【不安や葛藤を解消するサプリメントとしての、“ゲーム脳”の適応的意義】2006.03/09



・はじめに

 “ゲーム脳”の森昭雄博士について、また面白い出来事があったようである。

 H18年3月6日、森博士は世田谷区民会館で、『テレビゲームが子どもの脳に与える影響について一緒に考えてみませんか?』といういつものような講演をやらかしたらしい。ここまでならいつもと同じなのだが、なんと、川端裕人さんという方が会場に乗り込み、質問をかわしたうえで一部始終をブログ上にアップしたのだ。これが好事家さん達の目に留まり、3/8現在、様々な考察・罵倒・感想がネット上を飛び回っている。詳細をお知りになりたい方は、以下原文を是非お読み頂きたい。

記事:森昭雄氏の世田谷区講演レポート(1) (2)(from リヴァイアさん、日々のわざ さま)より
記事:森昭雄博士の講演(from せんだって日記 さま)より
(まとめはこちらこちらが良さげです)

 臨床脳波に対する無知を隠そうともしない似非科学っぷり・学会発表の詐称(少なくとも、authorityと呼べる学会や雑誌では森氏の名前を見たことがない)・効果的なプレゼンテーションなどについては今更注目するまでもあるまい。あのようなトンデモ本を書ける御仁なのだから、むしろ森氏らしい鮮やかな対応と評価しておけばいいだろう。質問を行った川端さんに対する返答も、彼ならいかにも言いそうな、予測され得た部類のものだと思う。川端さんの勇気ある指摘も、森博士の“見事な”返答によってすっかりかき消されてしまった。

 それはともかく、私が惹きつけられたのは、以下の一節である。

「わたしは、日本の子どもが、笑わなくなり、キレるようになり、おかしくなっているのを見て、日本のためにやっている。川口市の小学校でも、2年間の取り組みで不登校児がゼロになる(元々二人の不登校児がいたらしい)といういい結果が出た。そういうのを問題にするあなたの方がおかしい」と述べる。そして、会場からは拍手喝采が湧き起こる


 リンク先の元記事をお読み頂ければわかるだろうが、ちょっとした予備知識があれば森氏の反論はいかにも胡散臭いものに聞こえる…筈なのだが、拍手、である。ネット検索に関しても、学会発表に関しても、疑問を持たずに通り過ぎるほうがむしろ難しいように見えるのだが、それでも会場の人達は森氏に拍手で応えたというのである。これは一体どういう事か?!

 もちろん、会場にサクラが潜んでいて拍手を扇動したというのは十分考えられることである、というか川端氏以外の質問者すらサクラかもしれない。だが、サクラだけで会場が埋め尽くされていたとは思えないし、やはり大勢の来場者の大半が拍手を惜しまなかったのは事実なのだろう。せんだって日記さんの記事でも“万雷の拍手”という表現が為されている。これは、数人のサクラだけじゃとても起こり得ない。

 ネット上では、森氏だけでなく来場者達に対する罵倒や批判、嘆き、“信じられない”といったテキストがさかんにみる事が出来る。私自身も、あのようなトンデモ理論をあたかも真実のように喧伝する森氏の言動は大嫌いだし、それを無批判に受け入れて感情を共有したいとも思わない。しかし、拍手をした人達が狂っているとは思わないし、彼らにとって“ゲーム脳”は、むしろ必要なモノだったんじゃないか思えてならないのだ。必要だからこそ、彼らはあそこまで突っ込みどころの多い“ゲーム脳”を受け入れていて、川端氏の重要な指摘をスルーする事が可能なのだろうと思う。必要や要因がない限り、“ゲーム脳”ほどのトンデモ理論を熱烈に支持するとはちょっとおかしい。




 ・不安を防衛するツールとして、“ゲーム脳”は優れている。

 需要のない所に供給は発生しないし、幾らコンテンツを供給したところで消費する者がいなければ市場を席巻することもない。“ゲーム脳”は、それを求めている消費者がいるからこそ、これほどまでに消費され、これほどまで批判・罵倒に耐えて支持されていると考えたほうが理に適っている。既に指摘されている通り、やはり親御さん達の子育てにまつわる不安を解消するための装置として、ゲーム脳は機能しているのだろう。昨今の都市化・核家族化によって、(都市空間における)親の子育て負担・不安がかつてなく増大しているのはほぼ間違いないと推測され(関連:こことかこことか)、不安に弱い人や、煽りに弱い人、息子や娘の現状が危機的な人、は途方もない不安と葛藤を抱えていることと思う。祖父や祖母の見守りもなければ、かつての地域社会のように大人達みんなで地域の子どもをholdingするような構造も存在しないという状況下、親御さん達が気軽に不安を話し合う相手は少なく、協力してくれる相手も少ない(数十年前と比べてのあくまで相対的なものとしても)。コミュニケーションも、常識も、教育も、疑心暗鬼になりながら自分で考え選択していくしかないという状況は、30年前のお父さんお母さんよりも子育て不安を覚えやすい状況なんだと思う。こうした不安・葛藤を抱えた親御さんのなかでも、特に「医学博士」という権威づけに弱い程度に教育熱心な親御さん達※1にとって、“ゲーム脳”は最短距離のソリューションを提供するサプリメントとして機能するのではないだろうか。

 では、“ゲーム脳”はどういうカラクリで親御さん達の不安を解消するのか?これを説明する切り口は様々だろうが、ここでは、心理学界隈における最も基礎的な視点のひとつ・防衛機制を軸にしながら推測してみようと思う(参考:こちらこちら)。防衛機制という視点に則ってみると、“ゲーム脳に飛びつくような因果関係”はかなりのところまで説明づける事が出来るように思えるので。

 まず、“ゲーム脳”は親御さん達には縁の薄い「ゲームのせい」にする事が出来る点がポイント高い。子育てが上手くいかない原因や、子どもの行動を理解できない原因を“ゲーム脳”のせいにする時――とりわけ一元的に“ゲーム脳”のせいにする時――親御さん達は自分自身に内在する不安を外部に放り出す事が出来る。つまり、うちの子が悪いのをゲームのせいにする事で、子育てにまつわる不安を自分自身に関わりのないモノ(ここではゲーム)に預けてしまう事が可能になるわけである。ついでに、ちょっとした失敗やちょっとした不理解ぐらいはどんな父親・母親にもあるだろうから、不安だけじゃなく、その後ろめたさもゲームのせいにして忘れることも出来るかもしれない。こうして、悪いモノを“ゲーム脳”のせいにする事によって、子育てにまつわる不安や葛藤や後ろめたさを外在化(=吐き出す)する事が叶い、親御さん達の心的バランスは適正化される、というわけである。この作用機序を通して、“ゲーム脳”という抗不安サプリメントは、親御さん達の子育て不安・葛藤を軽減する事に貢献している。よって、不安や後ろめたさが強いor不安や後ろめたさに弱い親御さんにとって、“ゲーム脳”は心的バランスを維持する重要な機能を担っていると私は考えている。この考え方に沿えば、川端氏への森博士の反論が喝采を浴びるのも至極自然なものとして捉えられるだろう。“ゲーム脳”に一度投げ出してしまった不安・葛藤・エポケーともう一度握手する勇気を持っている人はそういまい。大抵の人は、“ゲーム脳の妥当性が高いか否か”ではなく“ゲーム脳が不安を葛藤出来るか否か”を優先させるだろう。

 とはいえ、これだけでは「全部ゲームのせい」にするにはまだ薄い。幾ら不安・葛藤をPS2やニンテンドーDSに丸投げしたくても、素人が胡散臭い事を言っているだけでは、“私は正しい選択をしたい”と思っている親御さん達にはスルーされてしまうだろう。廉恥心豊かな紳士淑女に、“ゲーム脳!ゲーム脳!”と(歯をむき出しにして)叫ばせるには、もう一押し必要だ。ところが、“ゲーム脳”にはこのもう一押しが備わっている。即ち、森博士の提示する権威性である。「論文発表」「脳波異常」「医学博士」「日本大学教授」。これらのレトリックは、ゲームに責任転嫁したいと思っているけれども後一歩で踏みとどまっている人の背中を押してしまう。特に、学は無いんだけれども学に権威性や正当性を期待している教育熱心なお母さんなどにとって、“教授の一声”は、ゲームのせいにして良いか否かの迷いを吹き飛ばす効果を持っているだろう。自分で考えて疑わしさを検討する方法も習慣も持たない人間ほど、正しいか疑わしいかの判断を権威任せにせざるを得ないわけで。科学者という肩書きを、森博士のようなゴロツキには与えてはいけない所以である。

「私はよく分からないけど、日大の教授が言っているんだから間違いない」
「医学博士が言っているんだから、間違っている筈ないでしょ!」
と強弁出来る魅力を、“ゲーム脳”は持っている。子育てにまつわる葛藤や不安をゲームのせいにしたいと潜在的に思っている人で、権威を拝跪するしか知らない人達は、これで全滅だろう。

 このように、“ゲーム脳”は、子育てにまつわる不安・葛藤を外在化して解消したい人のニーズに適切に応えている、というか応えてしまっている。不安・葛藤に対する防衛機制、という視点からいけば、投影合理化が組み合わさった形式と表現すべきだろうか?勿論これは、それぞれ単独よりも隙の少ない機制だろうし、だからこそハマりやすく抜けにくいと推定される。“ゲームや携帯電話に不安・葛藤を丸投げしたいと思っている人の潜在的ニーズをしっかりキャッチし、権威性をもって“トンデモっぷりや胡散臭さ”をかき消す事に成功した“ゲーム脳”。消費コンテンツ、という視点で考えた時、これはニッチではあっても強力なコンテンツに違いない。消費者の猜疑心を溶かしながらニーズをがっちり掴み、一度掴んだらもう手放せないのだから恐ろしい。



・葛藤や不安の防衛、という視点から“ゲーム脳”信者の脱会を考える

 では、“ゲーム脳”に思考を差し出し、不安や葛藤を解消している大人達につけるべき処方箋はどのようなものになるのだろうか。“ゲーム脳”が方法論からしてグズグズのトンデモ理論である事を、川端さんのような正攻法で説けば良いだろうか?いや、そんな事をしてもダメだろう。そんな事をすれば川端さんの二の舞は必定、勇気と倫理観は、嘲りや拒否、反動形成によって報われると予測される。

 そもそも、彼らが“ゲーム脳”を必要とし、それにハマってしまうだけの要因が必ずある筈だし、その要因が無くならない限りは解決などあり得ない。明らかにトンデモな理論ではあっても、それを手に取るからには、彼らにとっての(主として心理的な)適応的意義が存在するに違いなく、彼らが必要だからソレやっていると推測するのが筋だろう。防衛の対象となっている不安や葛藤をそのままに“ゲーム脳”信者だけをやめてしまうというのは、解消されない葛藤や不安にモロに晒される事に他ならず、そんな事を奨めたところで強烈な抵抗に阻まれるのは当たり前の話である――唯々諾々と不安・葛藤を受け入れれば、心的ホメオスタシスに対する重大な脅威となりかねないのだから。川端氏の質問に対する森博士の反論に、万雷の拍手が起こったのも、この文脈に即して考えれば了解可能な現象となる。“ゲーム脳”を消費することで葛藤を軽減している人達にとって、「目を覚ませ」と主張する川端氏は、葛藤や不安に再直面させようとする厄介な存在とうつったに違いない(そしてそれを雄弁に否定してくれる森博士は、さぞかし頼もしい存在だったに違いない!)。根っこにある、子育てに関する葛藤や不安が深刻であればあるほど、彼らは“ゲーム脳”を手放す事が出来ない。だとすれば、“ゲーム脳”信者を事実と向かい合わせる前に、色々な下準備が必要ではないかと私は考える。具体的な提案としては、以下のようなものになるだろうか。

 【ゲーム脳を必要とするような、不安や葛藤への対策】
・子育てにおける強い不安や葛藤
 →現代都市空間における子育ては、昔に比べて色々大変な事が多い。文化ニッチの細分化、核家族化、地域社会崩壊を埋め合わせることで、親御さんの負担と不安を軽減させる必要がある。


 【ゲーム脳につけこまれやすくなるような、個人的傾向への対策】
“ゲーム脳”信者となり得る親御さん達の、考える習慣と能力を育成する
 →そんな事って出来るの?現生人類の性能を考えた時、かなり高いパーセンタイルの人はそこまで到達出来ないと私には思えるし、頭が硬くなる年齢になってはどのみち手遅れだろう。よって望み薄。

 これらの両方、または片方を達成出来る個人ならば、その人は“ゲーム脳”信者を脱する事が出来るだろう。逆に言えば、どちらも為し得ない個人ならば、森博士が消えてなくなるまでは信者であり続けるとも言える。残酷なようだが、どちらも為し得ない親御さん達は、森博士が“ゲーム脳”という商品を売り続ける限り、消費し続けるだろう。川端氏のような主張には耳を塞ぎ、インターネットや書籍で真偽を確かめるなんて事は絶対に無い※2。森博士がいなくなれば“ゲーム脳”信者ではなくなるかもしれないが、おそらく、そういう人は第二第三の森博士を発見して、さしたる抵抗も感じずに飛びつくと私は推測する。そして、そういう人は幾らでもいる事は、幾多のトンデモ本が証明しているのである。




・まとめ

 以上、防衛機制という視点に基づいて、“ゲーム脳”が要請される背景等を考察してみた。子育てにまつわる不安・葛藤を防衛するという視点に基づいて“ゲーム脳”を見た場合、“ゲーム脳”は親御さん達の不安・葛藤を軽減する適応促進的な機能を担っており、ゆえに、科学的妥当性を提示した程度では解除する事が出来ないと推測される。不安や葛藤をダイレクトに軽減可能な個人ならば、それらを解消するに従って“ゲーム脳”信者を徐々に脱する事が出来るだろうが、そうでない個人は、“ゲーム脳”信者をやめたところで、第二第三の森博士を見つけてきて崇拝するだけと私は推測する。

 一方、都市化・核家族化・ポストモダン的文化ニッチ細分化の進行に伴い、子育てにまつわる親御さん達の負担と不安は(20世紀中頃などと比べて)顕著に増大しており、かつてないほど親御さん達の内面には葛藤や不安がため込まれやすくなっていると思われる。愚痴を漏らすべき相手も、子育てをサポートする地域社会も縮小した現在、親御さん達の不安とストレスは相当なものに違いないだろう。このような状況下、少々怪しげな“ゲーム脳”の如きサプリメントに飛びついて不安を解消しようとする彼らを、(たとえそれが愚かな行為だとしても)私は責める事が出来ない。

 確かに、“ゲーム脳信仰”は許されざる誤謬だし、森博士のやっている事は詐欺やインチキ宗教に限りなく近いと思うが、“ゲーム脳”に飛びつかざるを得なかった親御さんの心中は察するに余りある。“ゲーム脳”という商品を消費する彼らの後ろ姿は、滑稽でもあり哀れでもある。と同時に、リアルな人間らしさや子育てへの想い、あるいは荘厳さすら感じてしまう私は、果たして異常だろうか?彼らは必死で、でも間違っていて、森博士に拍手をおくっているが、それでも本人のポテンシャルや適応のなかで最善を尽くしているのだ。彼らとて、伊達と酔狂で信者をやっているわけではない。適応を守る為の一プロセスとして“ゲーム脳”におすがりしている事を、私は忘れることが出来ない。おそらく、森博士がいなくなっても、彼らは葛藤を防衛する商品を再び買い求めるのだろう――なぜなら、そういうサプリメントが必要なほどに彼らは葛藤と不安に苛まれているのだから※3。育てられる子ども達にとってはたまったものではないが、葛藤と不安のままに親が破綻を迎えるよりは、それでもマシかもしれない。彼らの蒙を開かせる試みは、今後もあって然るべきだが、“ゲーム脳”というトンデモ理論にすがらざるを得なかった彼らの心的危機や環境的ディスアドバンテージを踏まえた、効果的な啓蒙活動が進められる事を願う次第である。




 ・補足

 今回の“ゲーム脳”騒動を他人事として、悠然と揶揄する人達を2chやはてなブックマークで沢山みかけた(私もその一人である)。しかし、権威に任せきりで科学的妥当性を判断せず、不安・葛藤を解消する為に“それっぽいモノ”を選択・消費する姿は、果たして他人事なのだろうか?人間というのは、不安・葛藤・利害の当事者でない場合は幾らでも客観的になれる生き物だが、不安・葛藤・利害の当事者になってしまうと、滑稽なほど主観と情動に目を曇らされる生き物である事を忘れるわけにはいかない(物書きの川端氏なんかも、よくご存じのことだろう)。“ゲーム脳”信者達をケチョンケチョンにしている人達は、その多くは子育ての非当事者だったと私は推測する。だが、然るべき状況において然るべき不安・葛藤にまみれた当事者となった時、“ゲーム脳”ほどのトンデモはともかくとしても、葛藤の安易な外在化の誘惑に、あなたや私は本当に耐えられるのだろうか?『葛藤や不安の当事者になった時、冷静さや客観性が揺らいでしまう』というのが人間という生物に対する私の理解である。よって、何らかの不安・葛藤の当事者となった時、私達は森博士のような詐欺師に傾倒しかねないリスクを多かれ少なかれ負うと考えたほうが妥当であり、故にこそ詐欺師や似非教祖は通文化的・普遍的に存在し続け、迷う人々を食い物に出来るわけである。悲しい事であり、何とかして欲しい事でもあるが、きっと同じ過ちは永遠に繰り返される。多分、私もやらかすだろうし、現にやらかしているに違いない。適応や生活を守る為に“ゲーム脳”などの抗不安サプリメントを消費する人々。その姿を嗤えばいいのか、尊べばいいのか、嘆けばいいのかはわからないが、少なくとも彼らのやっている事はホモ・サピエンスとして極めてリアルな行動であって、私達の誰もが選択し得るモノだとは言い切れると思う。信者達の営みを、“自分の内面には存在しない異物”として切り離すような態度は、余程自己欺瞞に慣れ親しんだ人でない限りはとれないし、とらないほうがいいんじゃないだろうか。

★どちらにしても、森博士にはご退場頂きたいものです。第二第三の森博士が出てくるにしても。








【※1「医学博士」という権威づけに弱い程度に教育熱心な親御さん達】

 自分の子どもに知恵や知識や学歴を与えなければ“負け組”になってしまうという思いを持つ程度には教育熱心で、にも関わらず親自身がそれほど教育ノウハウに明るくない場合に、最も「医学博士」という権威は重く響くと私は推測する。例えば「医学博士が言うんだから間違いないでしょ?」などという台詞は、教育や科学への期待を持ちつつも、それをブラックボックスのままに盲信する人間でも無い限り、とても吐けるものじゃない。夫が単身赴任で一人で子育てをやっている主婦のなかには、こういう人がまだまだ多いんじゃないだろうか。実際、“思いっきりテレビ”に白衣を着た人や「医学博士」がゾロゾロと登場するのも、それが視聴者に対して効果的な演出だからに他ならない。

 「よく分からないけど、偉い人が言ってるなら間違いないわよ、あたしの直観にピッタリ!」
 教育・学力・思考力に期待しつつもそれを持たない親達は、ここでまでで思考を止めてしまう。

 教育ノウハウをある程度以上わかっている親や、ある程度以上の教育を受けている親は、「医学博士」が張り子の虎である事などとっくに知っているし、日本の教授のなかに不純物が混じっている事もある程度知っている(偶に、それが分からない高学歴者もいるにはいるけれど)。そうでなくても、知的論考に慣れ親しんだ人や、盲信する前に一呼吸置いて考える癖のついている人は、誰が何を言おうとも疑ってみたり多方向から評価を試みてみたりしやすいと推測される。無論、そういう人達においても、不安が強くなれば強くなるほど思考は鈍くなり盲信のリスクが高くなるだろうが、相対的には似非科学を盲信するリスクは低めだろう。





【※2インターネットや書籍で真偽を確かめるなんて事は絶対に無い】

 この現象に関して、デジタルディバイドまたは情報ディバイドの影響だと主張している人もいるが、私はこれを半分程度は退けようと思う。もちろん、デジタルディバイドの影響はあるに違いない。だが、彼らがインターネットを十分駆使出来たとして、葛藤を緩和してくれる“ゲーム脳”というサプリメントを失う為に、グーグルを用いるインセンティブがどこにも無いという事のほうが、遙かに深刻で重大ではないかと思う。繰り返しになるが、防衛機制によって不安や葛藤を緩和している彼らにおいては、インセンティブは「いかにゲーム脳理論が科学的妥当性を持っているのか」ではなく、「いかにゲーム脳理論が、子育てにまつわる己の葛藤解消に相応しい説明を与えるのか」に依っているという事をお忘れなく。

 よって、ゲーム脳理論の科学的妥当性を提示すれば彼らが納得すると思っている人達は、作戦変更したほうがいいだろう。彼らを出鱈目理論から救う鍵は、ロジカルな整合性や科学的妥当性ではなく、感情的・情動的な納得と安定である事に目を向けなければ、事態は好転しないだろう。性差や現在の社会的役割を考えた時、この傾向は、女性、特に論理的思考や科学的妥当性を追求するトレーニングを受けていないような女性において顕著と推測される。科学的に幾ら妥当な反論であっても、不安と葛藤を増すような言説(それも、権威にたてつくような言説)を、彼女達がわざわざ検索してまでチョイスするとは到底思えない。幾らあなたが不安や葛藤を考察する人であったとしても、彼らは不安や葛藤を感じる人だという事を忘れてはならない。少なくとも、それぐらいの覚悟と前提でやらないと上手くいかないと思う。

 敢えてインターネットなど期待するとするなら、子育てに関する不安や葛藤がSNSなどを通じてダイレクトに軽減される可能性などだろうか。根っこにあたる不安や葛藤が減少すれば、“ゲーム脳”に妄想的にかじりつくインセンティブそのものが減じるかもしれず、そうなれば科学的妥当性などに目を向ける余裕も生まれてくるかもしれない。





 【※3葛藤と不安に苛まれているのだから】

 前にもチラリと触れたが、これは葛藤・不安が多い事を意味するだけではない。葛藤・不安に耐えきれなくなる当人の耐久力の低下による可能性も十分加味しなければならない。

{加わる葛藤・不安−葛藤・不安に耐えるポテンシャル}の値が正の数である限り、不安や葛藤は増大する。

 現代都市空間における子育ては、二十世紀中頃に比べれば葛藤や不安の強い営みには違いないと思うが、ミクロなレベルにおいては、個人の不安耐性・葛藤耐性次第である事は忘れてはならないと思う。