・Bさんのフリーター時代


  フリーターになった私は、バイトを変えることにした。
 この頃には、私は自分が他人とのコミュニケーションが苦手なことを自覚し、
 コンプレックスを持っていたので、これを改善できるようなバイトをしたいと
 思ったからだ。

  私は、文房具屋の販売員をバイト先に選んだ。仕事は楽しかったが、1週間
 後、突然クビを言い渡された。納得できず理由を聞いてみると、「キミは販売
 向きではないから」との答えが返ってきた。これは、バイト先メンバー全員の
 一致した意見であるらしい。

 「そんなことは、自分でもわかっている!だからこそ、改善したいんだ!!」
 そう訴える私を、店長の言葉が叩きのめした。
 「そういうのって、生まれつきで治らないんだよ。もっと自分に向いた仕事を
 探しなさい。」

  私は、ショックで3日ほど寝込んだ。なんとか気力を回復した私は、店長の
 言葉通り、自分に向いたことをすることにした。当時、私が自分に向いていると
 思っていたことといえば、ゲームしか思い浮かばなかった。

  そのころ、「怒首領蜂(シロクマ注:こんなゲームです→)」というシューティングゲームが
 行きつけのゲーセンで盛り上がっており、もの凄いスコアをたたき出す連中が
 プレイしていた。こういった人種を、一部では「スコアラー」と呼ぶ(カッコよさげ
 な名前だが、早い話がシューティングゲームオタクである)。そのプレイに魅せ
 られた私は、自分も「スコアラー」を目指すことにした。ちょうどそのころインター
 ネットに初めて接続した私は、掲示板でハイスコアの情報交換を始めた。
 そして毎日ゲーセンへ通い、ハイスコア研究に没頭した。

  約半年後、私はあるゲームで「全一」(全国一位のスコア)を獲得した。
 このことにより、私の名前はスコアラー界で、多少は知れた存在となった。
 ゲームを通して、スコアラーの友人もできた。嬉しくなった私は、バイトもせず、
 ますますこの世界にハマッていった。金は、初めはバイト時代の貯金を切り
 崩していたものの、足りなくなると親にせびった。今でいう「ニート」だったのかも
 しれない。

  この頃、母がガンで倒れた。しかし、私はろくに見舞いにも行かなかった。
 ゲームに夢中で、見舞いどころではなかったのだ。それほどまでに、ゲームで
 認められたことは嬉しかった。全一をとってしばらくしたころ、母は他界した。
 見舞いに行かなかったことに対する後悔は、なかった。






 ・Bさんのゲーム専門学校時代

 ゲームの世界で自信をつけた私は、ゲームプログラムの専門学校に入学した。20歳の春だった。

 ゲーム業界就職率90%以上という触れ込みだったが、実際には5%もいれば良いほうだった。ゲームに対する情熱に溢れた生徒がたくさんいると思っていたが、地方から「東京ならどこでもいいから」とやってきている者がほとんどだった。彼等は、全くやる気がなかった。

 もはやゲーム以外の世界では生きられないと思いつめていた私は、この事実に強いショックを受けた。「このまま普通に学校へ行くだけでは、就職なんてできっこない!」強い危機感を持った私は、必死で勉強した。毎日夜8時過ぎまで学校に残って作品を作り、家でもプログラムばかり書いていた。我ながら、よくやったと思う。プログラミングの作業はパズルゲームのようで楽しく、私には向いていた。

 放課後と土日には、スコアラー活動も続けていた。ある程度の人脈を構築できたが、結局はゲームでしか繋がっていない関係だという不満も生まれてきていた。

 努力の甲斐あって、2年後の卒業時には、小さいながらもゲームを開発する会社に入ることができた。「努力は報われるのだ」心の底からそう思った







・ゲーム開発会社時代 1年目

 ゲーム開発会社での最初の1年間は、順風満帆だった。自由な社風で会社は楽しく、仕事も順調だった。小さい会社でプログラマは2人しかいなかったので、最初からそれなりに責任ある箇所を任された。

 私は仕事をこなしつつ、空いた時間で自分の作品を作った。完成したらコミケで売ろうと考えていた(結局完成しなかった)。2日に一度は会社に泊まっていたが、好きでやっていることだったので、つらくはなかった。

 土日はゲーセンでスコアラー。本当に、楽しい時代だった。(つづく)




・Bさんによるこの時代の総括

 オタク全盛時代。「全一」と「ゲーム会社への入社」という2つの成功体験を通し、私は「努力すれば、大抵のことは叶うのだ」ということを実感として知った。このことは、現在に至るまで私の大きな財産となっている。この時代は私にとって、決して無駄な時間ではなかった。

 しかし対人関係に関しては、相変わらず自信を持てないままでいた。この頃には既に一般人と付き合うのはあきらめ、一生ゲームプログラム技術一本で食っていってやろうと、固く心に決めていた。文房具屋の店長の言葉は、ずっと頭から離れなかった。






 シロクマ注:

 コミュニケーション上の問題を意識し、それを改善させる為の方法として選択したバイトにも関わらずダメ出しをされてしまうという悲劇。Bさんに限らず、例えばコミュニケーションスキル/スペックが低劣な状態のオタクから、コミュニケーション可能なオタクへと変わっていこうとする時、遅かれ早かれ痛烈な一撃をくらうものですが…これは惨すぎます。「生まれつき」という言葉は、半分当たっていても半分間違っている言葉ですが、当時のBさんには、あまりにも厳しい言葉です。

 そしてBさんの適応戦略は大幅に変化します。“コミュニケーションスキルの増進が見込まれないなら、そんなものが大して要らない世界に行けばいい”。これは、有る意味理に適っていますし、だからこそ、多くのオタクの適応戦略はむしろ適応的だとすら言える部分があります(長期的に、となると話は別かもしれませんが)。そして彼には『ゲームの腕』がありました。“あるゲーム”で全一スコアが出せるということは、アーケードゲームオタクの中では大変なステータスであり、ここまで登り詰めると自然と人が集まります。今までになかった、沢山の会話と自尊心の回復、全一プレイヤーとしての自己実現…母親を見舞わなかったのも無理はありません(いつか、この事がしこりとなる可能性があるかもしれないけれど、それはまた別の物語でしょう)

 ここに来て、彼は完全に“コミュニケーションスキルが低劣なオタク”となりました。しかし、彼はその道のトップエリートとなり、その世界では十分な自信とコミュニケーションを体験しました。それだけではありません。明確な危機意識と必死な努力のもと、きっちりゲーム会社に就職しています。これも、Bさんのペシャンコな心にプラスの効果をもたらしたのではないでしょうか。危機感を持った時、努力できるということ。私はここに、症例1のAさんと共通する強さを感じずにはいられません。だからこそ、コミュニケーション上の劣勢を後日挽回出来たのでしょう。『脱オタ』という単語に焦点をあてるなら、この時代の幾つかの達成は遠回りのようにみえます。が、Bさんの人生行路全体からみれば、欠くことの出来ない時代だったのではないでしょうか。より深くオタク趣味にのめり込んだ時代ですが、この時代における達成がなければBさんは次の『脱オタ』ステップに挑めなかったかもしれないわけで。


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 ※本報告は、Bさんのご厚意により、掲載させて頂きました。今後、Bさんの御意向によっては、予告なく変更・削除される場合があります。ご了承下さい。