・本文に入る前に

 このテキストは、30歳を迎えたオタクさんや、遠からず30歳を迎えるオタクさんを主な対象として書いてみたものである。

 まず断っておきたい。

 このテキストは、あなたに快適さを提供するとは限らない。ひょっとしたら、不快さと、苛立ちと、拒絶さえ呼び起こすものかもしれない。もし、あなたが、自分のやっている事と願っている事にギャップが極端に強い人だったり、ご両親から結婚の話を聞かされるたびに「結婚する気はない」と言うことすら出来ずに突沸する人だったりした場合、このテキストは良くも悪くも刺激の強すぎる代物だと思う。だけど、将来の自分自身のビジョンに何らかの展望を抱きたいと思っている人や、抱かざるを得ないと思っている人は、ご覧になってみるのもいいかもしれない。


・そろそろ、30を超えたオタクさんが増えてきましたよね

 孔子は「三十にして立つ」と言い、「四十にして惑わず」と言った。

 団塊ジュニア世代がほぼ三十路を迎えた今、オタクコンテンツ消費者の人口的中核は三十代にさしかかろうとしている。1970年代前半〜後半に生まれ、格闘ゲームブーム・ビジュアルノベル黎明期・エヴァンゲリオン・WINDOWS95あたりをリアルタイムで経験したオタク世代は、大体が三十前後になっている筈で、そろそろ人生の曲がり角に来たと体感させられている人も多いことだろう。学生時代以来、あなたはオタク仲間とかけがえのないオタクライフを過ごしてきたかもしれない。社会人になってからも、コミケ詣でだけは頑張って欠かさずやってきたかもしれない。私はそれを素晴らしいことだと思う。『げんしけん』に匹敵するようなオタクコミュニティのなかで醸成された思い出が十分に有意義で、今もなお固い友情が残されるというのなら、掛け値無しに良いことだと思う。

 さて、問題はこれからである。あなたは三十路に突入するか、既に突入したのだ。三十にして立ち、四十にして惑わず。四十になったら男は自分の顔に責任を持て。色々言われるお年頃に、私達はなっちゃったのだ!

 耳を塞ぐな!

 もう一度言う。あなたは既に三十路か、既に三十路に突入しつつある。もう、ソフマップの前で徹夜するのも堪える筈だ。シューティングゲームをやれば目が霞み、エロゲー射精野郎も性機能の衰えに愕然とする年頃だ。じき、加齢臭も襲ってくるだろう。オタクとしての青春時代が楽しかったことは間違いないにせよ、人はいつまでも思春期でいられるわけではない。人は変わっていくものだし、変わっていかざるを得ないものだ。アニメに感情移入する自分が変わらなくても、あなたを見る目・あなたの社会的ポジションは変わっていく。あなたはこれから(または既に)三十路男という立場に置かれ、その評価軸のなかで娑婆を生きていかなければならない。

 一方、あなたの処世術なりあなたの脳の軟らかさなりは、良く言えば安定した、悪く言えば変更のききにくい、堅固なものになりつつある。十代〜二十代前半の多感な頃には、もう戻れない。あなたがその頃にやっていた事や、これまで続けてきたことを土台として、あなたのコーピング(処世術)は急速に固定化しつつある。少なくとも、脳の柔軟さは失われつつある。今の自分の社会適応なり、公私両方を含めた生活なりに満足を感じていて、なおかつこれからも満足出来そうなオタクさん達は幸いだが、そうでないオタクさんは、間もなく終電のベルが鳴り響くことを知らなければならない(もしくは終電が出発してしまったと知らなければならない)。もし、あなたが今現在の生き方と理想の生き方に甚大なギャップを抱えていて、理想の生き方に車線変更したいという執着なり未練なりを残しているとしたら、もう残された余地は僅かか、もしかすると限りなくゼロに近いかもしれない事を認識しなければならない。

 このように、
1.三十路に入って求められる社会的要請、あなたに対する周りの目の変化

2.加齢変化に伴う処世術の固定化

 がいよいよあなたにふってかかるのだ。

 三十代前〜三十代後を迎えるにあたり、あなたは思春期男性としてのモラトリアムをいよいよ許されなくなってくる。社会人になって間もない頃や学生時代には問われなかった事も、これからは問われやすくなる。思春期のうちに身につけておいて然るべき諸々や、三十路に入った頃には突破していると期待されるであろう諸々を、いよいよ問われるようになりはじめるのだ。たとえ自分は若者を気取っていても、周りの評価や視線は時間とともに変化していく――あるいは既に、あなた自身も周囲の視線の変化を感じ始めているかもしれない。モラトリアムを永遠に続ける自由ももちろんあなたにはあるが、娑婆はそんなあなたを冷たい風で一撫でする。あなたは生物学的だけでなく、社会的にも加齢していく存在である

 むろん、モラトリアム終焉などというものは近代産業社会以降の固定観念だと斬って捨てることは、不可能ではない。しかしそのような斬り捨てが可能なのは、実にモラトリアムを斬って捨てられる人だけであり、近代的な価値観やライフスタイルを超えて十分にオタク仙人になれるような少ない人達だけであろう。勿論、執着や未練の強い人にはそれは不可能な事だし、社会的な加齢を前提として現前する諸システムからの圧迫に喘ぐような人にも無理な事だろう。超克だ否定だとシュプレヒコールをあげるのは簡単だが、一人のオタクが“三十路の圧迫”から逃れるのは言うほどラクではない。




 ・で、あなたはどうするんですか?(1)仕事編

 このサイトでは、オタクはオタクでも、色んな人から侮蔑されがちなオタクの社会適応を考えてきた。様々な人から侮蔑されるという現象は、(性格や先天的傾向も含めた広義の)コミュニケーションスキル/スペックの不足に由来することが多く、スキル/スペック不足のために歯がゆい思いをしてきた人に対しては「脱オタ(という名のスキルアップ・スペックアップ)」を薦めてきたわけだ。もし、あなたが対人コミュニケーションにまつわるスキル/スペックの不足を感じていないなら構わないが、もしあなたがコミュニケーションスキル/スペックに不足を来したまま三十路を迎え、しかもその事に悩んでいるとしたら、さてこれからの世渡りはどんなものになるのだろうか。オタク趣味の有無はともかく、あなたがコミュニケーションスキルに乏しい人だとしたら、そろそろ仕事上、厳しくなっていくのではないかと思う。とりわけ、コミュニケーションがそれなりきに要請される、今日日の職場においては。

 仕事で求められるコミュニケーションスキル/スペックは、女の子受けする為のソレとは異なるので、例えば女の子受けしそうなプライベートファッションを推進する必要などはあまり無い。だが、年齢的にはそろそろ人を使う事を覚えていかなければならない年頃であり、偉い人と会合することも少しづつ増えてくるなか、あなたはその手の様々なTPOを問われるようになってくるだろう。本当に孤独なプログラム仕事だけの人なら良いが(今日日、そんな仕事がどの程度存在し、そんな仕事に従事する人間が本当に使える存在なのか疑問だが)、そうでない大半の男性の場合、世間知を踏まえた振る舞いなり歳相応の諸々なりを求められることになっていくのは避けられない。

 コミュニケーションなり世間知なりを求められる度合いが低い元々職種に就職し、特に“使われるだけの立場”に甘んじていた人で、しかもプライベートでもコミュニケーションスキル/スペックをあまり求められないオタク界隈から出なかった人は、三十路以降にどのような適応を職場で維持していくのだろうか?オタク界隈の狭い井戸の外を見ず、男女交際をはじめとする非オタクとのコミュニケーションを無視した生活は、一般的には、対人コミュニケーションスキル/スペックを補うには向いていない。そんなオタクライフを過ごし、且つ対人関係のノウハウを蓄積させる事が難しい職種の場合、その人のコミュニケーションスキル/スペックが発展しないどころか、退化すらしかねない。コミュニケーションをメインとしない職種についている人でさえ、三十四十男に問われるものは一丁前に問われてくるとは推測されるのである。とにもかくにも、世間を泳いでいく為の諸々は、おそらく三十中盤〜五十ぐらいまでの男性に今後も鋭く問われていくことだろう。

 ちなみに、私の見知ったオタク仲間の多くは、職場でそろそろ偉くなりはじめたり、モノを教える立場に回ったりしても案外上手くやっているように見える。異性との交際に関しては“一生十六歳”のままの人であっても、同性同士のやりとりや、職場における人間関係・マナーなどは年相応にマスターしてきているからだろう。また、オタク界隈以外の人間とオタク趣味以外の接点を持つ事に馴れているからだろう。幸い、最近の職場では三十代独身男性がとりわけ目立って浮いてしまうことは少なくなってきており、既婚か未婚かという視点で三十路男が差別される度合いは比較的少ないに違いない。

 仕事の面においては、仕事を続けてきたことの蓄積や経験や(その職種における)常識、そして上の立場に立ったり教える立場に回ったりといったことが三十路男達には要請されるだろう。勿論、オタクといえどもそうした要請に応えられるかどうかは常に問われてくる、というわけである。なお、それらは必要条件を満たすに過ぎない要請であり、“もっと凄く”とか“もっと偉く”とか考えている人は、様々なプラスαをも必要とすることは断っておく。




 ・で、あなたはどうするんですか?(2)恋愛・男女交際編

 オタク趣味に邁進してきた人で、とりわけ異性とのコミュニケーションに疎い男性諸氏にとって、恋愛やら結婚やらといったものはデリケートな問題に違いない。まして、性的欲求を目の大きなアニメ美少女で備給することが日常化している人や、“とにかく僕は異性に興味がないんです”と強迫的な主張を繰り返している人にとって、それは避けて通ることが出来るなら避けて通りたい、先延ばしできるなら先延ばししたい領域であろう。幸か不幸か、そういったオタク男性の職場環境や生活環境※1は、彼らのお眼鏡に適うような同年代女子に恵まれていない――能動的に外部に向かって異性を探しに出るか、女性の好み(いわゆるストライクゾーン)をそれなりに広いものにしていくかしない限りは、男女交際はおろか片思いすら出来ない――。まして、『ああっ女神さまっ!』やら『電影少女』やら『ラブひな』やらにうつつを抜かしているうちに、思春期前半の恋愛妄想がそのまんまストライクゾーンになってしまったような人(→参考:二次元コンプレックスについて)の場合、お眼鏡に適うような女性はもはや空想の世界にしか存在しないのかもしれない。

 しかし時は残酷で、あなたは三十路に突入した、というわけである。

 思春期だとかモラトリアムだとか呼ばれるあなたの夏休みは、八月二十日ぐらいまで来ちゃっているのである。あなたがもし、一生独身を貫いてでもやり遂げるべきものをもっていて、その為に独身という選択が求められるというなら結婚も男女交際も考える必要はなく、大志に向かって前進して欲しいと思う。しかし実際は、男女交際・結婚を願望しているにも関わらず、小学生の如く夏休みの宿題を先延ばし先延ばしにしてきただけの人達のほうが(現在の)オタク界隈には多いのではないだろうか。

 繰り返すが、あなたは生物学的だけでなく、社会的にも加齢していく存在である。「三十代になったら人間は男女交際出来ない」などと私は言うつもりはないし、むしろ男性の場合は三十を超えてから結婚などというのはごく普通のことだ、とは思う。しかし、十代には十代の男女交際の、二十代には二十代の男女交際の、三十代には三十代の男女交際の、傾向なりステロタイプなりは存在していて、女性からのニーズも年齢相応に変化していくことは指摘しておかなければならない。幸い、三十代の男女交際のなかでも特に結婚を意識した男女交際においては、容姿至上主義はそれほど濃厚ではない。このため所謂ルックスが問われる度合いは十代〜二十代ほど激しくは無いだろう。しかし一方で、コミュニケーションやマナーに関するTPOなどを知らない時には、「なんで知らないんだろう」「いい歳して何やってんのかしら」と問われるリスクは高くなっていく。こうした問題は、金銭という名のジョーカーを用いればかなりの所まで緩和出来るが、だとしても、金蔓目当てのハイリスク女性に壺を買わされる可能性を回避するうえでも、男女交際に関するノウハウの蓄積はあったほうが良いだろう。とりわけ禿鷹女どもは、金は持っているけれどもアンテナの感度が悪く、お人好しで初な男性を鋭く見抜いて啄んでしまうことに長けている。三十路になるまで男女交際に関する“宿題を先延ばしにしてきた初なおっさん達”は、単に男女交際が出来ないどころか、こうした禿げ鷹女どもによって蝕まれるリスクを負うてしまう。

 男女交際や結婚の面でも、三十路まで“宿題をほったらかしにしていた”人はもう時間があまり無いと言えるだろう。いや、無いことは無いけれども、脳の硬化や三十路男性としての社会的ポジションは、“急いで宿題を片づける”ことを一層困難なものにするだろう。老化や時間の無さを金銭でカバー出来る余地は増大するかもしれないので、そこら辺のアドバンテージも利用しつつやっていくしかない。もしあなたが、男女交際や結婚に対して甚大な執着を抱えつつも“オタク趣味だけに夢中で宿題を先延ばしてきた”としたら、これから男女交際や結婚に臨むにあたって極めて不利な三十路的戦闘人生を送っていかなければならない(または未練を残しつつも諦める羽目になりかねない)。たとい失恋続きだったり友人としての男女交際しか経験していないにしても、とにかく何らかの経験値を蓄積させてきた人は、まだいい。だが、女性のいないニッチで女性とは無縁のオタク人生を謳歌しまくり、苦手意識の赴くままに対異性経験値から逃げ続けてきたオタクの三十路の場合、ことは容易ではない。完全放棄にせよ全力投入にせよ、そろそろ根本的な方針を明確にせざるを得ない状況に至っているものと推測する。とりわけ、人並み以上の特別な力量や資源を持たない者であれば、尚更である。

 努力をすれば男女交際が出来るというものではないにせよ、努力をしなければノウハウの蓄積※2もその機会も得られない、というのもやはり真である。そして、とりわけ対人コミュニケーションスキル/スペックを拡張せず、対人関係における苦手意識を持ち続けてきたようなオタクにおいては、そうしたノウハウ蓄積がおそらくは無いのではないだろうか。男女交際や結婚という次元で行くか戻るか?あなたがどのような感傷を持つのかやどの程度逡巡するのかに関わらず、時間はただ流れていく




 ・で、あなたはどうするんですか?(3)家庭編

 最後に、家庭状況についても触れてみたい。家族との縁が極めて希薄だったり元々家族に該当するような存在が無い人はともかく、両親やら親族やらとの繋がりがそれなりに存在するオタクにとって、三十路頃に入るというのは親子関係が変化しはじめる時期ではないだろうか。

 あなたが三十路にさしかかる頃、両親はおそらく還暦を迎えるか迎えないかという年齢にさしかかってくる。これまでは、収入も社会的地位も分別も両親のほうが先行しているのが当たり前だったわけだが、両親が退職しはじめるとそうでもなくなってくる。余程金持ちの両親だったり、あなたがニートだったりするなら話は別だが、そうでない限りは両親とあなたとの関係は徐々に変化せざるを得ない。独身なら独身なりに、妻子持ちなら妻子持ちなりに、あなたと両親を巡る関係は娑婆の時間の流れの赴くまま、容赦なく変化していかざるを得ない

 こうした変化は、ある種極めて当たり前の、そしてしばしば不可避の変化なわけだが、これがあなたと両親との関係や、あなたと両親以外の親族との関係をも再-規定していく。あなたの快適で楽しいオタクライフが、こうした年齢相応の諸変化に追随したものであれば何とかなる可能性が高そうである。だがもし、こうした家族関係の変化に脆弱なライフスタイルが引き続くならば、関係の変化に起因する摩擦にあなた (とあなたの家族・親族)は苦しむことになるかもしれない。

 恋愛や仕事の変化についてはオタク達も割と言及しているようだが、歳にあわせて変化していくのはそれだけではない、という事を申し添えておきたい。あなたとあなたの家族、そして家族関係どれもが時間の流れによって変わっていく。歳をとるという事は、単に自分が歳をとるだけでなく、周りの環境やら人間関係やらを含めて変化していくものである点に注意を喚起しておきたい。いや、どれほど注意しようとも娑婆苦がつきまとうのが人生行路というものなんだろうけれど、その事にあまりにも無防備・無意識のままオタク的生活を維持することのリスクはあまりにも無鉄砲のような気がするので、(3)家庭編を付け加えてみた。




  ・おわりに

 以上、三十路を迎えたオタクのオタクライフに関して考察を行ってみた。どれほどアニメを愛していようとも、またどれほど延長に延長を重ねたモラトリアムを過ごそうとも、あるいは16歳を自称し続けようとも、時の流れに逆らうことは出来ない。しつこく繰り返すが、あなたは生物学的だけでなく、社会的にも加齢していく存在である。歳をとるのはあなた一人ではないし、加齢によってあなたを取り囲む環境因子や人間関係は刻一刻と変化していく。仕事で人の上に立つのか立たないのか/結婚するのかしないのか/家族との関係がどうなっていくのか/などいった諸問題において、時間と娑婆はあなたを待ってはくれない。十代や二十代の人はともかく、三十路になったオタクなあなたは“立ちたくなくても立つしかない状況”に直面せざるを得ない※3。あなたのオタクライフの維持が、こうした加齢的・三十路的問題とコンフリクトを起こさざるを得ないものだとしたら、遠からず、あなたの日々の生活は今よりも窮屈なものとならざるを得ない、と私は推定する。

・議論の続きは皆さんがやってください

 いや本当に、この手の加齢的・三十路的問題をオタク達はどのように取り扱っていくのだろうか?楽しいオタクライフを維持しながら三十路を迎える、ということは一体どういう事なのだろうか?こうした議論は、もっとあってもいいんじゃないかと思うし、(表には出てこないけれど)切実なニーズがあるんじゃないかと私は思っている。この話題は一般に、息苦しくも恩着せがましい。だが、三十路を迎えたオタクにとって、もはや目を瞑って済ませて良いものとはとても私には思えない。議論の発展と、個々人の三十路オタク達の適応維持を、期待したい。


[関連ある?ない?]35歳までに必ずやるべきこと






【※1職場環境や生活環境】

 彼らの生活環境のなかには、勿論趣味分野たるオタク分野も含む。オタク界隈は必ずしも男性が極端に多いという構造にはなってはいないものの、女性側のメジャー領域であるやおい・腐女子分野の人達と男性側オタク達が共通のコンテンツを共通の作法で消費するということはあまり多くない。少ない例外として、コナミ音ゲーコミュニティや、コスプレ界隈、格闘ゲーム界隈、偶々男性向け女性向け両方が当たったゲームやアニメ(新世紀エヴァンゲリオン、ガンパレードマーチ、などなど)などが存在してはいるものの、オタク男性側とオタク女性側の溝が決して少なくない。

 また、オタク男性側の過半数に対してオタク女性側が必ずしも良好なイメージを持っていないという事や、オタク男性側がオタク女性側のお眼鏡に適う魅力をプレゼントしていないという点もオタク男性がオタク女性とくっつくことを比較的頻度の少ない出来事にしていると考えられる。逆に、オタク女性側がどこまでオタク男性側のお眼鏡に適う魅力に欠けているかというと、これは案外そういう事が少ないのではないかと私は思っているが…。勿論「これは終わっている」と男性達にドン引きされるようなオタ女子がいないわけではないにせよ。



 【※2ノウハウの蓄積】

 一般に、失敗は人に多くの教訓と多くの学習をもたらす。勿論成功もそれらをもたらしはするし、成功には自信の獲得という得難いメリットもあるけれども、成功体験は失敗に比べると問題の本質を把握するうえでは不利であろう。

 例えば原爆実験の成功は、原爆保有国にとって大きな悦びかもしれないが、実験の失敗は失敗で多くの教訓やデータを残すだろう。とりわけ、失敗にいたる過程がきちんと記憶され、考察され、次の実験に生かされるとするならば

 同様の考え方は、男女交際や、ひいてはコミュニケーション全般にも言えることである。余程質が悪くて頭が悪い失敗ならまだしも、トライアンドエラーの過程における失敗の数々は、スキルアップや学習の貴重な原石であり、苦くともよく効く薬である。ロケット打ち上げ技術で初回から上手くいく国が滅多にないのと同様、男女交際も初手から上手くいくなんてあり得ない。また、年齢が上がるにつれて求められるものも日々変化していくわけなので、全部が全部きっちりいく筈も無い。よって、男女交際に関しては多かれ少なかれの失敗体験蓄積が必要不可欠なわけだが、能動性の乏しいオタク達においては、または失敗というものに対して過敏なオタク達においては、そうした経験を(男女交際という名の苦手で、しかも初手は失敗確率の高い分野で)踏むことにメンタリティが耐え難い、ようである。そして、そうした人達の受け皿として、現在のオタク界隈は機能しているようにみえるのである。それが良いことか悪いことかはさておき。



 【※3直面せざるを得ない】

 例えば、私のこの文章なり私の態度なりを批判することは容易である。また、こうした発言をする私のポジショニングなり何なりをチクチク刺せば、色々なエフェクトを得ることも可能だ。そうしたいというインセンティブを持つ人は、そうやって“やっつける”のが適当には違いないし、そうしたニーズがあるという事は私も了解している、つもりだ。

 しかし、そのような憤慨や非難の数々がどうであれ、個人としてのあなたは時間と娑婆を巡る道理から逃れることが出来ない。その手の憤慨や批判が一時の慰安になるなら、ソレはソレで結構だが、その憤慨や批判が、時の流れやら道理やらに対して有効な戦力になる事を祈るばかりである。

 いや、回りくどい嫌味はやめて、もう言いきってしまおう。私が何を言おうが、あるいは誰が何を考えようが、そんなの関係ない。娑婆は娑婆であり、時の流れは常に一方向である。この事実から目を逸らす事は簡単でも、この事実を“やっつける”ことは人の身には不可能だ。伸るか反るか、正面決戦するのか受け流すのかといった方法論は様々にせよ、とにかく時間の流れとか加齢的変化とかいったものから逃れる事が出来ず、それに対して何らかの対応を求められるのはやはり確かには違いないと思うのだ。