編集家・竹熊健太郎さんのウェブサイトで、「フジでオマイラキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」という記事を拝見した。この記事において竹熊さんは、「才能無き者が無いままにクリエイターとして突き進んでいくこと」に関して色々なことを書いている。自分にそれほどの才能や情熱が無いにも関わらず、オタク趣味ばかりにエネルギーを差し向け続けたまま、いい歳に来てしまった人がどうなるのかについても、フジテレビ「プレミア5」の放送内容と合わせて解説している。とても面白い内容なので、まだ読んでないオタクさんは是非一度読んでみて欲しい。

 それはそうとして、この記事を読んで私が思い返したのは、「そういえば最近、オタク仲間と話をしている時に、オタク中年化問題が話題になることが多いなぁ」ということである。ある程度オタク界隈に詳しい人と話をすると、なにかしらの形でオタク中年化問題が話題に出ることがある。このテキストでは、オタク中年化問題について少し考えてみたい。



 ・かつて大量生産された1970年代生オタク世代が、高齢化していく

 現在のオタク文化・オタクコンテンツ消費を支えるメインの年代層として、私は1970年代生を無視することが出来ない。彼らは東浩紀分類で言えば第二世代オタクにあたり、団塊ジュニア世代をほぼ丸ごと包んでいる。この世代は、思春期の入り口から既に「ナウシカ」「あだち充」「高橋留美子」を享受してきた世代であり、ファミリーコンピュータも、小学生ぐらいの頃から触れ始めていた筈だ。ゲームオタクであればゲームハードウェアの、美少女コンテンツオタクであれば美少女コンテンツの、それぞれのオタク分野の発展と自分自身の思春期の進行が平行して進んだ、オタクとしてはある種幸福な世代だったと言える。そして10代後半〜20代のうちに、あの記念すべき1995年――windows95革命・エヴァンゲリオン・第一次萌えブーム――を迎え、終わらない熱狂のうちにオタクとして生きてきた、生きてこれた人達である。

 だが、そんな彼らもいよいよ30代前半から20代後半を迎えるわけだ。オタクコンテンツの加速と平行して生きてきたこの世代のオタクは、発展するオタクコンテンツを消費し続けてさえいれば毎日を文化祭のように生きていくことが出来たし、モラトリアムな年代に留まっている間においては、確かにそれは優れて適応的な営みだった、と言える。オタク趣味に関連した交際や愉しみの外側で強い疎外感を持っていようとも、自分自身の人生のステップなどという考えから逃げ回っていようとも、オタクコンテンツは彼らを暖かく出迎えたし、オタク文化の拡散と発展に自らを同一化させれば、それらの問題から目を逸らせることも出来た。しかし、そのようなオタク的処世術は、三十路も半ばを迎えたオタクにも通用するものなのかというと、そうではない。こちらでも書いたが、いつまでもモラトリアムを続けているわけにはいかないのである。少なくとも、モラトリアムを続けることはだんだんに難しくなっていく。オタク趣味をクリエイター気取りで続けながら、ろくに収入源を持たないでフラフラしていた人・定職は持っていても自意識の備給やアイデンティティの確保をモノカルチャーなオタク趣味一点に絞って生きてきた人といったグループは、いよいよ苦しくなってくる筈だ※1

 勿論、オタク趣味以外にも人生の愉しみや、アイデンティティの仮託対象、交際分野といったものを複数持っている人なら大した問題にはならない。だが、オタク趣味以外に人生の愉しみやアイデンティティの仮託対象を持たない人というのがこの世代のオタクには沢山いる。角川がメディアミックス戦略を常套手段とし始めた頃からいよいよオタク趣味の敷居が下がっていったこともあって、他に生き筋が無いから唯一の選択肢としてオタクになった人達が1970年代生のオタクには沢山いる(1960年代生以前のオタクには、そんな人はあまりいないかもしれないにせよ)。そして、消費コンテンツとしてのオタク趣味の側もまた、そんな彼らを懐深く許容してきたわけである。他に生き筋が無い人にも自己実現の甘い蜜とクリエイター気分を味わうチャンスを与えてくれるオタク文化圏は、確かに彼らの心的ホメオスタシスを守ることに貢献してきた。だが、そんな人達だからこそ、オタク趣味の井戸に一度落ちたらaddiction(依存)を形成してしまうし、複数の生き筋を開拓する能力を発達させることなく思春期を食い尽くしてしまう。加えて、こうした心的傾向によく通じた(または、こうした心的傾向を共有した)オタクコンテンツ提供者達が、彼らを一層メープルシロップ漬けにするようなオタクコンテンツを提供し続けるので、現実逃避したいオタクが井戸の外を直視するのは極めて困難となっている。だが、そうこうしているうちに彼らは、自分達が「おっさん」になっていることにはたと気付かされるのだ。美少女コンテンツと向き合う時のこの気怠さは何なんだろう、鏡にうつる自分の姿は何なんだろう、そして、俺の人生はどうなっていくんだろう、と。

 オタクとて歳を取ればとるほど、自分の思春期が何だったのか、ここまでに積み上げてきた結果が何なのかに直面させられる機会というのは(社会的にも、気持ちのうえでも)増えてくる筈だ。その時、オタクコンテンツを蕩尽することしか能が無かった人や、オタククリエイターを気取りながらも怠惰のままに何も為さなかった人というのは、相当に追いつめられてくるのではないだろうか。終わらない思春期なんてものは存在しなかったのだ。思春期に終わらせるべきを終わらせないままに、1970年代生のオタク達の思春期は終わってしまった!否応なく、容赦なく、思春期は終わってしまった。しかし、オタク趣味のトンネルのなかで楽しく過ごしていたオタク達はそのことが気付かなかったし、むしろ気付くことを避けてさえいたわけだが、もう時間切れの時は近いか、時間切れになってしまった。永遠の文化祭は、現実の側からいよいよ侵食されつつある。

 それでもなお美少女フィギュア等に囲まれて十分に幸福な気分でいられる個人というのは、逆に物凄く強い人だは思うが、オタク趣味を逃避手段として用いていた人や、クリエイターを目指すと口にしながら易きに流れただけの人においては、そんな強い人は稀にしかいないように思える。なかには、防衛機制の権化となって歪んだ認知のもとに「それでも俺はクリエイターだ!悪いのは俺を世に出さない世間だ!」と口走るかわいそうな人も出るかもしれない。



・オタクコンテンツ消費者の中年化がもたらすもの

 これからの時代、中年化した1970年代生のオタク達の葛藤はいよいよ凄絶を極めてこよう。とりわけ、これまでオタク趣味によってかろうじて心的ホメオスタシスを保っていた人・オタク趣味以外に心的ホメオスタシスを保つ手段の無かった人・永遠の思春期にしがみついて現実の自分から目隠ししなければならなかった人、というニュアンスの強い人は、自意識なりアイデンティティなりに関連した途方もない苦しみ――それは、今まで目隠しされて、夏休みの宿題のように先延ばしされてきた宿題なのだが――に直面することになる。オタクコンテンツが、彼らを現実から遠ざけるよりしろであった度合いが強い人ほど、彼は現実に手厳しく復讐されるに違いない

 さて、1970年代生のオタク達がこうして現実と思春期の終わりに遂に絡め取られはじめた時、マクロのレベルでは一体何が起こるだろうか。

 ひとつには、オタクコンテンツの変化、というものが想定される。より一層遠くまで逃避するコンテンツ、または現実への筋道を曲がりなりにも直視しはじめたコンテンツがオタク達においても流行しはじめるだろう。後者に関しては、その萌芽は『涼宮ハルヒの憂鬱』『この青空に約束を』などにも現れているのかもしれない。だが、惑星開発委員会の善良な市民さんが既に述べているように、それはより若い世代の、より広い範囲を対象としたコンテンツの流行に比べれば“重い腰をやっとあげた感じ”の否めないものとはいえるだろう。また、コンテンツの消費者とクリエイターの双方が現実に倦み疲れてくれば、オタク文化圏全体の元気というものが失われてくるかもしれない。

 これと関連して、1970年代生の中年的物憂げさが、もっと若い世代の漫画・アニメ・ゲーム制作者達に毛嫌いされるだろう、ということも容易に想像がつく。自意識と現実から逃げ回った挙げ句に追いつめられた中年達を、若い世代はどのように眺めやるだろうか。何を思うだろうか。漫画もアニメもゲームも、1970年代生のオタク達だけのものではない。中年オタク達の行く末は、より若い世代のオタクコンテンツクリエイター/コンシューマの双方に、様々な省察材料を与えるに違いない。

 そしてより真面目な、より深刻な問題としては、「心に余裕が無い中年オタクが社会に溢れる」という構図をどうするのか、という問題がある。勿論、これはオタク趣味分野だけでなく、「クリエイター気取り」を許してくれる諸文化圏もひっくるめての話で、夢売り商売をやってきた人達と夢を買って生きてきた人達の共犯関係の絶望的終末をどうするのか、という話である。1970年代生まれは、バブルの影響でフリーターやら自分らしさやらに幻惑され、就職超氷河期によって辛酸を舐め、オタク趣味分野以外の様々な文化圏においても“夢を訪問販売されては買ってきた”世代である。オタク趣味分野だけでなく、様々な分野において、類似した問題は起こっているだろう。このテキストでは、あくまでオタク趣味分野を中心に書いたけれども、これは同世代のオタク達だけの問題ではなく、同世代全般にある程度言えることだと私は考える。コンテンツや夢にすがらざるを得ない現実を生き、故にこそコンテンツや夢にすがったというのは十分に同情可能だとしても、やはり現実は追いかけてくる。現実は酷薄だ。

 「文化祭も夏休みももうお終いだ。ギターを片付け、漫画を畳んで、現実を視ろ!」

 彼らにこう言ってみせるのは簡単だ。だが、言っても彼らを苦悶させるだけなので、言えば良いというものでもなさそうである。「ギターを片付け、漫画を畳んで、現実を視ろ!」という言葉を与えて間に合う時点を、彼ら中年オタク(や中年夢追い者)はとっくに通り過ぎているし、彼ら自身もその言葉を既に何千回も反芻しているのだから。また中年予備軍として控えている20代後半のオタク達においても、単刀直入のアドバイスはもはや届きがたくなっているだろう。こういった満たされない中年世代達が、コンテンツを求め、それ以上に自意識の癒しとアイデンティティの欠片を求め、思春期を懐かしみながら生きるという社会※2。彼らに対して効果的な処方箋はあるのだろうか。すべては手遅れなのだろうか。もし処方箋が無いとしたら、どうやって向き合っていくのが適切なのだろうか。

 オタク中年化の時代が、いよいよ来る。既に見受けられる事例は先駆けでしかない。本命は、1970年代が三十代半ば〜四十代にさしかかってくる2010年〜2015年頃だろうか。オタク達個人は、社会は、そうした時代への準備を済ませているのだろうか。思春期ゾンビとでも言うべき人々(または自分自身)との対峙を想定しているだろうか。中年の波は、すぐそこまで来ている。もうあなたの背中まで来ている。


 ※このテキストに関連して、オタク中年化を話した人達にspecial thanks:善良な市民さん加野瀬未友さんid:i04さん ありがとうございました。





【※1いよいよ苦しくなってくる筈だ】

 念のため書いておくと、いよいよ苦しくなってくるのはオタク趣味界隈に限ったことではない。美少女オタクコンテンツやアーケードゲーム、同人界隈といったオタク趣味分野だけでなく、音楽分野や演劇分野などでも類似した問題は起こっているし、むしろ音楽分野では人数的には小規模かもしれないにせよ、少し先行する形で問題が発生している。

 要は、クリエイターごっこを仕事として諦めきれないままフリーター・ニート等を続けてズルズル行ってしまって、才能も研磨されないまま凡庸にまとまってしまった中年愛好家が沢山いるジャンルでこうした問題が起こりがちなわけである。そして、オタク分野というジャンルで今まさに、この手のクリエイターになり損なった中年愛好家達が顕在化していくだろう、と予測するのが本テキストである。



 【※2思春期を懐かしみながら生きるという社会】

 言うまでもなく、思春期を懐かしみながら生きる中年、という構図は、当人にはあまりリソースが無い状況を前提としている。仕事や家庭で充実している三十路の男性が、思春期を懐かしむことしかないということは殆どあり得ない。仕事だけでなく、コミュニケーションや男女交際の面でも21世紀は格差な社会になっているわけだが、基本的に、今回問題になるような中年オタクや中年クリエイター気取りな人達は、基本的には、自意識やアイデンティティの面だけでなく金銭やコミュニケーションの面でも貧しい基盤しか持っていないと想定される。よって、「金銭を支払えばどうにかなる自助努力」を彼らに提案するのは現実味を欠いている、と私は考える。支払うべき金銭やリソースを持たないからこそ、彼らの問題はいっそう深刻になるだろう。

 件のフジテレビの番組に登場した「ネットカフェに寝泊まりするオタクっぽい男性」というのは、確かにテレビ受けするタレントだった。だが、そういったタレントがある種のステロタイプとして視聴者の想像力を刺激するという事実を私は軽視することができない