ、殊ニ「デイリー・テレグラフ」紙香港通信ハ、在南京大学諸教授、亜米利加宣教師等カ日本大使館及布教団本部ニ宛テタ書翰ニ基イタ完全ニ信頼テキル最初ノ詳報テアルトテ、昨年日本軍カ南京占領後数週間ニ亘ル戦慄スヘキ狂暴振ヲ特報シ、総ユル財産ハ外支人ノ見境ナク一律ニ掠奪破壊セラレ、僧院ハ侵入サレ尼僧ハ襲ハレ、図書館、病院等ハ破壊焼打ノ厄ニ遭ヒ、二万ノ支那人ハ虐殺セラレ、数千ノ避難民ハ住ムニ家ナク、飢餓ト困却ノ裡ニ累々タル屍体ノ間ヲ防徨スル有様テ、婦女子ニ対スル襲撃ハ白昼日本大使館ノ真前テモ公然行ハレタ。一外人教授カ日本軍人ノ名誉ノ為斯様ナ蛮行ヲ中止スル様切ニ勧告シタニモ拘ラス、狼藉ハ止ム所ヲ知ラス、婦女子ヲ庇ハントスレハ拳銃テ強制セラルル始末テアル。杭州テモ亦同様ニ日本軍ハ組織的暴行ヲ行ツタ。尚各紙共南京ニ於ケル日本兵ノ「アリソン」書記官ニ対スル暴行事件ニ関シ、米国政府カ強硬抗議ヲシタト報道シ両記事共頗ル「センセイシヨナル」ニ取扱ツ