・まとめと考察

 では、考察にうつる前に今回観察されたポイントをまとめてみよう。


1.秋葉原における男性客達のファッションのアベレージは向上している。ただし、それは若年者中心の傾向であり、二十代後半〜三十代の男性客は旧態然としたnerd fassionに身を包んでいる者が殆どである。また、カラーを含めた頭髪に対する投資が為されている例は相変わらず少ない。


2.秋葉原の男性客、ことに若年男性客のファッションや髪型などは五年前に比べて明らかに向上している。また、カップルや親子連れで秋葉原に来ている男性客も増加している。ただし、彼らとて銀座や新宿東口に比べると、ファッションのアベレージはかなり低い。また、ファッションの向上とはいえ、身につけている衣服の多くは郊外量販店やユニクロ・コムサイズムなどで入手可能な範疇の服装が殆どで、積極的にお洒落をしようとしている者は一部ビジュアル系のエリートを除いて少ない(また、ポジティブな色合わせ・着合わせはみられない)

3.時間帯によって男性客の傾向に変化がみられる。比較的太陽の高い時間帯には、相対的に若年でファッションスキルが高い男性が多く、カップルや親子連れも多くみられた。しかし、午後三時を回るぐらいから次第に高年齢で昔ながらのnerd fassionを身にまとった、一般に敬遠されがちな容姿のオタクが多くみられた


 このような結果が得られた。いずれも、2000年頃の秋葉原にはみられなかった現象である(なお、店舗による男性客の偏倚は2000年頃の秋葉原にもそれなりにみられたのでこの考察では割愛させて頂く)。では、何故こうなったのか?それを考えるための考察、である。現象が発生するからには必ず何らかの要因が複数重なって存在しているものと思われる。その全てを説明し尽くす事は不可能で、私なりきのモデルを推論だてることがせいぜいだが、早速試みてみよう。

 まず、若年男性客のファッションの向上について。現在秋葉原を歩いている若年男性の全部ではないが多くは、2000年頃の秋葉原を彷徨っていた同年代のオタク達よりも随分とマシに見える格好をしている。しかし、この格好をよくよく観察してみると、地方の量販店やユニクロなどで購入が可能だったり、近頃の「おかあさん」なら子供の為にチョイスすることが可能な衣服が中心であることに気づく。服装の色合いもどちらかといえば消極的で、以前からのnerd fassion同様に、黒や寒色系が目立つ。特に黒系の台頭は著しく、それに僅かばかりの赤やオレンジといったワンポイントが入った衣服が若年男性客には多く観察された。この傾向は、地方量販店の「似非モード化」現象と殆ど合致しており、彼らの服装の出自は丸井でもパルコでもなく、地方の量販店が大半であることが類推される。少なくとも、UNITED ARROWSSHIPSあたりの服のなかでもほのかにエロい服などは全くみられず、類似のポジティブな効果を狙った明るい服装やエロい服装は殆どみられなかった(ちなみに夕方六時の新宿駅東口は、そのテの服装の男性とフレグランスだらけだった!)

 このことは、若年オタク達(男性客、とわざわざ書くのが疲れてきた)のファッションがスキル的にも投資額的にも向上していない可能性を示唆しているように思える。確かに彼らは四年前の同世代オタクよりも見てくれがマシで、いわゆる古典的なnerd fassionからは離脱してはいるのだが、それは彼らがファッションに時間的・金額的投資を増額したからではなく、地域量販店などで手に入る安価な衣類が似非モード化したこと――つまりセレクトショップなどで売っている商品に近い安価な模造品が大量に流通しはじめたことに起因しているように推測されるのだ。今回の秋葉原の若年オタク達の服装と、銀座・新宿で観察された男性の服装を比べれば、その差は一目瞭然であり、時間的・金銭的コストを比較すれば、5年前の秋葉原オタク達と非オタク男性とのコスト差とそれほど相違無いように感じられるのだ。

 また、黒や寒色系が多いという点も、彼らがファッションに対して積極的な運用思想を持っておらず、消極的運用しか考えていないことを暗に示しているように見える(その対極に位置するのが、夕方の新宿で人待ち顔をしている男達の服装だ。実にエロかったり狙ったりしたファッションに満ちていた!)。加えて、積極的な意図が無ければまずチョイスされる事の無い、カラーを丁寧に入れてワックス等で整えた髪型の男性が少ないこともこの事を支持する。

 彼らはおそらく、地域量販店の安価でそこそこ無難な服装を入手している可能性が高い。場合によっては親に買ってきてもらっている可能性もあるだろう。つまり、服装が変わったとて、服飾や容姿に対する姿勢や時間的・金額的投資が増しているとは考えにくいのである。秋葉原に来ているからわざわざ安っぽい服装で来ている可能性も思いついたが、暫く観察したうえでこの可能性は否定した。なぜなら、カップルで来ている男性オタクの服装もまた、同様のものが殆どだったからである!※1

 よって、若年男性オタクに比較的共通してみられたファッションの向上は、彼らが能動的に行った結果ではなく、単に彼らが衣類を入手する店の商品が似非モード化したからに過ぎないと私は推測するのである。なるほど、秋葉原で買い物をするオタク達の服装は向上したかもしれない、だが、彼らのファッションに対する意識――ひいては、ファッションが自分与える影響への意識――自体は何も変わっていないのではないだろうか?

 次に、少数ながらみられた非常に統合度の高いビジュアル系ファッションの男性(彼らは服飾を積極的に取り扱うことに明らかに慣れている)や、セレクトショップ級の服装の男性オタクについて触れよう。彼らは少数とはいえ明らかにファッションに対して時間的・金額的投資を行っているグループであり、秋葉原全体の中では少数派ではあっても、五年前には殆ど見られなかったグループである。彼らは全員が比較的若年の男性客であり、二十代後半以降にはみられなかった。つまり、五年前にはおそらく中学生〜高校生だったであろうとおぼしきグループであり、秋葉原で同人誌などを買うようになってからまだあまり時間が経っていない一群と思われる。そこまでは解るのだが、では何故そんな服装の男の子達が秋葉原なんぞを彷徨っているのだろうか?主要なファクターはこれだと名指しすることはちょっと難しいが、関連している可能性がありそうなファクターとしては、


・数年前から続く、若年者を狙ったブランドやファッションアイテムの台頭。
 小学生高学年〜中学生をターゲットとしたファッション業界の成長がここ数年続いていることによって、小さい頃からお洒落にうるさい子が増えているのかもしれない。 或いは、本人が乗り気ではなくても子供にいい服を着せることに積極的で、なおかつ子供と比較的共通性のあるブランド(COMME CA DU MODEやpolo、ポールスミスなどは親も子供も使えそうな服を扱っているわけで)を好む両親が増えているがゆえに高価な服を買ってもらっているオタクが少しづつ現れてきている可能性はないか?

・美少女恋愛ゲームなどはともかくとして、アニメそのものの敷居が下がって国内のアニメに対する社会的コンセンサスがマシになった影響で、比較的コミュニケーションスキルの高い群のなかにもアニメ・ゲームに傾倒する者が現れてきている可能性?ただし、エヴァンゲリオンの時代にもこれはあって然るべき現象だったにも関わらず、エヴァンゲリオン時代にはそれほど秋葉原でファッションのしっかりした男性がみられなかったことから、否定的かもしれない。

・私自身のファッションに対する考え方がここ五年で変わったことによる、観測者自身のバイアスの変化も考慮に入れるべきだろう。4・5年前、既に私はファッションの改革期に突入しつつあったが、今に比べれば技術的集積に乏しかったことが思い出される。今回の調査に、このバイアスが若干にしても混入していることに読者は留意すべきだろう。

 などなどが挙げられる。

 どちらにしても、主要な根拠としてはなんだか頼りない憶測ばかりである。はっきり言ってわからない。また、数のうえからはまだまだ希少種なので、今回はこれ以上の考察はやめることにしよう。通常のオタクとは異なる擬態に成功している彼らの心理的背景には興味があるが、資料も観察標本自体も少なすぎる。2ちゃんねるのオタク板やファ板あたりで情報収集でもしてみるか?


 最後に、時間による男性オタクの質的変化と、年齢によるファッションアベレージの変化について考える。まず、夕方近くになって急激に所謂“汚いオタク”“冴えないオタク”が増加したことについてはある程度憶測がつく。観測したのが土曜日であることから、彼らの多くはおそらく昨晩遅くまで起きていたのだろう。コミュニケーションスキル/スペックが低劣なオタクは、そうでないオタク達に比べて、元々生活リズムが乱れやすく、旧テレホタイム(夜11:00以降)が活動の主たる時間である可能性は高くはないだろうか。少なくとも、そのような生活リズムの人は、夕方遅くまで街に出てこれないとは言えるわけで。ましてやラグナロクオンラインやFF11などのMMOがオタク達の越冬地になっている実状を考えると、彼らが夜更かししていた可能性は高い。日の高い時間に秋葉原に来ていた男性客に比べて、相対的にではあるが乱れた生活リズムとそれを惹起するようなオタクメディアへの濃厚な接触がある可能性は非常に高いと推測される(私自身も、MMOなどで夜更かしをする日が続くと朝の身だしなみが雑になることを自覚している)。彼らの古典的nerd fassionを見る限り、午前中に他の街で他のジャンルの買い物やデートなどをしていた可能性は極めて低い。起きてから家を出るや、迷わず秋葉原に向かった可能性のほうが期待値が高いと思わずにはいられないのだ。

 なお、夕方になって見かけた男性オタクの中には、若年者でありながらも際だってみすぼらしい格好をしていた者が結構な割合で混入していた。彼らは日中に書けた若年オタクとは明らかに違う、むしろ古典的nerd fassionに近いような、不潔そうな身なりをしていた。私は彼らの姿を見て“これがMMO廃人さんなんじゃないかなー”と勘ぐらずにはいられなかった。

 そして、このような生活をしているオタク(特に、廃人的なまでにMMOをやっているようなオタク)はそうでないオタクよりもコミュニケーションスキル/スペックの拡張が阻害されやすく、それを維持・向上するための努力も怠っている可能性が高い。第一、夜中にMMOやエロゲーをやりまくって昼寝て、夕方秋葉原にノコノコ出てくるような連中に(ファッションも含めた)コミュニケーションスキル向上のチャンスがあるとはとても思えない。容姿や生活リズムから推測するに、夕方になって秋葉原を席巻しはじめたオタク達は、オタク男性の中でも最もコミュニケーションスキル/スペックが低い一群であると私は想像する。

 彼らの古典的なnerd fassionは現在では入手がなかなか難しそうに思えるが、彼ら高齢のオタクの母親(おそらく年齢は50代後半〜60代だろう)が息子の為に購入したがる服装は、似非モード系よりは旧来型のnerd fassionに近いものである可能性が高いとは類推できる。50代後半〜60代の母親にとって、現在の似非モード系の衣服はなお敷居が高い可能性があるし、さらに付け加えれば、20代後半〜30代のオタク自身にとっても敷居が高い可能性も否定できない。年齢的にも社会的な諦念からも、そろそろ脳がお堅くなって変化を嫌う年頃だ。今までと同じnerd fassionからわざわざ変革しようとする事を本人が嫌う可能性は十分高いだろう。場合によっては、母親が似非モード系の服を買ってきてもそれを断っている可能性すらあり得るかもしれない。

 そもそも、現在地域量販店で販売されている似非モード系の衣服は、二十代前半前後をターゲットとしたデザインのものが殆どであり、今回nerd fassionが多数みられた二十代後半〜三十代が着るには少々若すぎる。そして、二十代後半〜三十代の男性がそこそこお洒落になろうとする場合、相当なコストを余儀なくされる選択肢ばかり浮上してきてしまう‥‥彼らがnerd fassionの袋小路から抜けられないのは、或る意味仕方のないことなのかもしれない。彼らのおそらく殆どは1999年〜2000年当時も殆ど同じ格好で秋葉原を彷徨っていた筈であり、それを変化させるだけの動機と機会に乏しかったのだろう。また、コミュニケーションスキルが低劣なオタクの多くが“清水の舞台を飛び降りる”事に消極的であることも、このような不変傾向に拍車をかけていることだろう。これら多種多彩な要因が集まって、彼らをして古典的なnerd fassionに定着させているのだろうと推測するのだ。



 ・おわりに

 以上、秋葉原における男性客のファッションに着目した調査について報告し、若干の考察を試みてみた。秋葉原におけるファッションの変化は確かにみられるものの、それは若年者に限った現象であり、なおかつ彼らのファッションに対する姿勢や考え方は何も変わっていない可能性が示唆された。服飾は向上していても、チョイスの仕方・投資量などは殆ど変わっていないからだ。一方で、比較的高齢のオタク達は表面的なファッションの変化すらみられず、古典的nerd fassionを堅持していることが観察された。これらを統合すると、少なくとも秋葉原に休日やってくるようなオタクは、老いも若きもファッションに対する投資度や注目度では1999年頃と殆ど変化していないという事が言えそうだ。ただし、年齢によって入手しやすい・選びやすい・母親が買いやすい服に違いがあるため、

 若年→似非モード系の氾濫  高齢→古典的nerd fassion

 という見かけの差が生まれているだけなのではないかと想像する。ただし、見た目の違いから先の推論は私個人が想定したものであり、実際にそのプロセスを確認してまわったわけではないので自信の無いところが残る。ああ、COMME CA DU NERDが健在でODN氏に質問することができたなら!

 ともあれ、高齢世代オタク/若年世代オタクの服飾の差異はコミュニケーションスキルの差異にも直結する可能性がある、幾らかだが。ゆえに、このことを小さな違いとして無視することはできない。実際、彼女連れや親子連れでゲーム屋を覗いているそれらしい男性などを見ていると、彼らの多くは若く、そして古典的nerd fassionではない容姿をしていた。理由がどうあれ、古典的nerd fassionをいつも身につけているオタクと似非モード系の衣服をそれなりに清潔に身につけているオタクでは、コミュニケーションシーンにおける成功率やコミュニケーションスキルを上昇させる機会にありつく確率が大幅に違うのではないか。加えて似非モード系の服装を身につけているような、若いオタクのほうが、脳が柔らかくて新しいことを呑み込んだり変化についていくのも素早い。

 この事を考えると、高齢オタク達は若年オタク達に比べると著しく不利な環境にあることが推定される。彼らは、新しい趣味世界に旅立ったり新しい出会いを創出したりする為のコミュニケーションスキル/スペックも脳の可塑性もほとんど失いかけているのではないだろうか?若年のオタク達には様々な変化のチャンスがあるけれども、高齢の“置いてけぼりをくらったオタク”達は変化のしようがないのではないだろうか?黄昏時の秋葉原でエロゲーを渉猟する彼らに、私はどこか哀愁を感じずにはいられなかった。※2

 既にエヴァやナデシコの時代は終わり、1990年代に一部のオタク文化論者がほざいていた『男性オタクが新しい市場を形成する』が見当違いだった事が殆ど明らかになりつつある昨今、元気の無い美少女ゲーム市場をなおも彷徨い続けなければならない(しかも、そうすることが多彩な娯楽の選択肢のなかの一つではなく、少数の娯楽のなかの一つ)というのはさぞや辛いことだろう。彼らの多くが現在はMMOに越冬地を求めていることが推測されるとはいえ、MMOは所詮コミュニケーションという名の御馳走のバーチャルリアリティに過ぎない。バーチャルリアリティ――文字通りの仮想現実――だけでは、おなかは十分には満たされないことは自明である。彼らの未来はどうなっていくのだろうか?今回の調査から浮き彫りになった高齢オタク達の相も変わらぬ姿からは、将来の彼らの行く末が暗夜行路(それも、先に進むほど狭くなる)であろうことを予感させる。いやいや、これは私の思いこみであって外れていて欲しいのだが

 失礼、少し話が逸れかけた。ともかくも、2004年と1999年の秋葉原には変化したところと変化しなかった点がある事はご理解いただけたと思う。そして、このような現象について、私がどのような憶測をたてているかも(納得して頂けたかどうかはともかく)理解はして頂けたかと思う。このレポートは一人の人間によって行われた単一の比較調査に基づいており、discussionも私一人で行っているため、おそらく穴や問題があることだろう。私はこの問題について今後も調査を続けていく事が望ましいだろう。また、他の論者の意見や他の調査者の報告も採り入れてさらに議論を深めることが望ましいだろう。さらなる調査・研究が他の論者によって行われることを切に願うものである


 →ひとつ前の記事に戻る(緒言、方法、結果についてもう一度見直す)

 →もののついでに、2004年春・秋葉原ファッションを眺める







 【※1同様のものが殆どだったからである!】

 とってもかわいい女の子を連れたオタク達が、メッセサンオーやラオックスソフト館に入っていく。そこには何の抵抗感も躊躇いも観察されない。最近はパソコンを流暢に扱う女性やホモ(ボーイズラブ)系も含めたオタク趣味に傾倒した女性も増えていることから、秋葉原に来ることに抵抗のない女性オタクもそれなりきに増えているだろう。彼女達の殆どは服飾に全く手抜きをしておらず、新宿などで見かける子とそれほど大きな差はみられない。ただ、主張の激しくない若干控えめの服装やビジュアル系の女の子が多い傾向はみられ、その辺りに男性オタクの服飾との微かな相似性は感じ取れるかもしれない。

 秋葉原とはいえ、きれいな女の子とデートの時には普段着よりは良い服を着ていくのがまともな男性心理というものだろう。そのようなオタップルの男性でさえ、地方の量販店で売っているような服装や靴・ショルダーバッグを皆が皆装備しているのだから、普段の格好は推して知るべしだろう。

 私は、これら秋葉原のオタップル男性の観察を根拠に、彼らの服装が秋葉原に来ているから特別に手抜きというわけではないことを類推するわけである。もし彼らが秋葉原だから劣った服を特別に選択しているならば、わざわざ劣った服を選ぶ事が出来ないオタップル男性のファッションアベレージだけが突出して良い筈である。だが、そうではない、というわけである。





 【※2どこか哀愁を感じずにはいられなかった。】

 それは偏見だ!と仰るかもしれない。

 望むところだ。

 そもそもが、一目見て感じる偏見というのは、典型的な視覚的・状況的バイアスの集大成であり、彼らの見た目や猫背な姿勢や居場所が私をそういう偏見に導くわけである。もちろん、私の視点や価値観もこのバイアスの形成には大きく影響しているだろうが、同じような偏見は若いオタク達や私が大切に思っている身内のオタクには感じないわけで、違った何かをやはり私は嗅ぎ取ったのだろう。

 ここでは彼らが実際に哀愁を感じているか否かは問題とはしておらず、私が彼らにばかり特別に哀愁を感じたという点に着目してこう書いている。偏見?そう、彼らが偏見を惹起するような見た目を呈していた事を、ここではまさに問題にしているわけである。